休暇の最終日。夕方、大好きなお散歩から家に帰る途中のことだった。
小さな公園から、きこきことブランコが揺れる音が聞こえてきた。辺りはもう暗くなり始めている。小学生ならとっくに家に帰っている時間帯だ。少し心配になって、公園を覗いてみることにした。
音の出所、ブランコにポツンと乗っていたのは、高校の制服を着た少女だった。顔は見えないが、俯いて黄昏れている…気がする。
とはいえ、こんな時間に女の子が一人でいるのは危険だ。悲しいことに、この町は治安がそんなに良くない。しょっちゅう事件がおこる。
だが幸いにも、私は警察官。女の子に声をかけたところで、事案にはならないだろう。
「もしもし、どうしたんですか?」
「ひっ、って、ハルちゃん!」
「はい。ハルちゃんです」
もう、初対面の人から名前を知られていることにも、いちいち違和感を覚えなくなってきた。
それはともかく、少女は浮かない顔をしていた。怪我をしている様子はないけれど、いかにも元気がなさそうだ。これは、お姉さんがお話を聞いてあげなければ。
「君、お名前は?」
「えっと、アタシ、いろはって言います」
「いろはちゃんですね。こんなところでどうしたんです?」
「……塾、サボっちゃって」
少しだけ苦しそうに答えた。
そうか…真面目そうな子だし、何か事情があるのだろう。
私は空いている隣のブランコに座り、足を離してゆらゆらする。ひさしぶりに漕いだけど楽しいなこれ。
私達の間に少しの沈黙が流れる。揺れる音が静かな公園に響く。
やがて、いろはちゃんはぽつりぽつりと話し始めた。
聞けば、いろはちゃんのお母さんは弁護士をしているらしい。女手ひとつで娘を育てている、仕事のできる立派な人なのだそうだ。
ただ、教育にはかなり熱心で、テストで一位を取っても褒めてもらえず、少しでも成績が落ちれば勉強が足りないと言われてしまうらしい。高校二年生になった今も、学校の授業に塾、家での勉強と、毎日机に向かう生活が続いている。
「ずっと、勉強をやらされているって感じで。もう、ちょっと疲れちゃったんです」
「そうですか……」
なるほど。どうしたものか。この時期、休み明けに勉強が嫌になる学生は多いと聞く。
けれど、私は勉強ができる側の人間ではない。高校までは出ているものの、当時だって成績はてんでダメだった。十年経った今ならなおさらである。そんな私が、勉強に疲れた高校生に何を言えばいいのだろう。
……いや、勉強ができない人間だからこそ、言えることもあるかもしれない。
「ねえ、いろはちゃん。勉強って、そんなに嫌いですか?」
「……嫌いです。学校でも塾でも勉強ばっかりで。何のためにやってるんだろうって、わからなくなっちゃって」
「そうですか。毎日それじゃあ、疲れちゃいますよね」
私は小さくブランコを漕ぎつつ、少し考えてから口を開いた。
「実はですね、私も勉強は苦手だったんです。頭も良くないし、今でも賢い人ってすごいなあって思いますよ」
「ハルちゃんでも、そうなんですか?」
「えぇ。びっくりするくらい苦手です。数学の問題なんて、今出されたら泣いちゃいますよ」
わざとらしく、えーんえーんと泣いているフリをした。
「ふふっ……」
いろはちゃんが、少しだけ笑った。
…よし。笑ってくれた。
「ですがそんな私でも、知識はないよりあった方がいいとは思ってるんです」
「知識、ですか?」
「はい。知っていることが増えると、選べる道も増えますから」
勉強ができることと、頭がいいことは、必ずしも同じではない。学校の成績が良くなくても、得意なことがある人はいるし、勉強が苦手でも立派に仕事をしている人はいる。現にこうして、私が働いているように。
「知らないことが多いと、そもそも何ができるのかもわからないでしょう?でも知っていれば、あっちの道もあるんだ、こっちの道もあるんだって気づけます。やりたいことが見つかったときにも、きっと役に立ちますよ」
「……無駄には、ならないってことですか?」
「そうです。もちろん、学校で習ったことを全部覚えていなきゃいけない、なんてことはないと思いますけどね」
私自身、学生時代にもっと勉強しておけばよかったと思うことはある。英語とか、金融関係とか。だからこそ、いろはちゃんには、今のうちから選択肢を増やしておいてほしい。
「いろはちゃんは、大学に進学するつもりはありますか?」
「……あります。親も、大学には絶対に行けって」
「そうですか。じゃあ、まずは大学進学を目標にしてみてもいいんじゃないでしょうか」
「でも、まだ何がしたいのか、よくわからなくて……」
「だったら、大学に入ってから探したっていいと思いますよ」
私は首を傾げた。
「高校生のうちに、一生やりたいことを決めなきゃいけないわけじゃないでしょう?大学に入って、いろんな人と会って、いろんなことを勉強して。それから、これが好きだなって思えるものを見つけたっていい」
「……そんなので、いいんですか?」
「いいんじゃないですか。少なくとも、私はそう思いますよ」
自分が高校生だった頃を思い返してみる。
あの頃の私は、将来のことなんてろくに考えていなかった。勉強も苦手だったし、目標らしい目標もなかった。気がつけば大人になって、今は警察官をしている。人生なんて、案外そんなものなのかもしれない。
「もちろん、目標があるなら、それに向かって頑張るのもいいと思います。でもまだ見つかっていないからって、焦る必要はないですよ」
「……はい」
「それに、いろはちゃんは高校二年生でしょう?これから先、知らないことに出会う機会なんて、いくらでもあります」
いろはちゃんは、しばらく黙っていた。やがて、ぽつりと口を開く。
「……アタシ、お母さんの仕事は、すごいと思うんです」
「お母さんの?」
「はい。弁護士をしているんですけど……仕事の話をしているときとか、依頼してきた人のために一生懸命になっているときとか。すごく、格好よくて」
その言葉には、少しだけ熱がこもっていた。彼女が無意識に零した、熱のある言葉。
「でも、アタシ自身が何をしたいのかは、まだよくわからなくて。お母さんみたいになりたいって思うことはあるんですけど、それが本当に自分のやりたいことなのか、自信がなくて……」
「そうですか」
なるほど。
お母さんのことは尊敬している。けれど、自分の将来については、まだ答えが出ていないのだ。
「だったら、今はそれでもいいんじゃない?」
「……え?」
「お母さんの仕事を格好いいと思う。それだけでも、立派なきっかけ。そこから本当に自分もやりたいと思えるかどうか、少しずつ考えていけばいい」
「……きっかけ」
「うん。今すぐ答えを出さなくてもいいんです。勉強だって、将来の選択肢を増やすためにやっているんだって考えれば、少しは意味が見えてくるかもしれない」
私は、いろはちゃんの顔を見た。
「それにね、私はすごいと思いますよ」
「……え?」
「だって、そこまで勉強を頑張ってきたんでしょう?疲れちゃうくらい一生懸命やってきたんですよね」
「……でも、最近は成績トップも取れなくなってきたし」
「一番じゃなきゃ、頑張ったことになりませんか?」
「……」
「私は、そうは思いませんよ」
何かで一番になることは、きっとすごいことだ。でも、二番でも三番でも、順位がつかなくたって、頑張ったこと自体がなくなるわけではない。
私は高校までの成績でも、警察学校での身体能力検査でも、就職してからの業績だって。私はぱっとしなかった。でも、そんな昔の自分も、できれば褒めてあげたいと思っている。
だから。
「頑張っていますね、いろはちゃん。えらい、えらいです」
私は彼女の頭に手を伸ばしかけて、ふと止めた。高校生の女の子に、いきなり頭を撫でるのはどうなのだろう。私の見た目はともかく、二十八歳の成人女性である。
そう考えていると、いろはちゃんが、ほんの少しだけこちらに頭を傾けた。
「……撫でて、くれないんですか?」
「えっ?」
「あっ、いや!今のは、その……!」
いろはちゃんの顔が、みるみる赤くなった。
……かわいい。
「ふふっ。いいですよ」
私は、そっと彼女の頭を撫でた。
「よしよし。頑張ってますよ。すごいです」
「~~っ!」
「いろはちゃんは高校二年生で、こんなに頑張ってる。えらいです。ちゃんと自分のことも褒めてあげてください」
「……はい」
いろはちゃんは、俯いたまま小さく返事をした。なんだか、さっきより顔が赤くなって、はぁはぁしてるような気もするけれど……まあ、元気が出たならいいか。
「……あの、ハルちゃん」
「はい?」
「アタシ、将来のこと、少し考えてみようと思います」
「えぇ。いいことだと思います」
「まだ、ちゃんと決められるかはわからないんですけど……」
「それでいいんです。焦らなくても大丈夫」
私は、もう一度彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
「前を向けましたね。えらい、えらい」
「自分が何をしたいのか。お母さんみたいになりたいって思うのが、本当に自分の気持ちなのか……ちゃんと考えてみたいです」
「焦らなくていいです。いろはちゃんが自分で決めたことなら、きっと意味があると思います」
「……はい!」
今度の返事は、さっきよりもずっと明るかった。
よかった。私の言葉がどれほど役に立ったのかはわからないけれど、少しでも前を向けたのなら、それで十分だ。
「すみません、こんなお話しかできなくって。親御さんは完璧主義なんでしょうけど、そうじゃなくても良いとは私は思います。褒めてほしかったら、いつでも私に連絡してください」
そう言って、私は連絡先を交換した。スマホをぎゅっと握りしめ、嬉しそうにするいろはちゃん。私も数少ない連絡先が増えて、ちょっとだけ嬉しい。
すると突然、いろはちゃんが慌てて時計を確認した。
「あっ!塾、もう終わる時間です!」
「おや、もうそんな時間ですか?」
「お母さんに、終わったら連絡しなさいって言われてて……!」
「そうですか。それじゃあ、家まで送って行きますよ。もう暗いし、わるいおおかみさんに攫われちゃいますから」
「えっ、でも……」
「いいんですよ。私もちょうど帰り道なんです」
正確には、少し遠回りになるのだけれど。高校生がこんな時間に一人で歩いているのは心配だし、話を聞いた子を放って帰るのも落ち着かない。
「……もう、わるいおまわりさんです」
「えー?こんなおまわりさんは嫌いですか?」
なんか軽井沢巡査みたいな言い回しになった。長く一緒に働いたから、口調が映ってしまったかな。
いろはちゃんは隣で自転車を押しながら、うらめしそうに抗議の目線を送った。
こうして、私はいろはちゃんを家まで送り届けた。
「今日は、本当にありがとうございました!」
「いえいえ。あんまり無理しすぎないように」
「はい!また、連絡してもいいですか?」
「もちろん。いつでもどうぞ」
いろはちゃんは嬉しそうに手を振り、家の中へと入っていった。私はその背中を見送ってから、再び帰路についた。いやあ、いいことをした。
……と、自分で言うのもどうかと思うけれど。私だって、たまには誰かの役に立つことくらいあるのだ。
それから数日後の夜。仕事を終えて、自宅でのんびりしていたときのことだった。
スマートフォンが、ぴこん、と音を立てた。画面を見ると、いろはちゃんからメッセージが届いていた。
『ハルちゃん、聞いてください……』
しょんぼりしたスタンプが続いている。何かあったのだろうか。
『この前、ハルちゃんに話を聞いてもらってから、ずっと考えてたんです』
ふむ。公園での話を思い出したのだろうか。
『アタシ、やっぱりお母さんみたいになりたいです』
おお、弁護士かぁ。思わず、スマートフォンを持つ手に力が入った。
『今までは、お母さんに言われるから勉強してたところもあったんです。でも、あの日から考えてみて……やっぱり、お母さんの仕事は格好いいなって。アタシも、あんなふうに誰かの役に立てる人になりたいって思いました』
『だから、お母さんに、自分の意思で弁護士になりたいんだって伝えたんです』
私は思わず笑顔になった。すごい。ちゃんと自分で考えて、自分の気持ちを伝えられたのだ。
しかし、次のメッセージで笑顔が引きつった。
『そしたら、もっと勉強しなさいって言われて、前より厳しくなっちゃいました……』
『なぐさめてー』
……ああ。
まあ、そうなる可能性もあるとは思っていた。
お母さんからすれば、娘が本気で弁護士を目指すと言い出したのだ。ならば、なおさら勉強を頑張らせなければ、という考えになったのかもしれない。
気持ちはわからないでもないけれど、いろはちゃんにとっては、せっかく勇気を出して自分の気持ちを伝えたのに、結局は勉強の話にされてしまったわけだ。
そりゃあ、落ち込むだろう。
『そうですか。頑張って伝えたんですね。えらいですよ』
私はそう返信した。すると、すぐに返事が届いた。
『えへへ……』
『もっと褒めてください』
……ん?
まあ、褒めるくらいならいくらでもできるけれど。
『いろはちゃんは、ちゃんと自分の気持ちを伝えられたんですよ。すごい、すごいです』
『もっと!もっとください!』
……もっと?どういうこと?
私は少し考えてから、もう一度メッセージを送った。
『頑張りましたね。えらいです。自分の将来のことを考えて、勇気を出してお母さんに話せたんですよ。かっこいいです』
すると、しばらくして返信が来た。
『ああああああああ』
何だろう。フリック入力が壊れたのだろうか。
続けて、メッセージが届いた。
『ハルちゃん、電話してもいいですか?』
『文字だと足りないです』
……足りない?何が?
私は首を傾げたものの、悩みがあるのなら直接話した方が気持ちも楽になるだろうと思い、了承した。
すぐに着信があった。
「もしもし、いろはちゃん?」
『……ハルちゃん』
「はい、ハルちゃんです。どうしました?」
『……あの』
「はいはい」
『……よしよし、してください』
「…………はい?」
思わず、変な声が出た。え?本当にどういうこと?
『あ、あのっ!違うんです!その、別に変な意味じゃなくて!』
「う、うん?」
『この前、ハルちゃんに褒めてもらったとき、すごく嬉しくて……。頑張ってるねって言ってもらえて、頭も撫でてもらって……』
電話越しに、いろはちゃんが慌てているのが伝わってくる。
『それで、今日も頑張ったのに、お母さんには全然褒めてもらえなくて……。だから、その……』
「……そうですか」
『……はい』
「私によしよししてほしいんですね?」
『~~っ!は、はい……』
私は思わず頬を緩めた。なるほど、ようやくわかった。この子は、褒めてほしかったのだ。
頑張ったことを認めてもらいたかった。自分が一生懸命やっていることを、誰かに見ていてほしかった。そういうことなら、話は簡単である。
「そうですか。それでは、いっぱい褒めてあげます」
『……えっ』
「いろはちゃん、今日も頑張ったんですよね?」
『……はい』
「よしよし。よく頑張りました。えらいです」
『…………っ』
「自分の気持ちを伝えるのって、勇気がいることです。それをちゃんとできたんだから、すごいですよ」
『……ハルちゃん』
「はい?」
『……もう一回』
「ふふっ。しょうがないですね。もう一回だけですよ」
私はスマートフォンを耳に当てたまま、優しく声をかけた。
「よしよし。頑張った、頑張りましたね。いろはちゃん、えらいえらいですよ」
『…………』
返事がない。口を近づけて囁くように言ったのが、気持ち悪かったのだろうか。
「いろはちゃん?」
『……だめです』
「えっ、何がです?」
『……これ、だめです。すごく、だめ……』
声がどんどん小さくなっていく。もしかして、何か嫌なことを言ってしまったのだろうか。
「えっと……嫌でした?」
『違いますっ!嫌じゃないです! むしろ、もっと……!』
「もっと?」
『…………』
しばらく沈黙が続いたあと、いろはちゃんが、かすれそうな声で言った。
『……もう一回、よしよししてください』
……なるほど。どうやら、気に入ってくれたらしい。
私は、くすりと笑った。
「はいはい、よしよし。今日も頑張ってえらいですねぇ」
『…………っ、うぅ』
「うんうん。大丈夫。いろはちゃんは、ちゃんと頑張っていますよ」
『……はい』
「すごいねえ。えらいねえ」
『……はい……』
私の語彙の問題で、もう子供に語りかけるような口調になる。こんなんで良いのかな。
電話の向こうからは、なんだか幸せそうな声が聞こえてくる。
……うん。まあ、元気になってくれるなら、それでいいか。
年頃の女の子というのは、いろいろと大変なのだろう。学校でも家でも、頑張らなければいけないことがたくさんある。
そんなときくらい、誰かに甘えたくなることもあるはずだ。私だって、仕事で疲れた日は、ふかふかのお布団にくるまって何も考えずに寝たい。
だから、いろはちゃんの気持ちもわからないではない。
「それじゃあ、明日も頑張れそうですか?」
『……はい!』
「よかったです。無理しすぎちゃだめですよ?」
『はい!……あの、ハルちゃん』
「どうしました?」
『……また、電話してもいいですか?』
「…えぇ、もちろん。いつでも連絡してください、お仕事ででれないこともあるかもですが」
『……やった!ありがとうございます!』
ぱっと明るくなった声に、私は安心した。よしよし。これで一件落着。
……と思ったのだが。
『……あの、ハルちゃん』
「はい?」
『最後に、もう一回だけ……』
「もう。はいはい」
どうやら、もう少しだけ時間がかかりそうだった。私はスマートフォンを持ち直して、できるだけ優しい声で告げる。
「よしよし。いろはちゃんは今日もえらい。明日も頑張ってくださいね」
『…………はい』
その返事は、今まで聞いたどの返事よりも幸せそうだった。
「……最近の子って、いろいろ大変なんですね」
私はそんな呑気なことを考えながら、今日も今日とて、のんびり尻尾を振っていた。自分が一人の少女に、すっかり懐かれてしまったことなど、知る由もなかったのである。