重さの無い街   作:Sub Sonic

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3話

 

「……誰だ、あんた」

 

俺の声は、自分でも驚くほど低かった。

 

宙に浮いたトラックの運転席で、俺はハンドルを握ったまま、窓の外の男を睨みつけていた。男は相変わらず、何もない空中に立っている。黒いタクティカルスーツの裾が、風に揺れていた。

 

「名乗るのが先だったな。失礼」

 

男は、軽く頭を下げた。

 

「鷹宮迅。所属は――まあ、長ったらしい名前がついてるんだけど、防衛省の外局の、そのまた下にある、表向きは存在しない部署だ。現場じゃ単に『銀環』って呼ばれてる」

 

「銀環」

 

「君の目のそれさ」

 

鷹宮は、自分の目の縁を指さした。

 

「白眼熱から生還して、目に銀の輪が出た人間を、俺たちは銀環者と呼んでる。感染者全体の〇・三パーセント。千人に三人だ。そして全員が、君や俺と同じことができる」

 

トラックが、わずかに傾いた。鷹宮が掴んでいる力と、俺が押し返している力の均衡が、ほんの少し崩れたのだ。

 

崩したのは、俺だった。

 

鷹宮の眉が、ぴくりと動いた。

 

「……へえ」

 

俺は、さらに力を込めた。トラックが、ゆっくりと地面へ向かって下がり始める。鷹宮が掴んでいた何かが、俺の力に押し負けて、軋みながら後退していくのが分かった。

 

アイドリング音が、唸りを上げる。

 

タイヤが、アスファルトに触れた。どすん、と車体が揺れる。

 

鷹宮は、まだ宙に立っていた。でも、その顔から、さっきまでの余裕が少しだけ消えていた。

 

「目覚めてまだ半日だろう?」鷹宮は言った。「半日で、俺の保持を押し切るか。出力だけなら、俺より上かもしれないな」

 

「妹はどこだ」

 

「体育館の奥、教室棟の隔離区画。無事だよ。今のところは」

 

「今のところは、ってどういう意味だ」

 

「熱が上がってる。三十九度五分。発症三日目だ」鷹宮は、淡々と言った。「このまま行けば、八十七パーセントの確率で死ぬ。そして死んだら、立ち上がる」

 

俺は運転席のドアを蹴り開けた。

 

「どけ」

 

「待てって」

 

鷹宮が、すっと地面に降り立った。音もなく。俺と同じくらいの身長だった。近くで見ると、思ったより若い。目の下に、濃い隈があった。

 

「話を聞いてから決めても遅くない。聞かずに決めたら、たぶん君は妹さんを殺す」

 

「……何だと」

 

「耳を澄ませてみろよ」

 

鷹宮は、南の方角を顎でしゃくった。

 

「君が相模川で鳴らした音は、半径八キロに届いた。俺の計測だと、少なく見積もって四千体が、今、この学校に向かって歩いてる」

 

背中が、冷たくなった。

 

「……ここに?」

 

「君がここにいるからな」鷹宮は言った。「君の音の余韻を追って、奴らはここまで来る。到着予想は、あと四十分ってとこだ。体育館には、避難民が三百十二人いる」

 

  *

 

正門をくぐるとき、防護マスクの隊員たちは誰も俺を止めなかった。

 

鷹宮が片手を上げると、全員が道を開けた。敬礼する者はいなかった。ただ、マスクのガラス越しに、俺を見る目があった。怯えと、それから何か別のもの。嫌悪に近い何か。

 

「気にするな」鷹宮は、前を歩きながら言った。「俺もああいう目で見られてる。あいつらにとって、俺たちは『ゾンビの親戚』だからな」

 

「親戚?」

 

「同じウイルスに感染して、同じ脳の変化を起こして、たまたま違う結果になった。それだけの違いだ。連中がそう考えるのも無理はない」

 

体育館の入り口に、長机が並べられていた。防護服の職員が、避難民の検温をしている。赤外線の体温計を額に向け、数字を読み上げ、クリップボードに書き込む。

 

体育館の中は、段ボールの仕切りで区切られていた。毛布にくるまった人々が、床に座り込んでいる。子どもの泣き声。咳。誰かが小さな声でラジオを聞いている。

 

何人かが、俺を見た。

 

正確には、俺の目を。

 

ひそひそと、声が交わされる。母親が子どもを抱き寄せ、段ボールの陰に隠れる。老人が、口の中で何かを唱え始める。

 

俺は、うつむいて歩いた。

 

体育館を抜け、渡り廊下を通って、教室棟へ。二階の廊下の入り口に、ビニールシートで仕切られた区画があった。シートの前に、また防護服の隊員が二人。

 

「隔離区画だ」鷹宮が言った。「発熱者はここに集めてる。十四人。うち三人は、今日中に死ぬだろうって軍医が言ってた」

 

「死んだら、どうするんだ」

 

鷹宮は、答えなかった。

 

答えなかったことで、答えになった。真壁さんとの会話と、同じだった。

 

  *

 

詩織は、二年三組の教室にいた。

 

机を寄せて作った簡易ベッドの上に、毛布をかぶって横たわっていた。額に冷却シートが貼られている。枕元には、飲みかけのペットボトル。

 

「……おにい」

 

俺の顔を見るなり、詩織は起き上がろうとした。

 

「寝てろ」

 

「おにい、目」

 

「ああ」

 

「銀色」

 

「ああ」

 

詩織の目を見た。白目が、うっすらと濁っていた。五日前の俺と同じだった。

 

ベッドの横にしゃがみ込んで、詩織の額に手を当てた。冷却シート越しでも分かるくらい、熱かった。

 

「なんで来たの」詩織が言った。「来たら、連れていかれるのに」

 

「連れていかれてない。まだ」

 

「来るなって、書こうと思ったのに。指が動かなくて」

 

「書いてたら、余計に来てた」

 

詩織が、少しだけ笑った。笑うと咳が出た。咳は長く続き、俺はその背中をさすった。四日前、俺自身が一人で耐えていた咳だった。

 

ポケットから、真壁さんにもらった解熱剤を取り出した。

 

「飲め」

 

「それ、何」

 

「解熱剤。看護師さんにもらった」

 

「看護師さん?」

 

「来る途中で会った。あとで話す」

 

ペットボトルの水で錠剤を飲ませ、経口補水液の粉末を溶かして、少しずつ口に含ませた。詩織は顔をしかめた。「まずい」と言った。まずくても飲め、と言った。

 

教室の入り口で、鷹宮が壁にもたれて待っていた。

 

「で」俺は立ち上がって、鷹宮に向き直った。「話ってのは何だ」

 

「単刀直入に言う」鷹宮は言った。「俺たちと一緒に来てくれ。君も、妹さんも」

 

「来なかったら?」

 

「どっちにしろ、妹さんは連れていく。発熱者は全員、駐屯地の医療施設に移送する。それが今朝決まった方針だ」

 

「移送して、どうする。死ぬのを待つのか」

 

「いや」

 

鷹宮は、胸ポケットから小さなアンプルを取り出した。透明なガラス管の中で、淡い青色の液体が揺れていた。

 

「抑制剤。まだ試験段階だけどな。白眼熱の脳炎を、一時的に抑える。生存率が八十七パーセントの死亡から、だいたい五割くらいまで下がる」

 

五割。

 

「……それを、ここで打てばいいだろ」

 

「打つだけじゃ駄目なんだ。四十八時間、集中管理が要る。脳の腫れを見ながら、量を調整して。ここにはその設備がない」鷹宮は、アンプルをポケットに戻した。「それに、抑制剤の数は限られてる。優先されるのは――」

 

「銀環者になりそうな奴、か」

 

鷹宮は、否定しなかった。

 

「発症初期の脳波で、ある程度予測がつくんだ。妹さんは、その予測に引っかかった」

 

俺は、詩織を振り返った。

 

詩織は、毛布の中で、こちらを見ていた。熱で潤んだ目で。濁りかけた白目で。

 

「国が欲しいのは、俺たちの力だろ」俺は言った。「兵器として」

 

「そうだよ」

 

鷹宮は、あっさりと認めた。

 

「隠すつもりはない。国が銀環者を集めてるのは、この力が使えるからだ。今の日本に、四千体の群れを止められる武器は、ほとんど残ってない。燃料も弾薬も足りない。自衛隊だって、半分は感染で動けない」

 

「だから、俺たちを使うのか」

 

「使われるのが嫌なら、使われる側じゃなくて、使う側に回ればいい」鷹宮は言った。「少なくとも、施設の中にいれば、妹さんは抑制剤を打ってもらえる。外にいたら、死ぬ」

 

選択肢に見えて、選択肢ではなかった。

 

そのとき、窓ガラスが、びりびりと震えた。

 

  *

 

最初は、地震かと思った。

 

違った。

 

窓の外、校庭のフェンスのさらに向こう。住宅街の屋根の連なりの、その隙間から、それは見えた。

 

白い、うねり。

 

道路という道路を埋め尽くして、ゆっくりと、しかし確実に、こちらへ向かって流れてくる。国道で見た群れの、何倍もの規模だった。四千体、と鷹宮は言った。もっといるように見えた。

 

足音が、窓ガラスを震わせていたのだ。

 

「早いな」鷹宮が、窓に近づいて呟いた。「予想より二十分早い」

 

「……俺のせいか」

 

「ああ」

 

鷹宮は、振り返らずに言った。

 

「君のせいだ。だから、君が止めろ」

 

  *

 

校庭に出たとき、自衛隊の隊員たちは、すでに正門の前に陣を敷いていた。

 

高機動車を盾にして、小銃を構えている。十数人。それだけだった。四千体に対して、十数丁の小銃。一人あたり、弾倉は何本あるのだろう。考えるまでもなかった。

 

隊長らしき男が、鷹宮に駆け寄ってきた。

 

「鷹宮さん! 避難民の移送は間に合いません! 車両が足りない!」

 

「分かってる。移送は中止。正門を閉めて、全員体育館に入れろ」

 

「しかし、あの数では――」

 

「俺たちがやる」

 

鷹宮は、俺を見た。

 

「フェンスの外で止める。一体も入れない。いいな」

 

「……どうやって」

 

「君の出力なら、群れを押し返せる。俺がそれを補助する。ただし――」鷹宮は、俺の目を真っ直ぐに見た。「音を絞れ」

 

「音を?」

 

「君の音は、でかすぎる。垂れ流しだ。蛇口を全開にしたホースで、水をぶちまけてるようなもんだ。そのまま群れを押し返したら、今度は八キロじゃなく、二十キロ先の連中まで呼ぶことになる」

 

「絞るって、どうやって」

 

「力の『芯』だけを使え。周りに漏れてる分を、内側に巻き込むイメージだ」鷹宮は、自分のこめかみを指で叩いた。「俺の音、聞こえるか?」

 

聞こえた。さっきトラックを浮かせたときの、澄んだガラスの音。今もかすかに、鷹宮の中で鳴っている。細く、鋭く、ほとんど聞き取れないくらいに。

 

「これが、絞った音だ。訓練すれば、誰でもできる。君はまだ訓練してない。だから、今ここで覚えろ」

 

「無茶言うな」

 

「無茶じゃなきゃ、三百十二人が死ぬ」

 

正門の向こうで、最初の白い影が、住宅街の角を曲がって現れた。

 

  *

 

群れの先頭が、学校のフェンスまで百メートルに迫った。

 

俺は、正門の前に立っていた。鷹宮は、俺の三メートル後ろ。自衛隊の隊員たちは、さらに後方の高機動車の陰で、小銃を構えている。

 

白い目が、無数に、こちらを見ていた。

 

いや、俺を見ていた。

 

全員が、俺を目指して歩いている。俺の頭の中で、まだ相模川の余韻が鳴っているのだ。鷹宮に言われるまで気づかなかった。俺の音は、力を使っていないときでも、ずっと低く漏れ続けていたのだ。

 

深く、息を吸った。

 

アパートの廊下で、佐伯さんを押し返したときのことを思い出す。コンビニの駐車場で、ワゴン車を投げたときのこと。相模川で、トレーラーを持ち上げたときのこと。

 

あのとき、俺は何を「掴んで」いた?

 

車体だ。鉄の塊だ。それを、頭の中の何かで、まるごと握りしめていた。

 

違う、と思った。

 

握りしめる必要はない。車を持ち上げるのに、車全体を握る必要はない。重心の一点を、下から支えればいい。宅配の荷物だってそうだ。重い段ボールは、底の真ん中を持てば、腕の力はいらない。

 

力の、芯。

 

群れの先頭が、五十メートルに迫った。

 

俺は、目を閉じた。

 

頭の中で鳴り続けている、低いアイドリング音。その音の、一番奥。一番太い一本の響き。それだけを、指でつまむように取り出すイメージ。周りでざわざわと漏れている残響を、その一本に巻きつけ、引き絞っていく。

 

音が、細くなった。

 

完全ではない。鷹宮のガラスの音には、ほど遠い。それでも、さっきまでの垂れ流しの咆哮とは、明らかに違った。低く、太く、しかし一本に束ねられた音。

 

「そうだ」背後で、鷹宮の声がした。「それでいい。そのまま、押せ」

 

目を開けた。

 

群れの先頭は、フェンスの外、三十メートル。

 

押せ。

 

正門の前の空間が、歪んだ。

 

俺の力は、群れの最前列にぶつかった。見えない壁が、道路の端から端まで、一直線に立ち上がったように。

 

先頭の百体あまりが、ぴたりと止まった。

 

後続が、止まった先頭にぶつかる。その後ろから、さらに後続がぶつかる。白いうねりが、見えない壁の前で折り重なり、盛り上がり、波頭のように持ち上がっていく。

 

重い。

 

トレーラーのときより、はるかに重かった。数千体の体重が、その歩みの勢いが、まとめて俺の壁にのしかかってくる。こめかみの奥で、何かがぎしぎしと軋んだ。

 

でも、崩れない。

 

底が、まだ見えない。

 

「押し返せ!」鷹宮が叫んだ。

 

押した。

 

白いうねりが、後ろへ下がり始めた。一歩。二歩。見えない壁が、じわじわと前進していく。フェンスから、三十メートル。四十メートル。五十メートル。

 

音は、まだ束ねられていた。完全ではないにしても。

 

背中のざわつきは、起きていなかった。少なくとも、相模川のときのような爆発は。

 

「いける」俺は呟いた。「いけるぞ」

 

そのとき、群れの後方で、何かが起きた。

 

  *

 

最初に気づいたのは、鷹宮だった。

 

「――待て。何か、いる」

 

群れの後方、住宅街の奥。白いうねりの中に、一つだけ、動きの違うものがあった。

 

他の連中が、ゆっくりと、不規則に歩いているのに対して、それは真っ直ぐに進んでいた。群れをかき分けて。いや、群れのほうが、それを避けて道を開けていた。

 

背が高かった。二メートル近い。

 

最初、自衛隊員の生き残りかと思った。迷彩服の切れ端が、その体にまとわりついていたからだ。

 

違った。

 

その目は、白かった。他の連中と同じ、完全な乳白色。

 

ただ、その縁に。

 

黒目があるはずの場所の、その外周に。

 

細く、銀色の輪が光っていた。

 

頭の中で、音が鳴った。

 

俺の音でも、鷹宮の音でもなかった。

 

ざらついた、錆びた金属同士を擦り合わせるような、不快な音。それが、群れの後方から、まっすぐにこちらへ向かって響いてくる。

 

鷹宮の顔から、血の気が引いていた。

 

「……嘘だろ」鷹宮が言った。「まさか、『成れの果て』が、ここまで南に」

 

「何だ、あれは」

 

鷹宮は答えなかった。その代わりに、叫んだ。

 

「全員伏せろ!」

 

次の瞬間、群れの中から、高機動車が一台、空に向かって飛んだ。

 

自衛隊の車両ではなかった。住宅街に放置されていた、誰かのSUVだ。それが、群れの頭上を越えて、放物線を描き、正門めがけて落ちてくる。

 

俺の力でも、鷹宮の力でもなかった。

 

あの、銀の輪をつけた白い目の巨人が、投げたのだ。

 

  *

 

反射的に、SUVを掴んだ。

 

空中で、ぴたりと止める。正門の真上、高さ十メートル。隊員たちの悲鳴が聞こえた。

 

群れを押し返していた壁が、一瞬、緩んだ。

 

白いうねりが、再び前進を始めた。

 

「湊! 壁を戻せ!」鷹宮が叫んだ。「SUVは俺が持つ!」

 

鷹宮の音が、俺の力と重なった。澄んだガラスの音が、SUVを包み込むのが分かった。俺は、SUVから力を離した。

 

壁に、全力を戻す。

 

群れが、再び止まった。

 

鷹宮が、SUVを校庭の隅へ放り投げた。どすん、と地面が揺れる。

 

群れの後方で、巨人が、こちらを見ていた。

 

白い目。銀の輪。

 

その口が、ゆっくりと動いた。

 

声は聞こえなかった。距離がありすぎた。でも、分かった。唇の動きで。

 

  み つ け た

 

頭の中で、錆びた音が、耳を裂くように鳴り響いた。

 

巨人の周りの群れが、一斉に動き出した。さっきまでの不規則な歩行ではない。統率された動きだった。群れが左右に分かれ、フェンスに沿って広がっていく。正面の壁を迂回して、校庭の側面を狙うように。

 

「あいつが、群れを操ってる」鷹宮が言った。「――湊、正面は任せる。俺が側面を抑える。あいつは――」

 

「俺がやる」

 

鷹宮が、振り向いた。

 

「無理だ。あれは、銀環者の成れの果てだ。力が暴走して、脳を焼き切った奴らだ。理性はない。でも力はある。俺たちと同じか、それ以上の」

 

「だったら、なおさら俺がやる」

 

俺は言った。

 

「出力は、俺のほうが上なんだろ」

 

  *

 

壁を、正面から側面へ伸ばした。

 

道路を塞いでいた見えない壁を、校庭のフェンス全体を包み込むように、ぐるりと広げる。薄くなる。当然だ。同じ力を、より広い範囲に分散させているのだから。

 

でも、薄くなった分、音も分散した。束ねた一本の音が、今度は薄い膜のように、校庭全体を覆っていく。

 

背後で、鷹宮が息を呑むのが聞こえた。

 

「……おい、それ、どれだけの範囲だ」

 

「分からない」

 

本当に分からなかった。ただ、校庭のフェンス全周、約八百メートル。その外側に、見えない壁が立っているのは分かった。群れの白い体が、壁にぶつかっては弾き返されている。

 

そして、正面の群れの後方。

 

巨人が、こちらへ向かって歩き出していた。

 

群れをかき分けて、真っ直ぐに。その進路上にいた再起動個体が、見えない力に弾き飛ばされて、左右に吹き飛んでいく。

 

巨人が、俺の壁にぶつかった。

 

衝撃が、頭の奥を殴った。

 

錆びた音と、俺の音が、正面から激突する。視界が、一瞬、真っ白になった。鼻の奥が熱くなり、血が唇を伝う。

 

壁が、軋んだ。

 

巨人の体が、壁にめり込んでいる。一歩、また一歩。俺の力を押し分けて、フェンスに近づいてくる。

 

重い。

 

さっきの群れとは、質が違った。数千体の体重ではない。一つの、純粋な力の塊。俺と同じ種類の。

 

底が――見え始めた。

 

初めてだった。今まで、どれだけ力を使っても見えなかった底が、うっすらと見え始めた。

 

巨人が、また一歩進む。フェンスまで、十メートル。

 

「湊!」鷹宮の声。「離れろ! 押し負けるぞ!」

 

離れたら、壁が崩れる。壁が崩れたら、四千体が校庭になだれ込む。体育館には三百十二人。教室棟には、詩織がいる。

 

――おにい、ちゃんと水飲んで。

 

ふざけんな、と思った。

 

誰に対してでもなかった。巨人に対してでも、国に対してでも、ウイルスに対してでもない。ただ、この状況全部に対して。

 

ふざけんな。

 

頭の奥の、底が見え始めた場所。

 

その、さらに奥に、手を伸ばした。

 

何かが、ぶつりと切れた。

 

  *

 

音が、消えた。

 

一瞬、そう思った。頭の中で鳴り続けていた、アイドリングも、咆哮も、雷鳴も。すべてが、ぴたりと止まった。

 

違った。

 

音は、消えたのではなかった。聞こえないほど高くなったのだ。いや、低くなったのか。どちらでもない。音という概念の外側に、出てしまったような。

 

巨人が、止まった。

 

フェンスまで、あと五メートル。その位置で、ぴたりと。

 

そして、ゆっくりと、宙に浮き上がった。

 

俺が、浮かせていた。

 

巨人は、宙でもがいた。錆びた音が、悲鳴のように響く。その力が、俺の力を押し返そうとする。

 

でも、今度は、手応えがなかった。

 

巨人の力が、俺の力の中に、吸い込まれるように消えていく。まるで、底なしの井戸に、小石を投げ込んでいるみたいに。

 

俺は、巨人を見上げた。

 

白い目。銀の輪。

 

その顔に、一瞬、何かがよぎったような気がした。恐怖か。安堵か。それとも、ただの錯覚か。

 

「……ごめん」

 

佐伯さんのときと、同じ言葉が出た。

 

それから、巨人を遠くへ投げた。

 

どこへ投げたのかは、よく分からない。ただ、できるだけ遠くへ、と思った。巨人の体は、群れの頭上を越え、住宅街の屋根の連なりを越え、灰色の空の向こうへ、小さな点になって消えていった。

 

錆びた音が、途絶えた。

 

同時に、群れの動きが変わった。統率が消え、再び不規則な歩行に戻る。それでも、群れはまだ、フェンスの外に数千体いた。

 

俺の壁は、まだ立っていた。

 

そして、俺は――。

 

  *

 

気がつくと、校庭の地面に仰向けに倒れていた。

 

空が見えた。灰色の空。その端を、ヘリコプターが一機、横切っていく。

 

「動くな」

 

鷹宮の声がした。顔を横に向けると、鷹宮が俺の横にしゃがみ込んでいた。その顔が、ひどく青ざめている。

 

「群れは」

 

「散った。君が倒れた瞬間に壁が消えて、群れがなだれ込むかと思ったんだが――」鷹宮は、一瞬言葉を切った。「なだれ込まなかった。むしろ、逆に散っていった。君の音が消えたから、目標を見失ったんだろう」

 

「……音が、消えた?」

 

「ああ」

 

鷹宮は、俺の顔をじっと見た。

 

「最後の、あれ。巨人を投げたとき。君の音、完全に消えてた。俺にも聞こえなかった。あれだけの出力で、音がゼロだった」

 

鷹宮の声は、震えていた。

 

「銀環計画が始まって三週間。二百人以上の銀環者を見てきた。あんなのは、一人もいなかった」

 

俺は、何も答えなかった。答えようがなかった。

 

鼻血が、まだ止まっていなかった。頭の奥で、何かが焼けついたような、鈍い痛みが続いていた。

 

「詩織は」

 

「無事だ。教室にいる」

 

「……連れていくのか」

 

「ああ」鷹宮は言った。「君も、一緒に来てくれ。頼む」

 

頼む、と鷹宮は言った。命令ではなかった。

 

  *

 

装甲車両の後部座席は、狭くて暗かった。

 

窓がなかった。天井に一つだけついた赤い照明が、車内をぼんやりと照らしている。

 

詩織は、担架に固定されて、俺の向かい側に横たわっていた。腕に点滴の管がつながれている。鷹宮が、出発前に抑制剤のアンプルを一本、点滴に混ぜてくれた。

 

俺は、詩織の手を握っていた。

 

熱かった。まだ、熱かった。

 

ポケットの中で、紙切れがかさりと音を立てた。真壁さんにもらった、無線の周波数のメモ。鷹宮には、見せていなかった。見せるつもりもなかった。

 

「おにい」

 

詩織が、薄目を開けた。

 

「起きてたのか」

 

「うん」

 

「寝てろ。着いたら起こす」

 

「おにい」詩織は、もう一度言った。「なんか、聞こえる」

 

俺の手を握る詩織の指に、力がこもった。

 

「頭の中で。ずっと。低い、エンジンみたいな音」

 

詩織は、熱で潤んだ目で、俺を見た。

 

「これ、おにいの音?」

 

俺は、答えられなかった。

 

装甲車両が、揺れた。ディーゼルの振動が、床を通して伝わってくる。

 

詩織の目の、濁りかけた白目の奥で。

 

黒目の縁が、ほんのかすかに、銀色に光ったような気がした。

 

(第三章 了)

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