意を決して、苦い思い出の残る我が母校、桜ヶ丘高校へ。……などと、まるで何か大きな決意を固めたかのように言ってみたものの、実際のところ、私の足取りは重かった。
別に、学校そのものが嫌いだったわけではない。校舎も体育館も、当時と比べれば多少の改修こそされているだろうが、基本的には変わっていないはずだ。
ただ、私にとって高校時代というものは、わざわざ懐かしむほど楽しい思い出が詰まった時間ではなかった。部活に打ち込んだわけでもない。勉強に青春を捧げたわけでもない。友人たちと放課後に遊び回った記憶もなければ、文化祭や体育祭で大はしゃぎした覚えもない。
前世の記憶を含めれば、それなりに長い人生を経験している。だからこそ、当時の私でも、同年代の子たちが気にするようなことを適当に受け流す術を知っていた。
多少の悪口を言われたところで、まともに相手をしなければいい。獣人だからといって、いちいち傷ついていたら身が持たない。そう考えていたし、実際、そうやって過ごしてきた。
けれど。そんな私にも、一人だけ、どうにも受け流しきれなかった相手がいた。
同じクラスだった男の子。私を見るたびに嫌になるほど突っかかってきて、何かにつけて嫌味を言う。私が何かをすれば馬鹿にするし、何もしなければそれはそれで文句をつける。こちらが言い返せば、さらに強い言葉をぶつけてくる。
今になって考えれば、あれはあれで、ずいぶんと不器用な子だったのかもしれない。……いや、当時の私には、そんなことを考える余裕なんてなかったのだけれど。
「おい、犬井。お前また一人でいるのかよ」
ふと、記憶の中から声がよみがえる。教室の窓際。休み時間に一人で本を読んでいた私に、彼はわざわざ近づいてきた。
「別にいいでしょう」
「よくねえだろ。友達いねえのかよ」
「あなたには関係ありませんよ」
「はっ、そうやってすぐ偉そうにするよな。大人ぶって。獣人だからって、何でも許されると思ってんのか?」
……本当に、嫌な言い方をする子だった。
当時は、獣人への差別が今よりずっと当たり前のように存在していた。あからさまな暴力や侮辱はもちろん問題視されていたけれど、日常に溶け込んだ偏見や、悪意のないふりをした言葉までは、なかなかなくならなかった。
だから、彼のような人間も珍しくはなかった。珍しくはなかったのに。
どうして、あの子だけは、あんなにも私に執着していたのだろう。考えても仕方がないことを考えながら、私は校門をくぐった。
正門の横には来客用の駐車スペースがある。そこにパトカーを停め、軽井沢と一緒に職員玄関へ向かった。
受付で来客証を受け取り、担当の先生に案内されて来客室へ。改めて今日は、暴力団排除と薬物乱用防止についての講演だ。
佐藤巡査長から説明を受けた新型薬物の件もあり、若い世代に正しい知識を伝えることには意味がある。人間の身体能力を一時的に獣人並みに引き上げるという触れ込みは、好奇心旺盛な高校生にとって、決して遠い話ではないだろう。
ましてや、薬物の流通に暴力団が関わっている可能性があるのなら、なおさらだ。
警察官として、やるべきことは分かっている。あまり、昔に捕らわれるな。
「犬井さん、軽井沢さん。本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「よろしくお願いしまァす」
先生と挨拶を交わし、簡単な打ち合わせを済ませる。それから、いよいよ体育館へ向かうことになった。
廊下を歩いていると、懐かしい景色が目に入る。掲示板の位置。窓から差し込む光。廊下の隅に置かれた清掃用具入れ。何もかもが、記憶の中にあるものと少しずつ重なっていく。毎年来ているが、この感覚はどうしても慣れない。
そして、体育館の前にたどり着いた。ひんやりとした大きな金属製の扉。その向こうから、たくさんの生徒たちの話し声が聞こえてくる。
私は、扉に手をかけた。その瞬間。
「お前、体育とか大丈夫なのかよ。小学生みたいな身体してんのに」
――ああ。また、思い出してしまった。体育の授業で、私が跳び箱を跳べなかったときのことだ。
正確には、跳べなかったわけではない。身体が小さいぶん、踏み切りや着地の感覚が人間とは違っていて、少し失敗しただけだった。研究所にいたせいで、小学校で跳び箱をしていなかった。だから、初めての感覚に戸惑っただけなのに。
それでも、彼は笑った。
「お前、ほんとチビだよな。小学生が高校に紛れ込んでるみたいだぜ」
周りにいた何人かも、つられてクスクスと笑った。
「その耳と尻尾で、運動できるつもりかよ。獣人って、身体能力が高いんじゃなかったっけ?」
「なあ、犬井。お前、見た目だけならマスコットだよな。警察官とか目指してんの?無理だろ、そんな身体じゃ」
彼は、私が何かを言い返すまで、ずっとこちらを見ていた。私が黙っていれば、勝ち誇ったように笑う。言い返せば、さらに言葉を重ねる。
……あの頃の私は、今よりもずっと小さかった。身体だけではなく、きっと、心も。
前世の経験があったから、周囲の言葉を受け流すことはできた。けれど、受け流せることと、傷つかないことは違う。
何度も言われれば、嫌でも意識してしまう。人間とは違う耳や尻尾があること。どれだけ努力しても、他人から見れば、まずその見た目で判断されてしまうこと。
それでも私は、彼に言い返すことができなかった。言い返したところで、何も変わらないと思っていたから。
「……ハル先輩ィ?」
はっと我に返る。目の前では、軽井沢が心配そうにこちらをのぞき込んでいた。
「大丈夫っすかァ?さっきから、やっぱり体調悪そうっすよ。俺、代わりましょうかァ」
「いえ、大丈夫ですよ」
「いやいや、顔色がよくないっすよォ。ここまで来て無理する必要ないでしょうに」
「本当に大丈夫です。……少し、昔のことを思い出していただけですから」
「昔のこと?」
「ええ。高校時代の男の子のことを、少し」
そう答えると、軽井沢はなぜか、ぴたりと動きを止めた。
そして、数秒ほど私の顔を見つめたあと、恐る恐るといった様子で尋ねてきた。
「……え、ハル先輩、男いたんすかァ?」
「……はい?」
思わず、聞き返してしまった。何をどう考えたら、その結論に至るのだろう。
「いや、だって昔の男って……」
「男の子、です。高校時代の同級生」
「……あ、あァ。そっちっすか」
軽井沢は、なぜか露骨にほっとした顔をした。いや、だから、どうしてそちらが顔色を悪くしていたのだろう。
私は首をかしげたが、追及する前に、案内してくれていた先生がこちらを振り返った。
「お二方、すみません。もう開始の時間ですので、少し急ぎ目にお願いいたします」
「あっ、すみません。分かりました。行きましょうか」
私は扉に手をかけ、ゆっくりと押し開けた。軽井沢を連れて、体育館の中へと足を踏み入れる。
そこには、すでに大勢の生徒たちが集まっていた。私たちが入ってきたことに気づくと、ざわざわとした話し声が少しずつ小さくなっていく。
体育館の脇を通り、先生の指示に従って、教師たちが並ぶ列の横に立った。
やがて、司会の先生がマイクを手に取る。
暴力団排除・薬物乱用防止教室。その開始を告げる言葉が、体育館に響き渡った。
背筋を伸ばし、正面を向いた。桜ヶ丘高校は、進学校として知られている。近隣の町から通ってくる生徒も多く、学力だけでなく、進路への意識も高い。だからこそ、薬物や暴力団に関する知識を身につけてもらうことには、大きな意味がある。
……それにしても。
「えっ、あれが犬井ハル、存在したんだ」
「ちっちゃ……。本当に二十八歳なの?」
「耳、動いてる。かわいい……」
「SNSで見たことある!この前、警察の動画に出てた人でしょ?」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
主に、さくら町以外から進学してきた一年生だろう。
さくら町の中学校から進学してきた生徒や、二年生以上の生徒たちは、そこまで騒いでいない。私のことを知っている人もいるだろうし、昨年も同じような講演を行っているから、珍しくないのだろう。
視線を向けると、興味深そうにこちらを見ている生徒もいれば、隣の友人に何かを話している生徒もいた。
少しばかりの好奇心。驚き。親しみ。感情を読み取ってみても、概ね好意的なものばかりだ。
……そうだ。昨年も、こうだった。
私は警察官として、ここに来ている。高校時代の私を知っている人もいるかもしれないけれど、今の私は、あの頃の私とは違う。
わざわざ昔のことを思い出して、気にする必要なんてない。そう自分に言い聞かせ、私は講演に臨んだ。
講演そのものは、滞りなく終わった。暴力団が若者を勧誘する手口。SNSを利用した犯罪への関与。違法薬物の危険性。そして、身体能力を高めるという触れ込みの薬物が、どれほど危険なものであるか。
軽井沢と役割を分担しながら、具体例を交えて説明していく。生徒たちは、思っていた以上に真剣に耳を傾けてくれた。
中には、質問の時間になると積極的に手を挙げる子もいたし、講演後に資料を見直している子もいた。これなら、今日の目的は十分に果たせただろう。
そう思っていたのだけれど。
「犬井さん、実はお願いがありまして……」
講演後、担当の先生から声をかけられた。
「はい、何でしょうか?」
「講演の感想を各学年の教室で書かさせているですが……その、犬井さんとお話ししたいという生徒が、想像以上に多くてですね」
「……私と、ですか?」
「はい。もちろん、全員と長時間お話ししていただくのは難しいと思います。ただ、少しだけでも教室を回っていただけないかと」
なるほど。
講演を聞いて疑問に思ったことを質問したいのかもしれないし、普段から警察官に興味を持っている子もいるのだろう。それに、私自身も学生時代、現役の警察官と話す機会があれば、いろいろと聞いてみたいと思ったかもしれない。
「分かりました。できる範囲でよければ」
「ありがとうございます!」
こうして、私と軽井沢は、先生に連れられて各学年の教室を回ることになった。
学力別に四クラスずつ、三学年。全部で十二クラスだ。……なかなかの数である。
「いやァ、人気者は大変っすねェ、ハル先輩」
「からかわないでください。貴方も一緒ですからね」
「俺はついででしょうに」
「そんなことありませんよ。せっかくなので、二人で行きましょう」
「……そういうところっすよォ」
軽井沢が何やら小さくぼやいていた。
最初の教室では、薬物に関する質問がいくつか出た。次の教室では、警察官になるために必要なことを聞かれた。その次では、獣人警察官として働くことの難しさについて質問された。
どの教室でも、私はできる限り丁寧に答えた。自分の経験を話すときには、少しだけ言葉を選んだ。
今の高校生たちが、私と同じような思いをする必要はない。けれど、過去にそういうことがあったという事実まで、なかったことにするべきではないと思う。だから、差別的な言葉を受けたことも、何も言い返せなかったことも、必要があれば話した。
それでも、話を聞いている生徒たちの反応は、私が高校生だった頃とは違っていた。
眉をひそめる子。悔しそうな顔をする子。そんなことがあったのかと、驚く子。
時代は、少しずつ変わっている。それはきっと、悪いことではない。そう思いながら、私は最後の教室へと向かった。
三年生の教室だった。大学受験を控えた生徒たちが、講演の感想を書き終えたり、友人同士で内容を振り返ったりしている。
私たちが入室すると、何人かの生徒が顔を上げた。その中に、一人、すっと立ち上がる男子生徒がいた。
背が高い。姿勢がよく、肩幅もしっかりしている。無駄な肉のない、さっぱりとした筋肉質の体つき。短く整えられた髪と、まっすぐこちらを見つめる目。爽やかな印象の、好青年だった。
彼は私の前まで歩いてくると、少し緊張した様子で口を開いた。
「俺、来年から東京の大学に行くんです」
「そうなんですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます。それで……東京に行く前に、もう一度、ハルさんにこの話をするって決めていたんですよ」
私は、彼の顔をじっと見た。見覚えがあるどころではない。小学生の頃から、何度も顔を合わせてきた子だ。
警察学校を卒業して、さくら交番に配属されたばかりの頃。町内を巡回していた私に、何度も話しかけてきた男の子。
小学生の間は、交番に来るたびに顔を見せた。中学生になってからも、高校生になってからも、私が学校で講演をするたびに、必ずと言っていいほど声をかけてくれた。
そして、そのたびに。私に、告白してくれた。
「……久しぶりですね。虎丸君」
彼の表情が、ぱっと明るくなった。
「覚えていてくれたんですね!」
「もちろんです。初めて会った頃から、随分と大きくなられて……」
「そう、初めて会ったのは俺が小学三年生の頃でした」
少し照れたように笑った。
「そこからずっと、好きでした」
私は、思わず瞬きをした。
この展開は、知っている。知っているのだけれど、何度経験しても、どう反応していいのか分からない。
――虎丸君は、私が警察官になってから、ずっとこうだった。
最初に告白されたのは、彼が小学生の頃。交番で交通安全の話をしたあと、帰り際に突然、「大きくなったら、ハルさんと結婚します!」と言われたのだ。
もちろん、そのときは子どものかわいらしい憧れだと思った。それから数年後、中学生になった彼は、今度は少し真剣な顔で告白してきた。高校生になっても、それは変わらなかった。昨年も、講演のあとに告白された。
そのたびに、私は丁重にお断りしてきた。
けれど。今、目の前にいる彼は、以前とは比べものにならないほど大きくなっていた。
身長も、体格も、表情も。小さな男の子だった彼が、いつの間にか一人前の青年になっている。
それなのに、私に向ける目だけは、昔と変わらなかった。まっすぐで、真剣で。冗談や、罰ゲームで言っているようには、とても見えない。
私は、ふと、別の男の子のことを思い出した。同じように体格が良くって。
――お前、チビだよな。
――小学生みたいな身体してるくせに。
――おい、犬井。もし俺が、お、お前のこと好きだって言ったら、どう思う?
いつも私に突っかかってきたあの子の、卒業式での言葉。どうして、今になって思い出すのだろう。
私は目の前の虎丸君を見つめた。そして、少しだけ、昔の自分に戻ったような気持ちになった。
「……これも、意地悪……ですか?」
「え?」
「あっ、いえ。何でもありません」
思わず口からこぼれた言葉に、虎丸君が首をかしげる。私は慌てて首を横に振った。
違う。彼は、あの子ではない。
目の前の彼が、何年もかけて私に気持ちを伝えてくれていることは、知っている。別の話だ。
でも、あの頃の私にとって、同年代の男の子から向けられる好意など、考えたこともなかったから。あんなふうに私を傷つけてくる男の子が、私を好きになるなんて。そんなこと、あるはずがないと思っていた。
もしも、あの言葉が。あの態度が。全部、私に気づいてほしかったからだと言われたら。
……私は、どうすればよかったのだろう。私の返事に、傷ついたような顔をして、かつての彼は去って行った。それから、彼の動向は知らない。
考えても、答えは出ない。
そして、今は目の前の彼に向き合わなければならない。
教室の中は、いつの間にか静かになっていた。どうやら毎年恒例の虎丸君の告白を、周囲の生徒たちもよく知っているらしい。茶化すような視線を向けてくる子もいれば、面白がって成り行きを見守っている子もいる。
その中で、軽井沢だけは。
……なぜか、鬼のような形相をしていた。
いや、怖い。どうしてそんなに怒っているのだろう。
虎丸君は、周囲の様子など気にしていないようだった。彼は一度深呼吸をすると、私に向かって手を差し出した。
「ハルさん。どうか、俺と恋人になってくれませんか!」
真剣な声だった。真っ直ぐな目だった。何年も、何年も。何度断られても、諦めずに伝え続けてきた言葉。その重みを、私は知らないわけではない。
だからこそ。だからこそ、私は、いつもの言葉を口にする。
「……すみません。私のような年寄りに、そんなふうに好意を寄せてくれて、ありがとうございます」
「年寄りって……」
「ですが、私は、自分より強い人のほうが好みなんです」
虎丸君の表情が、ぴたりと止まった。私は申し訳なさを感じながら、軽く頭を下げた。
「ごめんなさい」
……これで、いい。これで、いつもどおりだ。
私より強い人間は、ほとんどいない。少なくとも、生身の人間が相手なら、私が本気で力比べをして負けることはないだろう。
だから、この条件を出せば、たいていの人は諦めてくれる。相手を必要以上に傷つけることもなく。誰も悪者にしないまま、終わらせることができる。そう思って、私は何度もこの言葉を使ってきた。
けれど。
「……まだ、足りませんか。分かりました」
虎丸君は、しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと手を下ろした。
「俺、もっと鍛えます。来年から東京ですけど、帰ってきたら、また挑戦しますから」
「……はい」
「そのときは、よろしくお願いします!」
彼は、最後まで爽やかに笑っていた。その顔を見ていると、どうにも申し訳ない気持ちになってしまう。
……本当に、困った子だ。私は、もう一度だけ頭を下げた。
教室の中から、小さな拍手が起こる。誰かが「今年もダメだったか」とつぶやき、別の誰かが笑った。虎丸君は、照れくさそうに、でも心の奥に悲しみを秘めた表情で、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送ってから、私はようやく息を吐いた。これで、今日の仕事は終わり。
……そう思っていたのだけれど。隣から、ものすごく冷たい視線を感じる。恐る恐る振り返ると、軽井沢が、まだ鬼の形相をしていた。
「……軽井沢巡査?」
「……何でもないっすよォ」
いや、何でもない人の顔ではない。明らかに何かある。けれど、今ここで問い詰めるわけにもいかないので、私は先生に挨拶をして、教室をあとにした。
廊下を歩きながら、ふと、窓の外を見た。グラウンドでは、体育の授業をしている生徒たちが走り回っていた。
あの頃と同じように。私が傷ついた言葉も、嫌な思い出も、きっと、今の生徒たちには関係のないことだ。
それでいい。過去は過去だ。私は、今の自分にできることをすればいい。
……それなのに。胸の奥に残った小さな棘は結局、どうしても抜けてくれなかった。
帰り道。私はパトカーを運転しながら、隣に座る軽井沢の様子を横目でうかがっていた。
行きのときは、私の顔色が悪いことを心配してくれていた。それなのに、今はどうだろう。窓の外を眺めているものの、どこか不機嫌そうだ。
さっきから、ほとんど口を開かない。
……いや、普段からずっとしゃべっている人というわけでもないけれど。それでも、今日の軽井沢は明らかに様子がおかしかった。
「……軽井沢巡査」
「はいィ?」
「少し、聞いてもいいですか?」
「どうぞォ」
「あの、さっきから何か怒っていますか?」
「……怒ってないっすよォ」
「そうですか?」
「ええ。全然」
声が低すぎる。絶対何か怒っている。こわい。
私はハンドルを握り直し、しばらく考えたあと、別の話題を振ってみることにした。
「……あの、軽井沢じゅ」
「……ねぇ、先輩ィ」
私の言葉を遮るように、軽井沢が口を開いた。
「あんなこと言って、良かったんすかァ?」
「……あんなこととは?」
「強い人が好み、ってやつっすよォ」
ああ、そのことか。私は、少しだけ肩の力を抜いた。
「大丈夫ですよ。いつものことですから」
「いつものこと、ねェ……」
「はい。ああ言えば、大抵の人は諦めてくれますから」
「……そりゃ、そうでしょうねェ」
軽井沢は、窓の外を見たまま、ぽつりとつぶやいた。
私は、その横顔を見た。何か言いたげな表情だった。
「……どうしました?」
「いやァ。あの子、結構本気っぽかったんで」
「ええ。それは、分かっています」
「分かってるんすかァ?」
「はい。小学生の頃から、ずっと告白してくれていますから」
「……ずっと、ねェ」
軽井沢は、そこで一度言葉を切った。それから、少しだけ声の調子を変えた。
「他の学生から聞いたんすけどねェ。去年、先輩に振られたあとも、身体を鍛えて頑張ってきたらしいっすよ」
「……そうなんですか」
それは、初耳だった。私は、思わず前方から視線を逸らしかけ、慌てて道路に戻した。信号が青に変わり、パトカーがゆっくりと走り出す。
虎丸君が、私に告白するために努力してきた。そのこと自体は、決して悪いことではない。むしろ、何年も同じ気持ちを持ち続けてくれているのだから、すごいことだと思う。
ただ。
「……でも、難しいでしょうねェ」
軽井沢の声が、車内に落ちた。
「人間の身体じゃ、限界があるんで」
「……そう、ですね」
私は、小さくうなずいた。獣人と人間では、身体能力に大きな差がある。もちろん、個人差はあるし、人間の中にも優れた身体能力を持つ人はいる。
それでも、純粋な力比べとなれば、獣人が有利になることが多い。
私の場合は、さらに事情が違う。
小柄な見た目に反して、身体能力はかなり高い。警察官としての訓練も積んでいるし、力の使い方だって知っている。虎丸君がどれだけ鍛えたとしても、私に勝つのは難しいだろう。
……だからこそ、あの言葉を使っている。
彼が諦めるための理由として。
私が断るための、もっとも穏便な方法として。
それは、決して間違っていないはずだった。
「ハル先輩って、そういうところ、優しいっすよねェ」
「え?」
「相手を傷つけないように、わざわざ理由をつけて断るところ」
「そんな、大したことではありませんよ」
「いやァ、普通はもっとはっきり断るもんじゃないっすかァ?」
「それでは、相手が傷ついてしまうでしょう?」
「……まあ、そうっすねェ」
軽井沢は、そこで黙った。
私は、少しだけ安心した。いつもの軽井沢に戻ってくれたのかもしれない。
窓の外を眺めたまま、胸の内で別のことを考えていた。
――普通の人間なら、可哀想なもんだ。どれだけ努力しても、どれだけ鍛えても。
この先輩を振り向かせることは、そう簡単ではない。ましてや、身体能力を条件にされてしまえば、なおさらだ。
だが。俺なら、確実に先輩より強い自信がある。ゆっくりと、自分の手を見下ろした。
獣人としての身体能力。現場で培ってきた経験。そして、いざというときに相手を制圧するための技術。
そのどれを取っても、自信があった。模擬戦でも何でも、理由をつけて先輩を呼び出す。そこで力比べをして、自分が勝つ。そうすれば、少なくとも条件は満たせるはずだ。
――まあ、そんなことをしたら、正義先輩にぶん殴られそうっすけどねェ。
軽井沢は、頭の中で佐藤巡査長の顔を思い浮かべ、少しだけ口元をゆがめた。そもそも、そんなやり方が許されるはずもない。相手の同意もなく力で押さえつけるなど、警察官として論外だ。
……それに。
ハル先輩が、あの言葉を本気で言っているわけではないことくらい、軽井沢にも分かっていた。
彼女は、断るために言っているのだ。相手を傷つけたくないから。自分を諦めてもらうために。
だから、彼女自身はきっと、あの言葉がどれほど人の心を動かすのか、あまり分かっていない。
そして、この町には。その言葉を、本気で受け取ってしまう人間もいるだろう。
虎丸のように、何年も彼女を想い続ける人間。あるいは、彼女の評判を聞きつけ、勝負を挑もうとする人間。
自分なら彼女に勝てる。自分なら彼女を振り向かせられる。
そう考える者が、これから現れないとは限らない。
――ああ、もう。
軽井沢は、内心でため息をついた。
この先輩は、本当に厄介だ。自分がどれほど目立つ存在なのか、どれほど人を惹きつけているのか、あまりにも無自覚すぎる。
それでいて、他人の気持ちには敏感で、傷つけないようにと気を遣う。その優しさが、時には余計な誤解を生むことだってあるのに。
隣では、ハル先輩が真面目な顔で運転を続けている。
小さな身体。犬の耳。揺れる尻尾。
本人は、いつもどおり仕事のことを考えているのだろう。
……まったく。可愛らしい先輩だ。そして、身持ちの堅い先輩でもある。
軽井沢は、胸の奥に湧き上がった感情を、そっと押し込めた。自分が彼女に惚れていることは、もう否定しようがない。だからこそ、彼女の優しさが誰かを傷つけることも、自分の知らないところで面倒事を引き起こすことも、できれば避けたかった。
「……先輩ィ」
「はい?」
「これから、ああいう告白があったら、俺にも相談してくださいよォ」
「相談、ですか?」
「先輩、そういうの、一人で抱え込みそうなんで」
「……ふふ。ありがとうございます。でも、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
ハル先輩は、いつものように柔らかく笑った。その穏やかな笑顔を見て、軽井沢はますます複雑な気持ちになった。
――そういうところなんすよォ……。
言いたいことは、山ほどあった。けれど、結局、口には出せなかった。
パトカーは、午後の日差しを受けながら、さくら町へと戻っていく。今日も、いつもどおりの仕事が終わろうとしていた。
ただ、軽井沢の胸には、どうにも嫌な予感が残っていた。毎年言っているあの言葉を、本気で受け取ってしまう人もいるだろう。そして、いつ噂やSNSで広まっても不思議では無い。
そして、いつか。
その言葉を理由に、ハル先輩の前に立ちはだかる人間が現れるのではないか。そんな予感を、どうしても拭い去ることができなかった。