重さの無い街   作:Sub Sonic

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8話

 

七十二時間のうち、最初の二十四時間を、俺は眠って過ごした。

 

眠りたかったわけではない。体が、言うことをきかなかった。悠を止めたときの消耗と、詩織を連れ去られたときの無理な力の使い方で、頭の奥の何かが、焼けつきかけていた。

 

目を覚ますたびに、錆びた音が聞こえた。

 

夢の中でも、聞こえた。網の、あの巨大な何かが、ずっとこちらを見ている夢だった。おかえり、と、それは繰り返していた。何度も、何度も。

 

二日目の朝、榊先生が、図書室に俺を呼んだ。

 

「座りなさい」

 

先生の机の上には、北里から運んだ分析装置がつながれたノートパソコンが置かれていた。画面に、複雑な波形のグラフが並んでいる。

 

「鷹宮くんが君に渡した抑制剤を、一本だけ分析させてもらった」

 

先生は、机の上の小さなガラス瓶を指さした。淡い青色の液体が、底に少しだけ残っていた。

 

「成分は、ほぼ特定できた。合成もできる。ここの設備では、一日に三本が限界だがね」

 

「詩織の分は」

 

「君の妹さんを取り戻せば、足りる」先生は、眼鏡を押し上げた。「それより、君に伝えておきたいことがある」

 

先生は、画面の一つを指さした。

 

「この抑制剤は、脳炎を抑える薬だ。つまり、ウイルスが脳を作り変える働きを、一時的に鈍らせる。――それは、錆びにも効くかもしれない」

 

「錆びに?」

 

「錆びとは、焼け焦げた信号が、君の回路に溜まったものだ。それが回路を蝕み、作り変えていく。その作り変えを、抑制剤で遅らせることができれば」

 

先生は、ガラス瓶を手に取った。

 

「完全に止めることはできない。溜まった錆びを取り除くこともできない。ただ、進行を遅らせるだけだ。それでも、何もしないよりは」

 

「……打ってください」

 

「副作用がある」

 

先生は、瓶を置いた。

 

「抑制剤は、回路の働き全体を鈍らせる。つまり、君の力も弱まる。どれくらいかは、分からん。半分か、三分の一か」

 

「それでいい」

 

俺は言った。

 

「今の俺は、力を全部出したら、たぶん焼ける。半分でいい。半分の力で、詩織を取り戻す」

 

  *

 

作戦会議は、二日目の夜に開かれた。

 

図書室の長机に、駐屯地の見取り図が広げられた。鷹宮が無線で伝えてきた情報と、施設にいた全員の記憶を組み合わせて、霧島が描いたものだった。

 

「地上部分は、ほとんど意味がない」霧島が、見取り図の上をペン先でなぞった。「本体は地下。地下一階から五階まで。詩織ちゃんがいるのは、地下五階の、焼灼室。制御室の、さらに奥」

 

「入口は」

 

「搬入口と、非常階段が二つ。それから、換気用の縦坑が四本。全部、厳重に警備されてるはず」

 

「氷室の手下の銀環者は」

 

「私が知ってるのは、五人」霧島は、指を折った。「詩織ちゃんを連れ去った女が、如月。施設で一番古い銀環者で、氷室の懐刀。あとの四人は、如月の部下。全員、出力は三トンから五トン。ただし、連携が上手い。五人で、一つの壁を作れる」

 

「焼灼個体は」

 

「悠くんを除いて、十二体。全部、氷室の制御下」

 

大河原が、腕を組んだ。

 

「真正面から行ったら、十二体の焼灼個体と、五人の銀環者と、残りの自衛隊。それを全部相手にすることになるな」

 

「真正面から行く」

 

俺は言った。

 

全員が、俺を見た。

 

「俺が正面から行く。派手にやる。全部、俺に引きつける。その間に、みんなは別の入口から地下五階へ向かってくれ」

 

「無茶よ」霧島が言った。「あんた、抑制剤で力が落ちてるんでしょう」

 

「半分でも、五十トンの半分だ」

 

霧島は、黙った。

 

「それに」

 

俺は、見取り図の、地下五階の位置を指さした。

 

「正面から行くって言っても、門から入るわけじゃない」

 

指を、見取り図の上で、まっすぐに下ろした。

 

地上から、地下五階まで。

 

「真上から、行く」

 

  *

 

「……は?」

 

柏木が、ぽかんと口を開けた。

 

「真上って、どうやって」

 

「地面を、剥がす」

 

誰も、何も言わなかった。

 

「地下五階まで、深さはたぶん三十メートルくらいだ。その上にある土とコンクリートを、全部持ち上げて、どける。そうすれば、地下五階に直接、穴が開く」

 

「どれだけの重さだと思ってんだ」大河原が、呆れたように言った。「何万トンだぞ」

 

「分かってる」

 

俺は、榊先生を見た。

 

「先生。抑制剤を打って、力が半分になっても、錆びは進まないんですか」

 

「遅らせるだけだ、と言ったろう」先生は、厳しい顔で言った。「大きな力を使えば、それだけ錆びは溜まる。抑制剤は、その速度を遅くするだけだ」

 

「どれくらい、遅く」

 

「分からん。だが、君が何万トンの地面を持ち上げたら、そのあとで、もう一度無音域に入る余力は、たぶん残らない」

 

「無音域には、入らない」

 

俺は言った。

 

「詩織がいないときに、無音域に入ったら、俺は網に飲まれる。だから、使わない。今回は、普通の力だけでやる」

 

「普通の力、ね」霧島が、小さく笑った。「何万トンの地面を持ち上げるのが、普通の力」

 

真壁さんが、口を開いた。

 

「私も、行く」

 

「真壁さん」

 

「医療スタッフが必要でしょう。詩織ちゃんが、どんな状態で見つかるか分からない。鷹宮くんも」

 

真壁さんは、俺を真っ直ぐに見た。

 

「それに、氷室葵に、一度会っておきたいの」

 

  *

 

三日目の夜。午前二時。

 

駐屯地から、北へ二キロの丘の上に、俺は一人で立っていた。

 

眼下に、駐屯地が見えた。

 

演習場の照明が、白く光っていた。フェンスの外は、まだ再起動個体で埋まっていた。駐屯地で十万の群れを呼び寄せてから、群れは散りきっていなかった。白いうねりが、フェンスの周りを、ゆっくりと取り巻いている。

 

首筋に、抑制剤の注射の跡があった。

 

力が、弱まっているのが分かった。頭の奥の、あの広い場所が、少し狭くなったような感覚。底が、以前より近くに見える。

 

錆びた音も、少し小さくなっていた。

 

無線が鳴った。

 

『こちら霧島。西の換気坑、到着』

 

『大河原だ。東の非常階段、いつでもいける』

 

『七瀬です。中の音、聞こえてます。地下五階、詩織ちゃんの弦の音、まだ聞こえる。でも、すごく小さい。それと、焼灼個体の錆びた音が十二。如月たちのガラスっぽい音が五つ』

 

七瀬は、一瞬、言葉を切った。

 

『鷹宮さんの音も、地下五階。でも――』

 

「でも?」

 

『……錆びてる。半分くらい』

 

氷室は、鷹宮の焼灼を、もう始めていたのだ。

 

『あと、地下五階の、詩織ちゃんのいる部屋で、何か機械が動き始めてる。電極の音。たぶん――』

 

七瀬の声が、震えた。

 

『もう、始まってる』

 

時間がなかった。

 

「――行く」

 

  *

 

浮いた。

 

丘の上から、駐屯地へ向かって、まっすぐに飛んだ。

 

二キロを、三十秒で。

 

演習場の上空、高さ五十メートルで、止まった。

 

眼下の照明が、俺を照らした。どこかで警報が鳴り始めた。サイレン。拡声器の声。地上の隊員たちが、こちらを見上げて指をさしている。

 

フェンスの外の、再起動個体の群れが、一斉にこちらを向いた。

 

構わなかった。

 

見取り図の、地下五階の位置。それを、真上から見下ろした。

 

演習場の、ちょうど真ん中あたり。兵舎と格納庫の間の、広いアスファルトの地面。

 

その下、三十メートル。

 

目を閉じた。

 

音を、絞らなかった。

 

今回は、隠れる必要がなかった。むしろ、全部に聞かせる必要があった。俺はここにいる、と。

 

掴め。

 

アスファルトを。その下の砂利を。土を。コンクリートの天井を。地下一階の床を。二階の床を。三階、四階の床を。

 

幅四十メートル、奥行き四十メートル。深さ、二十五メートル。

 

その全部を、一つの塊として、掴んだ。

 

重かった。

 

今までで、一番重かった。

 

抑制剤で弱まった力では、底が、すぐそこに見えた。頭の奥が、ぎしぎしと軋んだ。錆びた音が、大きくなった。

 

――半分でも、五十トンの半分だ。

 

自分で言った言葉を、思い出した。

 

違う。五十トンは、計測器の上限だった。俺の上限ではなかった。

 

底は、見えている。でも、まだ、そこに届いていない。

 

持ち上がれ。

 

地面が、揺れた。

 

演習場のアスファルトに、四十メートル四方の、正方形の亀裂が走った。

 

亀裂から、土煙が噴き出した。

 

そして、地面が、持ち上がり始めた。

 

  *

 

最初は、数センチだった。

 

それから、数十センチ。一メートル。

 

正方形に切り取られた大地が、ゆっくりと、宙へ浮き上がっていく。表面のアスファルトの下から、砂利の層が、土の層が、剥き出しになっていく。その下から、分厚いコンクリートの層が。配管が、ケーブルが、ちぎれて垂れ下がる。

 

地下一階の、蛍光灯の光が、下から漏れ出した。

 

地下二階。三階。四階。

 

各階の床と天井が、層を成して、巨大な積み木のように持ち上がっていく。部屋の中にあった机や椅子が、ばらばらと落ちていく。どこかで悲鳴が上がった。人が落ちていないことを、祈った。

 

五メートル。十メートル。二十メートル。

 

四十メートル四方、深さ二十五メートルの大地が、演習場の上空に浮かんでいた。

 

鼻から、血が流れた。耳からも。目の縁から、熱いものが流れ出した。

 

頭の奥で、何かが焼けていた。

 

でも、まだ、底には届いていなかった。

 

浮いた大地を、演習場の端へ移した。ゆっくりと。落とさないように。格納庫の横の、空いた地面へ。

 

下ろした。

 

地震のような揺れが、駐屯地全体を貫いた。

 

演習場の真ん中に、巨大な穴が開いていた。

 

四十メートル四方の、正方形の穴。その底に、地下五階の天井が、剥き出しになっていた。

 

  *

 

穴の底へ、降下した。

 

地下五階の天井を、剥がした。

 

焼灼個体たちのガラスの部屋が並ぶ、あの長い廊下が、真上から見下ろせた。

 

十二のガラスの部屋が、すべて開いていた。

 

中は、空だった。

 

――来る。

 

七瀬の無線が、叫んでいた。

 

『久遠さん! 焼灼個体、十二体全部、動いてる! 真下! いや、周り!』

 

錆びた音が、十二、同時に鳴った。

 

地下五階の廊下の、両側の壁が、内側から吹き飛んだ。

 

十二体の焼灼個体が、瓦礫の中から、宙へ浮き上がってきた。

 

全員、頭に電極のヘルメットをかぶっていた。全員、白い目に銀の輪を光らせていた。全員が、俺を見ていた。

 

氷室の制御下だ。

 

十二体が、同時に、力をぶつけてきた。

 

  *

 

押し止めた。

 

十二の錆びた音が、十二の方向から、俺を締め上げてくる。悠一人でも、重かった。それが、十二。

 

地面を持ち上げたばかりで、余力は、ほとんどなかった。

 

体が、軋んだ。

 

足元の瓦礫が、見えない力に押し潰されて、粉々に砕けていく。

 

――無音域に入れば。

 

一瞬、そう思った。

 

無音域に入れば、十二体全部を、吸い込める。止められる。悠のように、死体に戻せる。

 

そして、その錆びを、全部吸い込んで。

 

詩織がいないこの場所で。

 

網に、飲まれる。

 

――使わない。

 

歯を食いしばった。

 

普通の力で、やる。

 

十二体のうち、一番近い一体を、掴んだ。

 

吸い込むのではなく。押さえ込むのでもなく。

 

頭の、電極だけを。

 

霧島に教わった、繊細な制御。悠の電極を抜いたときと同じ。頭蓋骨に食い込んだ金属の破片を、一つずつ、そっと。

 

一体目の電極が、外れた。

 

その焼灼個体の、統率のとれた動きが、崩れた。無秩序な痙攣に変わる。力が、四方八方に撒き散らされる。

 

撒き散らされた力を、まとめて、地下五階の奥の、分厚い壁に向けて弾いた。

 

焼灼個体の体が、壁に叩きつけられ、瓦礫に埋もれた。

 

殺しては、いない。

 

二体目。

 

三体目。

 

一体ずつ、電極を外し、制御を奪い、瓦礫の中に押し込めていく。十二体の攻撃を、同時に受け止めながら。

 

四体目で、左腕の感覚がなくなった。

 

六体目で、視界の右半分が、白く焼けた。

 

八体目で、口の中に、血の味が溢れた。

 

――おにい。

 

どこかで、弦の音が、かすかに鳴った気がした。

 

十体目。

 

十一体目。

 

十二体目の電極を外したとき、俺は、瓦礫の上に、膝をついていた。

 

  *

 

「……化け物ね」

 

声がした。

 

顔を上げた。

 

地下五階の廊下の奥、制御室の前に、如月が立っていた。黒いタクティカルスーツ。首輪。銀の輪。その両脇に、四人の部下。

 

五人の音が、重なった。

 

ガラスの音。五つの、細く、鋭い音が、一つの和音になる。

 

「十二体の焼灼個体を、無音域なしで制圧。記録に残しておくわ」

 

如月は、淡々と言った。

 

「けれど、もう、限界でしょう。その状態で、私たち五人の壁は、破れない」

 

五人の力が、一つになって、俺を包み込んだ。

 

分厚い、見えない壁だった。四方から、上から、下から。俺を、その場に閉じ込めるように。

 

押し返そうとした。

 

力が、出なかった。

 

底に、届いていた。

 

――ここまでか。

 

そう思った瞬間。

 

如月の後ろで、制御室の扉が、吹き飛んだ。

 

  *

 

鷹宮だった。

 

血まみれだった。黒いタクティカルスーツは、あちこちが裂けていた。頭に、電極のヘルメットの残骸が、斜めに引っかかっていた。

 

目が、半分、白かった。

 

銀の輪は、まだあった。でも、黒目の部分が、半分ほど、乳白色に濁っていた。

 

「――待たせたな、湊」

 

鷹宮は、にやりと笑った。笑うと、口の端から血が流れた。

 

如月が、振り返った。

 

「鷹宮。あなた、焼灼処置の途中で――」

 

「途中だから、動けるんだよ」

 

鷹宮のガラスの音が、鳴った。

 

その音は、錆びていた。

 

半分、錆びていた。

 

でも、澄んでいた。

 

鷹宮の力が、如月たちの壁に、外側から叩きつけられた。

 

五人の和音が、乱れた。

 

壁が、揺らいだ。

 

「湊!」鷹宮が叫んだ。「詩織ちゃんは、奥だ! 焼灼室! もう始まってる! 行け!」

 

揺らいだ壁を、内側から、押し破った。

 

残っていた、ほんのわずかな力で。

 

壁が、砕けた。

 

如月の部下たちが、四方へ吹き飛んだ。

 

走った。

 

制御室を抜けて、その奥へ。

 

背後で、鷹宮と如月の音が、激しくぶつかり合う音が聞こえた。

 

  *

 

焼灼室は、白い部屋だった。

 

手術室のような部屋だった。天井に無影灯。壁に、無数のモニター。床に、太いケーブルが何十本も這っている。

 

部屋の中央に、手術台があった。

 

詩織が、その上に横たわっていた。

 

拘束具で、手首と足首と胴を、台に固定されていた。頭に、電極のヘルメットがかぶせられていた。ヘルメットから伸びた無数のケーブルが、壁の機械につながっている。腕に、点滴の管。管の中を、赤黒い液体が流れていた。

 

詩織の目は、閉じていた。

 

その顔が、苦しげに歪んでいた。

 

そして、手術台の横に、氷室が立っていた。

 

白衣。ひっつめた黒髪。フレームの細い眼鏡。胸ポケットに、万年筆が三本。

 

手に、小さなリモコンのようなものを握っていた。

 

「来ると思っていました、久遠さん」

 

氷室の声は、相変わらず、柔らかかった。

 

「予定より、二十時間早い到着です。おかげで、処置を前倒しにしなければならなかった」

 

「詩織を、離せ」

 

「離したら、どうしますか」

 

氷室は、手術台の上の詩織を見下ろした。

 

「妹さんの焼灼は、もう、六割ほど進んでいます。今、電極を外せば、妹さんの脳は、中途半端に焼けたまま残ります。焼灼個体にもならず、元の妹さんにも戻らない。ただ、壊れるだけです」

 

俺は、詩織の頭の中の音を、聞こうとした。

 

弦の音。

 

聞こえた。

 

でも、それは、もう、弦の音ではなかった。

 

錆びていた。

 

張りつめた弦に、錆びがこびりつき、弦そのものが、ぎしぎしと軋んでいた。ぴん、と澄んでいたはずの音が、濁り、ひび割れ、今にも切れそうに震えていた。

 

「このリモコンで」氷室は、手の中の装置を持ち上げた。「処置を、完了させることができます。そうすれば、妹さんは、完全な焼灼個体になる。あなたの音程と共鳴する、唯一の焼灼個体に」

 

「……なんで、そこまで」

 

氷室は、少しだけ、首をかしげた。

 

「なんで、とは?」

 

「なんで、そこまでして、人を焼く」

 

「人類を、存続させるためです」

 

氷室は、当然のことのように言った。

 

「関東の生存者は、推定で三百万人。このまま群れが拡大すれば、半年以内に、ゼロになります。けれど、あなたを焼灼個体にすれば、関東全域の群れを、一箇所に集められる。そして、焼き払える。三百万人が助かります」

 

「俺一人と、詩織一人で」

 

「あなたたちと、ここにいる銀環者全員で」

 

氷室は、静かに言った。

 

「数字の問題です、久遠さん。二十人と、三百万人。どちらを選ぶかは、明らかでしょう」

 

「――それを決めるのは、あんたじゃない」

 

別の声がした。

 

振り返ると、焼灼室の入り口に、真壁さんが立っていた。

 

その後ろに、霧島と大河原と、柏木と、七瀬。

 

  *

 

真壁さんは、まっすぐに氷室を見ていた。

 

「氷室葵さん。北里の、真壁灯子です」

 

氷室の眉が、わずかに動いた。

 

「真壁。……第九号の」

 

「悠です」真壁さんは言った。「第九号じゃない。真壁悠。私の弟」

 

真壁さんは、一歩、前に出た。

 

「二十人と三百万人。あなたは、そう言った。でも、あなたがその二十人の中に、自分を入れたことはある?」

 

氷室は、答えなかった。

 

「悠は、二十三歳だった。喘息持ちで、注射が嫌いで、でも泣かない子だった。その子を、あなたは『数字』にした。第九号。誘導焼灼実施日、九月六日」

 

「感情論です」

 

「そうよ」

 

真壁さんは言った。

 

「私は看護師だから。患者を数字で見たら、終わりなの」

 

氷室の手の中の、リモコンが、わずかに動いた。

 

その瞬間、霧島の針金の音が、鋭く鳴った。

 

リモコンが、氷室の手から、弾き飛ばされた。

 

宙を舞ったリモコンを、霧島が念動力で掴み、そのまま、ボタンに触れないように、分解した。細かい部品が、ばらばらと床に散らばった。

 

「針の穴に糸を通せる女にとって」霧島は、息を切らしながら言った。「リモコンのネジなんて、ボタンと同じよ」

 

  *

 

詩織の拘束具を、外した。

 

電極のヘルメットには、手を触れなかった。氷室の言葉が、本当かどうか分からなかった。今、外せば、詩織は壊れるかもしれない。

 

「七瀬」

 

「はい」

 

「詩織の音、どうなってる」

 

七瀬は、目を閉じて、詩織の頭に耳を近づけるようにした。

 

「……錆びてる。六割くらい。すごく、苦しそう。このままだと、たぶん」

 

七瀬は、その先を言わなかった。

 

「榊先生は、錆びは取り除けないって言ってた」柏木が言った。「どうするんだよ」

 

「取り除く方法は、ある」

 

俺は言った。

 

「俺が、吸い込む」

 

全員が、俺を見た。

 

「無音域に入って、詩織の錆びを、全部、俺が吸い込む。悠のときと同じだ。ただし、今度は、止めるためじゃない。錆びだけを、吸い込む」

 

「そんなこと、できるの」霧島が言った。

 

「分からない。でも、やるしかない」

 

「久遠くん」真壁さんが、俺の腕を掴んだ。「あなたの錆び、今、どれくらい」

 

七瀬が、俺を見た。

 

七瀬の顔が、青ざめていた。

 

「……七割」

 

誰も、何も言わなかった。

 

「詩織の錆びを全部吸ったら、たぶん、俺は、焼灼個体になる」

 

俺は言った。

 

「でも、詩織がいれば、戻ってこられる」

 

「詩織ちゃんは、今、意識がないのよ」

 

「分かってる」

 

分かっていた。

 

詩織の弦の音が、俺を引き戻してくれた。悠のときも。網の中心に引きずり込まれそうになったときも。

 

でも、今、詩織は、自分自身が錆びに飲まれかけている。

 

俺を引き戻してくれる音は、ない。

 

「それでも、やる」

 

俺は、詩織の手を、握った。

 

熱かった。

 

学校で握ったときよりも、ずっと。

 

  *

 

無音域に入った。

 

抑制剤で弱まっていたはずの力の、そのさらに奥へ。

 

音が、消えた。

 

網が、見えた。

 

おかえり、と、網の奥の何かが言った。

 

無視した。

 

詩織の結び目を、探した。

 

すぐに、見つかった。

 

俺の結び目の、すぐ隣に。ほとんど重なるように。音程が、ほとんど同じだから。

 

詩織の結び目は、錆びていた。

 

弦の形をした光が、赤黒い錆びに覆われて、今にも切れそうに震えていた。

 

触れた。

 

吸い込んだ。

 

錆びだけを。

 

弦を傷つけないように。霧島が、窓のシーリング材を剥がしたときのように。一本の長い紐を、するすると引き抜くように。

 

詩織の錆びが、俺の中に流れ込んでくる。

 

熱かった。

 

焼けるように。

 

俺の結び目が、焦げていく。錆びが、七割から、八割へ。九割へ。

 

網の引力が、強くなる。

 

中心へ。中心へ、と。

 

吸い込め、と、網は言っていた。

 

全部、吸い込め、と。

 

――まだだ。

 

詩織の錆びを、最後の一筋まで、引き抜いた。

 

詩織の弦が、震えた。

 

錆びが取れて、剥き出しになった弦が、ぴん、と、張り直された。

 

弦の音が、鳴った。

 

澄んだ、張りつめた音。

 

その音を聞いたとき、俺の結び目は、もう、ほとんど黒くなっていた。

 

網の中心が、目の前にあった。

 

おかえり、と、それは言った。

 

――ああ。

 

俺は、思った。

 

ここまでか。

 

  *

 

弦の音が、鳴った。

 

一本では、なかった。

 

二本。三本。

 

いや、弦の音だけではなかった。

 

針金の音。太鼓の音。七瀬の、澄んだ鈴のような音。柏木の、低い笛のような音。

 

それから、ガラスの音。錆びかけた、でも澄んだ、鷹宮の音。

 

全部が、俺の結び目に、重なってきた。

 

錆びた音の、不協和の部分に、一つずつ。

 

調律するように。

 

詩織が、やっていたように。

 

――おにい。

 

詩織の声が、聞こえた。

 

――みんな、いるよ。

 

――私だけじゃない。みんな、おにいの音、聞いてる。

 

――だから、帰ってきて。

 

弦の音が、一番強く、鳴った。

 

網の引力が、揺らいだ。

 

俺の結び目の、黒い錆びの中に、ほんのわずかに、別の色が戻ってきた。

 

  *

 

目を開けた。

 

焼灼室の、白い天井が見えた。無影灯の光が、目に刺さった。

 

床に、倒れていた。

 

詩織が、俺の頭を膝に抱えていた。電極のヘルメットは、もう外されていた。詩織の目は、開いていた。銀の輪が、はっきりと光っていた。濁りのない、澄んだ白目の中で。

 

「……詩織」

 

「ばか」

 

詩織は、泣いていた。

 

「ばかおにい。二回目」

 

周りに、全員がいた。真壁さん。霧島。大河原。柏木。七瀬。

 

それから、焼灼室の入り口の壁にもたれて、鷹宮が座り込んでいた。血まみれで。目を、半分白くして。それでも、にやりと笑っていた。

 

「如月は」

 

「伸びてる」鷹宮は言った。「半分焼けた俺に負けるとは、思ってなかったろうな」

 

氷室は、部屋の隅で、大河原の念動力に押さえつけられていた。白衣が乱れ、眼鏡がずれていた。それでも、その顔には、ほとんど表情がなかった。

 

「七瀬」

 

俺は、七瀬を見た。

 

「俺の音、どうなってる」

 

七瀬は、しばらく、俺を見ていた。

 

それから、泣き笑いのような顔で言った。

 

「……九割、錆びてる」

 

「九割か」

 

「でも」

 

七瀬は、目元を袖で拭った。

 

「残りの一割、すごく、きれいな音してる。久遠さんの、元の音。トラックのエンジンじゃなくて、なんか、もっと、あったかい音」

 

  *

 

氷室が、笑った。

 

初めて見る、氷室の笑顔だった。

 

「――素晴らしい」

 

氷室は言った。押さえつけられたまま、顔だけを上げて。

 

「無音域到達者が、九割焼灼しても、自我を保っている。複数の銀環者による、共鳴調律。記録に、残さなければ」

 

「あんた、まだ」

 

「久遠さん」

 

氷室は、俺の言葉を遮った。

 

「あなたは、網に触れた。網の中心を、見た。そうでしょう」

 

俺は、答えなかった。

 

「なら、分かっているはずです。網は、あなたを呼んでいる。そして、あなたが今、九割焼けたことで――」

 

氷室は、天井を見上げた。

 

その向こうの、地上を。

 

「網は、確信したはずです。中心が、ここにいる、と」

 

七瀬が、悲鳴を上げた。

 

耳を、押さえていた。

 

「――来る」

 

七瀬の顔が、真っ白だった。

 

「来る。全部。全部、来る」

 

「何が」

 

「網が」

 

七瀬は、震える声で言った。

 

「関東全体の音が、全部、こっちに向かって動き出した。何百万。数えられない。全部、久遠さんに向かって――」

 

地面が、揺れ始めた。

 

地下五階の天井の、俺が剥がした穴の向こうから。

 

遠い、遠い地鳴りが、聞こえ始めていた。

 

何百万という足が、アスファルトを擦る音。

 

関東全域の、白い目が。

 

網の中心を目指して、相模原へ。

 

(第八章 了)

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