重さの無い街   作:Sub Sonic

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5話

 

鎮静剤は、冷たかった。

 

首筋から入り込んだ液体が、血管を伝って広がっていくのが分かった。肩が重くなる。指先が痺れる。視界の縁が、水に落としたインクみたいに滲んでいく。

 

六つの銃口が、俺を見ていた。

 

その向こうに、鷹宮の顔があった。表情のない顔。銀の輪だけが光っている。

 

「首輪の鎮静剤は、象でも三十秒で眠る量だ」鷹宮は言った。「抵抗するな。痛い思いをするだけだ」

 

膝が折れそうになった。

 

――力は、筋肉と同じだ。

 

鷹宮自身の言葉が、頭の中で響いた。

 

――霧島さんは、針の穴に糸を通せる。

 

血管の中の、冷たい液体。

 

それは、物だ。

 

液体も、物だ。

 

俺は目を閉じた。音を絞る。一本に束ね、さらに細く、糸のように。その糸を、自分の首筋の内側へ伸ばした。

 

感じた。首輪の針から流れ込んでくる液体の、その流れを。頸静脈の中を、心臓へ向かって進んでいく、冷たい一筋を。

 

戻れ。

 

液体の流れが、止まった。

 

逆流した。

 

うなじに、ぴしりと鋭い痛みが走った。首輪の針の根元から、何かが押し出される感覚。生温かいものが、襟の中へ垂れていく。血と、それから透明な液体。

 

視界の滲みが、止まった。

 

目を開けた。

 

鷹宮の表情が、初めて変わっていた。

 

「……お前、今、何をした」

 

答えなかった。

 

首輪に、意識を向けた。黒いカーボンのリング。それを内側から、ほんのわずかに押し広げる。音を絞ったまま。

 

ぱきん、と乾いた音がした。

 

首輪が、二つに割れて床に落ちた。赤いランプが、ちかちかと明滅して、消えた。

 

「撃て!」

 

隊員の誰かが叫んだ。

 

六つの引き金が、同時に引かれた。

 

  *

 

銃声は、しなかった。

 

六丁の小銃が、同時に、ぐにゃりと曲がっていた。

 

銃身の真ん中あたりで、九十度に。まるで、飴細工みたいに。引き金を引いた指の先で、撃鉄が空しくかちかちと鳴っていた。

 

曲げたのは、俺だった。

 

考える前に、そうしていた。六丁全部を、一瞬で。音は、ほとんど出なかった。霧島に教わった、繊細な制御。大河原に教わった、圧のかけ方。鷹宮に教わった、音の絞り方。この一週間で覚えたことが、全部、体に染みついていた。

 

隊員たちが、曲がった銃を見つめて固まっていた。

 

「……下がれ」

 

鷹宮が、低く言った。

 

「全員、下がれ。お前らじゃ無理だ」

 

隊員たちが後ずさる。鷹宮だけが、制御室の入り口に残った。

 

「湊」鷹宮は言った。「ここで俺とやり合っても、何にもならないぞ」

 

「どけ」

 

「どいたら、お前はどうする。妹さんを連れて逃げるか? 外に出たら、何万体の群れがいると思ってる。抑制剤なしで、妹さんが持つと思うか?」

 

「……お前、知ってたのか」

 

鷹宮は、答えなかった。

 

「全部、知ってたのか。誘導焼灼も。候補者リストも。俺と詩織の名前も」

 

「知ってたよ」

 

鷹宮は、目をそらさずに言った。

 

「俺の名前も、そのリストに載ってる。三番目にな」

 

  *

 

一瞬、言葉が出なかった。

 

「……じゃあ、なんで」

 

「なんで従ってるか、って?」鷹宮は、小さく笑った。笑顔ではなかった。「簡単な話だよ。この国には、もう、他に方法がないからだ」

 

鷹宮は、ガラスの部屋の列を顎で示した。

 

「関東の人口の四割が、もう死んでる。残りの半分は感染してる。自衛隊も、警察も、機能してない。燃料は来月で尽きる。弾薬は、とっくに尽きかけてる。群れは、日に日に大きくなってる」

 

「だから、人間を焼いて兵器にするのか」

 

「そうだ」

 

鷹宮の声は、震えていなかった。

 

「焼灼個体一体で、数千の群れを制御できる。十体いれば、数万。お前を焼けば、関東全域だ。関東全域の再起動個体を、一箇所に集めて、焼き払える。それで、何百万人が助かる」

 

「俺一人を犠牲にして、か」

 

「お前と、俺と、ここにいる全員だ」鷹宮は言った。「俺は、それでいいと思ってた。今日まで」

 

「……今日まで?」

 

鷹宮は、何も答えなかった。

 

その代わりに、廊下の奥のスピーカーから、声が響いた。

 

『鷹宮くん。対象の確保を急いでください』

 

氷室の声だった。柔らかく、けれど、はっきりと冷たい。

 

『久遠湊さん。聞こえていますね。あなたが見たものについて、説明する機会をください。私たちは、あなたの敵ではありません。人類の存続のために――』

 

スピーカーを、握り潰した。

 

天井の配管ごと、壁から引き剥がして。金属と、コンクリートの破片がばらばらと降った。

 

鷹宮が、それを見上げた。

 

それから、俺に視線を戻した。

 

「――医療棟は、東ブロックの地下二階だ」

 

鷹宮は、ひどく静かな声で言った。

 

「エレベーターは止められてる。非常階段を使え。途中に、隔壁が三枚ある。お前なら、紙みたいなもんだろう」

 

「……お前」

 

「俺は今から、お前と戦う」鷹宮は、両手を軽く広げた。「全力でな。カメラの前で。そして、負ける。お前が強すぎたってことにする」

 

鷹宮の頭の中で、あのガラスの音が、鋭く鳴り始めた。

 

「三分だ。それ以上は、俺も庇いきれない」

 

次の瞬間、制御室の机が、俺に向かって飛んできた。

 

  *

 

机を、横に弾いた。

 

鷹宮の力が、四方から俺を包み込んできた。見えない手が、何十本も。腕を、足を、胴を、首を、同時に掴もうとしてくる。

 

本気だった。

 

少なくとも、本気に見えた。カメラ越しなら、間違いなく。

 

俺は、その全部を、まとめて押し返した。

 

鷹宮の体が、廊下の向こうへ吹き飛んだ。ガラスの部屋の壁に背中から叩きつけられ、分厚い強化ガラスに、蜘蛛の巣状のひびが走る。

 

鷹宮は、すぐに体勢を立て直した。宙に浮いたまま、また力をぶつけてくる。

 

押し返す。

 

また吹き飛ぶ。

 

三度目で、鷹宮は床に落ちた。

 

咳き込みながら、顔を上げる。鼻と口から、血が流れていた。本当に、全力でぶつかってきていたのだ。

 

「……化け物め」

 

鷹宮は、にやりと笑った。

 

「行け」

 

俺は、柏木の腕を掴んで走り出した。

 

すれ違いざま、鷹宮の手が、俺の手に何かを押しつけた。

 

小さな、硬い箱。

 

「抑制剤」鷹宮は、俺にだけ聞こえる声で言った。「六本。四十八時間ごとに一本。十二日分だ。それ以上は、ない」

 

振り返らずに、走った。

 

  *

 

非常階段を駆け上がった。

 

地下五階から、四階へ。三階へ。

 

地下三階の踊り場で、足を止めた。

 

「柏木。七瀬たちを連れてこい」

 

「え」

 

「居住区だ。七瀬と、大河原さんと、霧島さん。あのリストに名前があった全員。連れてこい」

 

「全員って――」

 

「扉の錠は、全部壊しておく」

 

俺は目を閉じた。居住区の廊下。その両側に並んだ、鉄の扉。それぞれの扉の、電子錠の中の、一本のピン。

 

七瀬の言葉を思い出す。施設の中にいる全員の音が聞こえる、と彼女は言った。

 

俺には、そこまでは聞こえない。でも、扉の位置は覚えている。一週間、毎日歩いた廊下だ。

 

一本ずつ、押し下げた。

 

十五枚の扉の、十五本のピン。

 

遠くで、かちり、かちり、と錠の外れる音が連なった。

 

「行け」

 

柏木は、一瞬俺を見て、それから頷いて廊下へ走っていった。

 

俺は、階段を上り続けた。

 

  *

 

地下二階。東ブロック。

 

医療棟の手前に、隔壁が三枚あった。鷹宮の言ったとおりだ。厚さ三十センチの鋼鉄の扉。

 

一枚目を、開いた。

 

開いた、というより、剥がした。扉を、枠ごと壁から引き抜き、横に倒した。

 

二枚目。

 

三枚目。

 

医療棟の廊下に出たとき、けたたましい警報が鳴り響いていた。赤い回転灯が、壁を染めている。白衣の職員たちが、悲鳴を上げて逃げていく。

 

誰も、俺を止めようとしなかった。

 

詩織の病室は、廊下の一番奥だった。モニター越しに、何度も見た部屋だ。

 

扉を開けた。

 

詩織は、ベッドの上で起き上がっていた。点滴の管を自分で引き抜いて、ベッドの縁に座っている。

 

「おにい」

 

「……起きてたのか」

 

「うん。警報、うるさいし」詩織は、俺の顔を見て、それから、少し眉をひそめた。「それに、おにいの音が、すごく怒ってたから」

 

俺は、詩織の前にしゃがみ込んだ。

 

「歩けるか」

 

「たぶん」

 

「無理なら、おぶる」

 

「歩ける」

 

詩織は、ベッドから降りた。足元がふらついた。俺は、その肩を支えた。

 

「どこ行くの」

 

「外だ」

 

「外って――」

 

「ここは、駄目なんだ」

 

詩織は、俺の顔をじっと見た。それから、何も訊かずに、頷いた。

 

十六歳は、馬鹿じゃない。

 

  *

 

地上へ出る搬入口で、柏木たちと合流した。

 

七瀬。大河原。霧島。それから、他にも八人。全員、首輪をしていなかった。

 

「首輪、どうした」

 

「私が外した」霧島が言った。「針の穴に糸を通せる女に、首輪の留め金なんて、ボタンと同じよ」

 

大河原が、大きな手で詩織の頭をぽんと叩いた。

 

「嬢ちゃんが、妹さんか。兄ちゃんに似て、根性ありそうな顔してるな」

 

詩織は、きょとんとした顔で大河原を見上げた。

 

七瀬が、俺の袖を引っ張った。

 

「久遠さん」

 

七瀬の顔が、青ざめていた。

 

「外。外が、やばい」

 

「何が」

 

「音」七瀬は、耳を押さえていた。「すごい数。地下五階の焼灼個体の音が、一斉に大きくなった。それに引っ張られて、外の音も――」

 

搬入口の、分厚いシャッターの向こう。

 

足音が、聞こえた。

 

学校のときとは、比べ物にならなかった。地面そのものが、低く唸っているような。

 

「……氷室か」

 

「たぶん」霧島が、苦い顔で言った。「焼灼個体の電極に、出力を上げる信号を送ったのよ。群体制御の実地試験。あんたを捕まえるための」

 

「何体だ」

 

七瀬は、目を閉じて、しばらく黙っていた。

 

それから、震える声で言った。

 

「……数えられない」

 

  *

 

搬入口のシャッターを、開けた。

 

駐屯地の敷地が、目の前に広がっていた。

 

広大な演習場。並んだ兵舎。車両の格納庫。その向こうに、高いフェンスと、有刺鉄線。

 

フェンスの外は、白かった。

 

見渡す限り、白かった。

 

地平線まで。いや、地平線などなかった。住宅街も、道路も、丘も、すべてが、白い目をした何かで埋め尽くされていた。

 

数万。いや、十万を超えているかもしれない。

 

その白い海が、ゆっくりと、うねるように、駐屯地のフェンスに向かって押し寄せてきていた。

 

フェンスが、軋んでいた。すでに、何箇所かで、たわみ始めていた。

 

「……これ、全部」柏木が、かすれた声で言った。「全部、こっちに向かってんのか」

 

「俺たちに、じゃない」

 

俺は言った。

 

「俺に、だ」

 

焼灼個体の群体制御。その目標は、俺だ。氷室は、俺を群れに襲わせて、限界まで力を使わせようとしている。

 

限界を超えたら、どうなるか。

 

焼灼。

 

地下五階のガラスの部屋。電極のヘルメット。白い目。銀の輪。

 

それが、氷室の狙いだ。

 

俺を捕まえる必要など、ない。俺が自分で、焼き切れてくれればいい。

 

「逃げ道は」大河原が言った。

 

「ない」霧島が答えた。「全方位囲まれてる」

 

「車は」

 

「格納庫に、高機動車がある」柏木が言った。「でも、あの群れの中を走れるか?」

 

走れない。どんな車でも、あの白い海に突っ込めば、数十メートルで埋もれる。

 

俺は、詩織を見た。

 

詩織は、俺の顔を見上げていた。

 

――ちゃんと水飲んで。

 

――約束ね。

 

「……道を、作る」

 

俺は言った。

 

「俺が道を作る。その間に、車で抜けろ」

 

「作るって、どうやって」

 

俺は答えずに、フェンスの方へ歩き出した。

 

  *

 

演習場の真ん中に立った。

 

白い海が、フェンスの外から俺を見ていた。十万の白い目。そのすべてが、俺の音に引き寄せられている。

 

目を閉じた。

 

学校で、あの巨人を投げたとき。頭の奥で、何かがぶつりと切れた。音が、消えた。

 

あの場所へ、もう一度。

 

深く、息を吸った。

 

頭の奥の、底が見え始める場所。そのさらに奥。

 

手を伸ばした。

 

――音が、消えた。

 

目を開けた。

 

世界が、静かだった。

 

足音も、群れの唸りも、警報も、何も聞こえなかった。いや、聞こえていたのかもしれない。ただ、それらがすべて、ひどく遠くにあった。

 

俺は、北の方角を見た。

 

駐屯地の北ゲート。その向こうに、国道が一本、まっすぐに延びている。白い海に埋もれて、見えないけれど。

 

開け。

 

北ゲートの外の、白い海が、割れた。

 

幅二十メートル。長さは――分からない。見えるかぎり、ずっと先まで。

 

再起動個体たちが、見えない力に押しのけられ、左右に積み上がっていく。人の体でできた、白い壁。その壁と壁の間に、アスファルトの道路が、剥き出しになっていた。

 

モーセの海割り、という言葉が、頭の片隅に浮かんだ。

 

「行け!」

 

叫んだ。自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。

 

背後で、エンジンの音がした。格納庫から、高機動車が二台、飛び出してくる。先頭の運転席に大河原。助手席に柏木。後部座席に、詩織と七瀬の顔が見えた。

 

二台目の運転席に、霧島。

 

高機動車が、北ゲートへ向かって走っていく。ゲートは、俺が開いた。鉄の門扉を、蝶番ごと引きちぎって。

 

車が、白い壁の間の道へ突っ込んでいく。

 

  *

 

重かった。

 

十万の体重。十万の歩みの勢い。そのすべてが、左右から、道を押し潰そうとしている。

 

それを、支え続けた。

 

音は、消えたままだった。けれど、頭の奥で、何かが燃えていた。火のない炎が、脳の芯を炙っているような。

 

鼻から、血が流れていた。耳からも。目の縁から、何か温かいものが頬を伝っていく。涙か、血か、分からない。

 

高機動車は、白い壁の間を、走り続けていた。一キロ。二キロ。

 

まだ、群れの外に出ない。

 

――久遠さんの音、ときどき、聞こえなくなる。

 

七瀬の声。

 

――変な感じ。

 

もっと。

 

もっと遠くまで。

 

道を、伸ばした。三キロ。四キロ。

 

頭の中で、何かが軋む音がした。

 

音は、消えていたはずだった。けれど、その軋みだけは、はっきりと聞こえた。

 

錆びた、金属の音。

 

背筋が、凍りついた。

 

錆びた音。焼灼個体の音。

 

それが、俺の中から、聞こえていた。

 

  *

 

「――久遠さん!」

 

声がした。

 

無線だった。大河原の車から持ち出していたハンディ無線機が、俺の腰で鳴っていた。

 

七瀬の声だった。

 

『抜けた! 群れの外に出た! 五キロ先!』

 

五キロ。

 

『久遠さんも、早く! 音が――久遠さんの音が、変になってる!』

 

分かっていた。

 

錆びた音が、頭の中で、だんだん大きくなっていた。

 

道を支えていた力を、手放した。

 

左右に積み上がっていた白い壁が、崩れた。道が、白い海に飲み込まれていく。

 

十万の白い目が、一斉に、俺を見た。

 

演習場の真ん中に、一人で立っている、俺を。

 

フェンスが、倒れた。

 

白い海が、なだれ込んできた。

 

  *

 

飛んだ。

 

自分の体を、浮かせた。

 

考えるより先に、そうしていた。今まで、物を浮かせることはあっても、自分自身を浮かせたことはなかった。鷹宮がやっていたのを、見ていただけだ。

 

地面が、遠ざかった。

 

足の下を、白い海が通り過ぎていく。俺がさっきまで立っていた場所を、何千もの体が埋め尽くしていく。

 

高く。

 

もっと高く。

 

駐屯地の兵舎の屋根を越えた。格納庫の屋根を越えた。電波塔の高さを越えた。

 

風が、顔を叩いた。

 

眼下に、相模原の街が広がっていた。

 

白かった。

 

街全体が、白い目で覆われていた。道路という道路、公園という公園、駐車場という駐車場。すべてが、白いうねりで埋まっていた。

 

その白の中に、ぽつぽつと、黒い煙の柱が立っていた。

 

北の方角。五キロ先。

 

国道の上を、深緑色の高機動車が二台、走っているのが見えた。

 

  *

 

高機動車の屋根に着地したとき、俺は、ほとんど意識を失いかけていた。

 

屋根の上に倒れ込む。車体が揺れる。窓から、柏木が顔を出して叫んでいる。何を言っているのか、よく聞き取れない。

 

「おにい!」

 

詩織の声だけは、はっきりと聞こえた。

 

後部座席の窓から、詩織が身を乗り出していた。泣いていた。

 

「おにい、血! 血が!」

 

「……大丈夫だ」

 

大丈夫じゃなかった。

 

頭の奥で、まだ、錆びた音が鳴っていた。小さく、けれど確かに。一度鳴り始めたそれは、もう完全には消えなかった。

 

車内に引きずり込まれた。後部座席で、詩織が俺の頭を膝に抱えた。七瀬が、震える手でタオルを押し当ててくる。

 

「久遠さん」

 

七瀬の声が、耳元で聞こえた。

 

「久遠さんの音」

 

七瀬は、何かを言いかけて、やめた。

 

それから、ひどく小さな声で言った。

 

「……少しだけ、錆びてる」

 

  *

 

真壁さんの公民館に着いたのは、日が暮れる直前だった。

 

無線の周波数は、ポケットのメモに書いてあった。霧島が、車載無線で呼びかけた。三度目の呼びかけで、応答があった。

 

公民館の屋上に、懐中電灯の光が揺れていた。

 

窓に打ちつけられた板の隙間から、人々の顔が覗いていた。

 

正面玄関のバリケードが開き、真壁さんが駆け出してきた。紺色のスクラブ。ショートカットの髪。一週間前と、何も変わっていなかった。

 

「久遠くん!」

 

高機動車から降りた俺を見て、真壁さんは足を止めた。

 

血まみれの顔。ふらつく足。後ろに続く、銀の輪の目をした十数人。

 

「……何が、あったの」

 

俺は、真壁さんの顔を見た。

 

言わなければならないことがあった。

 

地下五階の、ガラスの部屋。九番目の扉。短く刈った髪の、ひょろりとした若い男。

 

『焼灼個体 第九号 元・銀環者 真壁悠(二十三)』

 

「真壁さん」

 

俺は言った。

 

声が、かすれていた。

 

「弟さんを、見つけました」

 

真壁さんの顔から、表情が消えた。

 

夕暮れの空の向こうで、南の方角。駐屯地のある方角から、地鳴りのような音が、まだ響いていた。

 

十万の足が、アスファルトを擦る音。

 

そして、その底に、かすかに。

 

俺にしか聞こえない、錆びた音が。

 

(第五章 了)

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