夜風に紛れて、微かな金木犀の匂いが漂っていた。
珠世は町から幾つも山を隔てた庵で、繕いかけの布に針を通していた。半月後に控えた祝言――恋雪が「人として生きる」と決めた、その節目の少し後。頃合いを見計らって一人で会いに行くつもりでいる。祝いの品はすでに用意してあった。恋雪が笑う顔を思い浮かべるだけで、珠世の口元にも自然と小さな笑みが浮かぶ。
その手が、不意に止まった。
町の方角から、途方もなく禍々しい気配が押し寄せてきたのだ。無惨だった。長い年月の中で、骨の髄まで刻み込まれたあの気配を、珠世が間違えるはずもない。針を持つ指先が、意思とは関係なく震え出す。
息を詰めた刹那、もうひとつの気配が、それに折り重なるように立ち上った。
新しく生まれた鬼のものだ。しかも、生まれたばかりとは思えぬほどの禍々しさを孕んでいる。珠世は目を見開いたまま、しばらく動けなかった。無惨の気配と、生まれたての化け物の気配が、同じ場所――恋雪たちの暮らす町の方角から、絡み合うようにして立ち上っている。
まさか。
恋雪の顔が浮かぶ。次いで、あの生真面目な若者の顔も。珠世は首を振ってその考えを追い払おうとしたが、一度浮かんだ疑念は消えず、むしろじわりと胸の底に沈んでいく。確かめに行きたい。今すぐにでも駆け出したい衝動が、指先まで痺れさせる。だが、その衝動を上回る冷静さが、珠世の足を凍りつかせていた。
自分にはまだ、無惨に抗う術がない。頼れる仲間もいない。今この状態で迂闊に近づけば、恋雪たちを救うどころか、無惨の目に留まって全てを終わらせてしまう。それだけは、絶対に避けねばならない。
珠世は繕いかけの布を静かに膝の上に置き、そのまま長く息を吐いた。歯の根が痛むほど奥歯を噛みしめながら、庵の戸口から一歩も動かずに夜が明けるのを待つことにした。
無惨の気配が薄れ、やがて完全に消え去ったのは、それからしばらく後のことだった。だが、珠世の警戒は解けない。むしろ深まっていく。
数日が過ぎても、珠世は町に近づかなかった。近づけなかった、と言うほうが正しいのかもしれない。無惨がまだ付近に潜んでいる可能性を、捨てきれずにいたからだ。それでも気配だけは、絶えず遠くから探り続けていた。夜ごと目を閉じ、意識を町のある方角へと伸ばす。何か異変があれば、すぐにでも気づけるように。
新しい鬼の気配は、時折思い出したように揺らいだ。まるで、まだ自分の力を持て余しているかのように。その揺らぎを感じ取るたび、珠世の胸に浮かぶ疑問は膨らんでいった。あれは、本当にあの若者なのだろうか。だとすれば、恋雪は――。
考えが行き着く先に蓋をするように、珠世は目を開けた。分からないことを、いくら想像したところで仕方がない。今は、動くべき時ではない。ただ、その日が来るまで、気配を絶やさず見張り続ける。それだけが、今の自分にできる唯一のことだった。
祝いの品を包んだ布は、結局解かれないまま、庵の隅に置かれ続けた。
気配が完全に消え去ったのを見届けてからも、珠世はなお数日を数えた。用心に用心を重ねる。それは臆病さではなく、これまで幾度となく命を拾ってきた者だけが持つ、染みついた慎重さだった。
江戸の慣いに則れば、亡骸は幾日か経てば弔われる。土に還す儀式まで終えているだろう、その頃合いを見計らって、珠世はようやく庵を出た。夜道を辿る足取りは、いつになく重い。行く先に何が待っているのか、薄々察してはいたが、それでも進まねばならなかった。
町に入るのは、日が完全に落ちてからだ。珠世は人でなくなったこの身を陽の下に晒すことができない。だからこそ、夜だけが珠世の時間だった。
町は、表向きは落ち着きを取り戻しているように見えた。しかしその静けさの奥に、まだ生々しい何かがくすぶっている。夜更けまで灯りの消えない飲み屋の障子越しに、酒に呑まれた声が漏れ聞こえてくる。珠世は闇に紛れ、軒先から軒先へと渡り歩きながら、その声の欠片を拾い集めていった。
「玄武道場のなあ……あれは一晩で終わったって話だぜ」
「誰がやったんだ、あんな」
「素流の、あの若いのだろう。腕っぷしはとんでもねえって噂だったし」
酒臭い息と共に交わされる噂話は、断片的で、時に矛盾していて、それでも繰り返し語られるうちに、ひとつの輪郭を持ち始めていた。玄武道場で、一夜のうちに大勢の人間が命を落としたこと。手にかけたのは、隣の素流道場に拾われた、あの若者だったらしいこと。珠世は闇の中で、その名を口にする声を待ったが、誰もはっきりとは言わなかった。ただ「あの若いの」とだけ。
別の店先では、もう少し詳しい話が交わされていた。
「橋の上でな、血だらけの足跡がぷっつり消えてたんだと。欄干のところで」
「川に飛び込んだってことか」
「そうよ。許嫁を亡くしちまって、後を追ったんだろうって話だ。可哀想にな」
珠世は柱の陰で、その言葉を胸の内で繰り返した。遺体は見つかっていない。それでも町の者たちは、もう答えを出してしまっている。後追い自殺――そう結論づけることで、この一件に区切りをつけようとしているかのようだった。珠世の内には、そう単純に片付けてよいものかという違和感が、拭いきれずに残る。
さらに歩を進めた先、遊女らしき者たちが、声を潜めて話し込んでいる一角があった。
「毒だってさ、井戸に入れられたのが」
「先に逝ったのは道場主のほうだったってねえ」
「娘さんは、しばらく苦しんでいたらしいよ。誰かが聞いた話じゃ、すずり箱を開けて、中身が空っぽで……そのまま、一人で」
言葉はそこで途切れ、代わりに重い沈黙が落ちた。誰も、その先を続けようとはしなかった。珠世は物陰に立ち尽くしたまま、拳を握りしめる。爪が掌に食い込むほどに。空になったすずり箱を前にして、助けを呼ぶ声すら上げられなかったであろう少女の姿が、勝手に瞼の裏に浮かび上がってくる。それは想像でしかなかったが、想像だけで十分すぎるほどだった。
町の者たちは、噂話をひとしきり終えると、また何食わぬ顔で杯を傾け、店員は洗い物に戻っていった。彼らにとってそれは、もう過ぎ去った悲劇のひとつに過ぎない。少し経てばまた別の噂に取って代わられる、そういう類の話だ。
だが珠世にとっては、そうではなかった。
珠世は闇の奥へと後退りながら、拾い集めた言葉の欠片を、静かに胸の内で組み立て直していく。慶蔵が先に。恋雪が、空のすずり箱の前で。狛治が、橋の上で姿を消した。どれもが伝聞で、どれもが又聞きで、確かなことは何ひとつない。それでも、そのひとつひとつが、珠世の足を墓のある方角へと引き寄せていった。
墓地へと続く夜道を辿りながら、珠世の意識はふと、少し前の記憶へと引き戻されていった。
あれは、まだ月のきれいな晩だったと思う。恋雪の住む道場を訪ねると、いつものように床から半身を起こした恋雪が、珠世の来訪に気づいて目を輝かせた。その頃にはもう、発作の間隔もずいぶん空くようになっていて、頬にも以前より色が差していた。珠世が枕元に腰を下ろすと、恋雪はもじもじと着物の袖を弄びながら、なかなか本題を切り出そうとしなかった。
「あの……珠世さん」
「なあに」
「実は……祝言を、挙げることになりまして」
言葉にした途端、恋雪の顔が耳まで赤く染まった。俯いたまま、それでも隠しきれない喜びが口元から零れ落ちてくる。珠世は思わず息を呑んだ。目の前の少女――いや、もう少女と呼ぶには大人びてきた娘は、まるで別人のように晴れやかな顔をしていた。出会った頃の、あの諦めと覚悟だけを瞳の奥に沈めていた面影は、もうそこにはない。
「そう。おめでとう」
珠世がそう告げると、恋雪はますます顔を赤くして、それでいて隠しきれない笑みを浮かべた。しばらく二人で他愛のない話をした。祝言の支度がどれほど大変か、慶蔵がどれほど張り切っているか、狛治がどれほど不器用に照れているか――恋雪は身振り手振りを交えながら、まるで少年のように快活に語った。珠世はただ相槌を打ちながら、その声に耳を傾け続けた。
ふいに、恋雪の声が少しだけ静かになった。
「珠世さん。わたし、もう……あの薬は、使わないと思います」
珠世は驚いて顔を上げた。恋雪は窓の外に視線をやりながら、どこか吹っ切れたような、それでいて少し寂しさの滲む横顔で続けた。
「人として、生きていこうと思うんです。狛治さんと一緒に。ずっと、ずっと先まで」
その言葉には、迷いがなかった。恋雪の瞳の中には、以前まで揺らめいていた不安の影が見当たらない。代わりにあったのは、これから続いていくはずの、ありふれた日々への確かな期待だった。子を産み、老い、病に倒れ、いつかは死ぬ――そんな当たり前の人としての一生を、恋雪はようやく自分のものとして受け入れようとしていた。
珠世はその横顔をしばらく見つめていた。眩しかった。人ならざる身になって幾星霜、珠世が捨て去ったはずのものを、この娘は今まさに手にしようとしている。老いること、死ぬこと、限りある時の中で誰かと共に生きること――それらはかつて珠世自身も持っていたはずのものであり、そして無惨によって永遠に奪われたものでもあった。恋雪の言葉ひとつひとつが、忘れかけていたその眩しさを、静かに珠世の胸の奥に呼び覚ましていく。
羨ましい、と思った。同時に、誇らしくもあった。この娘が選び取ったのは、鬼としての力ではなく、人としての儚さだ。それでいい。それがいい。珠世は心の中でそう繰り返しながら、努めて穏やかな声で言った。
「そう。それがいいと思います」
多くの言葉は要らなかった。珠世はただ、「今度、ささやかな祝いの品を持ってきますね――」と告げる。恋雪はその言葉を受け取ると、こぼれるような笑顔でもう一度礼を言った。
その夜、月明かりの下を歩いて帰る珠世の足取りは、いつになく軽かった。
――それが、恋雪との最後の会話だった。
墓地へと向かう暗い夜道の上で、珠世はその事実を、今更のように噛み締める。あの晩交わした言葉のどれもが、二度と交わせないものになってしまった。人として生きると誓った娘の眩しい笑顔だけが、珠世の中に取り残されたまま、行き場をなくして揺れていた。
墓地は町外れの小高い場所にあった。夜露に濡れた下草を踏みしめながら、珠世は迷いのない足取りで奥へと進んでいく。新しい土の匂いは、遠くからでも分かった。まだ馴染みきっていない二つの盛り土が、月明かりの下でひっそりと並んでいる。
珠世は膝をつき、そのうちの小さいほうへ手を伸ばした。土を掻き分ける手つきに迷いはない。だが、掌が座棺の蓋に触れる瞬間だけ、指先がわずかに強張った。この先に何があるのか、頭では分かっている。分かっていてなお、体が一拍だけ抵抗するのだ。
蓋を開けた瞬間、珠世の眉がぴくりと動いた。
異様な気配が、棺の中から漏れ出していた。仮死状態のはずの体から立ち上るその気配は、珠世が予想していたものとは違う。恋雪の体は、すでに変質を始めていた。皮膚の下で何かが蠢くように脈打ち、指先はところどころ黒ずみ、爪の形がわずかに歪んでいる。呼吸はない。それでいて、完全な死とも言い切れない、宙吊りのような状態が続いていた。
珠世は棺の縁に手をかけたまま、しばらく動けなかった。
――薬が、作用している。
恐らく、成功とはいいがたいあの試作薬は、まだ死の淵にあった恋雪の体に取り込まれ、鬼へと変えようとする力を、すでに勝手に働かせ始めていたのだ。珠世が手を下すまでもなく、恋雪の体は独りでに、人ならざるものへと変わりかけていた。だがその変化は、あまりに中途半端だった。鬼としての形も、人としての形も、どちらも定まりきらないまま、体の内側で互いを食い合っている。
これは危険だ、と珠世は即座に悟った。
不完全な鬼化は、時に本人の意思すら置き去りにする。理性が定着する前に肉体だけが目覚めれば、そこにあるのはただの獣に近い。飢えに突き動かされるまま、目についた人間に牙を立てる化け物と成り果てる可能性は、決して低くない。珠世自身、その手の失敗を幾度も見てきた。
珠世は棺の中の恋雪を、じっと見下ろした。
閉じた瞼の下で、恋雪はまだ何も知らない。人として生きると誓った、あの晴れやかな笑顔のままで、この身に何が起きているのかを知らないまま、ここに横たわっている。珠世の胸に、鈍い痛みが走った。
――もしもこのまま、恋雪が理性のかけらも持たぬまま目覚め、人を襲う獣に成り果てるのなら。
珠世の中で、ひとつの覚悟が静かに形を成していく。それだけは、絶対に許してはならない。あの晩、あの笑顔で「人として生きる」と告げてくれた娘を、ただの化け物として終わらせるわけにはいかない。もし今から施す処置がうまくいかず、恋雪の中身が失われたまま鬼だけが残ってしまうのなら――その時は、自分の手で終わらせる。誰かに任せることではない。恋雪をここまで巻き込んでしまった責めを、他の誰でもない自分が引き受けるべきだと、珠世は思い定めていた。
だが、まだ諦めるには早い。
珠世は懐から小さな包みを取り出した。あれから急ぎで作り上げた、鬼化を安定させるための術式――正式な血を与え、暴走しかけた変化を制御しながら理性の土台を編み込んでいく、珠世なりの手当てだ。急ごしらえもいいところだが、少しでも支えになる。そう信じるほかなかった。
珠世は静かに恋雪の首筋に指を這わせ、脈打つ気配の乱れを確かめる。荒れ狂う変化の奔流の中に、かろうじて残っている恋雪自身の輪郭を探り当てるように、慎重に、けれど迷いなく、己の血を与えていく。
「大丈夫。私が、ちゃんと連れて行くから」
誰に聞かせるでもない呟きが、闇に溶けて消えた。
処置を施す珠世の横顔は、月明かりの下でひどく静かだった。祈るような、それでいてどこか覚悟を秘めた表情のまま、珠世は夜が明けるまで、恋雪の傍らを離れなかった。
血を与え終えた珠世の指先に、ふと違和感が走った。
恋雪の体内で脈打っている気配――それは、たった今自分が注ぎ込んだばかりの力とは、明らかに質が異なっていた。珠世が知り尽くしているはずの、己の血の流れ方とは違う。それでいて、紛れもなくどこかで触れたことのある気配だった。
珠世は棺の縁に手をついたまま、しばし呼吸を忘れた。
自分が与えたものとは別に、恋雪の体にはすでに、何かが宿っていた。未完成ゆえの試作薬がその出所なのか、それとも、なにか別ものが作用していたのか。考えを巡らせても、答えらしい答えには行き着かない。珠世自身が把握しきれていない何かが、恋雪の中で静かに息づいている。その事実だけが、拭いようのない疑問となって胸の奥に沈んでいった。
だが今は、それを解き明かしている暇はない。
東の空が、わずかに白み始めていた。夜明けまでにこの場を離れなければ、人目に晒される危険がある。珠世は迷いを振り切るように棺の中へ両腕を差し入れ、恋雪の体をそっと抱き上げた。思っていたより軽い。人であった頃から、ずっと軽いままだった。その軽さが、珠世の腕の中でひどく頼りなく感じられる。
珠世は恋雪を布でくるみ、崩した土をもとに戻す間も惜しんで、夜の闇に紛れながら山道を急いだ。町からできるだけ離れ、人の気配のない場所――以前から用意してあった隠れ家へと、休むことなく歩き続けた。
隠れ家に着く頃には、空はすっかり明けきる寸前だった。珠世は奥の一室に敷いた布団に、恋雪の体をそっと横たえる。荒い息が自分の口から漏れていることに、珠世はそこでようやく気づいた。
恋雪は、眠っているように見えた。
胸は上下していない。脈も感じられない。それでいて、完全な死の静けさとも違う、奇妙な均衡の中に留まっている。珠世は枕元に座り込み、その寝顔をじっと見つめた。頬にはまだ、かすかな血の気が残っている。眉間に力みはなく、苦しんだ形跡は表情のどこにも見当たらない。ただ静かに、深い眠りに落ちているだけのようにも見えた。
成功したのか、失敗したのか。
珠世自身にも、それは分からなかった。処置が正しく働き、暴走しかけていた変化が理性の土台の上に落ち着いたのか。それとも、まだ内側では見えない綱引きが続いていて、目覚めた瞬間にすべてが崩れ去るのか。判断材料はどこにもない。ただ待つしかない、ということだけが確かだった。
珠世は布団の傍らに膝を崩し、恋雪の額にかかる髪をそっと払った。指先に触れる肌は、人であった頃の温もりとは違う、冷たく滑らかな感触に変わりつつある。それでも珠世は、その手を離さなかった。
「大丈夫。ゆっくりでいいから」
囁くような声は、誰に届くでもなく部屋の中に溶けていった。窓の外では、いつの間にか朝の光が薄く差し込み始めている。珠世はその光を避けるように部屋の奥へと身を寄せながらも、恋雪の傍らからは片時も離れなかった。
眠り続ける恋雪の顔を見つめる時間だけが、ただ静かに流れていく。珠世にできることは、もう祈ることだけだった。この娘の中で、人であった記憶と心が、鬼としての体に呑まれずに残ってくれることを。あの晩交わした、人として生きるという約束が、たとえ違う形になったとしても、どこかで続いていってくれることを。
夜明けの静寂の中、珠世はただじっと、生まれ変わろうとする少女の寝顔を見守り続けた。
***
――かくして、ひとつの時代が幕を閉じた。
拳ひとつで弱き者を守ろうとした男は、愛する者を喪った夜、その拳で全てを薙ぎ払い、闇の底へと姿を消した。病弱な体に抗い、ただ人として生きることだけを望んだ娘は、その願いすら遂げられぬまま、人ならざる眠りの中へと落ちていった。道場の確執も、交わされた約束も、注がれた祝いの言葉も――残酷な一夜のうちに、すべてが歴史の下へと埋もれてしまった。
素流の道場に、もう門を叩く者はいない。玄武の道場に、もう剣を振るう者はいない。町の噂話も、やがて風化し、語り継がれることさえなくなっていくだろう。人の営みとは、そういうものだ。悲劇は一時の噂となり、噂はやがて忘却へと呑まれていく。
だが、消えぬものもある。
隠れ家の奥深く、静かに眠り続ける少女の中には、かつて確かに交わされた誓いの記憶が、まだ息づいていた。とある未来の物語と、蓄えた無数の記憶の中に、人として生きようとした自分自身の想いもまた、そっと仕舞い込まれている。それは、いつか目覚める時のための、小さな灯火だった。
一方、闇の奥へと消えた男の行方を知る者は、この時代にはまだ誰もいない。無惨に見出され、新たな名を与えられ、拳ひとつで数多の刃を退けるほどの化け物へと変わり果てていくその姿を、この町の誰一人として目にすることはなかった。ただ、遠い未来のいつか、この男が「猗窩座」という名で呼ばれるようになることだけは、すでに定められた運命として、静かに時を待っていた。
月日は巡り、季節は幾度となく移ろい、江戸の世はやがて過去のものとなる。人の一生など、鬼にとっては瞬きにも似た一時に過ぎない。それでも、その瞬きの中に確かに刻まれた想いは、時を超えて色褪せることなく残り続ける。
――百年が経ち、二百年が経ち、更にまた月日が流れてもなお。
いつか、この物語の続きは、全く違う時代の景色の中で語られることになる。刀を携えた少年が家族の仇を追い、鬼と化した少女が兄である少年と共に旅を続ける。そして――かつて拳ひとつで弱者を守ろうとした男が、今度は大切な誰かを守れなかった悔恨を胸に、闇の中で凶拳を振るうことになる。
猗窩座にまつわる因果は、この夜から始まっていた。
猗窩座と恋雪の物語は、まだ終わってはいない。ここから始まる長い年月の果てに、二人が再びまみえる時――その時こそが、真にこの物語の名にふさわしい瞬間となるだろう。