大講堂に近づくと、ざわめきが嫌でも耳に飛び込んできた。
広い講堂の座席は、ほとんど埋まっていた。座席に座れなかった学生たちが壁際に立ち、後方には人だかりができている。例年の交通安全教室では、考えられない光景だ。
しかも、こちらに気付いた学生たちが、一斉に顔を向けてきた。
「えっ、来た!」
「ハル巡査だ!」
「うわ、ほんとに小さい……」
「あれでアラサーなんだろ?エロすぎ」
「お前やめとけって」
「かわいい……」
「写真、写真!」
あちこちから小声が聞こえる。中には、すでにスマートフォンを構えている学生もいた。どうやら、私が登場するところから撮影するつもりだったらしい。
……いや、気持ちは分かるけれど。
私は警察官として来ているのだ。アイドルの撮影会ではない。そう思いながらも、これだけ多くの人が集まってくれたこと自体は、素直に嬉しかった。
少なくとも、私の話を聞いてみようと思ってくれたのだ。きっかけが何であれ、それは悪いことではない…と最近学んだから。
教壇の横まで進むと、マウスー教授が一歩前に出た。
「ハハッ、随分とミーハーな学生さんが多いようですね」
その言い方に、講堂のあちこちから小さな笑いが起きた。
「本日は、予告していた通り、警察の方に特別講義を行っていただきます。さくら交番所属の犬井巡査です。皆さん、どうぞよろしくお願いします」
拍手が起こった。私は少し緊張しながら、一歩前に出る。
「えー、こほん。初めまして。マウスー教授に呼ばれて、交通安全教室を行います、さくら交番所属の犬井と申します。本日はよろしくお願いします」
頭を下げる。
パシャッ、パシャッ。
……うん。やっぱり撮影している人がいる。
「あー、すみません」
私はマイクを持ち直し、少しだけ声を張った。
「講義ですし、善意で提供していただいた交通事故の動画も流しますので、撮影はご遠慮くださいね」
すると、学生たちはすぐにスマートフォンを下ろし、鞄やポケットにしまい始めた。
……素直ないい人たちだ。
以前、さくら町で絡んできたチンピラたちとは大違いである。あのときは、こちらが何を言っても聞く耳を持たなかった。それに比べれば、大学生というのは、話が通じるだけでもありがたい。もちろん、全員がそうだとは限らないのだろうけれど。
「ありがとうございます。皆さん、良い学生さんですね。それでは、講義を始めます」
私は用意した資料を手に取り、最初のスライドを表示した。画面には、年末年始に交通事故が増える要因がまとめられている。
帰省や旅行による交通量の増加。慣れない道の運転。日没が早くなることによる視認性の低下。路面凍結。そして、飲酒運転。
「まず、年末年始は普段よりも交通量が増えます。普段なら空いている道路でも、帰省する人や旅行に出かける人で混雑することがあります」
私はスライドを指し示しながら説明した。
「それから、皆さんの中には、免許を取ってまだ一年も経っていない方もいると思います。運転に慣れてきた頃というのは、実は危ない時期でもあります。最初の頃は緊張して慎重に運転していたのに、少し慣れてくると、自分の運転技術を過信してしまうことがあるんです」
前列の学生が、うんうんとうなずいた。
「もちろん、慣れること自体は悪くありません。でも、慣れたからといって、危険がなくなるわけではありません。むしろ、慣れた道であっても油断しないことが大切です」
交通安全教室は、これまで何度も経験している。
最初の頃は、何を話せばいいのか分からず、用意した資料を読むだけで精一杯だった。けれど、毎年続けているうちに、少しずつ自分の言葉で説明できるようになった。
難しい専門用語を並べても、聞く人に伝わらなければ意味がない。だから、できるだけ分かりやすく。それが、私なりのやり方だった。
「では、ここで一つ質問です」
私は講堂を見渡した。
「皆さんは、横断歩道の手前で歩行者を見かけたとき、どうしますか?」
何人かの学生が手を挙げた。
「減速して、歩行者が渡ろうとしていたら停止します」
「はい、その通りです。ありがとうございます」
私は笑顔でうなずいた。
「では、歩行者がこちらに気付いていないように見えた場合はどうでしょう?」
別の学生が手を挙げる。
「……念のため、速度を落とす?」
「そうですね。歩行者がこちらに気付いていないこともありますし、急に渡り始めることもあります。横断歩道の近くでは、いつでも止まれるようにしておくことが大切です」
こうした基本的なことでも、改めて考えると、意外と答えに迷うものだ。私は続けて、夜間の歩行者事故や、自転車の安全な利用について説明した。
特に冬は、暗くなるのが早い。歩行者が黒っぽい服装をしていると、運転者から見えにくくなる。反射材を身に付けるだけでも、発見されやすさは変わる。自転車も同じだ。ライトを点灯すること、交差点で左右を確認すること、スマートフォンを操作しながら運転しないこと。
どれも当たり前のことに思えるかもしれない。けれど、事故はそうした当たり前のことを怠った瞬間に起こる。
「……そして、絶対にしてはいけないのが飲酒運転です」
スライドを切り替える。
「お酒を飲んだら運転しない。これは当然ですが、翌朝なら大丈夫だろう、と考えるのも危険です。体内にアルコールが残っていれば、運転能力は低下します。自分では酔いが醒めたつもりでも、判断力や反応速度が十分に戻っていないことがあります」
私は学生たちを見渡した。
「忘年会や新年会でお酒を飲む機会があるかもしれません。そのときは、帰りのことまで考えておいてください。運転する人は飲まない。飲んだ人には運転させない。お酒を飲んだ人の車に乗らない。ここは徹底してくださいね」
何人かの学生が、真剣な顔でうなずいた。そこで、交通事故の映像を流す。
警察の啓発活動に善意で協力してくれた人が提供してくれたもので、事故が起きる直前の状況と、その後に私の解説がまとめられている。もちろん、刺激の強い映像は避けている。それでも、画面の中で車が急停止する様子や、飛び出した歩行者が轢かれる場面には、学生たちも息をのんでいた。
「……事故は、一瞬で起きます」
映像が終わったあと、私は静かに話した。
「でも、その直前には、危険を避けるための選択肢があったかもしれません。速度を落とす。前をよく見る。スマートフォンから目を離す。疲れているなら運転を控える。そういう小さな判断の積み重ねが、事故を防ぐことにつながります。それに、事故を起こした人は、免許を取れない資格だってある。自分や他人の未来のためにも、絶対に事故を起こさないよう気をつけましょう」
講堂は静かだった。
先ほどまで聞こえていた、私の見た目についての小声も、今はほとんど聞こえない。
みんな、ちゃんと話を聞いてくれている。それが、何より嬉しかった。
私はそのまま、冬道の運転や自転車の安全利用について話を続けた。学生から出た質問にも答え、最後には、事故に遭ったときの対応や、警察への通報についても簡単に説明した。
気が付けば、一時間ほどが経っていた。時計を見る。
そろそろ、講義も終わりの時間だ。
「それでは最後になります」
私は資料を机に置いた。
「皆さんも、帰省する際には運転に気をつけてくださいね。慣れない道を走る方もいると思いますし、雪や凍結で危険な場所もあるかもしれません。時間に余裕を持って、無理をしないこと。それから、飲酒運転は絶対にしないこと」
私は少しだけ笑った。
「私とのおやくそくですよ」
講堂のあちこちから、くすくすと笑い声が聞こえた。……あれ。今の、そんなにおかしかっただろうか。
まあ、いいか。
「さて、講義を終わりますが、何か質問はありますか?」
私は学生たちを見渡した。
終始、彼らの視線はどこか微笑ましいものを見るような、柔らかいものだった。まるで、小さな子どもが一生懸命に話しているのを見守るような。
……いや、私は二十八歳なのだけれど。君たちより随分と年上なんですよ。まぁ、その辺りはもう諦めている。
ともあれ、大勢の前で講義をするのは久しぶりだった。しかも、これだけの人数が集まっている。そのみんなが、ちゃんと話を聞いてくれていた。その事実がやっぱり嬉しかった。
だから、質問があれば、できるだけ丁寧に答えようと思っていた。すると、一人の学生が勢いよく手を挙げた。
「はい、そこの方。どうぞ」
「すみません!」
学生は、少し緊張した様子で立ち上がった。
「去年この講義を受けた先輩から聞いたんですが、犬井巡査とツーショットを撮れるって本当ですか?今年もありますか?」
「…………」
私は、ゆっくりとマイクを下ろした。
「……講義についての質問じゃないんですか」
講堂に笑い声が広がった。いや、まあ、仕方ない。私の講義について質問が出ることなんてめったにない。去年だって、交通安全について質問されたのは1人だけだった。
去年は参加者が少なかったから、講義のあとに頼まれた写真撮影を特別に許可しただけだ。今年も同じようにするとは、誰にも約束していない。
そもそも、この人数で撮影会なんて始めたら、いつまでかかるか分からない。
私は困って、教壇の横に立つマウスー教授を見た。彼は相変わらず、にこにこと笑っていた。
「ハハッ。犬井巡査も困っているようですし、今回はなしということでいかがでしょうか」
「えーっ!」
「そんなぁ!」
「教授、そこを何とか!」
学生たちから不満の声が上がる。
……いや、そんなに楽しみにしていたの?
正直、驚いた。私と写真を撮りたいという人がいるのは、これまでの広報活動でも経験している。けれど、大学の講堂を埋め尽くすほどの学生が、同じことを考えているとは思わなかった。
私は少しだけ、申し訳ない気持ちになった。せっかく来てくれたのだ。中には、去年の先輩から話を聞いて、今日を楽しみにしていた人もいるかもしれない。
……うーん。
「教授」
「はい、何でしょう?」
「ちょっとだけなら、ダメですか?」
教授が、こちらを向いた。
「ほう?」
「ツーショットではなくて、私を撮るぐらいなら……。それなら、皆さん平等ですし」
最初に写真を撮っていた人もいたが、中には勝手に撮るのはと、理性を持って撮らなかった人もいるはずだ。そんな人にとっては不平等だろう。
教授はしばらく私を見つめ、それから、いつもの自然な笑顔でうなずいた。
「犬井巡査がよろしいのであれば、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
私は学生たちの方へ向き直った。
「ただし、条件があります。撮影した写真や動画を、SNSなどに投稿するのはやめてくださいね。今回は、あくまで記念として撮るだけです」
「分かりました!」
「ありがとうございます!」
元気な返事が返ってきた。……本当に分かっているのだろうか。
最近は、SNSで何が起こるのか分からない。私だって、つい先日、閲覧専用のアカウントで騒ぎになったばかりだ。とはいえ、せっかくの厚意を無下にするのも気が引ける。
「それでは、短い時間だけですよ」
そう言うと、学生たちが一斉にスマートフォンを取り出した。
パシャッ、パシャッ、パシャッ。
……うん。すごい音だ。私は教壇の前に立ち、なるべく自然な笑顔を作った。
右から、左から、前から。シャッター音が鳴り続ける。
「ハル巡査、こっちお願いします!」
「ありがとうございます!」
「すみません、もう一枚だけ!」
「……一枚だけですよ?」
私は苦笑しながら応じた。講義の最初から撮影していた人も、きっといたのだろう。けれど、あのとき撮らずに、ちゃんと話を聞いてくれていた学生たちもいる。そんな人へのご褒美と考えれば、今回くらいはいいのかもしれない。
結局、私は一分ほど、シャッター音を浴び続けることになった。
……うん。来年は、もう少し人数を制限してもらおう。
そんなことを考えながら、私はようやく教壇を降りたのだった。