船体がひときわ大きく揺れた。ふたりの体が軽くぶつかる。
甲板を駆ける足音。船員たちの怒声。
ただの揺れではない——ソルは肌でそれを察した。
船長が悪態をつく。
「ちっ、もう嗅ぎつけやがったか」
船長はふたりに言った。
「坊主、嬢ちゃん、船から振り落とされるなよ」
ふたりの表情が強張る。
「野郎ども、さっさと配置につきやがれ!」
誰も何も言わなかったが、気づけば互いの手を握っていた。
船体の真下で、巨大な影が泳いでいる。
「餌を撒け!」
魚の死骸が詰まった樽が三本、海へ投げ落とされた。海面が赤く染まる。
続けて、動物の脂が大量に流し込まれた。
それらは海流に乗って流れ、影はゆっくりと、確実に追っていく。
その間に、船員たちは大砲を構えた。
五門の大砲が、牙のように船体から砲身を突き出す。
「砲撃準備!」
砲弾が込められ、砲口が巨大な影へ向けられる。
船長の号令を、誰もが息を止めて待っていた。
海面が裂け、巨大な影が浮き上がった。
その乳白色の軟体生物は、蒸気船よりも大きい。
血のように赤い瞳が怪しげに光った。
それは、『海の怪物』と囁かれる深海のヌシだった。
船長は目を細めて言い放つ。
「撃てぇ!」
轟音が響き、船体が大きく揺れた。
ふたりは身を丸めたが、握り合った手は離さない。
砲撃が命中する。深海のヌシは火に包まれ、苦痛の咆哮が夕暮れの海に響いた。
まだ終わっていない。
ヌシは海中に沈み——その瞬間、白い触腕が船体を目指して伸びてくる。
蒸気船を、海の底へ引き摺り込もうとしていた。
船長は迷わず銃を抜いた。
「俺の船に乗りたきゃ、銀貨一ルミナだ」
狙いを定め、引き金を引く。
銃声。
触腕はびくりと跳ね、海中へ消えた。
それきり、ヌシが再び姿を現すことはなかった。
「野郎ども、次から航行する時間帯と進路を変える。警戒を怠るな」
「へい!」
船員たちの声が、嘘のように落ち着いていた。
船長がふたりに声をかけた。
「進行方向を見てみろ。あれがアクアレインだ」
ふたりは恐る恐る顔を出した。
水都アクアレインの港が見えた。
夕闇の中、街灯の灯りがぽつぽつと灯っている。港には蒸気船が一艇停泊していた。
たった今まで命の取り合いをしていたとは思えないほど、その光景は穏やかだ。
ふたりを乗せた蒸気船は緩やかに速度を落とし、港に停泊した。
船員がロープを投げ、渡り板を架ける。
船長がスキットルを片手に、ふたりの元へ近寄った。
酒臭い息を吐きながら告げる。
「着いたぜ、降りな」
「わかった」
ふたりは荷物をまとめ、渡り板を確認しながら蒸気船を降りようとした。
「坊主、宿は『さざ波の宿』にしときな」
「え?」
船長が街の通りを指さす。
「あっちへ行けば、小さな噴水が見えてくる。ボロい看板が目印だ」
酒を一口飲んでから、大きく息を吐いた。
酒臭さにふたりは思わず顔を顰める。
「世の中には、子どもを騙す悪い大人もいる」
船長はポケットに手を突っ込み、銀貨二枚をチラつかせた。
「この俺のようにな」
大声で笑い、その場を後にする。
「ソル、行こう。私、お腹空いちゃった」
「でもっ!」
マーニは笑顔を作り、首を横に振った。
「行こう。ね?」
「……わかった。マーニ、揺れるから足元に気をつけろよ」
「うん」
ふたりは船を降りた。
ソルが不満を口にした。
「こんな船、乗るんじゃなかった!」
マーニが目線を落とす。
「あの人の言い分を信じた私が悪いの。ごめんね、ソル」
「いや、マーニは悪くない!」
マーニがソルの顔をまっすぐ見た。
「騙すほうも悪いけど、騙されるほうも悪いんだよ」
船を見上げて微笑む。
「それに、本当に悪い大人なら、最後まで何も言わなかったと思うよ」
ソルは深呼吸をし、気持ちを切り替えた。
「今回は俺も信じてしまったし、次からは気をつけるよ」
「うん、お腹空いたし、早く行こう」
「そうだな」
石造りの道に、こつんこつんと靴音が響く。
潮風から建物を守るための白い塩の壁が建ち並び、窓の向こうに灯りと人の気配があった。
ふたりは辺りを見回しながら歩いた。
装備を身に着けた旅人とすれ違い、ソルはその姿を目で追う。
マーニが咳払いをした。
「ソル、そんなにジロジロ見たら失礼だよ」
「悪い……」
ソルは革の胸当ての傷んだ箇所に触れ、静かに息を吐いた。
「高価な装備だと思って、つい見惚れてしまった」
「いつまでも剣を持ったままなのは不便だし、防具が胸当て一つじゃ不安だね。私のほうはまだいいけど、ソルのはボロボロだよ」
「野蜂の巣に石を投げつけた時だったな。村長に怒られたっけ」
「顔中腫れていたし、みんな心配したんだよ」
「あれが琥珀蜂じゃなくてよかったよ」
マーニはソルをじっと見つめる。
「あの時、私まで注意されたんだからね」
ソルは気まずそうに視線を逸らし、噴水を指さした。
「あの噴水かな。店の名前は何だっけ?」
「さざ波の宿だよ」
目当ての宿を見つけ、ふたりは足を止めた。
年季の入ったその建物を前に、ふたりは顔を見合わせる。
「マーニ、俺たち騙されてないよな?」
「そう……だと思うよ」
その時、ドアの隙間から料理のいい香りが漂ってきた。
ふたりのお腹の虫が、同時に鳴る。
「このまま突っ立っていても何も始まらないな」
「うん」
ソルはドアに手を伸ばし、ふたりは中に入った。
温かみのある木造の内装に、淡い緑の壁紙が貼られている。
足元の絨毯には細かな泥汚れが染みついており、多くの旅人が行き交ってきた跡が残っていた。
左手から食堂の賑わいが聞こえ、中央の受付は温かな灯かりに照らされ、右手には上階へ続く階段がある。
受付の男が笑顔でふたりを出迎えた。
「いらっしゃい。初めて見る顔だね」
ソルは首を縦に振った。
「それなら簡単に説明するよ。うちは宿泊と食事を提供している。宿泊する場合は、サービスとして料理の値段を安くしているが、どうする?」
マーニが一歩前に出た。
「料金を教えてください」
「宿泊は一人、銀貨一ルミナ。今は個室しか空いていない。食事の料金は食堂の者に尋ねてくれ」
ふたりは顔を見合わせて頷いた。
マーニが代金を支払うと、受付は鍵を二本手渡す。
鍵には部屋番号が彫られていた。
「部屋は三階にある。物が盗まれてもうちでは責任が取れないので必ず施錠してほしい。騒いで苦情が来たら追い出すのでそのつもりで」
「わかりました」
マーニはソルに鍵を一本手渡した。
「ソル、荷物を置いてから食堂へ行こう」
「どんな料理があるのか楽しみだな」
ふたりは部屋に荷物を置き、施錠してから食堂へ向かった。
ソルの足取りは自然と軽くなっていた。