軽井沢潤は、昔から要領のいい
小学校に入学した頃には算数が得意で、授業で習う内容など退屈だと、教科書の先を勝手に読み進めて教師を困らせたこともある。算数オリンピックで賞を取り、英検にも合格。運動会ではリレーの選手に選ばれ、短距離走では学年の誰にも負けなかった。
両親は喜んだ。親戚は褒めた。学校の先生は将来を期待した。
少なくとも、あの日までは。
その日、彼はいつも通りの道を歩いていた。学校からの帰り道。いつもの交差点。見慣れた住宅街。
後ろから声をかけられ、振り返った。そこから先の記憶は、ひどく曖昧だった。知らない男が口元に布を覆う。鼻をつく薬品の臭いに、身体を動かし抵抗しようとした。けれど、全身に力が入らなかった。
次に目を覚ましたとき、彼は見知らぬ施設の一室にいた。白い天井、白い壁、よく分からない薬品の匂い。手首を固定するベルトに、身体のあちこちに貼りつけられた器具。そして、やけに頭の中に響く知らない大人たちの声。
「……覚醒を確認。バイタルは正常」
「投薬後の変化は?」
「予想以上だ。身体能力の数値が――」
「この力があれば、獣人の力を兵器に!」
知らない言葉が飛び交う。自分が何をされたのか。どうしてここにいるのか。家族はどこにいるのか。混乱しながらも周囲を観察すると、研究者らしい男たちは興奮した様子で隣の部屋から出ていった。
少年は手首をひねり、力を込めた。金具がきしみ、拘束具はするりと外れた。自分の身体が液体になったかと錯覚するほど簡単だった。
そしてベッドから身を起こしたとき、頭に妙な違和感を覚えた。
ぴくり。
「……え?」
頭の上に手を伸ばす。そこには、ふわりとした毛と柔らかな耳。触れると、耳がびくりと跳ねた。
腰にも違和感がある。振り返ると、何かが視界の端を横切った。ゆらりと動く、黒い猫の尻尾。
部屋の隅の鏡に映った顔は、見慣れた自分のままだった。けれど、その頭には黒髪の中に猫の耳が生え、腰からは長い尻尾が伸びていた。
理解できなかった。理解したくもなかった。これは悪い夢だ。それでも、泣くより先に逃げなければと思った。
白衣の男が部屋に入ってきた瞬間を狙い、少年は動いた。相手の腕をすり抜け、足をかけて転ばせる。自分でも驚くほど身体が軽い。視界は広く、音は鮮明で、相手の動きが手に取るように分かった。
警報が鳴る廊下を駆け抜け、追いすがる足音や怒鳴り声を振り切る。風が吹いてくる方へ、階段を下り、行く手を塞ぐ扉に向かった。何をすればいいのか、本能が教えてくれた。爪が伸び、鍵のかかった扉を鋭い爪で切り裂く。
外の空気が肺に入った。
少年は走った。走って、走って、走り続けた。ただ、あの部屋に戻されるわけにはいかなかった。帰巣本能というのだろうか。やがて彼は、家にたどり着いた。
声を聞き玄関を開けた母親は、最初こそ息子の無事を喜んだ。けれど、すぐに表情が変わった。
「……あなた、誰?」
「……母さん?」
「来ないで!」
父親も妹も、彼を見て怯えた。
何度も説明した。自分は息子だと、何者かに連れ去られ、変な薬を打たれたのだと。だが、家族の目に映っていたのは、見知らぬ獣人だった。
「そんなはずないでしょう……!」
「息子をどこへやった!」
「俺だよ!俺なんだって!顔も一緒でしょ!」
叫んでも、泣いても、信じてもらえなかった。
やがて警察が来た。事情を説明しても、家族は少年を家に入れたくないと訴えた。身元を証明するものは家に残り、身体は別人のように変わっている。本人だと証明することは、少年が考えていた以上に難しかった。
結局、彼は家を出た。獣人差別が激しかった時代で、警察も保護すらしてくれなかった。そこから待っていたのは、日の当たらない路地裏の世界。
家族を恨んだ。自分をこんな姿にした連中を恨んだ。そして何より、自分を守れなかった世界を恨んだ。
頭が良く、身体が強ければ、何でもできると思っていた。けれど、どれだけ頭が良くても、どれだけ速く走れても、どうにもならないことがあるらしい。それなら、自分を守るために使えるものは何でも使おう。
少年はそう決めた。人を信じるのはやめた。優しくされても、裏があると思うことにした。自分の容姿を目的に言い寄る女たちは、上手く利用し尽くした。
――それから、しばらく経った頃のことだった。
大阪の街は、観光客で賑わっていた。修学旅行の高校生たちが土産物屋の前で写真を撮り、楽しそうに笑っている。
その集団から少し離れたところを、一人の少女が歩いていた。犬の耳と尻尾を持った高校二年生、十六歳の犬井ハルである。
修学旅行の自由行動中、彼女は班の仲間たちと別行動をしていた。仲が悪いわけではない。ただ、彼女がいると周囲が気を遣うのだ。獣人だから。珍しいから。何かあったら面倒だから。
そんな理由で遠巻きにされることには慣れていた。中学でも同じだったから。ならば一人で歩く方が気楽。そう思って、適当に街をぶらついていたのである。
「……姉貴へのお土産、どうしようかな」
ハルは紙袋を持ち直した。中身は、さっき買ったばかりの饅頭。これは土産というより、単純に自分が食べたかったのである。
そのときだった。
「おい、ガキ。聞いてんのか?」
犬の耳が声を拾った。少し先のパチンコ屋の駐車場から、荒っぽい声が聞こえてくる。
男が三人。その中心に、フードを被った小柄な少年が一人。大体小学4年ぐらいの身長で、腰には猫の尻尾が見えた。
何があったのかは分からない。少年が先に何かをした可能性だってある。けれど、三人がかりで一人を囲む光景を見て、ハルは考えるより先に足を動かしていた。
「すみません。何かあったんですか?」
男たちの間に、すっと割って入る。
「あ?なんだ、お前」
「いえ、何か揉めているようだったので……」
「関係ねえだろ。ガキは引っ込んでろ」
「でも、三人で囲むのは、ちょっと……」
ハルは困ったように笑った。その笑顔が、男たちには気に入らなかったらしい。
「おいおい、正義の味方気取りか?」
「ずいぶん余裕じゃねえか。お前も獣人だろ?」
「でも、こいつ顔だけは良いなぁ。ちょっと遊ぼうぜ」
男がハルの肩を小突こうとした。ハルは半歩ずれ、伸びてきた腕を受け流す。そのまま手刀を一閃。男は声を上げる間もなく、膝から崩れ落ちた。
「なっ……!」
「お、お前、何しやがった!」
「えっと……今のは、できれば見なかったことにしていただけると」
「ふざけんな!」
プライドが傷つけられたのか、一人が殴りかかってきた。拳をかわし、相手の勢いを利用して身体を押し流す。もう一人が慌てて仲間を支えたところで、彼女は静かに告げた。
「これ以上は、やめておいた方がいいですよ」
声は穏やかだった。けれど、その目は笑っていなかった。男たちは顔を見合わせ、倒れた仲間を引き起こして退散していく。
「覚えてろよ!」
「はい。できれば、もうお会いしたくないですね」
ハルはぺこりと頭を下げ、男たちが見えなくなってから息を吐いた。
「……ふぅ」
振り返ると、少年はじっとこちらを見ていた。
「さてと。大丈夫でしたか?」
「……別に。俺一人でも全員倒せたわ」
「そうですか」
「……信じてねえだろ」
「いえいえ。頼もしいですね」
「絶対信じてねえだろ!」
少年は不機嫌そうに尻尾を振った。
口では強がっているのに、尻尾は落ち着きなく動き、耳もぴんと立っている。警戒心を隠す気がまるでない。まるで、生まれたての子猫のよう。
――なんだか、かわいい。
そう思ったが、もちろん口には出さなかった。相手はどう見ても年下の少年だ。言えば、余計に怒らせるだろう。
そのとき、ぐぅ、と。
静かな駐車場に、妙に大きな音が響いた。少年の耳がぴくんと動く。ハルは少年を見た。少年もハルを見た。
「……お腹がすいているんですね」
「違う」
「今のは?」
「腹が鳴っただけだ」
「それを、お腹がすいていると言うのでは?」
「うるせえ!」
少年は顔を赤くしてそっぽを向いた。ハルは紙袋を開けた。
「それでは、このお饅頭をあげます。さっき買ったばかりなので、まだ柔らかいですよ」
「いらない、何が入っているか分からないからな」
「まあまあ、そう言わず」
「いらねえって言ってんだろ!」
「でも、お腹がすいているんでしょう?」
少年が言い返す前に、ハルは饅頭を差し出した。少年は反射的に受け取ってしまう。
「……なんだよ、これ」
「お饅頭です」
「見りゃ分かる!」
「では、どうぞ」
少年は饅頭を睨んだ。食べ物を受け取るのは危険だ。この前だって発情誘発薬を仕込んできたイカれ女がいた。親切には裏がある。家族ですら、自分を裏切ったのだ。
けれど、甘い匂いが鼻をくすぐる。
…妙な匂いはしない。空腹は限界だった。
少年は少しかじった。ふわりとした皮と、ほどよい甘さの餡。うまかった。悔しいくらいに。
「……どうですか?」
「……普通」
「そうですか。おいしくなかったですか?」
「普通だっつってんだろ」
「では、私が食べちゃいますね」
「待て!」
少年は残りを慌てて口に押し込んだ。甘さが、全身に染みこんでいく。
ハルは目を丸くし、それからくすりと笑った。
「ふふっ。そんなに急いで食べると、喉に詰まりますよ」
「……うるせえ」
少年は顔を背けた。
路地裏の世界では、さっきのようにからまれるのは日常茶飯事だ。でも、少年もその世界に完全に溶け込みきった訳では無かった。まだ12歳の少年、大柄な男に悪意を向けられるのは怖いに決まっている。
でも、この少女の前では、いつものように腹が立つだけではなかった。何かを奪われる気もしない。ゆっくりと、穏やかな時間が流れていった。
「ところで、君、絶対に未成年ですよね。なんでパチンコ屋なんてところにいるんです?」
「……お前も未成年だろ」
「私は修学旅行中の高校生ですから」
「高校生なら、こんなところで知らねえ奴に絡んでくるなよ」
「それは、そうですね」
「……否定しねえのかよ」
「だって、私も今になって、ちょっと反省しています。学校にばれたらどうしましょう」
ハルは苦笑した。もし学校にばれて、アキ姉貴に迷惑がかかったらどうしようと。
「でも、三人で囲まれているのを見たら、放っておけなくて」
「……俺が悪かったかもしれねえだろ」
「そうかもしれませんね」
「は?」
「君が先に何かしたのかもしれません。でも、それならそれで、ちゃんと話をすればいいでしょう? 大勢で囲んで殴る必要はないと思います。……暴力に頼った私が言う資格はないですけど」
少年は黙った。ハルは責めもせず、何があったのか問い詰めることもしなかった。
「……あんた、変な奴だな」
「よく言われます」
「褒めてねえよ」
「ふふ、分かっています」
少年は改めて彼女に目を向けた。全体的に髪はベージュ、自分より少しだけ身長は高い。…まぁ、俺が小さいだけだが。高校っぽい制服、おそらく修学旅行だろう。犬の獣人か。そして、あの身のこなし。
「……あんた、強いんだな」
「そうですか?」
「そうだろ。あの三人、まともに動けてなかったじゃねえか」
「うーん。強いというより、慣れているのかもしれません」
「何に?」
「……いろいろ、です」
曖昧な答えだった。
自分と同じ獣人なのに、彼女は耳も尻尾も隠そうとしない。
それに、自分を助けた。獣人だからという理由で仲間扱いしたのでも、かわいそうだからと哀れんだのでもない。ただ、三人が一人を囲んでいたから。それだけの理由だった。
「……なあ」
「はい?」
「お前、獣人なんだろ」
「はい。見ての通りです」
「……嫌じゃねえのかよ」
言ってから、少年は少し後悔した。こんな身体で喜ぶ人がいるものか。獣人というだけで、人権のないような扱いを受けることだってある。鏡を見るたびに初めてこの姿を見たときの衝撃が想起され、耳に触れるたびに家族の怯えた顔が浮かぶ。
こうなってなければ。そう思わない日はなかった。
「……嫌なことは、ありますよ」
ハルはあっさり答えた。
「珍しがられたり、気を遣われたり。普通にしているだけなのに、腫れ物みたいに扱われることもあります」
「……」
「でも、獣人であることそのものが嫌かと聞かれると、ちょっと難しいですね」
ハルは自分の耳に触れた。
「これも、私の身体ですから。皆と同じ人間の身体なら生きやすかったでしょうけど、今の自分が悪いわけじゃないでしょう?」
彼女は少年を見た。まっすぐな、芯のある目線。
「君も、きっとたくさん嫌な思いをしたんですね。そんなに若いのによく頑張りました」
少年の耳がぴたりと止まった。
自分が何をされたのか、どれほど怖かったのか。帰る場所を失うことが、どれほど苦しかったのか。
何も知らないくせに。分かったようなふりをして。
「……あんた、馬鹿だろ」
「ええっ?」
「世の中、そんな簡単じゃねえよ」
「そうですね。私も、そう思います」
「だったら……」
「でも、難しいからって、目の前で困っている人を見捨てていい理由にはならないでしょう?」
少年は言葉を失った。ハルは微笑んだ。まるで、それ以外の答えなど存在しないかのように。
薄暗い路地裏に、暖かな日だまりが生まれた。
しばらく、二人はパチンコ屋の駐車場の隅で話をした。再びお腹を鳴らした少年に、袋の中の饅頭を全て渡して。
少年が何かを尋ねればハルは答え、黙れば無理に昔話を聞き出そうとはしなかった。彼女は修学旅行で大阪に来たこと、班の仲間とは少し距離があること、獣人だからと気を遣われるのは苦手なこと。そして、将来は警察官になりたいことを話した。
「……警察?」
「はい」
「なんでまた」
「私のこの力を活かせるから、でしょうか」
「……そんな理由で?」
「そんな理由です」
少年は鼻で笑った。
「ふん、警察なんてしょうもない」
家族から勘当された後も、警察に助けを求めようと思ったことは何度もあった。けれど、自分の姿を見た人間はまず驚き、事情を説明してもまともに取り合ってもらえないことがあった。家族のもとに戻ることも、元の身体に戻ることもできなかった。
警察だって万能ではない。身元不明の子供獣人だなんてどう扱えば決まっていなかったのだろう。しかも、人間から獣人になっただなんて、ウソとしか思われない。世の中の仕組みを知るほど、期待するだけ無駄だと思うようになっていた。
だが、少年が夢を否定してもハルは怒らなかった。
「そう思うこともあるでしょうね」
「……」
「警察だって、できることとできないことがあります。警察官になったからって、何でも解決できるわけじゃないですし」
「じゃあ、何のためになるんだよ」
「それでも、できることはあると思うんです」
ハルは少しだけ空を見上げた。幼い顔立ちだが、彫刻と見間違うほどの横顔。
「全部は助けられなくても、目の前の一人くらいなら、助けられるかもしれないでしょう?」
少年は彼女を見た。
さっき、三人の男たちの前に立った少女。自分が何者なのかも知らず、それでも間に入ってきた少女。彼女は、目の前の自分を助けようとした。ただ、それだけのために。
無性に、この少女に興味が湧いてくる。耳がぴこっと前を向き、目が大きく見開いた。無意識に鼻がスンスンと動く。だが、少年は直接的に彼女に聞けるほど、素直な年齢では無かった。
「……あんた、警察官になれたら、どこで働くんだ?」
「えっ?うーん……。どこでしょうね」
「決めてねえのかよ」
「まだ高校生ですからねえ」
「今度はなんか適当だな……」
「そうですか?将来のことを考えるのは大切ですけど、今から全部決めておく必要もないと思うんです」
にじりにじりと、ハルの周りをゆっくり動きながら観察する。失礼かもしれないが、野良猫を思わせるその動きに、ハルはだんだんと愛しく感じてしまった。
ハルは少年の頭をぽんぽんと撫でた。猫の耳がぴくりと跳ねる。
「……なっ、おい!」
「あっ、ごめんなさい。なんだかつい撫でたくなって。嫌でした?」
「当たり前だろ!」
「そうですよね。ごめんなさい」
ハルはすぐに手を引っ込め、少し困ったように笑った。
「でも、君は偉いですね。自分で何とかしようとしているんですから」
「……は?」
「あの人たちが本気で襲ってきたら、どうするつもりだったのかは気になりますけど」
「……」
「それに、お饅頭もちゃんと食べてくれましたし」
「それは関係ねえだろ!」
「ふふっ。そうですね」
少年は顔を背けた。耳の先が熱かった。
子供扱いされるのも、かわいそうだと思われるのも嫌いだ。俺はもう一人で生きている、舐められる筋合いはない。
でも、誰かに優しく頭を撫でられることなんて、もう二度とないのだと思っていた。この少女の手は不思議と嫌ではなかった。
勝手にかわいそうだと決めつけない。そして何より、何も求めてこなかった。助けたのだから感謝しろとも、性的なことをしろとも、事情を話せとも、名前を教えろとも言わない。
ただ、饅頭をくれた。それだけ。
少年は初めて思った。こんな他人もいるのか、と。やがて、ハルは腕時計を見た。
「あっ、いけない。そろそろ集合場所に戻らないと」
「……そうか」
「はい。先生に怒られちゃいますからね」
「……あんたも、案外普通なんだな」
「えっ、どういう意味です?」
「いや、別に」
少年は、残った饅頭の欠片を口に放り込んだ。ハルは紙袋を畳み、荷物を持ち直す。
「それでは、私はこれで」
「……おい」
「はい、なんでしょう?」
「……なんでもねえ」
少年は呼び止めた理由を言えなかった。
名前を聞こうと思った。どこに住んでいるのか、どこの高校なのか、どうすればまた会えるのか。聞きたいことはいくらでもあった。
けれど、いざ口にしようとすると、喉が詰まった。聞いたところで何になる。どうせ、この人もいなくなる。そう思ってしまった。
ハルは不思議そうに首を傾げたあと、にこりと笑った。あどけない顔の中の、奥に眠る慈愛。少年は目を奪われる。
「ちゃんとご飯を食べてくださいね。お饅頭だけじゃ、お腹はいっぱいになりませんから」
「……分かってるよ」
「あと、あんまり危ないことはしないように」
「……あんたは俺の母親かよ」
「違いますよ、ただ貴方が心配なだけです」
母親なんてもういない。それでも、この小さな優しさが消えてほしくないと思ってしまった。
彼女は軽く手を振り、駐車場を出ていった。犬の耳が、人混みの向こうへ消えていく。
少年は、その後ろ姿を見送った。名前も知らない。どこの誰なのかも分からない。ただ、犬の獣人で、警察官になりたいと言っていた高校生。
それだけだった、はずなのに。
「……変な奴」
口から出たのは、そんな言葉だった。
少年は無意識に尻尾を揺らし、もう一度だけ彼女が消えた方を見た。
強くて、優しくて。誰かが困っていたら、迷わず手を差し伸べられる人間。獣人だからと特別扱いするのでも、獣人だからと見捨てるのでもなく、ただ目の前にいる一人を助ける。そんな人は見たことがなかった。
「……名前くらい、聞いときゃよかった」
それから、少年には目標ができた。
今までの彼にあったのは、誰にも負けないこと、誰にも利用されないこと、誰にも頭を下げずに生きていくこと。けれど、それだけでは足りないと思うようになった。
別に、人を救うだとか、世を治すだとか、そんな大層な理由なんて一切無い。求めたいものが、その先にあるはずだから。
警察官になる。
あの少女が目指していると言った道を、自分も歩いてみる。あんな人間が警察官を目指すのなら、自分だって目指す価値があると思っただけだ。
警察学校には、一定以上の学力と身体能力を持つ者を対象とした特別枠があった。脳波計を装着して危険思想の有無を確認したら、比較的に出自を問わないのだとか。警察も人手が足りていないのだろう。
元々勉強は得意だった。身体能力も、以前とは比べものにならないほど高くなっていた。猫の耳は遠くの音を拾い、尻尾は身体のバランスを補う。身のこなしも軽く、反射神経も優れていた。募集年齢になったらすぐ応募し、合格。訓練を積み、試験を受け、優秀な成績を収めた。
やがて、彼は警察官になった。けれどどこにも彼女はいなかった。
警察学校にも、最初の配属先にも、その後の異動先にも。犬の獣人で、十六歳くらいの高校生。警察官になりたいと言っていた、あの少女。でも、どこの出身なのかも知らない。名前も知らない相手を探すのは難しかった。彼女が本当に警察官になったのかさえ、分からない。
そして警察官になってからの彼も、決して順風満帆ではなかった。
頭が切れ、身体能力が高く、顔立ちも整っていた。周囲から褒められ、女性に言い寄られる一方で、それを気に入らない者もいた。手柄を横取りされたり、仕事の進め方をめぐって衝突したり。彼自身も、育ちのために口が悪く、相手が年上でも間違っていると思えば容赦なく指摘した。揉め事は絶えず、何度も異動することになった。
「いやァ、俺ってば、どこに行っても人気者っすねェ」
誤魔化すように身についた軽口を叩きながらも、胸の奥では少しずつ疲れていた。
警察官になれば、何かが変わると思っていた。誰かを守る仕事に就けば、あの日の少女に少しでも近づけると思っていた。だが、現実は単純ではなかった。上司に正しいことを言えば誰かが不機嫌になり、誰かを助ければ別の誰かから恨まれる。それでも、辞めようとは思わなかった。
…優秀な彼には、別の可能性だってあっただろう。例えば、ヤクザの幹部だったり、夜に潜むドラッグの密売人だったり。
彼はかつて全てを恨んでいた、そしてその記憶は、いまでも彼の胸の奥にある。でも、あの日の少女をなかったことにはしたくなかった。
彼は時折、あの日ことを思い出した。甘い饅頭の味。ふいに頭を撫でてきた手の温かさ、慈愛の眼差し。そして、彼女の言葉。
気がつけば、パチンコ店へ足を運ぶようになっていた。もちろんあの日とは違う場所なのは分かっている。ただ、こんな場所でも、あの日を思い出す場所だから。
もしかしたら、ここにいたら、いつか。あのこびりついた声が、愛らしい姿が、自分に声を掛けてくるかも。そんなありえもしない期待を胸の奥にしまいながら。
そして、二十三歳になった頃。彼は、さくら町にある交番へ配属された。半分は左遷のようなものだった。
「田舎の交番っすかァ。いやァ、出世街道まっしぐらですねェ」
辞令を見て、そんな軽口を叩いた。期待などしていなかった。どうせ、ここでも適当に働いて突っかかられ、またどこかへ異動するのだろう。そう思っていた。
「軽井沢巡査ですね。私は犬井ハルと申します。歳は27、階級は巡査です。今日からよろしくお願いしますね」
交番の奥から、一人の小柄な警察官が顔を出した。
犬の耳と尻尾。柔らかなベージュの髪。幼い顔立ち。制服を着ているというのに、小学生くらいにしか見えない。けれど、その目は穏やかで、声だって幾度となく焦がれたもの。
軽井沢は固まった。
忘れるはずがない。あの駐車場で、自分に饅頭を押しつけてきた少女。強くて、優しくて、少しだけお節介で。名前も知らないまま、ずっと心に残っていた人。
その人が、目の前にいた。見た目は、あの日からほとんど変わっていない。制服を着て警察官になり、声も少し大人びている。それでも、あの日の面影はそのままだった。
軽井沢は、思わず口元を緩めた。
――いた。ようやく、見つけた。
「……軽井沢巡査?どうかしました?」
ハルが不思議そうにこちらを見た。
「……いえェ。なんでもないっすよォ。よろしくお願いします、ハル先輩」
軽井沢は、いつもの調子で肩をすくめた。心臓が、うるさいくらいに鳴っていた。
ようやく名前を知った。犬井ハル。今度こそ、忘れようがない。しかし、ハルは軽井沢の顔を見ても、何の反応も示さなかった。
まぁ当然だろう。あの日の彼女にとって、自分は駐車場で絡まれていた見知らぬ猫の獣人にすぎなかったのだから。
たった一度、ほんの少し話しただけ。名前も教えていない。何年も経っている。背丈も高くなり、あの頃の少年の面影はもうない。匂いだって、ストレスで染みついたヤニ臭さが消してしまっている。気づく方がおかしい。
それでも、軽井沢は笑っていた。
いつか思い出してくれればいい。いや、思い出さなくてもいい。今度は、自分が彼女のそばにいられるのだから。
パチンコ屋の駐車場の隅に、猫の獣人がいた。壁にもたれ、のんびりと尻尾を揺らしている。
「……こんなところでフラフラしてたんですね」
ハルが声をかけると、軽井沢はゆっくりと顔を上げた。そこには、あの日と同じように、自分を見つけてくれた人がいた。もっとも、今のハルは彼を探しに来ただけなのだが。
彼女は数年前から妙な教授のところに呼び出されることがある。そして友人のなゆた医院長と話していたときに、教授の妙な噂を聞いたのだ。世間を騒がした眉唾ものの学説についてではなく、もっと真っ黒なもの。
それから彼女が教授から呼び出されるたびに、なんとなく嫌な予感がするようになった。彼女が佐藤巡査長と親しげに話しているときとは、また別の嫌な感覚。
秘密裏に、教授のことを調べるようになった。世の中のためじゃなく、彼女のため。しかし、マウスー教授についての情報は、不自然なぐらいに普通だった。逮捕歴も、検挙歴も当然ない。
だが、ここ数年はこのさくら町周辺でコソコソしているのがわかった。ヤバい学説を出したツケと言われているが、それだけとは思えなかった。
野生の勘、というのだろうか。今日は特に嫌な予感がした。彼女が無事か確かめたかった。…寝起きの声が聞こえたのは、ずいぶんと幸運だったが。
「おやおや、お昼寝してたハル先輩じゃないですかァ。先輩にお迎えに来てもらえるなんて役得っすよォ」
「適当言ってないで帰りますよ」
「へいへい」
ハルはくるりと踵を返し、交番へ戻り始めた。
軽井沢は、その後ろ姿を眺めた。小さな背中。揺れる尻尾。何もかもが懐かしい。それでいて、今は手を伸ばせば届く距離にある。
一緒に仕事して理解したが、彼女は相変わらずだった。目の前で困っている人がいれば迷わず手を差し伸べる。あの日、名前も知らない少年を助け、饅頭をくれたように。
本当に、優しさの塊のような人だ。獣人は自分も含め、荒廃した社会環境で心をすり減らすというのに。彼女には、全てを受け止め、平等に愛する揺るぎない善性があるのだろう。
軽井沢は、そっと笑った。
――俺の気持ちも知らないで、皆に優しさをふりまいて。
俺や佐藤巡査長の他にも、醜く彼女を欲している人は多い。男も、女も、その辺のガキさえも。猫が暖かい陽だまりに群がるように。
なんて、のんきな人なんだろう。あれから何年経っても、あなたは変わらない。
俺は、あなたに会いたくて警察官になったのに。少しでも近づきたくて、何度も訓練を重ねたのに。あなたの言葉を、優しさを、ずっと覚えていたのに。当の本人は、俺のことなんてすっかり忘れている。こんなの、不平等だろう。
「……まァ、いいっすけどねェ」
軽井沢はゆっくりと歩き出した。目の前には、ハルの尻尾が揺れている。追いつこうと思えば、すぐに追いつける。けれど、今は少しだけ、この距離が心地よかった。
いつか、思い出してくれるかもしれない。あの日のことを。自分に饅頭をくれた、あの午後のことを。その日が来るまで、もう少しだけ、この人のそばにいよう。
猫は恩を忘れない。ましてや、あんなふうに優しくされたことを、忘れられるはずがないのだから。
軽井沢は、先を歩くハルの背中を見つめながら、今日もいつもの調子で軽々しく笑っていた。