「あなたほどの能力を持つ獣人が、なぜ、純人間たちに気を遣わなければならないのですか?」
「……」
「彼らは、あなたの力を利用するだけ利用して、その一方で、獣人を対等な存在として扱おうとしない。世間では差別がなくなったように装いながら、都合のいいときだけ、あなたを珍しい存在として持ち上げる」
こえが、すこしだけひくくなる。どうしたんだろう、わたしおこらせちゃったのかな。
「そんな社会に、これ以上、従う必要があるのでしょうか?」
……そう、なのかな。むずかしい、もっとあたまをうごかさないと。ねむたいけど、ちょっと、頑張ろう。
あたまの中で、何かがゆっくりとかたむいていく。
これまで、私はふかく考えたことがなかった。警察かんになったのだから、仕事をする。困っている人がいたら助ける。犯罪を見つけたら対処する。それが当たり前だと思っていた。
けれど、もしも。もしも、自分がずっと、都合よく利用されていただけだったとしたら?
私は、何のために頑張っているのだろう。怖い思いをして、嫌なことをされて、それでも笑顔で人を助けなければならないのだろうか。
……疲れたな。
少しだけ、そう思ってしまった。
誰かを助けることが嫌なわけではない。けれど、誰かに傷つけられたときまで、何も感じてはいけないのだろうか。
怖かったと言ってはいけないのだろうか。嫌だったと、怒ってはいけないのだろうか。そんな疑問が、頭の中をゆっくりと巡る。
教授は、私の様子を見ながら、さらに言葉を重ねた。
「今こそ、立ち上がるときです」
その声は、まるで耳元で囁かれているようだった。甘く、優しく、私の心に溶けていく。
「獣人が、自らの力を認めさせるときです。あなたのような方が声を上げれば、社会は変わる。もう、理不尽に耐える必要などないのです」
そして、彼は静かに言った。
「復讐のときですよ」
……復讐。その言葉が、頭の中に残った。
復讐。
そうだ。私たちに酷いことをした研究所の人たちは、何もなかったかのように暮らしているのかもしれない。
私も、アキ姉貴も、あんなに怖い思いをしたのに。それで、本当にいいのだろうか。
……でも。何か、決定的に大事なことを忘れているような気がする。
胸の奥に、小さな引っ掛かりがあった。けれど、それが何なのか、うまく考えられない。
甘い香りが、ゆっくりと鼻の奥に広がっていく。心地いい。考えるのが面倒になってくる。このまま、何も考えずに、教授の話を聞いていればいいような気がした。
「幸いにも、犬井巡査は警察組織の中で大きな影響力を持つようになりました」
「……えい響力?」
「ええ。あなたの言葉には、人を動かす力がある。あなたが声を上げれば、きっと多くの獣人が賛同するでしょう」
私は、ぼんやりと彼の話を聞いていた。
「まずは、あなたのお姉さんに会いたい」
「……あねき?」
「アキ警部です」
アキ姉貴。
そうだ。姉貴も、獣人だ。私と一緒に、怖い思いをした。あのとき、姉貴は私を守ってくれた。私も、姉貴も、同じように傷ついたはずだ。
だったら、姉貴だって、きっと同じことを考えている。
純人間なんて、信用できない。獣人が立ち上がらなければならない。
……そうなのかな。
頭の中に浮かんだ考えが、まるで自分自身の意見であるかのように、自然に馴染んでいく。不思議だった。ついさっきまで、そんなことを考えたこともなかったのに。
「犬井巡査。あなたのお姉さんを、私のところへ連れてきてください」
教授は、穏やかな声でそう言った。
「アキ警部も、あなたと同じ経験をしている。私は全て知っています。きっと、私たちの考えを理解してくれるでしょう」
……姉貴。
姉貴も、そう思っているのかな。姉貴はいつも、私のことを心配してくれる。私が嫌な思いをしないように、いろいろと気を回してくれる。私を守ってくれる。
だから、きっと。
姉貴も、私と同じ気持ちのはずだ。
……でも。
そのとき、胸の奥にあった小さな引っ掛かりが、ほんの少しだけ大きくなった。何か、絶対に違う。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「……でも」
「はい?」
「わたしと、アキあねきは……」
声が、うまく出ない。頭がぼんやりする。何を言おうとしていたのか、分からなくなりそうだった。
けれど、言わなければならない気がした。これは、私がちゃんと考えて、答えなければならないことだ。
「……けいさつ、だから」
教授の笑顔が、ほんのわずかに止まった。
「どんなに…」
私は、必死に言葉を探す。頭の中が、ふわふわする。それでも、口にしなければならない。
「いじめられても……こわくても……」
そうだ。私たちは、警察官なのだ。
警察官になったのは、誰かを憎むためではない。誰かに復讐するためでもない。
たとえ相手が嫌いでも。たとえ相手に酷いことをされたとしても。目の前に、助けを必要としている人がいたら。
「……まもらなきゃ」
私は、そう言った。
「……どんな人でも、わたしたちはまもるから」
最後の言葉は、自分でも驚くほど小さな声だった。けれど、確かに言えた。
教授は、しばらく黙っていた。先ほどまで浮かべていた笑顔は、まだその顔に残っている。ただ、その目だけが、少しも笑っていなかった。
「……ハハッ、そうですか。残念です」
やがて、教授は小さく息を吐いた。
声色は変わらない。穏やかで、優しく、まるでこちらを気遣うような口調だった。
「あなたなら、理解してくれると思っていたのですが」
「……すみ、ません。きょうじゅ」
なぜ謝っているのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、教授を失望させてしまったことが、ひどく申し訳ないような気がした。
せっかく、私の話を聞いてくれたのに。せっかく、私の気持ちを理解してくれたのに。
……あれ?
どうして、私はこんなことを考えているのだろう。この人は、何をしようとしているのだろう。考えようとした瞬間、また、甘い香りが鼻先をくすぐった。
教授が、すみっこに置かれたディフューザーへ手を伸ばしていた。
「では、少々後遺症が残るかもしれませんが…」
カチッ。
小さなボタンを押す音がした。機械の作動音が、かすかに響く。霧のようなものが、先ほどよりも多く噴き出したように見えた。
ふわり、と。甘い香りが、一段と強くなる。
……あ、いい匂い。そう思った。思った、はずだった。
次の瞬間。
頭の中に、何かが流れ込んでくるような感覚がした。何も考えなくていい。難しいことは、全部、誰かに任せてしまえばいい。
この人の言うことをきいていればいい。そうすれば、きっと楽になれる。
そんなかんがえが、まるでじぶんのものだったかのように、うかんでくる。
……あれ?
なにをかんがえていたんだっけ。
あねきを、つれてくる?
そうだ。
それが、いいのかもしれない。あねきも、きっとわかってくれる。だって、わたしたちは――。
『あ、あー。ハル先輩、聞こえますゥ?』
「……?」
とつ然、耳もとで声がした。少しノイズが混じった、聞き慣れた声。
『ハル先輩ィ?おーい、聞こえてますかァ?』
……だれ?
私は、ぼんやりと顔を上げた。目の前には、マウスー教授がいる。彼は驚いたような顔でこちらを見ている、こんな表情は初めて見た。
そうだ、私は研究室にいた。でも、何をしていたんだっけ。
頭の中が、ひどく曖昧だった。まるで、気持ちよくお昼寝をしていたところを、無理やり起こされたような感覚。
少しだけ頭が重い。もしかして眠っちゃったのだろうか。
私は反射的に制服に取り付けていた無線デバイスを手に取った。
「す、すみません。こちらいぬい。軽井沢巡査、どうされました?」
『いやァー、随分と帰りが遅いなって思いましてねェ。呂律まわってないじゃないっすかァ。お昼寝もほどほどにしておいてくださいよォ』
「……え?」
帰りが遅い?
私は、思わず壁の時計を見た。針が示していた時刻を確認して、目を見開く。
……えっ。
講義が終わってから、もう二時間以上が経過していた。そんなに時間が経っていたのか。
確かに、教授に研究室へ招かれた。コーヒーをいただいて、少しお話をしていた。
そこまでは覚えている。でも、そのあと、何を話したのだったか。
何か、難しい話をしていたような気もする。途中から、頭がぼんやりして……。
教授の話が難しすぎて、つい眠くなってしまったのかもしれない。いや、でも、さすがに二時間も寝ていたなんてことはないだろう。ない、と思いたい。
『ハル先輩ィ?聞こえてますゥ?』
「あっ、はい!すみません、聞こえています!」
『ならいいんですけどねェ。こっちは、先輩がいつまで経っても戻ってこないから、何かあったのかと思ったんですよォ』
「す、すみません。すぐ戻ります。軽井沢巡査、連絡ありがとうございます」
『いいってことっすよォ。じゃ、俺はパチンコ行ってきますねェ』
「……は?」
思わず、間の抜けた声が出た。今、何と言った?パチンコ?勤務中では?
『じゃ、失礼しまァーす』
プツッ。
それっきり、無線からは何も聞こえなくなった。
「…………」
私は、無線デバイスを見つめた。なんだ、あの猫。
いや、まあ、連絡をくれたこと自体はありがたいのだけれど。最後の一言は、どう考えてもおかしいだろう。帰ったら、ちゃんと注意しておこう。
……いや、待て。そもそも、私がこんなに長居してしまったのが悪いのだ。
交番に戻ったら、まだ仕事が残っている。早く帰らなければ。
「……すみません、マウスー教授」
私は慌てて立ち上がった。
「思ったより長居してしまいました。仕事がありますので、そろそろ失礼します」
「ハハッ。ええ、構いませんよ」
教授は、相変わらず穏やかに笑っていた。先ほどまでと、何も変わらない。怒っている様子もなければ、私が長居したことを気にしている様子もない。
私は、少しだけ安心した。眠ってしまったのだから、怒られるとばかり。流石に申し訳ないから、今度会うときに菓子折りでも持って行こう。彼はレモンパイが好きだと言っていたはずだ。
…なるべく、会いたくはないけど。
「今日はありがとうございました。コーヒーも、とてもおいしかったです」
「それは良かった。また、交通安全教室をお願いすることもあるでしょう。その際は、よろしくお願いしますね」
「はい。教授も、何かありましたら、遠慮無く警察を頼ってくださいね」
私は頭を下げた。
そのとき、ふと、教授がデスクの近くに置かれたディフューザーをいじっているのが目に入った。何か、設定でも変えているのだろうか。機械のボタンを押したり、表示を確認したりしている。
……アロマって、いろいろと難しいんだな。私にはよく分からん。
そんなことを考えながら、私は研究室の扉へ向かった。
「では、失礼します」
「ええ。またお会いしましょう、犬井巡査」
最後まで、教授は笑顔だった。
廊下に出て、研究室の扉が閉まる。私は、ふう、と息を吐いた。
……疲れた。
いや、講義をしたのだから疲れるのは当然なのだけれど、それにしても、妙な疲れ方だった。体が重いわけではない。頭痛がするわけでもない。ただ、何となく、頭の中に薄い霧がかかったような感覚が残っていた。私は、軽く頭を振った。
……まあ、いいか。
きっと、疲れているのだろう。昨日はちゃんと寝たはずなのだけれど、最近は広報活動も増えているし、普段とは違う場所で大勢の人を相手にしたのだから、いつも以上に疲れたのかもしれない。
それに、教授の話は難しかった。ほぼ覚えていないが、普段の仕事ではあまり考えないような話ばかりだった。途中から、つい眠くなってしまったのだろう。
……うん。きっと、そうだ。
私は自分に言い聞かせるようにうなずき、廊下を歩き始めた。
早く交番に戻らなければ。まだ仕事が残っているし、軽井沢巡査にも一言言ってやらなければならない。まったく、あの猫は。
そんな、いつも通りのことを考えながら、私は大学の出口へ向かった。背後の研究室では、今も心地よい甘い香りが漂っているのだろう。けれど、そのことを気に留めることもなく。
私は、いつものさくら交番へ帰っていった。
軽井沢潤の好感度50未満で…