安全教室と撮影会が終わり、学生たちに惜しまれながら、私はようやく講堂を後にした。
「ハル巡査、ありがとうございました!」
「気をつけて運転します!」
「お仕事頑張ってくださいねー!」
背後から、そんな声が飛んでくる。
ありがたいことではある。ありがたいことではあるのだが、あれだけ大勢の学生に見送られるというのは、なかなか落ち着かないものだ。
普段、交番で仕事をしているときは、せいぜい顔なじみの町民の方々に挨拶されるくらいである。それが今日は、大学の講堂を埋め尽くす学生たちに囲まれ、写真を撮られ、手を振られた。
……うん。やっぱり、来年はもう少し人数を制限してもらおう。そんなことを考えながら廊下を歩いていると、隣を歩いていたマウスー教授が、ふとこちらに顔を向けた。
「犬井巡査、このあと少しお時間はありますか?」
「え?ああ、はい。少しくらいでしたら」
「それはよかった。実は、少しお話ししたいことがありましてね。僕の研究室に寄っていきませんか?」
「研究室、ですか?」
「ええ。せっかくこうしてお会いできたのですから、もう少しお話ししたいと思いまして」
教授は、いつものようににこにこと笑っている。
……うーん。正直なところ、あまり長居はしたくなかった。
今日は大学での交通安全教室だけではなく、交番に戻ってからも公務が残っている。さくら町まで帰る時間も考えれば、のんびりしている余裕はない。
それにこのマウスー教授という人は、どうにも掴みどころがない。人当たりはいい。話し方も丁寧だし、こちらの都合を無視して無理を言ってくるような人にも見えない。けれど、時折、その笑顔の奥に何か別のものがあるような気がするのだ。
……まあ、私が人の顔色を気にしすぎるだけなのかもしれないけれど。
とはいえ、先ほどまで一時間ぐらい講義をして、撮影会もしたせいで、少し疲れているのも事実だった。学生たちの前では平気な顔をしていたが、大勢の人間に見られながら話すというのは、それなりに神経を使う。少しくらい座って休むのも悪くないだろう。
「では、お言葉に甘えて。少しだけ、お邪魔します」
「ハハッ。ええ、どうぞ」
教授は満足そうにうなずくと、私を先導するように廊下を歩き始めた。
「そちらにお掛けください」
「ありがとうございます」
勧められたのは、研究室の隅に置かれた小さな椅子だった。
私はちょこんと腰掛ける。体が小さいせいで、こういう椅子に座ると妙にしっくりくる。……いや、別に嬉しくはないけれど。
教授は自分のデスクの横にある棚を開け、何やら小さな容器を取り出した。手のひらに収まるくらいの、カプセルのような形をした容器だ。それを機械の所定の位置にセットすると、ボタンを押す。ウィーン、と小さな作動音がして、数秒後には、コーヒーが一杯できあがっていた。
「お待たせしました。どうぞ」
「……おお」
思わず、そんな声が出てしまった。最近は、こんなに簡単にコーヒーを淹れられる機械があるのか。
さくら交番では、誰かがコーヒーを飲みたいと言い出すと、だいたい豆を挽くところから始まる。軽井沢巡査などは面倒くさがってインスタントで済ませることもあるが、基本的には、誰かしらが手間をかけて淹れているのだ。それはそれで悪くないのだけれど、こういう手軽な方法も便利そうだ。
……今度、交番に導入できないか相談してみようかな。
そんなことを考えていると、鼻先をくすぐるような香りがした。コーヒーの香ばしい匂いとは、また違う。
甘く、柔らかく、それでいて、どこか胸の奥を落ち着かせるような匂いだった。
私は思わず、くん、と鼻を動かした。獣人になってから、嗅覚にはずいぶんと敏感になった。人間だった頃なら気にも留めなかったような匂いでも、今では自然と意識に入ってくる。
この匂いは、何だろう。部屋を見回すと、先ほど来たときにも気づいた、隅っこの小さな機械に目がとまる。薄く白い霧のようなものが、その上部から静かに立ち上っている。
ああ、あれか。ディフューザーというやつだろうか。もしくはアロマポッドか。オイルか何かを使って、部屋に香りを広げる機械だ。
なるほど。研究室にしては、ずいぶんと洒落たものを置いている。それに、この香りは嫌いではなかった。むしろ、ずっと嗅いでいたくなるような心地よさがある。張り詰めていた肩の力が、少しずつ抜けていくような感覚。先ほどまで大勢の学生を相手にしていた疲れが、ゆっくりと溶けていく。
……これは、リラックスできるなぁ。私がそんなことを考えている間に、教授はもう一杯コーヒーを用意し、私の前のテーブルに置いた。
「お待たせしました。あいにく、この研究室には私しかいなくて。お手伝いしてくれる秘書もいないんですよ」
「いえ、そんな。ありがとうございます」
私はコーヒーを受け取りながら、改めて室内を見回した。確かに、デスクは教授のものと思われる一つだけ。ほかに誰かが使っているような机もなければ、来客用のスペースも最低限しかない。
大学の研究室というのは、教授のほかに秘書さんがいて、書類整理やら何やらを手伝ってくれているものだと思っていた。
もちろん、すべての研究室がそういうわけではないのだろう。けれど、これだけ大きな大学で、それなりの地位にいるらしい教授なのに、秘書の一人もいないというのは、少し意外だった。
……何か、誰にも聞かせられないようなことでもやっているのだろうか。
いやいやいや。さすがに考えすぎだ。ただの大学教授に対して、いくら何でも失礼すぎる。
そもそも、私はこの人の研究について、詳しいことを何も知らないのだ。知らないことだらけなのに、勝手な想像だけで疑うのはよくない。
……でも、なんとなく。なんとなく、この人には、そういうことをしていても不思議ではない雰囲気がある。自分でも理由を説明できないのだが、どうにも胸の奥が落ち着かなかった。
私は考えるのをやめ、コーヒーに口をつけた。おいしい。
苦味は控えめでわざとらしい甘み、香りがよく、飲みやすい。普段交番で飲んでいるものとは違うが、これはこれで好きな味だった。
「いかがですか?」
「おいしいです。ありがとうございます」
「それはよかった」
教授は嬉しそうに笑った。相変わらず、油断出来ない笑みだが。
「ゆっくりしていってください。最近の犬井巡査について、少し知りたくてですね」
「……私、ですか?」
思わず、聞き返してしまった。どうして私なのだろう。
私はカップを両手で持ちながら、教授の表情をうかがった。
やはり、笑顔だった。ただ、その笑顔からは、何を考えているのかがよく分からない。
「警察功績賞を受賞されてから、急激にお仕事が増えたでしょう?」
「ま、まあ……そうですね。以前より、広報活動に呼ばれることは増えました」
「テレビにも出演されていましたね。街の方々からも、ずいぶんと人気があるとか」
「ええと……ありがたいことではあります」
どう答えたものか分からず、私は曖昧に笑った。
人気があると言われても、自分ではあまり実感がない。交番の外で声を掛けられることは増えたし、写真を撮ってほしいと言われることもある。けれど、私自身は相変わらず、さくら交番でいつもの仕事をしているだけだ。
「煩わしくはありませんか?」
「え?」
「本来の仕事に加えて、広報活動まで求められる。周囲はあなたの功績を称賛し、愛らしい姿を取り上げる。けれど、その一方で、あなた自身の負担は増えているのでしょう?」
「ああ……まあ、大変ではありますね」
それは、確かにそうだった。
もちろん、広報活動そのものが嫌なわけではない。今日の講義だって、学生たちが真剣に話を聞いてくれたのは嬉しかったし、交通安全について知ってもらう機会が増えるのは良いことだと思う。
ただ、仕事が増えた分だけ、休む時間が減るのも事実である。それに、私の場合、どうしても見た目の話題が先行しやすい。警察官として何をしたのかより、どんな顔をしているのか。何を話したのかより、どんな仕草をしたのか。そういう部分ばかりが注目されることには、少しだけ複雑な気持ちもあった。
教授は、私の返答を聞いて、ゆっくりとうなずいた。
「それにしても、急に獣人の警官を起用するようになりましたねぇ」
「……え?」
「まるで、自分たちには獣人差別などありません、と世間に向けて主張しているかのようだ。まったく、偽善的な話だと思いませんか?」
……あれ?
急に、話の方向が変わった。私はカップを持ったまま、教授の顔を見つめた。
先ほどまで、私の仕事について話していたはずだ。それが、いつの間にか警察組織全体への批判になっている。しかも、ずいぶんと辛辣な言い方だった。
「ええと……」
何と答えればいいのだろう。警察が獣人を広報活動に起用していることについて、私自身はそこまで深く考えたことがなかった。
少なくとも、私が知っている限り、上司たちは私を普通の警察官として扱ってくれている。もちろん、細かい配慮が必要なこともあるし、すべての人間が獣人に理解を示しているわけではない。
それでも、だからといって、警察全体が偽善的だと言い切れるものなのだろうか。私には、よく分からなかった。
「犬井巡査も、私の獣人進化論についてはご存じでしょう?」
「はい。存じています。……あまり詳しくはないですが」
「それは結構」
教授は、少しも気を悪くした様子を見せなかった。
「では、簡単に説明しましょう」
彼は自分のカップを手に取り、ひと口飲んでから話し始めた。
「獣人進化論とは、簡単に言えば、獣人は純人間よりも優れた能力を持つ、新たな進化の可能性を示す存在である、という考え方です」
私は黙って聞いていた。改めて聞いても、とんでもない学説である。
「獣人は、身体能力や感覚器官において、純人間を大きく上回ることがあります。犬井巡査も、日々の仕事の中で実感されているでしょう?」
「……それは、まあ」
実際、嗅覚や聴覚は人間だった頃とは比べものにならない。前世より体が小さくなってしまったことは不便だが、獣人として得た能力が役に立つ場面は少なくなかった。私が事故現場で異変に気付いたり、逃走した犯人を追跡したりできたのも、そうした能力のおかげという部分がある。
「しかし、私が主張しているのは、単純な身体能力の優劣だけではありません」
教授は、ゆっくりと言葉を続けた。
「頭脳についても同じことが言える。特定の分野において、純人間には到達できなかった領域へ、獣人が到達する。そうした事例が、すでにいくつも現れているのです」
「そうなんですか?」
「ええ。例えば、十数年前にフクロウ獣人のハカセ博士が開発した、獣人用の発情抑制薬。犬井巡査も、ご存じでしょう?」
「ああ……はい」
その薬の名前くらいなら、私も知っている。獣人の生理的な問題に対処するために開発された薬で、現在では多くの獣人の生活を支えているものだ。
ただ、開発者がフクロウ獣人だったということは、知らなかった。
「……あれって、獣人が作ったものだったんですか」
「ええ。純人間の研究者たちが、長年にわたって研究しても実現できなかったものです。もちろん、獣人の身体に関する研究が純人間にもできないというわけではありません。しかし、彼らが長い時間と凄惨な犠牲を費やしても解決できなかった問題を、ハカセ博士はいとも簡単に解決してみせた」
教授は、まるで誇らしい功績を語るかのように、穏やかな声で続けた。
「そして彼は、現在も新たな薬の研究を進めています。すでに各所へ提供されているものもある。獣人の能力を適切に活用すれば、医療も、科学も、社会全体も、今よりずっと豊かになるでしょう」
「へぇー……そうなんですね」
私は素直に感心した。発情抑制薬を開発できるほどの人なら、きっとすごい研究者なのだろう。
今はさらに研究を進めて、新しい薬まで作っているという。医療の進歩というのは、本当にすごいものだ。……日本の未来は明るいなぁ。
そんなことを考えていると、教授は満足そうに目を細めた。
「ほかにも、各分野に特筆すべき才能を持った獣人が現れています。研究者、技術者、芸術家。彼らは、純人間にはない能力を発揮し、新しい可能性を切り開いている」
そこで、教授は一度言葉を切った。そして、私の目をまっすぐに見つめる。
「どうです、犬井巡査。我々獣人で、純人間を導いてあげませんか?」
「……え?」
思わず、間の抜けた声が出てしまった。
導く?誰を?人間を?
頭の中で、言葉を整理しようとする。教授は、至って真面目な顔をしていた。冗談を言っている様子はない。
「獣人が持つ優れた能力を、正しく社会のために使うのです。私たちが先頭に立ち、純人間たちをより良い方向へ導く。それこそが、これからの社会に必要なことだとは思いませんか?」
「す、すみません。私は……」
私は、困ってしまった。
言いたいことは分かる。獣人の能力が社会の役に立つのなら、それを活用すればいい。私だって、警察官として、自分にできることをしていきたいと思っている。けれど、それと人間を導くという話は、少し違うのではないだろうか。
「私は、誰かを導けるような人間ではないと思います。それに……そういうことをしたいとも、思いません」
できるだけ失礼のないように、言葉を選んで答えた。教授は、私の返答を聞いても怒らなかった。
「そうですか」
ただ、静かにうなずいただけだった。その穏やかさが、かえって不思議だった。
「では、少し質問を変えましょう」
教授は椅子に座り直した。
「犬井巡査から見て、純人間というのは、どういう存在ですか?」
「……どういう、ですか?」
「ええ。時には愚かだと思うこともあるでしょう。自分よりもか弱い存在だと感じることもあるでしょう。あるいは、純人間から危害を加えられたこともあるのではありませんか?」
畳み掛けるように、質問が続く。私は答えようとして、口を開きかけた。
けれど、言葉が出てこなかった。
その声は、不思議なほど心地よかった。決して大きな声ではない。むしろ、こちらの反応を確かめるように、ゆっくりと語りかけてくる。それなのに、一つひとつの言葉が、頭の中にすっと入ってくるのだ。
……へんなの。
私はかップを見おろした。
コーひーは、まだ半分ほどのこっている。
さっきほどまでおいしいと思っていたはずなのに、いつの間にか、味をたしかめることさえわすれていた。はなをくすぐる甘いにおいが、さっきよりもつよくなった気がする。
…いや、きのせいだろうか。ふわふわする。
わたしは、いつのまにかかおをじっとみつめていた。
「怖かったでしょう?」
「……え?」
「純人間から、酷い扱いを受けたことがあるのでしょう?」
そのとき、いやなきおくがあたまにうかんだ。
けんきゅうじょ、しろいかべ、つめたいゆか。みおろす、しらないひとたち。
そして、アキあねき。
あのときのことをおもいだすと、いまでもくるしくなる。
わたしたちは、なにをされたのだったか。
……いやだな。あまり、おもいだしたくない。
けれどこえは、きもちをおしながすように、あまくひびいた。
「あなたは、十分に苦しんできた。獣人だからという理由で、理不尽な扱いを受けたこともあるでしょう。何も悪いことをしていないのに、傷つけられたこともあるでしょう」
そうだ。
そうだった。
わたしたちは、なにもわるいことをしていなかった。
それなのに、こわかった。いやだった。
どうして、あんなことをされなければならなかったのだろう。
このまえだってからんできたひとたちがいた。
こちらがけいかんだとわかっていても、どなり、やくざが、とかいってきた。じゅうじんだから。
こわかった。
ちからがつよくても、いたいものはいたい。こわいものはこわい。
そんなあたりまえのことを、だれにもわかってもらえないきがしていた。
ふと、頭をなでられる。その瞬かん、誰かのかげがのう裏にうかんだ。
…最きん、だれかにしん配してもらったかも。私がけがしたら、悲しいって。わたしの手をとって。たしか、しョっぴンぐモーるのじ件のあとに。
ゆっくりとかおを上げると。やさしいかおでこちらを見つめている。
まるで、わたし気持ちをすべて分かってくれているかのようだった。
「酷い話でしょう?」
「……はい」
気がつけば、私はうなずいていた。こころのなかで、かれの存ざいが大きくなる。
……ああ、思いだした。しんぱいしてくれてたのは、彼だったかも。