年末が近づき、町のあちこちで人々がせわしなく動き始める頃。最近の私にしては珍しく、広報活動以外の仕事で外に出る日がやってきた。
もっとも、これはSNSで有名になる以前から、年に一度行っている仕事だ。行き先は、この県で唯一の国立大学。
偏差値もちゃんと高く、それなりに勉強した人しか入れないらしい。私は高校を卒業すると同時に警察学校へ進んだので、大学受験というものを経験していないが、高校時代の同級生でこの大学に進学した人も一人しか知らなかった。
そんな場所に、私は毎年呼ばれている。
「今年もやってきましたね」
大学の名前が掲げられた正門をくぐり、簡素な受付で来賓証を受け取る。警備のお爺さんも随分と寒そうに凍えている。
構内には、冬の寒さに負けず歩き回る学生たちの姿があった。自転車で走り抜ける人もいれば、手に息を吹きかけながら友人と談笑している人もいる。まぶしい。
私もかつては学生だったはずなのに、こうして大学に来ると、妙に場違いな気分になる。いや、別に大学生になりたかったわけではない。勉強が嫌いというほどでもなかったけれど、警察官になると決めていたから、進路に迷うこともなかった。
……ただ、大学生という響きには、少しだけ憧れがある。
自由な時間が多そうだし、サークルだの飲み会だの、楽しそうなことも多いらしい。もっとも、実際に何をしているのかはよく知らない。大学生になったところで、私の中身が変わるとも思えないし。
そんなことを考えながら、目的の研究棟へと向かった。
今日、私がお会いするのはマウスー教授。名前の通り、ネズミの獣人だ。
生物学者として有名で、専門書だけでなく一般向けの本も何冊か出版しているらしい。私は読んだことがないけれど、書店のコーナーに彼の著書が並んでいるのを見たことはある。
そして、彼を有名にしたもう一つの理由がある。
――獣人進化論。
簡単に説明すれば、獣人は人間よりも身体能力に優れており、いずれその個体数も人間を上回り、社会そのものが大きく変わるだろう、という学説だ。
もちろん、私は詳しい内容を知らない。そもそもこの学説というものが、どこまで科学的な予測を含むものなのかも分からない。人間と獣人の人口推移を分析したものなのか、それとも社会構造についての思想なのか。たぶん統計学とか難しい計測方法をこねくり回したのだろう。
ただ、世間ではかなり物議を醸したらしい。そりゃ当然だ。実質的に、いつか普通の人間は淘汰されるなんて言っているようなもの。獣人差別がなくなりつつある時代ではあったが、そんなのを聞かされた人間は心穏やかではなかっただろう。
その結果、国内でも最難関とされる大学にいた彼は、こちらの大学へ移ることになった。表向きは栄転でも左遷でもない人事異動だったそうだが、事情を知る人の間では、事実上の追放に近い扱いだったと噂されている。
そんなとんでもない人と、私が知り合ったのは偶然だった。
五年前、町中で彼が何者かに襲われているところに、たまたま通りかかったのだ。
第一印象は、弱々しいネズミの獣人。身体も小柄で、力も強そうには見えなかった。実際に襲われていたのだから、そう見えても仕方がないだろう。
私は犯人を取り押さえ、彼を保護した。その後、事件の事情聴取をしているうちに、彼が大学教授だと判明した。さらに、彼から妙な頼み事をされた。
学生たちに交通安全教室をやってほしい、というのだ。
なんでも、彼は大学で行動心理学に関係する講義を担当しているらしい。人間がどうすれば行動を変えるのか、どうすれば危険な行動を避けるようになるのか。そうしたことを研究しているのだとか。……たしか、そんな説明だったと思う。行動変容?とかなんとか言っていた。
正直なところ、よく分からなかった。それ、生物学と関係があるのか。私はあまり賢くはない。
けれど、警察官として交通安全の啓発活動をするのは悪いことではない。大学生だってよく交通事故に遭うし、免許を取ったばかりの人もいる。
だから私は、二つ返事で引き受けた。だが問題は、その後だった。
事件の被害者だった彼は、取り調べの間こそ弱々しく、怯えた様子を見せていた。ところが、事件の手続きが一段落した途端、まるで何事もなかったかのようにニコニコと笑い始めたのだ。
その切り替わり方が、どうにも不自然だった。笑顔そのものは人懐っこい。声も穏やかで、こちらの話をよく聞く。けれど、どこか人間らしい感情の動きが感じられないというか……。
まるで、相手に合わせて表情を選んでいるような。ピエロのような、アニメのキャラクターのような。
私はその翌日、当時さくら交番にいたおじいちゃん警官に、妙な人だったと話した。すると、彼はマウスー教授の名前を聞いた途端、顔をしかめた。そして、獣人進化論について教えてくれたのだ。
その説明を聞き終えた私は、交通安全教室を引き受けたことを、ほんの少しだけ後悔した。
……いや、警察官として仕事を引き受けたこと自体は間違っていない。交通安全は大切だし、教授だって別に犯罪者というわけではない。
それは分かっている。分かっているのだが。あの笑顔を見るたび、私は何とも言えない気持ちになるのだ。彼との付き合いも五年になる。それでも、彼に慣れることはなかった。
そんなことを思い返しながら、研究棟の廊下を歩く。
建物の奥へ進むにつれて、学生たちの姿も少なくなっていった。壁に貼られた研究発表のポスターや、専門書を抱えて歩く人々。大学らしい光景ではあるのだろうが、私にはいまいち馴染みがない。前世でも、大学へは行かなかったから。
やがて、研究棟の隅にある一室へたどり着いた。
マウス-教授の研究室だ。大学の中でも、ずいぶん奥まった場所にある。初めて訪れたときは、どうしてこんなところに部屋があるのだろうと思ったものだ。なんとなく、この大学でも腫れ物のような扱いなのかと勘繰ってしまう。
私はドアの前で立ち止まり、軽くノックした。
「失礼します。犬井です」
「どうぞ、お入りください」
聞き慣れた声が返ってきた。ドアノブを回し、扉を開く。
そこは、一見するとこぎれいな部屋だった。
窓際には観葉植物が置かれ、壁際の本棚には生物学の著書や雑誌が整然と並んでいる。私でも名前を知っているような有名な人物の本もあれば、背表紙に見覚えのない難しそうな題名が並んでいるものもあった。その隣には、彼自身の著書が何冊も置かれている。
机の上も片付いていた。書類が山積みになっているわけでもなく、飲みかけのコーヒーが放置されているわけでもない。隅っこの小さな機械から、安心する匂いの煙が放たれている。アロマ的なやつだろう。
そして、小さなデスクの向こうに、彼は座っていた。
マウスー教授。小柄なネズミの獣人で、いかにも善人です、と書いてあるような人当たりの良い笑顔を浮かべている。少なくとも、表情だけを見れば、そう思うだろう。
けれど、その目は違う。穏やかな笑みとは裏腹に、こちらを見つめる視線は鋭い。まるで蛇が獲物の様子をうかがうような、じっとりとした視線だった。
私は、人の感情をある程度読み取ることができる。犬の獣人の特性か、はたまたかつての研究所で相手の顔色を窺うことに慣れてしまったのか。相手が怒っているのか、怯えているのか、何かを隠しているのか。表情や声色、ちょっとした仕草から、何となく察することができるのだ。これは警察官として働くうえで、役に立つことも多い。
けれど、この人だけは別だった。何を考えているのか、まるで分からない。怒っているわけでも、喜んでいるわけでもない。何かを企んでいるようにも見えるし、単に私のことを観察しているだけにも見える。彼の前に立つと、まるで大蛇の腹の中にいるような気分になる。
「ハハッ、よく来てくれましたね犬井巡査。今年はえらく忙しいでしょうに」
「いえいえ。確かに忙しいですが、これも大切な仕事ですよ」
私はできるだけ普段通りに答えた。
最近は、テレビやSNSの仕事が増えている。交番での仕事に加えて、取材や撮影、広報活動。おかげで、以前よりも人前に出る機会が増えた。
それでも、交通安全教室は大切な仕事だ。今月は十二月。帰省や旅行で長距離運転をする人が増えるうえ、路面凍結による事故も起こりやすい。忘年会などで飲酒の機会も増える。特に大学一年生ともなれば、免許を取って間もない人も多いだろう。
だからこそ、毎年この時期に交通安全教室を行っている。……決して、得体の知れない教授の頼みだから断れないというわけではない。いや、本当に。
「ありがとうございます。積もる話もありますが、それは講義のあとで。早速ですが、大講堂へお願いします」
「あれ、もうそんな時間でしたか。すみません急いだのですが」
「いえ、遅れてなどいませんよ」
教授は、人当たりの良さそうにくすりと笑った。
「ただ、話題の犬井巡査による安全教室を見たいと、学生たちが押しかけておりましてね」
「……ああ、そういうことですか」
なるほど。私の知名度がこんなところにも影響しているらしい。
大学生なんて、SNSが大好きだろう。私のことを知って、講義をすると聞けば、興味本位で見に来る人もいるはずだ。
去年の交通安全教室なんて、本当に人が少なかった。小さな教室の前の方に人はおらず、後ろの方に数人。講義を聞くというより、たまたま時間が合ったから来ました、という感じの学生がほとんどだった。
だが私の可愛さにやられたのか、講義のあとにはツーショットを撮ってほしいと頼まれたりもした。人数が少なかったので、特別に了承してあげたのだ。それが今年は、押しかけてくるほどの人気らしい。
「普段は閑古鳥が鳴いている僕の授業ですがね。今期は受講希望者が二百倍になりまして」
「に、二百倍?」
「ええ。初めて定員を超えたので、受講希望者を選別することになりました」
「……そうなんですか」
私は曖昧にうなずいた。
それは、本当に私の影響なのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。教授の学説だって、ある意味では有名だ。けれど、彼の授業に興味を持つ学生が、突然そこまで増えるとは思えない。
となると、やはり私の知名度が原因なのだろう。
……何だか複雑な気分だ。
「学生課からも連絡がありましてね。大講堂に人が溢れて大変だと」
「えっ、大丈夫なんですか、それは」
「ええ。職員の方々が対応してくださっています。到着早々申し訳ありませんが、早速行きましょう」
「分かりました」
私は鞄を持ち直し、教授のあとについて研究室を出た。廊下を歩きながら、ふと彼の横顔を見る。
相変わらず、穏やかな笑顔だった。……本当に、何を考えているのだろう。
五年も付き合いがあるのに、いまだに分からない。なんとなく、彼の重大な何かを見落としているような。ずっとずっと昔に、会ったことがあるような。デジャヴって言うんだろうか。
…いや、今は交通安全教室だ。余計なことを考えるのは、あとにしよう。私は小さく息を吐き、気持ちを切り替えた。