真壁さんは、泣かなかった。
公民館の二階、元は和室だった部屋で、俺は地下五階で見たものを全部話した。ガラスの部屋。拘束具。電極のヘルメット。扉のプレート。『誘導焼灼実施日:九月六日』という文字。
真壁さんは、正座したまま、一度も口を挟まずに聞いていた。膝の上で組んだ両手が、途中から白くなるほど握りしめられていた。
話し終えたとき、部屋の中は静かだった。障子の向こうで、誰かが廊下を歩く足音がした。
「……悠は」
真壁さんが、口を開いた。
「悠は、苦しそうだった?」
嘘をつくべきか、迷った。
迷ったこと自体が、答えになってしまった。
「そう」
真壁さんは、目を閉じた。
「あの子、昔から我慢する子だったの。注射が嫌いなくせに、泣かなかった。母さんが死んだときも、泣かなかった。私ばっかり泣いてて、悠が背中さすってくれて」
真壁さんの声は、平らだった。平らすぎて、今にも割れそうだった。
「看護師になったのも、悠のためだったの。あの子、小さい頃に喘息がひどくて。夜中に発作が起きるたびに、救急車を呼んで。私、何もできなくて。だから、何かできる人になりたかった」
真壁さんは、目を開けた。
「なのに、結局、何もできなかった」
「真壁さん」
「ごめんね。久遠くんに言うことじゃないよね」
真壁さんは、ようやく膝の上の手をほどいた。爪の跡が、手のひらに赤く残っていた。
「連れてきてくれて、ありがとう。悠のこと、教えてくれて」
「……連れてこられなかった」
「分かってる」
「必ず」俺は言った。「必ず、もう一度行きます。悠さんを、あそこから出します」
真壁さんは、俺をじっと見た。
それから、ほんの少しだけ、笑った。
「出すって、どうやって?」
答えられなかった。
焼灼個体は、治らない。脳が焼き切れているのだ。拘束を外せば、ただの暴走した力の塊になる。
「――それを考えるのが、ここからの仕事ね」
真壁さんは、立ち上がった。
「来て。会わせたい人がいるの」
*
榊先生は、公民館の図書室にいた。
七十近い老人だった。白髪を後ろに撫でつけ、度の強い眼鏡をかけている。痩せた体に、よれよれのカーディガン。机の上には、紙の資料が山のように積まれ、その隙間にノートパソコンが二台、埋もれるように置かれていた。
「北里の感染症科の、元部長」真壁さんが言った。「定年して名誉教授になってたんだけど、白眼熱が始まってから病院に戻ってきてくれたの」
「戻ってきたところで、何の役にも立たなかったがね」
榊先生は、眼鏡の奥から俺を見上げた。
その目が、俺の目の縁で止まった。
「ほう」
榊先生は、椅子から身を乗り出した。
「これは、見事な環だ。こんなに太いのは初めて見る」
「先生」真壁さんが、たしなめるように言った。
「失礼。職業病でね」榊先生は、椅子に座り直した。「話は、真壁くんから少し聞いている。君が、駐屯地から逃げてきた銀環者たちのリーダーだそうだね」
「リーダーってわけじゃ」
「謙遜はいい。時間がないのだろう」
榊先生は、机の上の資料の山から、一冊のファイルを引き抜いた。
「座りなさい。君に、話しておきたいことがある。この病気が、何なのかについて」
*
「白眼熱ウイルスは、自然のものではない」
榊先生は、最初にそう言った。
「――と言うと、陰謀論に聞こえるだろうがね。人工的に作られたという意味ではない。そうではなく、既存のどのウイルスとも、振る舞いが違いすぎる、という意味だ」
先生は、ノートパソコンの画面をこちらに向けた。電子顕微鏡の写真らしかった。灰色の粒子が、いくつも並んでいる。
「普通のウイルスは、宿主の細胞に入り込んで、自分のコピーを作らせる。それだけだ。目的などない。ただ増える。それがウイルスというものだ」
「白眼熱は、違うんですか」
「白眼熱は、脳を作り変える」
榊先生は、画面を切り替えた。脳の断面図。氷室の研究室で見たものと、よく似ていた。
「ただ壊すのではない。作り変えるのだ。特定の回路を、特定の形に。まるで、設計図があるかのように」
「送信野と、受信野」
榊先生の眉が、上がった。
「駐屯地の連中も、そこまでは掴んでいたか」
「氷室って研究者が、そう説明してました」
「氷室。……氷室葵か」
榊先生は、少し遠い目をした。
「私の、昔の教え子だ。優秀な子だった。優秀すぎて、人間を数字でしか見られなくなった」
先生は、咳払いをして話を戻した。
「ともかく。このウイルスは、感染者の脳に二種類の回路を作ろうとする。送信するための回路と、受信するための回路だ。両方が完全に形成されれば、銀環者になる。受信回路だけが残れば、再起動個体になる。そして大多数は、その途中で脳が耐えきれずに死ぬ」
「……なんのために」
「そこだ」
榊先生は、身を乗り出した。
「なんのために、ウイルスはそんなことをするのか。私はこの三週間、それだけを考えてきた。そして、一つの仮説にたどり着いた」
先生は、机の上の白い紙に、ボールペンで点を一つ描いた。
それから、その周りに、たくさんの小さな点を。
「群体だ」
榊先生は言った。
「このウイルスは、人間の脳を使って、一つの巨大な『網』を作ろうとしているのではないか。銀環者は、網の結び目――ノードだ。再起動個体は、網の糸だ。結び目から出る信号を、糸が受け取り、糸同士でつながり、全体として一つの何かになろうとしている」
「何か、って」
「分からん」榊先生は、あっさりと言った。「一つの意識なのか。ただの反射の集合なのか。それとも、我々の理解を超えた何かなのか。分からん。だが――」
先生は、紙の上の大きな点を、ペン先で叩いた。
「焼灼個体。あれは、結び目が暴走した状態だ。糸を無差別に引き寄せ、束ねてしまう。だから群れを統率できる。駐屯地の連中は、それを兵器にしようとしているわけだ」
「俺は」
言いかけて、止まった。
榊先生は、俺の顔をじっと見た。
「君は、『無音域』に到達したそうだね」
「……はい」
「その瞬間、何が起きた。できるだけ正確に教えてくれ」
*
俺は、学校での巨人との戦いを話した。
頭の奥で何かが切れたこと。音が消えたこと。巨人の力が、俺の力の中に吸い込まれるように消えていったこと。
それから、駐屯地での海割りのことも。
話し終えると、榊先生は長いこと黙っていた。
「……吸い込まれた、と言ったね」
「はい。底のない井戸に、小石を投げ込むみたいに」
「それだ」
榊先生は、椅子の背もたれに体を預けた。
「普通の銀環者は、音を出す。信号を送る側だ。だが、君が無音域に入ったとき、君は信号を出していなかった。それどころか――吸い込んでいた」
「吸い込む」
「送信ではなく、受信。いや、受信とも違う。『吸収』だ。周りの結び目や糸から出る信号を、君がすべて飲み込んでいた。だから、音が消えた。君の音だけでなく、周囲の音も」
榊先生は、指を一本立てた。
「もし、この仮説が正しいなら。君は、再起動個体を『止める』ことができるかもしれない」
「止める?」
「再起動個体を動かしているのは、受信回路に残った信号だ。その信号を、君が吸い上げてしまえば。糸は、ただの糸に戻る。つまり――」
先生は、言葉を選ぶように、一瞬黙った。
「死体に、戻る。本来あるべき姿に。安らかに」
部屋の中が、静かになった。
真壁さんが、息を呑む音が聞こえた。
「焼灼個体も、ですか」俺は訊いた。「焼灼個体も、止められるんですか」
「理論上は」
榊先生は、真壁さんを見た。それから、また俺に視線を戻した。
「ただし、代償がある」
「……錆び、ですか」
先生の目が、細くなった。
「自覚があるのか」
俺は、頷いた。
頭の奥で、今も、かすかに鳴っている。錆びた金属を擦り合わせるような、あの音。駐屯地で十万の群れを支えたあとから、ずっと消えない。
「君が吸い込んだものは、どこへ行く?」榊先生は、静かに言った。「消えるわけではない。君の中に溜まるのだ。暴走した信号が。焼灼個体の、焼け焦げた信号が。それが、錆びとなって、君の回路を蝕んでいく」
「吸い込み続けたら」
「君自身が、焼灼個体になる」
榊先生は、はっきりと言った。
「氷室葵が君を『最優先』にした理由も、たぶんそれだ。君が焼け落ちたとき、君が吸い込んだものすべてが、一度に解き放たれる。関東全域の群体制御――その数字は、誇張ではないかもしれない」
*
その夜、俺は公民館の屋上で、一人で座っていた。
見張りの交代時間の合間だった。コンクリートの床は、昼間の熱をまだかすかに残していた。
街は、暗かった。
電気が止まってから、もう一週間以上経つらしい。見渡す限り、明かりはひとつもない。月明かりの下で、屋根の連なりが、黒い波のように続いている。
その黒の中から、ときどき、白いものがちらちらと動くのが見えた。
頭の奥の錆びた音は、夜になると、少しだけ大きくなる気がした。
「おにい」
振り返ると、詩織が屋上への扉のところに立っていた。毛布を肩からかぶっている。
「寝てろって言っただろ」
「寝られない」
詩織は、俺の隣に来て、座った。毛布の端を、俺の肩にもかけてくる。
「抑制剤、打ってもらったか」
「うん。真壁さんが。あと五本」
「……そうか」
十日。
十日以内に、抑制剤をなんとかしなければならない。榊先生は、サンプルと設備さえあれば、成分を分析して合成できるかもしれないと言っていた。ただし、その設備は、公民館にはない。
北里の、大学病院の研究棟にある。
「おにい」詩織が言った。「音、まだ錆びてる?」
「……分かるのか」
「うん。なんとなく」
詩織は、自分のこめかみに指を当てた。
「私の中でも、音がしてるの。ここ数日で、はっきりしてきた。私のは、なんか、弦みたいな音」
「弦?」
「ギターとか、バイオリンとかの。ぴーんって、張った感じの」
詩織は、少し笑った。
「七瀬ちゃんが言ってた。私の音、おにいの音と、すごく似てるんだって。音程が、ほとんど同じなんだって」
――脳波の類似性高し。
候補者リストの、あの一文が、頭をよぎった。
「おにい、手、貸して」
「何だよ」
「いいから」
詩織が、俺の手を取った。熱のまだ少し残る、細い指で。
その瞬間。
頭の中で、何かが鳴った。
弦の音だった。
詩織が言ったとおりの、ぴんと張った、澄んだ音。それが、俺の頭の中の錆びた音に、そっと重なった。
錆びた音が、揺れた。
弦の音が、その揺れに合わせて、少しずつ音程を変えていく。まるで、調律師がピアノの弦を一本ずつ合わせていくように。錆びた軋みの、その不協和の部分を、一つずつ、ほぐしていく。
錆びた音が、小さくなった。
完全には消えなかった。でも、さっきまでの、耳の奥を引っかくような不快さが、嘘みたいに薄れていた。
「……詩織、お前、今」
「分かんない」
詩織は、自分でも驚いたような顔をしていた。
「なんか、おにいの音がつらそうだったから、合わせてみたの。そしたら、なんか、できた」
俺は、詩織の顔を見た。
詩織の目の、銀の輪が、月明かりを受けてかすかに光っていた。
――予備。上記対象の近親者。
氷室が詩織を欲しがった理由が、ようやく分かった気がした。
詩織は、俺を焼くための予備ではない。
俺を焼かせないための、鍵なのだ。
*
翌朝、公民館のラジオから、政府の臨時放送が流れた。
『――相模原駐屯地の特殊医療施設から、感染回復者十五名が逃走しました。回復者らは、白眼熱ウイルスの変異株を保有している可能性があり、極めて危険です。回復者らの目の虹彩には、銀色の輪状の特徴があります。見かけた場合は、決して近づかず、最寄りの自衛隊または警察に通報してください。繰り返します――』
図書室で、全員がそのラジオを聞いていた。
「変異株、だって」霧島が、鼻で笑った。「よく言うわ」
「俺らを、ゾンビの親玉扱いか」大河原が、太い腕を組んだ。
公民館に避難していた人々の何人かが、図書室の入り口から、こちらを覗いていた。不安そうな顔。怯えた顔。
真壁さんが、その人々の前に立った。
「この人たちは、私が保証する」真壁さんは言った。「私の弟も、同じ目をしてた。この人たちが、私たちを助けてくれた。子どもたちを、薬局から連れ出してくれた。それを見たでしょう」
誰も、何も言わなかった。
やがて、薬局で助けた若い母親が、小さな女の子の手を引いて、図書室に入ってきた。
女の子が、俺の前まで歩いてきて、ポケットから何かを取り出した。
キャラメルだった。一粒だけ。包み紙が、少しよれている。
「あげる」
女の子は言った。
俺は、それを受け取った。
「……ありがとう」
入り口にいた人々の何人かが、黙って、その場を離れていった。何人かは、残った。
*
北里の大学病院は、公民館から四キロの場所にあった。
メンバーは、俺と、真壁さんと、霧島と、大河原。真壁さんは、研究棟の構造を知っている。霧島は、精密機器を傷つけずに運べる。大河原は、荷物持ち。
七瀬と柏木は、公民館に残った。七瀬の「耳」で周囲の群れを監視し、無線で知らせてもらう。
詩織も、残った。
「おにい、音、大きくしすぎないでね」
出発前、詩織は俺の手を握って、もう一度、あの弦の音で錆びをほぐしてくれた。
「帰ってきたら、また合わせてあげる」
「ああ」
高機動車は、住宅街の裏道を縫うように走った。
病院に近づくにつれて、再起動個体の数が増えていった。当然だった。白眼熱が始まってから、病院には何千人もの患者が運び込まれた。その大半が、死んだ。そして、立ち上がった。
大学病院の正面玄関前は、白い目で埋まっていた。
「……ざっと三百ってとこね」霧島が言った。
『正面に三百、北側の駐車場に二百、救急搬入口に百くらい』無線から、七瀬の声がした。『研究棟の中は、あんまり音がしない。十か二十』
「研究棟は、敷地の一番奥」真壁さんが言った。「正面から入って、本館を抜けないと行けない」
「正面の三百は、俺がやる」
霧島が、横目で俺を見た。
「音、大丈夫?」
「絞る」
俺は、高機動車から降りた。
*
音を、絞った。
一本に束ね、細く、さらに細く。鷹宮のガラスの音には、まだ届かない。でも、駐屯地にいた頃より、ずっと細くなっていた。
正面玄関前の三百体が、こちらを振り向いた。
小さく、速く。
浮け。
三百体が、同時に宙に浮いた。
一体一体を掴むのではない。玄関前の空間ごと、まとめて持ち上げる。学校で、薬局の前でやったことの、規模を大きくしただけだ。
三百の白い体が、手足をばたつかせながら、宙に浮かんでいた。
それを、病院の敷地の外の、広い道路へ移した。ゆっくりと。群れを、そっと置くように。
アイドリング音は、低く抑えられていた。背中のざわつきも、ほとんど起きなかった。
頭の奥の錆びた音が、ほんの少しだけ、軋んだ。
「――行こう」
*
本館の中は、地獄だった。
廊下の床に、乾いた血の跡が、何本も筋を引いていた。ストレッチャーが横倒しになり、点滴スタンドが折れ曲がっている。壁の掲示板に、手書きの紙が何枚も貼られていた。「家族の方へ」「連絡先」「ご遺体の引き取りについて」。途中から、字が乱れて、読めなくなっていた。
真壁さんは、それらを一度も見ずに、前だけを見て歩いた。
この病院で働いていたのだ。この廊下を、毎日歩いていたのだ。
研究棟への渡り廊下の手前で、真壁さんが足を止めた。
ナースステーションだった。カウンターの上に、紙コップが一つ、置きっぱなしになっていた。側面に、マジックで名前が書いてある。
『まかべ』
真壁さんは、その紙コップを、しばらく見ていた。
それから、何も言わずに、渡り廊下へ歩き出した。
*
研究棟の四階に、榊先生が言っていた分析装置があった。
液体クロマトグラフ質量分析計。冷蔵庫二台分ほどの大きさの、灰色の機械だった。重さは、四百キロ近いらしい。
「こんなもん、階段で下ろすのか」大河原が、呆れたように言った。
「窓から出す」
俺は、研究室の窓を見た。はめ殺しの、大きなガラス窓。
「霧島さん。ガラス、外せますか」
「任せて」
霧島が、窓の前に立った。目を細め、何かをじっと見つめる。
窓枠のシーリング材が、細い糸のようにするすると剥がれ始めた。一本の長いゴムの紐が、宙を漂い、床にとぐろを巻いて落ちる。それから、ガラス板が、枠からそっと浮き上がった。割れることなく、傷一つなく。霧島はそれを、部屋の隅の壁に、静かに立てかけた。
「……すげえな」大河原が、感心したように言った。
「繊細さなら、誰にも負けないの」
分析装置を、浮かせた。
四百キロの精密機械を、壊さないように。どこか一点に力をかけすぎないように、機械全体を、均等に、下から支えるイメージ。霧島が、横から配管やケーブルの垂れ下がりを押さえてくれた。
機械が、窓から外へ出た。
四階の高さから、ゆっくりと、地面へ下ろしていく。
そのとき、無線が鳴った。
『久遠さん!』
七瀬の声だった。
いつもの七瀬の声ではなかった。ひどく、切羽詰まっていた。
『今すぐ戻って! 公民館に、何か来る!』
「何が」
『錆びた音!』
七瀬の声が、震えていた。
『すごく大きい錆びた音が、南から来てる! 群れを連れて! あと二十分くらいで、ここに着く!』
*
帰りの高機動車の中で、誰も口をきかなかった。
荷台に積んだ分析装置が、揺れるたびに、がたがたと音を立てた。
大河原が、アクセルを床まで踏み込んでいた。
助手席の真壁さんは、窓の外を見ていた。膝の上に、あの紙コップを握っていた。いつの間に持ってきたのか、俺は気づかなかった。
公民館まで、あと一キロ。
南の空に、土煙が上がっているのが見えた。
白いうねりが、住宅街の路地という路地から、公民館を目指して流れ込んでいくのが見えた。
その先頭に、一つの影があった。
背の高い、痩せた影。他の再起動個体を左右に弾き飛ばしながら、真っ直ぐに進んでいく。
影は、拘束具の残骸を体にまとわりつかせていた。手首に、足首に、ちぎれた金属のベルトがぶら下がっている。頭には、電極のヘルメットの破片が、まだいくつか食い込んでいた。
短く刈った髪。
ひょろりとした体つき。
真壁さんが、窓ガラスに両手を押しつけた。
紙コップが、足元に落ちた。
「……悠」
真壁さんの口から、その名前がこぼれた。
先頭の影が、立ち止まった。
一キロ先から、こちらを振り向いた。
白い目。銀の輪。
頭の中で、錆びた音が、耳を裂くように鳴り響いた。
俺の中の錆びた音が、それに共鳴するように、軋んだ。
駐屯地から、放たれたのだ。
氷室が、俺たちを追わせるために。
真壁さんの弟を、猟犬にして。
(第六章 了)