七十二時間のうち、最初の二十四時間を、俺は眠って過ごした。
眠りたかったわけではない。体が、言うことをきかなかった。悠を止めたときの消耗と、詩織を連れ去られたときの無理な力の使い方で、頭の奥の何かが、焼けつきかけていた。
目を覚ますたびに、錆びた音が聞こえた。
夢の中でも、聞こえた。網の、あの巨大な何かが、ずっとこちらを見ている夢だった。おかえり、と、それは繰り返していた。何度も、何度も。
二日目の朝、榊先生が、図書室に俺を呼んだ。
「座りなさい」
先生の机の上には、北里から運んだ分析装置がつながれたノートパソコンが置かれていた。画面に、複雑な波形のグラフが並んでいる。
「鷹宮くんが君に渡した抑制剤を、一本だけ分析させてもらった」
先生は、机の上の小さなガラス瓶を指さした。淡い青色の液体が、底に少しだけ残っていた。
「成分は、ほぼ特定できた。合成もできる。ここの設備では、一日に三本が限界だがね」
「詩織の分は」
「君の妹さんを取り戻せば、足りる」先生は、眼鏡を押し上げた。「それより、君に伝えておきたいことがある」
先生は、画面の一つを指さした。
「この抑制剤は、脳炎を抑える薬だ。つまり、ウイルスが脳を作り変える働きを、一時的に鈍らせる。――それは、錆びにも効くかもしれない」
「錆びに?」
「錆びとは、焼け焦げた信号が、君の回路に溜まったものだ。それが回路を蝕み、作り変えていく。その作り変えを、抑制剤で遅らせることができれば」
先生は、ガラス瓶を手に取った。
「完全に止めることはできない。溜まった錆びを取り除くこともできない。ただ、進行を遅らせるだけだ。それでも、何もしないよりは」
「……打ってください」
「副作用がある」
先生は、瓶を置いた。
「抑制剤は、回路の働き全体を鈍らせる。つまり、君の力も弱まる。どれくらいかは、分からん。半分か、三分の一か」
「それでいい」
俺は言った。
「今の俺は、力を全部出したら、たぶん焼ける。半分でいい。半分の力で、詩織を取り戻す」
*
作戦会議は、二日目の夜に開かれた。
図書室の長机に、駐屯地の見取り図が広げられた。鷹宮が無線で伝えてきた情報と、施設にいた全員の記憶を組み合わせて、霧島が描いたものだった。
「地上部分は、ほとんど意味がない」霧島が、見取り図の上をペン先でなぞった。「本体は地下。地下一階から五階まで。詩織ちゃんがいるのは、地下五階の、焼灼室。制御室の、さらに奥」
「入口は」
「搬入口と、非常階段が二つ。それから、換気用の縦坑が四本。全部、厳重に警備されてるはず」
「氷室の手下の銀環者は」
「私が知ってるのは、五人」霧島は、指を折った。「詩織ちゃんを連れ去った女が、如月。施設で一番古い銀環者で、氷室の懐刀。あとの四人は、如月の部下。全員、出力は三トンから五トン。ただし、連携が上手い。五人で、一つの壁を作れる」
「焼灼個体は」
「悠くんを除いて、十二体。全部、氷室の制御下」
大河原が、腕を組んだ。
「真正面から行ったら、十二体の焼灼個体と、五人の銀環者と、残りの自衛隊。それを全部相手にすることになるな」
「真正面から行く」
俺は言った。
全員が、俺を見た。
「俺が正面から行く。派手にやる。全部、俺に引きつける。その間に、みんなは別の入口から地下五階へ向かってくれ」
「無茶よ」霧島が言った。「あんた、抑制剤で力が落ちてるんでしょう」
「半分でも、五十トンの半分だ」
霧島は、黙った。
「それに」
俺は、見取り図の、地下五階の位置を指さした。
「正面から行くって言っても、門から入るわけじゃない」
指を、見取り図の上で、まっすぐに下ろした。
地上から、地下五階まで。
「真上から、行く」
*
「……は?」
柏木が、ぽかんと口を開けた。
「真上って、どうやって」
「地面を、剥がす」
誰も、何も言わなかった。
「地下五階まで、深さはたぶん三十メートルくらいだ。その上にある土とコンクリートを、全部持ち上げて、どける。そうすれば、地下五階に直接、穴が開く」
「どれだけの重さだと思ってんだ」大河原が、呆れたように言った。「何万トンだぞ」
「分かってる」
俺は、榊先生を見た。
「先生。抑制剤を打って、力が半分になっても、錆びは進まないんですか」
「遅らせるだけだ、と言ったろう」先生は、厳しい顔で言った。「大きな力を使えば、それだけ錆びは溜まる。抑制剤は、その速度を遅くするだけだ」
「どれくらい、遅く」
「分からん。だが、君が何万トンの地面を持ち上げたら、そのあとで、もう一度無音域に入る余力は、たぶん残らない」
「無音域には、入らない」
俺は言った。
「詩織がいないときに、無音域に入ったら、俺は網に飲まれる。だから、使わない。今回は、普通の力だけでやる」
「普通の力、ね」霧島が、小さく笑った。「何万トンの地面を持ち上げるのが、普通の力」
真壁さんが、口を開いた。
「私も、行く」
「真壁さん」
「医療スタッフが必要でしょう。詩織ちゃんが、どんな状態で見つかるか分からない。鷹宮くんも」
真壁さんは、俺を真っ直ぐに見た。
「それに、氷室葵に、一度会っておきたいの」
*
三日目の夜。午前二時。
駐屯地から、北へ二キロの丘の上に、俺は一人で立っていた。
眼下に、駐屯地が見えた。
演習場の照明が、白く光っていた。フェンスの外は、まだ再起動個体で埋まっていた。駐屯地で十万の群れを呼び寄せてから、群れは散りきっていなかった。白いうねりが、フェンスの周りを、ゆっくりと取り巻いている。
首筋に、抑制剤の注射の跡があった。
力が、弱まっているのが分かった。頭の奥の、あの広い場所が、少し狭くなったような感覚。底が、以前より近くに見える。
錆びた音も、少し小さくなっていた。
無線が鳴った。
『こちら霧島。西の換気坑、到着』
『大河原だ。東の非常階段、いつでもいける』
『七瀬です。中の音、聞こえてます。地下五階、詩織ちゃんの弦の音、まだ聞こえる。でも、すごく小さい。それと、焼灼個体の錆びた音が十二。如月たちのガラスっぽい音が五つ』
七瀬は、一瞬、言葉を切った。
『鷹宮さんの音も、地下五階。でも――』
「でも?」
『……錆びてる。半分くらい』
氷室は、鷹宮の焼灼を、もう始めていたのだ。
『あと、地下五階の、詩織ちゃんのいる部屋で、何か機械が動き始めてる。電極の音。たぶん――』
七瀬の声が、震えた。
『もう、始まってる』
時間がなかった。
「――行く」
*
浮いた。
丘の上から、駐屯地へ向かって、まっすぐに飛んだ。
二キロを、三十秒で。
演習場の上空、高さ五十メートルで、止まった。
眼下の照明が、俺を照らした。どこかで警報が鳴り始めた。サイレン。拡声器の声。地上の隊員たちが、こちらを見上げて指をさしている。
フェンスの外の、再起動個体の群れが、一斉にこちらを向いた。
構わなかった。
見取り図の、地下五階の位置。それを、真上から見下ろした。
演習場の、ちょうど真ん中あたり。兵舎と格納庫の間の、広いアスファルトの地面。
その下、三十メートル。
目を閉じた。
音を、絞らなかった。
今回は、隠れる必要がなかった。むしろ、全部に聞かせる必要があった。俺はここにいる、と。
掴め。
アスファルトを。その下の砂利を。土を。コンクリートの天井を。地下一階の床を。二階の床を。三階、四階の床を。
幅四十メートル、奥行き四十メートル。深さ、二十五メートル。
その全部を、一つの塊として、掴んだ。
重かった。
今までで、一番重かった。
抑制剤で弱まった力では、底が、すぐそこに見えた。頭の奥が、ぎしぎしと軋んだ。錆びた音が、大きくなった。
――半分でも、五十トンの半分だ。
自分で言った言葉を、思い出した。
違う。五十トンは、計測器の上限だった。俺の上限ではなかった。
底は、見えている。でも、まだ、そこに届いていない。
持ち上がれ。
地面が、揺れた。
演習場のアスファルトに、四十メートル四方の、正方形の亀裂が走った。
亀裂から、土煙が噴き出した。
そして、地面が、持ち上がり始めた。
*
最初は、数センチだった。
それから、数十センチ。一メートル。
正方形に切り取られた大地が、ゆっくりと、宙へ浮き上がっていく。表面のアスファルトの下から、砂利の層が、土の層が、剥き出しになっていく。その下から、分厚いコンクリートの層が。配管が、ケーブルが、ちぎれて垂れ下がる。
地下一階の、蛍光灯の光が、下から漏れ出した。
地下二階。三階。四階。
各階の床と天井が、層を成して、巨大な積み木のように持ち上がっていく。部屋の中にあった机や椅子が、ばらばらと落ちていく。どこかで悲鳴が上がった。人が落ちていないことを、祈った。
五メートル。十メートル。二十メートル。
四十メートル四方、深さ二十五メートルの大地が、演習場の上空に浮かんでいた。
鼻から、血が流れた。耳からも。目の縁から、熱いものが流れ出した。
頭の奥で、何かが焼けていた。
でも、まだ、底には届いていなかった。
浮いた大地を、演習場の端へ移した。ゆっくりと。落とさないように。格納庫の横の、空いた地面へ。
下ろした。
地震のような揺れが、駐屯地全体を貫いた。
演習場の真ん中に、巨大な穴が開いていた。
四十メートル四方の、正方形の穴。その底に、地下五階の天井が、剥き出しになっていた。
*
穴の底へ、降下した。
地下五階の天井を、剥がした。
焼灼個体たちのガラスの部屋が並ぶ、あの長い廊下が、真上から見下ろせた。
十二のガラスの部屋が、すべて開いていた。
中は、空だった。
――来る。
七瀬の無線が、叫んでいた。
『久遠さん! 焼灼個体、十二体全部、動いてる! 真下! いや、周り!』
錆びた音が、十二、同時に鳴った。
地下五階の廊下の、両側の壁が、内側から吹き飛んだ。
十二体の焼灼個体が、瓦礫の中から、宙へ浮き上がってきた。
全員、頭に電極のヘルメットをかぶっていた。全員、白い目に銀の輪を光らせていた。全員が、俺を見ていた。
氷室の制御下だ。
十二体が、同時に、力をぶつけてきた。
*
押し止めた。
十二の錆びた音が、十二の方向から、俺を締め上げてくる。悠一人でも、重かった。それが、十二。
地面を持ち上げたばかりで、余力は、ほとんどなかった。
体が、軋んだ。
足元の瓦礫が、見えない力に押し潰されて、粉々に砕けていく。
――無音域に入れば。
一瞬、そう思った。
無音域に入れば、十二体全部を、吸い込める。止められる。悠のように、死体に戻せる。
そして、その錆びを、全部吸い込んで。
詩織がいないこの場所で。
網に、飲まれる。
――使わない。
歯を食いしばった。
普通の力で、やる。
十二体のうち、一番近い一体を、掴んだ。
吸い込むのではなく。押さえ込むのでもなく。
頭の、電極だけを。
霧島に教わった、繊細な制御。悠の電極を抜いたときと同じ。頭蓋骨に食い込んだ金属の破片を、一つずつ、そっと。
一体目の電極が、外れた。
その焼灼個体の、統率のとれた動きが、崩れた。無秩序な痙攣に変わる。力が、四方八方に撒き散らされる。
撒き散らされた力を、まとめて、地下五階の奥の、分厚い壁に向けて弾いた。
焼灼個体の体が、壁に叩きつけられ、瓦礫に埋もれた。
殺しては、いない。
二体目。
三体目。
一体ずつ、電極を外し、制御を奪い、瓦礫の中に押し込めていく。十二体の攻撃を、同時に受け止めながら。
四体目で、左腕の感覚がなくなった。
六体目で、視界の右半分が、白く焼けた。
八体目で、口の中に、血の味が溢れた。
――おにい。
どこかで、弦の音が、かすかに鳴った気がした。
十体目。
十一体目。
十二体目の電極を外したとき、俺は、瓦礫の上に、膝をついていた。
*
「……化け物ね」
声がした。
顔を上げた。
地下五階の廊下の奥、制御室の前に、如月が立っていた。黒いタクティカルスーツ。首輪。銀の輪。その両脇に、四人の部下。
五人の音が、重なった。
ガラスの音。五つの、細く、鋭い音が、一つの和音になる。
「十二体の焼灼個体を、無音域なしで制圧。記録に残しておくわ」
如月は、淡々と言った。
「けれど、もう、限界でしょう。その状態で、私たち五人の壁は、破れない」
五人の力が、一つになって、俺を包み込んだ。
分厚い、見えない壁だった。四方から、上から、下から。俺を、その場に閉じ込めるように。
押し返そうとした。
力が、出なかった。
底に、届いていた。
――ここまでか。
そう思った瞬間。
如月の後ろで、制御室の扉が、吹き飛んだ。
*
鷹宮だった。
血まみれだった。黒いタクティカルスーツは、あちこちが裂けていた。頭に、電極のヘルメットの残骸が、斜めに引っかかっていた。
目が、半分、白かった。
銀の輪は、まだあった。でも、黒目の部分が、半分ほど、乳白色に濁っていた。
「――待たせたな、湊」
鷹宮は、にやりと笑った。笑うと、口の端から血が流れた。
如月が、振り返った。
「鷹宮。あなた、焼灼処置の途中で――」
「途中だから、動けるんだよ」
鷹宮のガラスの音が、鳴った。
その音は、錆びていた。
半分、錆びていた。
でも、澄んでいた。
鷹宮の力が、如月たちの壁に、外側から叩きつけられた。
五人の和音が、乱れた。
壁が、揺らいだ。
「湊!」鷹宮が叫んだ。「詩織ちゃんは、奥だ! 焼灼室! もう始まってる! 行け!」
揺らいだ壁を、内側から、押し破った。
残っていた、ほんのわずかな力で。
壁が、砕けた。
如月の部下たちが、四方へ吹き飛んだ。
走った。
制御室を抜けて、その奥へ。
背後で、鷹宮と如月の音が、激しくぶつかり合う音が聞こえた。
*
焼灼室は、白い部屋だった。
手術室のような部屋だった。天井に無影灯。壁に、無数のモニター。床に、太いケーブルが何十本も這っている。
部屋の中央に、手術台があった。
詩織が、その上に横たわっていた。
拘束具で、手首と足首と胴を、台に固定されていた。頭に、電極のヘルメットがかぶせられていた。ヘルメットから伸びた無数のケーブルが、壁の機械につながっている。腕に、点滴の管。管の中を、赤黒い液体が流れていた。
詩織の目は、閉じていた。
その顔が、苦しげに歪んでいた。
そして、手術台の横に、氷室が立っていた。
白衣。ひっつめた黒髪。フレームの細い眼鏡。胸ポケットに、万年筆が三本。
手に、小さなリモコンのようなものを握っていた。
「来ると思っていました、久遠さん」
氷室の声は、相変わらず、柔らかかった。
「予定より、二十時間早い到着です。おかげで、処置を前倒しにしなければならなかった」
「詩織を、離せ」
「離したら、どうしますか」
氷室は、手術台の上の詩織を見下ろした。
「妹さんの焼灼は、もう、六割ほど進んでいます。今、電極を外せば、妹さんの脳は、中途半端に焼けたまま残ります。焼灼個体にもならず、元の妹さんにも戻らない。ただ、壊れるだけです」
俺は、詩織の頭の中の音を、聞こうとした。
弦の音。
聞こえた。
でも、それは、もう、弦の音ではなかった。
錆びていた。
張りつめた弦に、錆びがこびりつき、弦そのものが、ぎしぎしと軋んでいた。ぴん、と澄んでいたはずの音が、濁り、ひび割れ、今にも切れそうに震えていた。
「このリモコンで」氷室は、手の中の装置を持ち上げた。「処置を、完了させることができます。そうすれば、妹さんは、完全な焼灼個体になる。あなたの音程と共鳴する、唯一の焼灼個体に」
「……なんで、そこまで」
氷室は、少しだけ、首をかしげた。
「なんで、とは?」
「なんで、そこまでして、人を焼く」
「人類を、存続させるためです」
氷室は、当然のことのように言った。
「関東の生存者は、推定で三百万人。このまま群れが拡大すれば、半年以内に、ゼロになります。けれど、あなたを焼灼個体にすれば、関東全域の群れを、一箇所に集められる。そして、焼き払える。三百万人が助かります」
「俺一人と、詩織一人で」
「あなたたちと、ここにいる銀環者全員で」
氷室は、静かに言った。
「数字の問題です、久遠さん。二十人と、三百万人。どちらを選ぶかは、明らかでしょう」
「――それを決めるのは、あんたじゃない」
別の声がした。
振り返ると、焼灼室の入り口に、真壁さんが立っていた。
その後ろに、霧島と大河原と、柏木と、七瀬。
*
真壁さんは、まっすぐに氷室を見ていた。
「氷室葵さん。北里の、真壁灯子です」
氷室の眉が、わずかに動いた。
「真壁。……第九号の」
「悠です」真壁さんは言った。「第九号じゃない。真壁悠。私の弟」
真壁さんは、一歩、前に出た。
「二十人と三百万人。あなたは、そう言った。でも、あなたがその二十人の中に、自分を入れたことはある?」
氷室は、答えなかった。
「悠は、二十三歳だった。喘息持ちで、注射が嫌いで、でも泣かない子だった。その子を、あなたは『数字』にした。第九号。誘導焼灼実施日、九月六日」
「感情論です」
「そうよ」
真壁さんは言った。
「私は看護師だから。患者を数字で見たら、終わりなの」
氷室の手の中の、リモコンが、わずかに動いた。
その瞬間、霧島の針金の音が、鋭く鳴った。
リモコンが、氷室の手から、弾き飛ばされた。
宙を舞ったリモコンを、霧島が念動力で掴み、そのまま、ボタンに触れないように、分解した。細かい部品が、ばらばらと床に散らばった。
「針の穴に糸を通せる女にとって」霧島は、息を切らしながら言った。「リモコンのネジなんて、ボタンと同じよ」
*
詩織の拘束具を、外した。
電極のヘルメットには、手を触れなかった。氷室の言葉が、本当かどうか分からなかった。今、外せば、詩織は壊れるかもしれない。
「七瀬」
「はい」
「詩織の音、どうなってる」
七瀬は、目を閉じて、詩織の頭に耳を近づけるようにした。
「……錆びてる。六割くらい。すごく、苦しそう。このままだと、たぶん」
七瀬は、その先を言わなかった。
「榊先生は、錆びは取り除けないって言ってた」柏木が言った。「どうするんだよ」
「取り除く方法は、ある」
俺は言った。
「俺が、吸い込む」
全員が、俺を見た。
「無音域に入って、詩織の錆びを、全部、俺が吸い込む。悠のときと同じだ。ただし、今度は、止めるためじゃない。錆びだけを、吸い込む」
「そんなこと、できるの」霧島が言った。
「分からない。でも、やるしかない」
「久遠くん」真壁さんが、俺の腕を掴んだ。「あなたの錆び、今、どれくらい」
七瀬が、俺を見た。
七瀬の顔が、青ざめていた。
「……七割」
誰も、何も言わなかった。
「詩織の錆びを全部吸ったら、たぶん、俺は、焼灼個体になる」
俺は言った。
「でも、詩織がいれば、戻ってこられる」
「詩織ちゃんは、今、意識がないのよ」
「分かってる」
分かっていた。
詩織の弦の音が、俺を引き戻してくれた。悠のときも。網の中心に引きずり込まれそうになったときも。
でも、今、詩織は、自分自身が錆びに飲まれかけている。
俺を引き戻してくれる音は、ない。
「それでも、やる」
俺は、詩織の手を、握った。
熱かった。
学校で握ったときよりも、ずっと。
*
無音域に入った。
抑制剤で弱まっていたはずの力の、そのさらに奥へ。
音が、消えた。
網が、見えた。
おかえり、と、網の奥の何かが言った。
無視した。
詩織の結び目を、探した。
すぐに、見つかった。
俺の結び目の、すぐ隣に。ほとんど重なるように。音程が、ほとんど同じだから。
詩織の結び目は、錆びていた。
弦の形をした光が、赤黒い錆びに覆われて、今にも切れそうに震えていた。
触れた。
吸い込んだ。
錆びだけを。
弦を傷つけないように。霧島が、窓のシーリング材を剥がしたときのように。一本の長い紐を、するすると引き抜くように。
詩織の錆びが、俺の中に流れ込んでくる。
熱かった。
焼けるように。
俺の結び目が、焦げていく。錆びが、七割から、八割へ。九割へ。
網の引力が、強くなる。
中心へ。中心へ、と。
吸い込め、と、網は言っていた。
全部、吸い込め、と。
――まだだ。
詩織の錆びを、最後の一筋まで、引き抜いた。
詩織の弦が、震えた。
錆びが取れて、剥き出しになった弦が、ぴん、と、張り直された。
弦の音が、鳴った。
澄んだ、張りつめた音。
その音を聞いたとき、俺の結び目は、もう、ほとんど黒くなっていた。
網の中心が、目の前にあった。
おかえり、と、それは言った。
――ああ。
俺は、思った。
ここまでか。
*
弦の音が、鳴った。
一本では、なかった。
二本。三本。
いや、弦の音だけではなかった。
針金の音。太鼓の音。七瀬の、澄んだ鈴のような音。柏木の、低い笛のような音。
それから、ガラスの音。錆びかけた、でも澄んだ、鷹宮の音。
全部が、俺の結び目に、重なってきた。
錆びた音の、不協和の部分に、一つずつ。
調律するように。
詩織が、やっていたように。
――おにい。
詩織の声が、聞こえた。
――みんな、いるよ。
――私だけじゃない。みんな、おにいの音、聞いてる。
――だから、帰ってきて。
弦の音が、一番強く、鳴った。
網の引力が、揺らいだ。
俺の結び目の、黒い錆びの中に、ほんのわずかに、別の色が戻ってきた。
*
目を開けた。
焼灼室の、白い天井が見えた。無影灯の光が、目に刺さった。
床に、倒れていた。
詩織が、俺の頭を膝に抱えていた。電極のヘルメットは、もう外されていた。詩織の目は、開いていた。銀の輪が、はっきりと光っていた。濁りのない、澄んだ白目の中で。
「……詩織」
「ばか」
詩織は、泣いていた。
「ばかおにい。二回目」
周りに、全員がいた。真壁さん。霧島。大河原。柏木。七瀬。
それから、焼灼室の入り口の壁にもたれて、鷹宮が座り込んでいた。血まみれで。目を、半分白くして。それでも、にやりと笑っていた。
「如月は」
「伸びてる」鷹宮は言った。「半分焼けた俺に負けるとは、思ってなかったろうな」
氷室は、部屋の隅で、大河原の念動力に押さえつけられていた。白衣が乱れ、眼鏡がずれていた。それでも、その顔には、ほとんど表情がなかった。
「七瀬」
俺は、七瀬を見た。
「俺の音、どうなってる」
七瀬は、しばらく、俺を見ていた。
それから、泣き笑いのような顔で言った。
「……九割、錆びてる」
「九割か」
「でも」
七瀬は、目元を袖で拭った。
「残りの一割、すごく、きれいな音してる。久遠さんの、元の音。トラックのエンジンじゃなくて、なんか、もっと、あったかい音」
*
氷室が、笑った。
初めて見る、氷室の笑顔だった。
「――素晴らしい」
氷室は言った。押さえつけられたまま、顔だけを上げて。
「無音域到達者が、九割焼灼しても、自我を保っている。複数の銀環者による、共鳴調律。記録に、残さなければ」
「あんた、まだ」
「久遠さん」
氷室は、俺の言葉を遮った。
「あなたは、網に触れた。網の中心を、見た。そうでしょう」
俺は、答えなかった。
「なら、分かっているはずです。網は、あなたを呼んでいる。そして、あなたが今、九割焼けたことで――」
氷室は、天井を見上げた。
その向こうの、地上を。
「網は、確信したはずです。中心が、ここにいる、と」
七瀬が、悲鳴を上げた。
耳を、押さえていた。
「――来る」
七瀬の顔が、真っ白だった。
「来る。全部。全部、来る」
「何が」
「網が」
七瀬は、震える声で言った。
「関東全体の音が、全部、こっちに向かって動き出した。何百万。数えられない。全部、久遠さんに向かって――」
地面が、揺れ始めた。
地下五階の天井の、俺が剥がした穴の向こうから。
遠い、遠い地鳴りが、聞こえ始めていた。
何百万という足が、アスファルトを擦る音。
関東全域の、白い目が。
網の中心を目指して、相模原へ。
(第八章 了)