重さの無い街   作:Sub Sonic

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7話

 

公民館の屋上に着地したとき、白いうねりの先頭は、もう五百メートル先まで迫っていた。

 

高機動車を大河原に任せ、俺は一人で先に飛んだ。自分の体を浮かせるのは、まだ慣れなかった。風に煽られ、何度か姿勢を崩しながら、それでも一キロを一分足らずで飛んだ。

 

屋上には、七瀬と柏木と、詩織がいた。

 

「久遠さん!」

 

七瀬が、耳を押さえたまま駆け寄ってきた。顔が真っ青だった。

 

「数は」

 

「三千……ううん、四千近い。全部、あの錆びた音に引っ張られてる」

 

「避難民は」

 

「一階の奥の集会室に集めた」柏木が言った。「窓は全部、板で塞いである。でも、あの数じゃ――」

 

分かっている。板一枚で、四千体は止められない。

 

俺は、南を見た。

 

住宅街の屋根の向こうに、土煙が上がっていた。その土煙の下で、白いうねりが、路地という路地を埋め尽くして流れてくる。

 

先頭の影が、見えた。

 

真壁悠。

 

拘束具の残骸をぶら下げ、電極のヘルメットの破片を頭に食い込ませたまま、真っ直ぐに、こちらへ向かって歩いてくる。

 

その歩き方は、他の再起動個体とは違った。よろめかない。つまずかない。一歩一歩、正確に、地面を踏みしめている。

 

まるで、誰かに操られているように。

 

「……あの頭の電極」霧島の声が、背後の無線から聞こえた。大河原の車の中からだ。「まだ生きてる。信号が出てる。駐屯地と、つながってるわ」

 

氷室だ。

 

氷室が、悠を通して、この戦場を見ている。

 

「おにい」

 

詩織が、俺の手を握った。

 

弦の音が、頭の中で鳴る。錆びた音を、そっと撫でるように。

 

「大丈夫」

 

詩織は言った。

 

「私が、ここにいるから」

 

  *

 

最初の衝撃は、公民館の正面玄関に来た。

 

悠が、右腕を持ち上げた。それだけだった。

 

玄関前に停めてあった軽トラックが、宙に浮き、回転しながら、公民館の壁に向かって飛んできた。

 

掴んだ。

 

空中で、ぴたりと止める。

 

軽トラックの車体が、見えない二つの手に引っ張られて、ぎしぎしと軋んだ。悠の力と、俺の力。学校で巨人とぶつかったときと、同じ感覚だった。

 

いや、違った。

 

重い。

 

巨人よりも、はるかに重かった。

 

悠は、焼灼される前、強い銀環者だったのだ。そして、焼灼されて、その力の箍が外れた。さらに、駐屯地からの信号で、出力を無理やり引き上げられている。

 

軽トラックが、潰れた。

 

二つの力に挟まれて、紙屑のように。フロントガラスが粉々に砕け、破片がきらきらと宙を舞った。

 

潰れた鉄の塊を、横へ弾いた。

 

悠が、次の車を持ち上げた。

 

それから、その次の車も。

 

五台。十台。

 

住宅街の路上に放置されていた車が、次々に宙に浮き、公民館を取り囲むように、空中に並んだ。

 

「嘘だろ……」柏木の声が、震えていた。

 

十台の車が、一斉に、公民館へ向かって飛んできた。

 

  *

 

全部、掴んだ。

 

十台の車を、空中で止めた。

 

それから、悠へ向かって、投げ返した。

 

悠の周りの空間が、歪んだ。十台の車が、悠の体に届く前に、見えない壁にぶつかって弾かれる。車体が折れ曲がり、住宅の屋根に突き刺さり、ブロック塀をなぎ倒していく。

 

悠は、一歩も動かなかった。

 

その後ろから、白いうねりが、公民館の敷地へなだれ込み始めた。

 

「七瀬! 柏木! 詩織を連れて中へ入れ!」

 

「でも、おにい――」

 

「いいから!」

 

詩織の手が、離れた。

 

弦の音が、遠ざかる。

 

錆びた音が、一気に大きくなった。

 

  *

 

公民館の周りに、壁を立てた。

 

学校のときと同じ。敷地全体を包み込むように、見えない膜を張る。なだれ込んできた白い体が、膜にぶつかり、弾き返される。

 

同時に、悠と戦い続けた。

 

悠は、休みなく力をぶつけてきた。車を投げ、電柱を引き抜き、アスファルトを剥がして叩きつけてくる。そのすべてを、壁の外で受け止め、弾き返す。

 

二つのことを、同時にやっていた。

 

四千体を押し止める壁と、悠の攻撃を受け止める盾。

 

重かった。

 

頭の奥が、軋んでいた。錆びた音が、どんどん大きくなる。鼻から、耳から、血が流れ始めた。

 

――絞れ。

 

鷹宮の声が、頭の中で聞こえた。

 

音を、絞る。一本に束ねる。その分、力が細くなる。細くなった分、壁が揺らぐ。

 

揺らいだ壁の隙間から、何体かの再起動個体が、敷地の中へ転がり込んできた。

 

「させるか!」

 

大河原の声がした。

 

高機動車が、公民館の駐車場に滑り込んできた。運転席から大河原が飛び降り、転がり込んできた再起動個体を、念動力でまとめて壁の外へ放り出す。八トンの力。俺の六分の一。それでも、数体の再起動個体を投げ飛ばすには、十分すぎた。

 

霧島が、屋上に降り立った。

 

「壁の隙間、私が縫う」

 

霧島の針金の音が、俺の壁に重なった。揺らいだ膜の、ほつれた部分を、細い糸で一つ一つ縫い合わせていくような感覚。壁が、安定した。

 

「久遠くん」

 

霧島は、額に汗を浮かべながら言った。

 

「壁は、私と大河原さんでなんとか持たせる。あんたは、あっちだけに集中して」

 

あっち。

 

悠を、見た。

 

悠も、俺を見ていた。

 

白い目。銀の輪。

 

その口が、動いていた。

 

何かを、言おうとしているように。

 

  *

 

真壁さんが、高機動車の助手席から降りてきた。

 

紺色のスクラブ。ショートカットの髪。手に、あの紙コップを握っていた。

 

「真壁さん! 中へ!」

 

真壁さんは、聞いていなかった。

 

公民館の敷地の端、俺の壁のすぐ内側まで、ゆっくりと歩いていった。

 

壁の向こうに、悠がいた。

 

距離は、三十メートル。

 

「悠」

 

真壁さんが、呼んだ。

 

悠の動きが、止まった。

 

投げかけていた電柱が、宙で止まった。

 

「悠、私。灯子」

 

真壁さんの声は、震えていなかった。看護師の声だった。救急外来で、パニックになった患者に話しかけるときの、落ち着いた声。

 

「分かる? 姉ちゃん」

 

悠の白い目が、真壁さんを見た。

 

一瞬。

 

ほんの一瞬、その目が、揺らいだような気がした。

 

そのとき、悠の頭の電極の破片が、赤く光った。

 

悠の体が、びくりと跳ねた。

 

錆びた音が、爆発した。

 

宙で止まっていた電柱が、真壁さんに向かって飛んだ。

 

  *

 

電柱を、止めた。

 

真壁さんの鼻先、三十センチの位置で。

 

同時に、悠の周りの空間を、掴んだ。

 

悠の体が、宙に浮いた。拘束するように。手足を、見えない力で縛りつけるように。悠はもがいた。錆びた音が、悲鳴のように響いた。

 

電極の破片が、赤く明滅し続けていた。

 

氷室だ。

 

氷室が、悠を無理やり動かしている。

 

真壁さんの声に、悠が反応した瞬間。氷室は、それを許さなかった。

 

「……ふざけんな」

 

俺は、悠の頭の電極に、力を向けた。

 

霧島に教わった、繊細な制御で。悠の頭蓋骨に食い込んだ金属の破片を、一つずつ、そっと引き抜いていく。

 

一つ。二つ。三つ。

 

最後の一つを引き抜いたとき、悠の体から、力が抜けた。

 

錆びた音が、揺らいだ。

 

電極からの信号が、途絶えたのだ。

 

悠の白い目が、また、真壁さんを見た。

 

「……ね……」

 

声だった。

 

掠れた、喉の奥から絞り出すような声。

 

「……ねえ……ちゃ……」

 

真壁さんの手から、紙コップが落ちた。

 

  *

 

その直後だった。

 

悠の錆びた音が、変わった。

 

電極の制御が外れたことで、焼け焦げた信号が、無秩序に暴れ始めたのだ。

 

悠の体が、俺の拘束の中で、激しく痙攣した。

 

その痙攣が、力になって、周囲に撒き散らされた。

 

公民館の窓ガラスが、一斉に割れた。

 

周囲の住宅の屋根瓦が、剥がれて宙を舞った。

 

アスファルトに、亀裂が走った。

 

そして、白いうねりが――四千体の再起動個体が、一斉に、狂ったように暴れ出した。

 

悠の音に引きずられて。統率を失った、ただの狂乱。俺の壁に、霧島と大河原が必死に支える壁に、四千体が無秩序に叩きつけられ始めた。

 

「久遠くん!」霧島の悲鳴が聞こえた。「持たない!」

 

悠の暴走は、止まらなかった。

 

止める方法は、一つしかなかった。

 

――君は、再起動個体を『止める』ことができるかもしれない。

 

――死体に、戻る。本来あるべき姿に。

 

――ただし、代償がある。

 

真壁さんを見た。

 

真壁さんは、俺を見ていた。

 

その目に、涙が浮かんでいた。この一週間で初めて見る、真壁さんの涙だった。

 

真壁さんは、頷いた。

 

「止めてあげて」

 

真壁さんは言った。

 

「お願い。悠を、止めてあげて」

 

  *

 

目を閉じた。

 

頭の奥の、底が見え始める場所。そのさらに奥。

 

手を伸ばした。

 

音が、消えた。

 

――無音域。

 

世界が、静かになった。

 

悠の暴走も、四千体の狂乱も、霧島の悲鳴も。すべてが、遠くなった。

 

そして、俺は、感じた。

 

悠の音を。

 

錆びた、焼け焦げた、苦しげな音。それが、俺の中へ、流れ込んでくる。

 

吸い込んだ。

 

悠の音を。

 

同時に、その周りの音も。

 

四千体の、再起動個体の音。一つ一つは、ひどくかすかな、糸のような音。それが、無数に。俺の中へ、流れ込んでくる。

 

そのとき、見えた。

 

  *

 

網だった。

 

榊先生が、紙の上に描いた点と線。あれが、目の前に広がっていた。

 

いや、目の前ではない。頭の中に。あるいは、頭の外に。その区別が、つかなかった。

 

無数の、細い糸。それが、光の筋のように、俺の周りに張り巡らされていた。一本一本が、再起動個体の音だった。その糸が、互いに絡み合い、結び合い、どこまでも、どこまでも広がっていた。

 

公民館の周りだけではなかった。

 

相模原の街全体。神奈川全体。関東全体。その先まで。

 

網は、途方もなく大きかった。

 

その網の中に、ところどころ、太い結び目があった。銀環者の音だ。鷹宮のガラスの音が、遠くに見えた。七瀬の、大河原の、霧島の、柏木の音が、すぐ近くに見えた。

 

詩織の弦の音も。

 

そして、南の方角に。

 

黒く、焦げついた結び目の塊があった。

 

駐屯地の地下五階だ。焼灼個体たち。十数体の、焼け焦げた結び目。その周りに、網の糸が、ぐちゃぐちゃに絡まって、ねじれて、引きつれていた。

 

氷室が、網を、無理やり捻じ曲げているのだ。

 

  *

 

悠の結び目が、目の前にあった。

 

焼け焦げて、ほとんど黒くなっていた。けれど、その芯に、ほんのわずかに、別の色が残っていた。

 

触れた。

 

――声が、聞こえた。

 

『姉ちゃん』

 

悠の声だった。錆びていない、若い男の声。

 

『姉ちゃん、また泣いてる』

 

見えた。

 

小さな部屋。夜中。喘息の発作で苦しむ、小さな男の子。その背中を、泣きながらさすっている、少し年上の女の子。

 

救急車のサイレン。

 

病院の廊下。

 

女の子が、看護師になると言った日。

 

男の子が、少し大きくなって、白い目の縁に銀の輪を浮かべて、防護服の人々に連れていかれる日。

 

――ガラスの部屋。電極のヘルメット。薬物。焼けていく。自分が、焼けていく。

 

『姉ちゃんに』

 

悠の声が、かすれていく。

 

『ごめんって、言っといて』

 

『泣かせて、ごめんって』

 

「……ああ」

 

俺は、答えた。声に出したのか、出していないのか、分からなかった。

 

「伝える。必ず」

 

悠の結び目の、最後の色が、ふっと消えた。

 

焼け焦げた黒が、俺の中に流れ込んできた。

 

  *

 

それで、終わるはずだった。

 

終わらなかった。

 

網が、揺れた。

 

悠の結び目が消えたことで、網全体に、波紋のようなものが広がった。そして、その波紋の、ずっと奥から。

 

何かが、こちらを見た。

 

網の、全体が。

 

いや、網の、もっと奥にある何かが。

 

それは、声ではなかった。言葉でもなかった。ただ、途方もなく巨大な何かが、ゆっくりと、こちらに意識を向けたという感覚。

 

そして、その何かは、俺を知っていた。

 

『――』

 

意味が、伝わってきた。言葉ではなく、意味だけが。

 

おかえり。

 

全身の毛が、逆立った。

 

おかえり、と、それは言った。

 

ずっと待っていた、と。

 

君が、中心だ、と。

 

網の結び目は、すべて、君のためにあった。糸は、すべて、君に集まるためにあった。君が、すべてを吸い込み、すべてを一つにする。それが、この網の、完成だ。

 

――完成形。

 

氷室の言葉が、頭をよぎった。

 

違う。

 

銀環者が完成形なのではない。

 

無音域に到達した銀環者こそが、このウイルスが作ろうとしていた、本当の完成形なのだ。網の、中心。すべての糸と結び目を束ねる、ただ一つの核。

 

そして、俺は今、その核になりかけていた。

 

網の糸が、俺に向かって、一斉に伸びてきた。

 

吸い込め、と、網は言っていた。

 

全部、吸い込め。

 

関東全域の、何百万という糸を。

 

  *

 

吸い込みそうになった。

 

抗えなかった。網の引力は、途方もなかった。自分が、網の中心へ、ずるずると引きずり込まれていく。糸が、俺の中に流れ込んでくる。錆びた音が、どんどん大きくなる。自分の音が、錆びに塗りつぶされていく。

 

俺という結び目が、焦げ始めていた。

 

――おにい。

 

弦の音が、鳴った。

 

ぴんと張った、澄んだ音。

 

それが、錆びた轟音の中を、一本の糸のように、まっすぐに俺へ向かって伸びてきた。

 

――おにい、戻ってきて。

 

手が、握られていた。

 

熱の残る、細い指。

 

――約束したでしょ。焼き鮭、食べさせてくれるって。

 

弦の音が、錆びた音に重なった。調律するように。不協和の部分を、一つずつ、ほぐしていく。俺の音を、俺の音程に、引き戻していく。

 

網の引力が、揺らいだ。

 

――おにい。

 

詩織の声が、はっきりと聞こえた。

 

――帰ってきて。

 

  *

 

目を開けた。

 

公民館の敷地の、アスファルトの上に、仰向けに倒れていた。

 

空が、見えた。夕焼けの、赤い空。

 

詩織の顔が、真上にあった。涙で、ぐしゃぐしゃになっていた。俺の手を、両手で握りしめていた。

 

「……詩織」

 

「ばか」

 

詩織は言った。

 

「ばか。ばかおにい」

 

体を、起こした。

 

ひどい眩暈がした。鼻と耳から、まだ血が流れていた。頭の奥で、錆びた音が、低く鳴っていた。駐屯地のあとよりも、確実に、大きくなっていた。

 

でも、自分の音は、まだ、自分の音だった。

 

周りを、見た。

 

静かだった。

 

公民館の周りの、住宅街。道路。駐車場。そのすべてに、白いうねりが――四千体の再起動個体が、横たわっていた。

 

倒れていた。

 

一体残らず。

 

誰も、動いていなかった。

 

「……止まったの」詩織が、小さな声で言った。「おにいが目を閉じた瞬間、全部、ばたって倒れたの。音が、全部、消えたの」

 

七瀬が、屋上から降りてきた。耳を押さえていた手を、ゆっくりと下ろしている。

 

「聞こえない」

 

七瀬は、呆然としたように言った。

 

「この辺り、二キロくらい。再起動個体の音が、一つも聞こえない」

 

それから、俺を見た。

 

「久遠さんの音は、聞こえる。でも――」

 

七瀬は、唇を噛んだ。

 

「半分、錆びてる」

 

  *

 

真壁さんは、悠の体を膝に抱いていた。

 

敷地の端の、壁があった場所。悠は、そこに倒れていた。拘束具の残骸をまとわりつかせたまま。白い目を、閉じて。

 

その顔は、穏やかだった。

 

眠っているみたいだった。

 

真壁さんは、悠の短く刈った髪を、何度も、何度も撫でていた。

 

俺は、その前に膝をついた。

 

「真壁さん」

 

真壁さんが、顔を上げた。

 

「悠さんから、伝言です」

 

俺は、悠の結び目の中で聞いた言葉を、そのまま伝えた。

 

姉ちゃん、また泣いてる。

 

ごめんって、言っといて。

 

泣かせて、ごめんって。

 

真壁さんは、長いこと、何も言わなかった。

 

それから、悠の体を、ぎゅっと抱きしめた。

 

声を上げて、泣いた。

 

悠が死んだとき、きっと泣けなかったのだろう。連れていかれたときも。俺が地下五階の話をしたときも。ずっと、ずっと、泣けなかった涙を、今、全部、流していた。

 

誰も、何も言わなかった。

 

夕焼けの空の下で、真壁さんの泣き声だけが、静かな街に響いていた。

 

  *

 

その夜、俺は公民館の図書室で、泥のように眠った。

 

目を覚ましたのは、七瀬の悲鳴でだった。

 

「久遠さん! 起きて!」

 

体を起こした。頭が割れるように痛かった。窓の外は、まだ暗かった。

 

「どうした」

 

「音が、来た!」

 

七瀬は、パーカーのフードを握りしめていた。

 

「ガラスの音じゃない。知らない音。四つ。ううん、五つ。銀環者の音! すごく静かに絞ってて、気づかなかった! もう、すぐそこに――」

 

一階で、何かが砕ける音がした。

 

悲鳴。怒号。

 

大河原の声。

 

「――二階だ! 奴ら、二階へ向かってる!」

 

二階。

 

詩織が寝ている部屋だ。

 

飛び出した。廊下を走り、階段を駆け上がる。力を使おうとした。頭の奥で、錆びた音が軋んで、視界が白く焼けた。力が、うまく出なかった。

 

悠を止めたときの消耗が、まだ残っていた。

 

二階の和室の障子を、蹴り破った。

 

窓が、開いていた。

 

窓の外に、黒いタクティカルスーツの人影が三つ、浮かんでいた。鷹宮と同じ服。同じ徽章。首に、黒い首輪。目に、銀の輪。

 

その腕の中に、詩織がいた。

 

意識を失っていた。首筋に、注射の跡があった。

 

「詩織!」

 

手を伸ばした。

 

浮け。

 

力が、出なかった。

 

錆びた音が、頭の中で爆発した。膝が折れた。床に、手をついた。

 

人影の一人が、振り返った。

 

若い女だった。表情のない顔。

 

「氷室主任からの伝言です」

 

女は、淡々と言った。

 

「『妹さんは、お預かりします。あなたが自分から戻ってくることを、期待しています』」

 

人影たちが、夜空へ浮き上がった。

 

南の方角へ。駐屯地の方角へ。

 

詩織の体が、小さな点になって、闇に溶けていった。

 

  *

 

無線が鳴ったのは、それから一時間後だった。

 

図書室で、全員が集まっていた。誰も、口をきかなかった。俺は、窓の外の、南の闇を見ていた。

 

真壁さんの車載無線が、ざざ、とノイズを立てた。

 

それから、声が聞こえた。

 

『――こちら、鷹宮。この周波数で、合ってるか』

 

全員が、無線を振り向いた。

 

「……鷹宮」

 

俺は、無線機を掴んだ。

 

「お前、なんでこの周波数を」

 

『お前のポケットのメモ、あのとき、見えてた』鷹宮の声は、ひどく疲れていた。『悪いな。盗み見は趣味じゃないんだが』

 

「詩織が、連れていかれた」

 

『知ってる。今、ここにいる。医療棟じゃない。地下五階だ』

 

背筋が、凍った。

 

『時間がない。よく聞け』

 

鷹宮は、早口で言った。

 

『今夜の悠くんの件で、氷室さんは全部見た。電極を通して。お前が無音域で網に触れたことも。網の中心になりかけたことも。そして、妹さんが、お前を引き戻したことも』

 

「……それで」

 

『氷室さんは、方針を変えた』

 

鷹宮の声が、低くなった。

 

『お前を焼くのは、難しい。妹さんがいる限り、お前は戻ってくる。だから――先に、妹さんを焼く』

 

図書室の空気が、凍りついた。

 

『妹さんの音は、お前の音と、ほとんど同じ音程だ。妹さんを焼灼すれば、お前の音程に完全に共鳴する焼灼個体ができる。それを使えば、お前を遠隔で焼灼させられる。お前がどこにいても。氷室さんは、そう考えてる』

 

「いつだ」

 

『七十二時間後。準備が整い次第』

 

鷹宮は、一瞬、言葉を切った。

 

『俺の焼灼も、同じ日に決まった。お前を逃がしたことが、バレてたらしい』

 

「鷹宮」

 

『俺のことはいい。どうせ、三番目だったんだ』

 

ノイズが、強くなった。

 

『湊。妹さんを、取り戻せ。俺は、中から、できることをする』

 

「待て、鷹宮――」

 

『約束の重さは、分かってて言ってる』

 

無線が、切れた。

 

ざざ、というノイズだけが、図書室に残った。

 

俺は、無線機を握りしめたまま、動けなかった。

 

頭の奥で、錆びた音が、低く鳴っていた。

 

その音の、さらに奥の、ずっと遠くで。

 

網の、何か巨大なものが、まだ、こちらを見ている気がした。

 

おかえり、と。

 

(第七章 了)

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