「犬井巡査、軽井沢巡査。少しお話が」
ある日の昼下がり。昼食を終え、午後の仕事に取りかかろうとしていた私と軽井沢巡査に、佐藤巡査長が神妙な面持ちで声をかけた。
その手には、小さな容器が握られている。なんだろう、これ。
少し離れたところにいるのに、妙な匂いが鼻をくすぐった。薬品のような、何かが焦げたような、それでいて妙に鼻の奥に残る匂い思わず鼻先を動かしてしまう。
「最近、特定指定暴力団のヤマザキ組が、この地域での活動を活発化させています」
ヤマザキ組。このあたりに古くから根を張る暴力団だ。さくら町に長く住んでいれば、その名前を耳にする機会は少なくない。もちろん、私たち警察としても以前から取り締まりを進めている。
けれど、連中はなかなか尻尾を出さない。
表立って騒ぎを起こすことは少なく、違法行為の証拠を掴もうとすれば、いつの間にか関係者が口を閉ざしてしまう。こちらが動けば動くほど、見えないところへ潜り込まれてしまうような、厄介な相手だった。
「それに加えて、本部から新たな薬物について注意喚起がありました。さくら町や隣接するけやき市を中心に流通しているようです」
「違法薬物、ですか……」
思わず眉をひそめる。ヤマザキ組の活動が活発になっているところへ、新しい薬物の流通。偶然であればいいのだけれど、どうしても嫌なつながりを考えてしまう。
「はい。流通元も開発者も、現時点では一切不明です。ただ、人間が摂取すると、一時的に獣人と同等の身体能力を得られるとのことです。強い意識混濁も見られるようですが」
「……人間が、獣人と同じ力を?それは本当です?」
思わず聞き返してしまった。
獣人の身体能力は、人間のそれを大きく上回る。
種族による差こそあるものの、筋力や瞬発力、感覚器官など、獣人が人間より優れている部分は多い。私自身、警察官としてそれなりに腕には自信があるし、普通の人間が相手なら、身体能力の差に助けられる場面も少なくない。
それが、薬ひとつで覆される可能性があるというのだ。当然、獣人にも性別差があり、警察学校でも、男性の獣人には流石に敵わなかった。
もし、相手を普通の人間だと思い込んでいたら。もし、油断しているところへ、突然、獣人並みの力で襲いかかられたら。
……どうなるか、分からない。悪意があれば、全然殴り殺されることだってあるだろう。
しかも、意識が混濁するということは、相手自身が自分の力をまともに制御できない可能性もある。そんな人間が街中で暴れでもしたら、本人だけでなく、周囲の人々まで危険にさらされるだろう。
「こちらが薬物の匂いのサンプルです。嗅覚による捜査の際に活用してください。ただし、獣人が高濃度のものを長時間摂取すると、意識障害などの有害事象が起こる可能性もあるそうです。くれぐれも注意してください」
佐藤巡査長が、手にしていたものを差し出した。私は慎重に受け取り、手で仰いで嗅ぎ、改めて匂いを確かめる。
薬物捜査において、獣人の嗅覚は大きな武器になる。人間にはほとんど分からないような微かな匂いでも、私たちなら嗅ぎ分けられることがある。これまでも、新しい薬物が流通するたびにその匂いを覚え、捜査に役立ててきた。
今回も、きっとそのために呼ばれたのだろう。
……でも。
鼻先をかすめる匂いに、何かが引っかかった。初めて嗅ぐ匂いのはずなのに、どこかで嗅いだことがあるような気がする。鼻の奥に、かすかな既視感ならぬ既嗅感が残っていた。
どこだっただろう。最近、こんな匂いを嗅ぐ機会があっただろうか。
警察官として勤務している以上、薬品や薬物の匂いを嗅ぐこと自体は珍しくない。けれど、これはそういうものとは少し違う気がする。
もう一度、慎重に匂いを確かめてみる。
……ううん。やっぱり、何かが違う。確かに覚えがある。けれど、その記憶に手を伸ばそうとすると、するりと逃げてしまう。
「それから、犬井巡査」
佐藤巡査長の声に、私は顔を上げた。
「この薬物ですが、以前ショッピングモールで暴れた男性の尿検査からも検出されたそうです」
「……え?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
ショッピングモールでの人質事件。あのとき、私は男性を取り押さえた。彼は人間とは思えないほどの力で抵抗し、私でさえ、抑え込むのに苦労した。
そうか。あのとき嗅いだのか。だから、覚えがあったんだ。
……いや、待って。確かに似ている。けれど、本当に同じ匂いだっただろうか。何かが少しだけ違うような気もする。あのときの記憶をたどろうとしても、現場の緊迫した状況や、目の前の男性を取り押さえることに必死だった感覚ばかりが蘇ってくる。匂いそのものを、はっきりと覚えているわけではなかった。
それでも、彼が人間とは思えないほどの力で抵抗していたことは、今でもよく覚えている。あれが薬物の影響だったのなら、確かに説明はつく。
けれど、どうにも腑に落ちなかった。彼は弟の治療のために借金まで背負うような人だった。
もちろん、私は彼のことを何もかも知っているわけではない。事件を起こした以上、彼の行動が許されるわけでもない。それでも、あのときの彼の様子を思い返すと、自分から危険な薬物に手を出すような人物には、どうしても思えなかったのだ。
「どうやら、本人は自分で薬物を使用したことを否認しているようです。状況から考えると、何者かに投与された可能性もあります」
「……誰かに、打たれた?」
「ええ。まだ断定はできませんが」
佐藤巡査長は、手元の資料に目を落とした。
もし本当に、本人の意思とは無関係に薬物を投与されていたのなら。いったい、誰が。何のために。考えれば考えるほど、よく分からなくなってきた。
「そして、この薬物の流通を資金源として、ヤマザキ組が動いている可能性が高いと見られています。けやき警察署でも、取り締まりを強化しているそうです」
やっぱり、つながっているのか。
使えば、人間であっても獣人に匹敵する力を得られる。そんなものが暴力団の手に渡れば、何が起きるか分からない。ましてや、誰かに無理やり投与される可能性まであるのなら、なおさらだ。
単に薬物を売りさばくだけの話ではないのかもしれない。ショッピングモールでの事件も、本当に偶然だったのだろうか。
……いや、今の段階で決めつけるのはよくない。私は小さく息を吐き、いったん考えを切り替えた。
「そこで、お二人にお願いがあります」
佐藤巡査長は、私と軽井沢を順番に見た。
「今回の件を受けて、暴力団排除教室と薬物乱用防止教室を実施していただきたいんです。対象は、特に薬物や暴力団に狙われやすい高校生。ちょうど高校側からも依頼が来ています」
暴力団排除教室、通称・暴排教室。暴力団との関わりを避け、犯罪に巻き込まれないための知識を伝える講習だ。薬物乱用防止教室も、地域の学校ではたびたび行われている。
治安があまり良くないこの世界では、どちらも決して他人事ではない。高校生が知らないうちに犯罪へ巻き込まれたり、軽い気持ちで危険なものに手を出してしまったりする可能性は、十分にある。
だからこそ、早い段階で正しい知識を伝えておくことには意味がある。
「分かりました。私たちでよければ」
私は二つ返事で引き受けた。軽井沢も、珍しくふざけた様子を見せずに頷く。
「了解っすよ。こういうの、早めに知っておいて損はないですからねェ」
普段なら、ここで何かしら冗談を挟みそうなものだけれど、今日は違った。彼もまた、今回の薬物を軽く考えてはいないらしい。
その後、私は過去に作った講習資料を引っ張り出し、今回の薬物についての情報を加えながら、講演の準備を進めた。
新しい薬物が何者によって作られ、どうしてこの地域に流通しているのか。ヤマザキ組は、いったい何を企んでいるのか。今はまだ、分からないことばかりだ。
けれど、少なくとも、これ以上被害を広げるわけにはいかなかった。きっと、大本の方はけやき警察署でアキ姉貴達が大きく動いていることだろう。
それなら私たちはできることから、一つずつ。まずは、目の前の高校生たちに、危険を知ってもらおう。そう考えながら、私は講習資料に目を通し、必要な箇所を確認していった。
そして、講演当日。私は軽井沢を助手席に乗せ、パトカーを運転していた。窓の外には、見慣れたさくら町の街並みが流れていく。
普段なら、軽井沢はこうして私と二人で仕事に出るとなれば、浮かれた様子で何かとちょっかいをかけてくる。
「いやァ、今日はハル先輩と二人っきりっすねェ」
だとか、
「仕事が終わったら、二人でお茶でもどうっすか?」
だとか。そんな調子で、こちらが呆れるまで軽口を叩くのがいつもの彼だ。
けれど、今日ばかりは違った。
「いつもなら、珍しくハル先輩とお仕事だって、喜んでるところなんですけどォ」
「……今、口説くような雰囲気じゃないですよ」
「そうっすねェ。正義先輩も忙しそうでしたし、俺たちは自分のお仕事を頑張りますかァ」
軽井沢は、窓の外に目を向けた。その横顔には、いつもの軽薄な笑みが浮かんでいない。ヤマザキ組の動向に、彼でさえ思うところがあるようだった。
……軽井沢も、ちゃんと警察官なんだよね。なんてことを考えて、少しだけ失礼な気持ちになる。
普段の言動があまりにも軽いせいでつい忘れそうになるけれど、いざというときには真面目に動くし、危険な状況であればふざけてばかりもいない。そういうところは、ちゃんと信頼している。
「……今回の薬物、厄介っすねェ」
ぽつりと、軽井沢が呟いた。
「そうですね。人間が獣人並みの力を出せるとなると、取り押さえる側も油断できません」
「しかも、意識が混濁するんでしょう?力の加減ができない相手ってのは、こっちからしても面倒っすよねェ」
「はい。本人が望んで使ったとは限らない、というのも気になります」
「……そうっすねェ。俺は男なんで大丈夫っすけど、先輩気をつけてくださいよォ。えっちな目に遭うかもしれませんからねェ」
それきり、軽井沢は口を閉じた。言い方はアレだが、ふざけている口ぶりではない。最悪、私は力負けもあり得る。ちょっとだけ、こわい。
…いや、そんなこと言っていられないな。私は前を向いたまま、ハンドルを握り直す。今日の仕事は講演だ。
けれど、薬物のことも、ショッピングモールでの事件も、頭の片隅から離れてくれなかった。これから会う高校生たちが、同じような事件に巻き込まれたら。そんなことを考えると、やはり気が重くなる。
そして、今回私たちが向かっているのは、さくら町唯一の公立高校、桜ヶ丘高等学校。そこは――私の母校でもあった。
十年と少し前。私がまだ、ここに通っていた頃。今よりも、獣人に対する差別意識が強かった時代だ。
幸い、同学年の全員からあからさまないじめを長期間受けていたわけではない。けれど、それは決して、毎日が楽しかったという意味ではなかった。
何気ない言葉に傷ついたこともあった。周囲の視線が気になって、言いたいことを飲み込んだこともあった。数人から意地悪なことだってされたし、そうではなくても、自分だけが少し違うことをいつも意識させられていた。そんな記憶が、今になって少しずつ蘇ってくる。
……できれば、あまり思い出したくないな。胸の奥が、さらに重くなった。自分では平気なつもりだった。昔のことだし、今はもう警察官として働いている。あの頃とは立場も環境も違う。
それなのに、母校の名前を聞いただけで、こんな気持ちになるなんて。
私は無意識に唇をぎゅっとつぐんだ。ハンドルを握る手に、少しだけ力がこもる。
……大丈夫。
今日は仕事だ。講演をして、薬物や暴力団の危険性を伝える。それだけのこと。そう自分に言い聞かせても、胸の奥に沈んだ諸々は、なかなか浮かび上がってこなかった。
すると。
「……あっ、ハル先輩。そこを左に曲がると近道っすよォ」
不意に、軽井沢が声をかけてきた。
「えっ、そうなんですか?知りませんでした。ありがとうございます」
三年間も通った道なのに、そんな近道があるなんて知らなかった。まあ、いつも同じ通学路を使っていたのだから、知らない道があっても不思議ではない。
私は言われたとおりにウインカーを出し、交差点を左に曲がった。そして、目の前に現れたものを見て、思わず固まった。
巨大なお城。
……いや、これは。
前世でも、こういう場所に入ったことはない。けれど、さすがに私だって、何の建物かくらいは分かる。ラブホテルだ。
しかも、ずいぶんと立派なお城だった。どうしてこんなに堂々とした外観にしたのだろう。もっとこう、周囲の景観に溶け込むような造りにはできなかったのだろうか。
いや、そんなことを考えている場合ではない。私はゆっくりと隣を見た。そこには、先ほどまでの真剣な表情などどこへやら、へらへらと笑っている軽井沢がいた。
「いやァ、ここを通ると近道なんすよォ」
「…………あの」
「……ハル先輩?」
「……はぁ」
私は、深いため息をついた。やっぱり、そういうことか。真面目な顔をしていると思ったら、こんなところでふざけるためだったらしい。
……本当に、この人は。
「今回は貴方の気遣いに免じて、佐藤巡査長には報告しないであげますよ」
「えー、なんのことっすかァ?」
軽井沢は、わざとらしく首を傾げてみせた。その顔があまりにも白々しくて、私は思わず呆れたような笑みを浮かべてしまう。
「……そうですか。それなら、私の勘違いだったということにしておきます」
「いやァ、ハル先輩は物分かりがよくて助かるっすねェ」
「その代わり、今度、佐藤巡査長の前でも同じことを言ってくださいね」
「それは勘弁してほしいっすねェ」
軽井沢が、わざとらしく肩をすくめる。その様子に、私は小さく息を吐いた。
まったく、調子のいい人だ。けれど、不思議なことに、さっきまで胸の奥にあった重苦しさが、ほんの少しだけ和らいでいた。
くだらない冗談だ。本当に、くだらない。仕事中に何をやっているんだろう、と思わなくもない。
それでも、こうしていつもどおりに接してくれることが、今はありがたかった。
私が母校のことを気にしていると、軽井沢が気づいていたのかどうかは分からない。そもそも、私は何も話していないのだから、気づいていなくても当然だ。
ただ、隣に座る彼が、さっきまでとは違う調子で声をかけてきたこと。それだけで、張り詰めていた気持ちが少し緩んだ。
……もしかしたら、わざとふざけてくれたのかな。
そんな考えが頭をよぎる。けれど、すぐに首を振った。
いやいや、まさか。このノンデリ猫がそんなに気が利くはずがない。
軽井沢は、こういう人だ。普段からふざけてばかりで、隙あらば人をからかってくる。今回だって、単に面白がっているだけかもしれない。
それなのに、勝手に気遣いだと思い込むのは、なんだか申し訳ない気がした。
……でも。少なくとも、私は少しだけ楽になった。それは、確かなことだった。
パトカーはラブホテルの前を素通りし、桜ヶ丘高校へ向かう。結局、近道どころか、少し遠回りになってしまった。
「……そうそう、ハル先輩。このあたりに猫が集まるスポットを見つけたんすよォ」
軽井沢が、何事もなかったかのように話題を変えた。
「猫、ですか?」
「そうなんすよ。人懐っこいのが何匹もいて。俺が近づいても逃げないんすよねェ」
「へえ……。それは、かわいいですね」
「いやァ、もう、かわいくてかわいくて。つい時間を忘れちまいそうになりましたよォ」
「……お仕事中に?」
「いやいや、休憩時間っすよ!さすがにそこまで不真面目じゃないっす」
「ふふっ、冗談です」
自分でも驚くくらい、自然に笑い声が出た。さっきまで、あんなに気が重かったのに。
「今度、正義先輩も連れてってやろうかなァ」
「ふふっ。佐藤巡査長、猫は好きなんでしょうか」
「さあ? でも、あの人なら猫相手でも真面目に接しそうっすよねェ。猫にまで敬語を使ったりして」
「……それは、ちょっと想像できますね」
「『猫さん、こちらへどうぞ』とか言って」
「ふふっ……。さすがに、そこまでは」
「いやァ、分かんないっすよォ?正義先輩、意外とそういうところありそうじゃないっすか」
「……今度、聞いてみましょうか」
「やめてくださいよォ。俺が言ったってバレるじゃないっすか」
軽井沢が大げさに慌てる。その姿がおかしくて、私はまた笑ってしまった。
……本当に、調子のいい人だ。さっきまで真剣な顔をしていたくせに、今はもう、いつもの軽井沢に戻っている。
けれど、その軽さが、今は心地よかった。
ただ、いつもどおりに話しかけてくれる。くだらない冗談を言って、私が呆れたり、笑ったりするのを待っている。それだけのことなのに、胸の奥に沈んでいたものが、少しずつ軽くなっていくようだった。
……こういうところは、ずるいと思う。
普段は軽薄で、からかってばかりで、何を考えているのか分からない人なのに。こうして自然に、相手の気持ちを楽にしてしまう。
本人にそのつもりがあるのかどうかは分からない。きっと、聞いたところで「ハル先輩が勝手にそう思ってるだけっすよォ」とか、適当にはぐらかされるのだろう。
それでも、ありがたかった。
私は窓の外に目を向けた。見慣れた街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。母校に近づいていることに変わりはない。昔の記憶が消えたわけでもない。校門をくぐれば、また少し、嫌な気持ちになるかもしれない。
それでも、さっきまでのように、ただ憂鬱な気持ちに押しつぶされそうになることはなかった。
隣には、軽井沢がいる。いつもどおりの、軽薄で、調子がよくて、少しだけ人を食ったような同僚が。それだけで、思っていたよりも心強かった。
「……軽井沢巡査」
「はいはい、なんすかァ?」
軽井沢は、こちらをちらりと見た。いつものヘラヘラした笑顔だ。
「今日も、よろしくお願いしますね」
言葉にしてみると、思っていた以上に素直な声が出た。単に仕事の挨拶をしたかっただけではない。
今日一日、隣にいてくれることが、少しだけ心強い。そんな気持ちも、きっと混じっていたのだと思う。軽井沢は一瞬だけ私の顔を見て、それから、いつもの調子で笑った。
「もちろんっすよォ、ハル先輩」
その返事を聞いて、私は小さく頷いた。
……うん。大丈夫。
今の私は、もう一人で何もかも抱え込まなくてもいいのだから。
私はハンドルを握り直し、母校へとパトカーを走らせた。胸の奥には、まだ少しだけ、昔の記憶が残っている。けれど、それと同じくらい、今の自分を支えてくれる人たちの存在も、確かに感じていた。
なにもかも、きっと大丈夫。そう思いながら、私は桜ヶ丘高校の校門を目指した。