鎮静剤は、冷たかった。
首筋から入り込んだ液体が、血管を伝って広がっていくのが分かった。肩が重くなる。指先が痺れる。視界の縁が、水に落としたインクみたいに滲んでいく。
六つの銃口が、俺を見ていた。
その向こうに、鷹宮の顔があった。表情のない顔。銀の輪だけが光っている。
「首輪の鎮静剤は、象でも三十秒で眠る量だ」鷹宮は言った。「抵抗するな。痛い思いをするだけだ」
膝が折れそうになった。
――力は、筋肉と同じだ。
鷹宮自身の言葉が、頭の中で響いた。
――霧島さんは、針の穴に糸を通せる。
血管の中の、冷たい液体。
それは、物だ。
液体も、物だ。
俺は目を閉じた。音を絞る。一本に束ね、さらに細く、糸のように。その糸を、自分の首筋の内側へ伸ばした。
感じた。首輪の針から流れ込んでくる液体の、その流れを。頸静脈の中を、心臓へ向かって進んでいく、冷たい一筋を。
戻れ。
液体の流れが、止まった。
逆流した。
うなじに、ぴしりと鋭い痛みが走った。首輪の針の根元から、何かが押し出される感覚。生温かいものが、襟の中へ垂れていく。血と、それから透明な液体。
視界の滲みが、止まった。
目を開けた。
鷹宮の表情が、初めて変わっていた。
「……お前、今、何をした」
答えなかった。
首輪に、意識を向けた。黒いカーボンのリング。それを内側から、ほんのわずかに押し広げる。音を絞ったまま。
ぱきん、と乾いた音がした。
首輪が、二つに割れて床に落ちた。赤いランプが、ちかちかと明滅して、消えた。
「撃て!」
隊員の誰かが叫んだ。
六つの引き金が、同時に引かれた。
*
銃声は、しなかった。
六丁の小銃が、同時に、ぐにゃりと曲がっていた。
銃身の真ん中あたりで、九十度に。まるで、飴細工みたいに。引き金を引いた指の先で、撃鉄が空しくかちかちと鳴っていた。
曲げたのは、俺だった。
考える前に、そうしていた。六丁全部を、一瞬で。音は、ほとんど出なかった。霧島に教わった、繊細な制御。大河原に教わった、圧のかけ方。鷹宮に教わった、音の絞り方。この一週間で覚えたことが、全部、体に染みついていた。
隊員たちが、曲がった銃を見つめて固まっていた。
「……下がれ」
鷹宮が、低く言った。
「全員、下がれ。お前らじゃ無理だ」
隊員たちが後ずさる。鷹宮だけが、制御室の入り口に残った。
「湊」鷹宮は言った。「ここで俺とやり合っても、何にもならないぞ」
「どけ」
「どいたら、お前はどうする。妹さんを連れて逃げるか? 外に出たら、何万体の群れがいると思ってる。抑制剤なしで、妹さんが持つと思うか?」
「……お前、知ってたのか」
鷹宮は、答えなかった。
「全部、知ってたのか。誘導焼灼も。候補者リストも。俺と詩織の名前も」
「知ってたよ」
鷹宮は、目をそらさずに言った。
「俺の名前も、そのリストに載ってる。三番目にな」
*
一瞬、言葉が出なかった。
「……じゃあ、なんで」
「なんで従ってるか、って?」鷹宮は、小さく笑った。笑顔ではなかった。「簡単な話だよ。この国には、もう、他に方法がないからだ」
鷹宮は、ガラスの部屋の列を顎で示した。
「関東の人口の四割が、もう死んでる。残りの半分は感染してる。自衛隊も、警察も、機能してない。燃料は来月で尽きる。弾薬は、とっくに尽きかけてる。群れは、日に日に大きくなってる」
「だから、人間を焼いて兵器にするのか」
「そうだ」
鷹宮の声は、震えていなかった。
「焼灼個体一体で、数千の群れを制御できる。十体いれば、数万。お前を焼けば、関東全域だ。関東全域の再起動個体を、一箇所に集めて、焼き払える。それで、何百万人が助かる」
「俺一人を犠牲にして、か」
「お前と、俺と、ここにいる全員だ」鷹宮は言った。「俺は、それでいいと思ってた。今日まで」
「……今日まで?」
鷹宮は、何も答えなかった。
その代わりに、廊下の奥のスピーカーから、声が響いた。
『鷹宮くん。対象の確保を急いでください』
氷室の声だった。柔らかく、けれど、はっきりと冷たい。
『久遠湊さん。聞こえていますね。あなたが見たものについて、説明する機会をください。私たちは、あなたの敵ではありません。人類の存続のために――』
スピーカーを、握り潰した。
天井の配管ごと、壁から引き剥がして。金属と、コンクリートの破片がばらばらと降った。
鷹宮が、それを見上げた。
それから、俺に視線を戻した。
「――医療棟は、東ブロックの地下二階だ」
鷹宮は、ひどく静かな声で言った。
「エレベーターは止められてる。非常階段を使え。途中に、隔壁が三枚ある。お前なら、紙みたいなもんだろう」
「……お前」
「俺は今から、お前と戦う」鷹宮は、両手を軽く広げた。「全力でな。カメラの前で。そして、負ける。お前が強すぎたってことにする」
鷹宮の頭の中で、あのガラスの音が、鋭く鳴り始めた。
「三分だ。それ以上は、俺も庇いきれない」
次の瞬間、制御室の机が、俺に向かって飛んできた。
*
机を、横に弾いた。
鷹宮の力が、四方から俺を包み込んできた。見えない手が、何十本も。腕を、足を、胴を、首を、同時に掴もうとしてくる。
本気だった。
少なくとも、本気に見えた。カメラ越しなら、間違いなく。
俺は、その全部を、まとめて押し返した。
鷹宮の体が、廊下の向こうへ吹き飛んだ。ガラスの部屋の壁に背中から叩きつけられ、分厚い強化ガラスに、蜘蛛の巣状のひびが走る。
鷹宮は、すぐに体勢を立て直した。宙に浮いたまま、また力をぶつけてくる。
押し返す。
また吹き飛ぶ。
三度目で、鷹宮は床に落ちた。
咳き込みながら、顔を上げる。鼻と口から、血が流れていた。本当に、全力でぶつかってきていたのだ。
「……化け物め」
鷹宮は、にやりと笑った。
「行け」
俺は、柏木の腕を掴んで走り出した。
すれ違いざま、鷹宮の手が、俺の手に何かを押しつけた。
小さな、硬い箱。
「抑制剤」鷹宮は、俺にだけ聞こえる声で言った。「六本。四十八時間ごとに一本。十二日分だ。それ以上は、ない」
振り返らずに、走った。
*
非常階段を駆け上がった。
地下五階から、四階へ。三階へ。
地下三階の踊り場で、足を止めた。
「柏木。七瀬たちを連れてこい」
「え」
「居住区だ。七瀬と、大河原さんと、霧島さん。あのリストに名前があった全員。連れてこい」
「全員って――」
「扉の錠は、全部壊しておく」
俺は目を閉じた。居住区の廊下。その両側に並んだ、鉄の扉。それぞれの扉の、電子錠の中の、一本のピン。
七瀬の言葉を思い出す。施設の中にいる全員の音が聞こえる、と彼女は言った。
俺には、そこまでは聞こえない。でも、扉の位置は覚えている。一週間、毎日歩いた廊下だ。
一本ずつ、押し下げた。
十五枚の扉の、十五本のピン。
遠くで、かちり、かちり、と錠の外れる音が連なった。
「行け」
柏木は、一瞬俺を見て、それから頷いて廊下へ走っていった。
俺は、階段を上り続けた。
*
地下二階。東ブロック。
医療棟の手前に、隔壁が三枚あった。鷹宮の言ったとおりだ。厚さ三十センチの鋼鉄の扉。
一枚目を、開いた。
開いた、というより、剥がした。扉を、枠ごと壁から引き抜き、横に倒した。
二枚目。
三枚目。
医療棟の廊下に出たとき、けたたましい警報が鳴り響いていた。赤い回転灯が、壁を染めている。白衣の職員たちが、悲鳴を上げて逃げていく。
誰も、俺を止めようとしなかった。
詩織の病室は、廊下の一番奥だった。モニター越しに、何度も見た部屋だ。
扉を開けた。
詩織は、ベッドの上で起き上がっていた。点滴の管を自分で引き抜いて、ベッドの縁に座っている。
「おにい」
「……起きてたのか」
「うん。警報、うるさいし」詩織は、俺の顔を見て、それから、少し眉をひそめた。「それに、おにいの音が、すごく怒ってたから」
俺は、詩織の前にしゃがみ込んだ。
「歩けるか」
「たぶん」
「無理なら、おぶる」
「歩ける」
詩織は、ベッドから降りた。足元がふらついた。俺は、その肩を支えた。
「どこ行くの」
「外だ」
「外って――」
「ここは、駄目なんだ」
詩織は、俺の顔をじっと見た。それから、何も訊かずに、頷いた。
十六歳は、馬鹿じゃない。
*
地上へ出る搬入口で、柏木たちと合流した。
七瀬。大河原。霧島。それから、他にも八人。全員、首輪をしていなかった。
「首輪、どうした」
「私が外した」霧島が言った。「針の穴に糸を通せる女に、首輪の留め金なんて、ボタンと同じよ」
大河原が、大きな手で詩織の頭をぽんと叩いた。
「嬢ちゃんが、妹さんか。兄ちゃんに似て、根性ありそうな顔してるな」
詩織は、きょとんとした顔で大河原を見上げた。
七瀬が、俺の袖を引っ張った。
「久遠さん」
七瀬の顔が、青ざめていた。
「外。外が、やばい」
「何が」
「音」七瀬は、耳を押さえていた。「すごい数。地下五階の焼灼個体の音が、一斉に大きくなった。それに引っ張られて、外の音も――」
搬入口の、分厚いシャッターの向こう。
足音が、聞こえた。
学校のときとは、比べ物にならなかった。地面そのものが、低く唸っているような。
「……氷室か」
「たぶん」霧島が、苦い顔で言った。「焼灼個体の電極に、出力を上げる信号を送ったのよ。群体制御の実地試験。あんたを捕まえるための」
「何体だ」
七瀬は、目を閉じて、しばらく黙っていた。
それから、震える声で言った。
「……数えられない」
*
搬入口のシャッターを、開けた。
駐屯地の敷地が、目の前に広がっていた。
広大な演習場。並んだ兵舎。車両の格納庫。その向こうに、高いフェンスと、有刺鉄線。
フェンスの外は、白かった。
見渡す限り、白かった。
地平線まで。いや、地平線などなかった。住宅街も、道路も、丘も、すべてが、白い目をした何かで埋め尽くされていた。
数万。いや、十万を超えているかもしれない。
その白い海が、ゆっくりと、うねるように、駐屯地のフェンスに向かって押し寄せてきていた。
フェンスが、軋んでいた。すでに、何箇所かで、たわみ始めていた。
「……これ、全部」柏木が、かすれた声で言った。「全部、こっちに向かってんのか」
「俺たちに、じゃない」
俺は言った。
「俺に、だ」
焼灼個体の群体制御。その目標は、俺だ。氷室は、俺を群れに襲わせて、限界まで力を使わせようとしている。
限界を超えたら、どうなるか。
焼灼。
地下五階のガラスの部屋。電極のヘルメット。白い目。銀の輪。
それが、氷室の狙いだ。
俺を捕まえる必要など、ない。俺が自分で、焼き切れてくれればいい。
「逃げ道は」大河原が言った。
「ない」霧島が答えた。「全方位囲まれてる」
「車は」
「格納庫に、高機動車がある」柏木が言った。「でも、あの群れの中を走れるか?」
走れない。どんな車でも、あの白い海に突っ込めば、数十メートルで埋もれる。
俺は、詩織を見た。
詩織は、俺の顔を見上げていた。
――ちゃんと水飲んで。
――約束ね。
「……道を、作る」
俺は言った。
「俺が道を作る。その間に、車で抜けろ」
「作るって、どうやって」
俺は答えずに、フェンスの方へ歩き出した。
*
演習場の真ん中に立った。
白い海が、フェンスの外から俺を見ていた。十万の白い目。そのすべてが、俺の音に引き寄せられている。
目を閉じた。
学校で、あの巨人を投げたとき。頭の奥で、何かがぶつりと切れた。音が、消えた。
あの場所へ、もう一度。
深く、息を吸った。
頭の奥の、底が見え始める場所。そのさらに奥。
手を伸ばした。
――音が、消えた。
目を開けた。
世界が、静かだった。
足音も、群れの唸りも、警報も、何も聞こえなかった。いや、聞こえていたのかもしれない。ただ、それらがすべて、ひどく遠くにあった。
俺は、北の方角を見た。
駐屯地の北ゲート。その向こうに、国道が一本、まっすぐに延びている。白い海に埋もれて、見えないけれど。
開け。
北ゲートの外の、白い海が、割れた。
幅二十メートル。長さは――分からない。見えるかぎり、ずっと先まで。
再起動個体たちが、見えない力に押しのけられ、左右に積み上がっていく。人の体でできた、白い壁。その壁と壁の間に、アスファルトの道路が、剥き出しになっていた。
モーセの海割り、という言葉が、頭の片隅に浮かんだ。
「行け!」
叫んだ。自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
背後で、エンジンの音がした。格納庫から、高機動車が二台、飛び出してくる。先頭の運転席に大河原。助手席に柏木。後部座席に、詩織と七瀬の顔が見えた。
二台目の運転席に、霧島。
高機動車が、北ゲートへ向かって走っていく。ゲートは、俺が開いた。鉄の門扉を、蝶番ごと引きちぎって。
車が、白い壁の間の道へ突っ込んでいく。
*
重かった。
十万の体重。十万の歩みの勢い。そのすべてが、左右から、道を押し潰そうとしている。
それを、支え続けた。
音は、消えたままだった。けれど、頭の奥で、何かが燃えていた。火のない炎が、脳の芯を炙っているような。
鼻から、血が流れていた。耳からも。目の縁から、何か温かいものが頬を伝っていく。涙か、血か、分からない。
高機動車は、白い壁の間を、走り続けていた。一キロ。二キロ。
まだ、群れの外に出ない。
――久遠さんの音、ときどき、聞こえなくなる。
七瀬の声。
――変な感じ。
もっと。
もっと遠くまで。
道を、伸ばした。三キロ。四キロ。
頭の中で、何かが軋む音がした。
音は、消えていたはずだった。けれど、その軋みだけは、はっきりと聞こえた。
錆びた、金属の音。
背筋が、凍りついた。
錆びた音。焼灼個体の音。
それが、俺の中から、聞こえていた。
*
「――久遠さん!」
声がした。
無線だった。大河原の車から持ち出していたハンディ無線機が、俺の腰で鳴っていた。
七瀬の声だった。
『抜けた! 群れの外に出た! 五キロ先!』
五キロ。
『久遠さんも、早く! 音が――久遠さんの音が、変になってる!』
分かっていた。
錆びた音が、頭の中で、だんだん大きくなっていた。
道を支えていた力を、手放した。
左右に積み上がっていた白い壁が、崩れた。道が、白い海に飲み込まれていく。
十万の白い目が、一斉に、俺を見た。
演習場の真ん中に、一人で立っている、俺を。
フェンスが、倒れた。
白い海が、なだれ込んできた。
*
飛んだ。
自分の体を、浮かせた。
考えるより先に、そうしていた。今まで、物を浮かせることはあっても、自分自身を浮かせたことはなかった。鷹宮がやっていたのを、見ていただけだ。
地面が、遠ざかった。
足の下を、白い海が通り過ぎていく。俺がさっきまで立っていた場所を、何千もの体が埋め尽くしていく。
高く。
もっと高く。
駐屯地の兵舎の屋根を越えた。格納庫の屋根を越えた。電波塔の高さを越えた。
風が、顔を叩いた。
眼下に、相模原の街が広がっていた。
白かった。
街全体が、白い目で覆われていた。道路という道路、公園という公園、駐車場という駐車場。すべてが、白いうねりで埋まっていた。
その白の中に、ぽつぽつと、黒い煙の柱が立っていた。
北の方角。五キロ先。
国道の上を、深緑色の高機動車が二台、走っているのが見えた。
*
高機動車の屋根に着地したとき、俺は、ほとんど意識を失いかけていた。
屋根の上に倒れ込む。車体が揺れる。窓から、柏木が顔を出して叫んでいる。何を言っているのか、よく聞き取れない。
「おにい!」
詩織の声だけは、はっきりと聞こえた。
後部座席の窓から、詩織が身を乗り出していた。泣いていた。
「おにい、血! 血が!」
「……大丈夫だ」
大丈夫じゃなかった。
頭の奥で、まだ、錆びた音が鳴っていた。小さく、けれど確かに。一度鳴り始めたそれは、もう完全には消えなかった。
車内に引きずり込まれた。後部座席で、詩織が俺の頭を膝に抱えた。七瀬が、震える手でタオルを押し当ててくる。
「久遠さん」
七瀬の声が、耳元で聞こえた。
「久遠さんの音」
七瀬は、何かを言いかけて、やめた。
それから、ひどく小さな声で言った。
「……少しだけ、錆びてる」
*
真壁さんの公民館に着いたのは、日が暮れる直前だった。
無線の周波数は、ポケットのメモに書いてあった。霧島が、車載無線で呼びかけた。三度目の呼びかけで、応答があった。
公民館の屋上に、懐中電灯の光が揺れていた。
窓に打ちつけられた板の隙間から、人々の顔が覗いていた。
正面玄関のバリケードが開き、真壁さんが駆け出してきた。紺色のスクラブ。ショートカットの髪。一週間前と、何も変わっていなかった。
「久遠くん!」
高機動車から降りた俺を見て、真壁さんは足を止めた。
血まみれの顔。ふらつく足。後ろに続く、銀の輪の目をした十数人。
「……何が、あったの」
俺は、真壁さんの顔を見た。
言わなければならないことがあった。
地下五階の、ガラスの部屋。九番目の扉。短く刈った髪の、ひょろりとした若い男。
『焼灼個体 第九号 元・銀環者 真壁悠(二十三)』
「真壁さん」
俺は言った。
声が、かすれていた。
「弟さんを、見つけました」
真壁さんの顔から、表情が消えた。
夕暮れの空の向こうで、南の方角。駐屯地のある方角から、地鳴りのような音が、まだ響いていた。
十万の足が、アスファルトを擦る音。
そして、その底に、かすかに。
俺にしか聞こえない、錆びた音が。
(第五章 了)