恋雪にTS転生したので、猗窩座を救いたい人生だった   作:自分の性癖に素直になろう小説

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>10月11日の投稿2回目です。本日は2回投稿しております。

>エピローグ




第十八話 TS恋雪は狛治さんを救いたい人生だった

 

 夜風に紛れて、微かな金木犀(キンモクセイ)の匂いが漂っていた。

 

 珠世(たまよ)は町から幾つも山を隔てた庵で、繕いかけの布に針を通していた。半月後に控えた祝言――恋雪(こゆき)が「人として生きる」と決めた、その節目の少し後。頃合いを見計らって一人で会いに行くつもりでいる。祝いの品はすでに用意してあった。恋雪(こゆき)が笑う顔を思い浮かべるだけで、珠世(たまよ)の口元にも自然と小さな笑みが浮かぶ。

 

 その手が、不意に止まった。

 

 町の方角から、途方もなく禍々しい気配が押し寄せてきたのだ。無惨(むざん)だった。長い年月の中で、骨の髄まで刻み込まれたあの気配を、珠世(たまよ)が間違えるはずもない。針を持つ指先が、意思とは関係なく震え出す。

 

 息を詰めた刹那、もうひとつの気配が、それに折り重なるように立ち上った。

 

 新しく生まれた鬼のものだ。しかも、生まれたばかりとは思えぬほどの禍々しさを孕んでいる。珠世(たまよ)は目を見開いたまま、しばらく動けなかった。無惨(むざん)の気配と、生まれたての化け物の気配が、同じ場所――恋雪(こゆき)たちの暮らす町の方角から、絡み合うようにして立ち上っている。

 

 まさか。

 

 恋雪(こゆき)の顔が浮かぶ。次いで、あの生真面目な若者の顔も。珠世(たまよ)は首を振ってその考えを追い払おうとしたが、一度浮かんだ疑念は消えず、むしろじわりと胸の底に沈んでいく。確かめに行きたい。今すぐにでも駆け出したい衝動が、指先まで痺れさせる。だが、その衝動を上回る冷静さが、珠世(たまよ)の足を凍りつかせていた。

 

 自分にはまだ、無惨(むざん)に抗う術がない。頼れる仲間もいない。今この状態で迂闊に近づけば、恋雪(こゆき)たちを救うどころか、無惨(むざん)の目に留まって全てを終わらせてしまう。それだけは、絶対に避けねばならない。

 

 珠世(たまよ)は繕いかけの布を静かに膝の上に置き、そのまま長く息を吐いた。歯の根が痛むほど奥歯を噛みしめながら、庵の戸口から一歩も動かずに夜が明けるのを待つことにした。

 

 無惨(むざん)の気配が薄れ、やがて完全に消え去ったのは、それからしばらく後のことだった。だが、珠世(たまよ)の警戒は解けない。むしろ深まっていく。

 

 数日が過ぎても、珠世(たまよ)は町に近づかなかった。近づけなかった、と言うほうが正しいのかもしれない。無惨(むざん)がまだ付近に潜んでいる可能性を、捨てきれずにいたからだ。それでも気配だけは、絶えず遠くから探り続けていた。夜ごと目を閉じ、意識を町のある方角へと伸ばす。何か異変があれば、すぐにでも気づけるように。

 

 新しい鬼の気配は、時折思い出したように揺らいだ。まるで、まだ自分の力を持て余しているかのように。その揺らぎを感じ取るたび、珠世(たまよ)の胸に浮かぶ疑問は膨らんでいった。あれは、本当にあの若者なのだろうか。だとすれば、恋雪(こゆき)は――。

 

 考えが行き着く先に蓋をするように、珠世(たまよ)は目を開けた。分からないことを、いくら想像したところで仕方がない。今は、動くべき時ではない。ただ、その日が来るまで、気配を絶やさず見張り続ける。それだけが、今の自分にできる唯一のことだった。

 

 祝いの品を包んだ布は、結局解かれないまま、庵の隅に置かれ続けた。

 

 

 

 

 気配が完全に消え去ったのを見届けてからも、珠世(たまよ)はなお数日を数えた。用心に用心を重ねる。それは臆病さではなく、これまで幾度となく命を拾ってきた者だけが持つ、染みついた慎重さだった。

 

 江戸の慣いに則れば、亡骸は幾日か経てば弔われる。土に還す儀式まで終えているだろう、その頃合いを見計らって、珠世(たまよ)はようやく庵を出た。夜道を辿る足取りは、いつになく重い。行く先に何が待っているのか、薄々察してはいたが、それでも進まねばならなかった。

 

 町に入るのは、日が完全に落ちてからだ。珠世(たまよ)は人でなくなったこの身を陽の下に晒すことができない。だからこそ、夜だけが珠世(たまよ)の時間だった。

 

 町は、表向きは落ち着きを取り戻しているように見えた。しかしその静けさの奥に、まだ生々しい何かがくすぶっている。夜更けまで灯りの消えない飲み屋の障子越しに、酒に呑まれた声が漏れ聞こえてくる。珠世(たまよ)は闇に紛れ、軒先から軒先へと渡り歩きながら、その声の欠片を拾い集めていった。

 

「玄武(げんぶ)道場のなあ……あれは一晩で終わったって話だぜ」

 

「誰がやったんだ、あんな」

 

「素流(そりゅう)の、あの若いのだろう。腕っぷしはとんでもねえって噂だったし」

 

 酒臭い息と共に交わされる噂話は、断片的で、時に矛盾していて、それでも繰り返し語られるうちに、ひとつの輪郭を持ち始めていた。玄武(げんぶ)道場で、一夜のうちに大勢の人間が命を落としたこと。手にかけたのは、隣の素流(そりゅう)道場に拾われた、あの若者だったらしいこと。珠世(たまよ)は闇の中で、その名を口にする声を待ったが、誰もはっきりとは言わなかった。ただ「あの若いの」とだけ。

 

 別の店先では、もう少し詳しい話が交わされていた。

 

「橋の上でな、血だらけの足跡がぷっつり消えてたんだと。欄干のところで」

 

「川に飛び込んだってことか」

 

「そうよ。許嫁を亡くしちまって、後を追ったんだろうって話だ。可哀想にな」

 

 珠世(たまよ)は柱の陰で、その言葉を胸の内で繰り返した。遺体は見つかっていない。それでも町の者たちは、もう答えを出してしまっている。後追い自殺――そう結論づけることで、この一件に区切りをつけようとしているかのようだった。珠世(たまよ)の内には、そう単純に片付けてよいものかという違和感が、拭いきれずに残る。

 

 さらに歩を進めた先、遊女らしき者たちが、声を潜めて話し込んでいる一角があった。

 

「毒だってさ、井戸に入れられたのが」

 

「先に逝ったのは道場主のほうだったってねえ」

 

「娘さんは、しばらく苦しんでいたらしいよ。誰かが聞いた話じゃ、す(・)ず(・)り(・)箱(・)を(・)開(・)け(・)て(・)、(・)中(・)身(・)が(・)空(・)っ(・)ぽ(・)で……そのまま、一人で」

 

 言葉はそこで途切れ、代わりに重い沈黙が落ちた。誰も、その先を続けようとはしなかった。珠世(たまよ)は物陰に立ち尽くしたまま、拳を握りしめる。爪が掌に食い込むほどに。空になったすずり箱を前にして、助けを呼ぶ声すら上げられなかったであろう少女の姿が、勝手に瞼の裏に浮かび上がってくる。それは想像でしかなかったが、想像だけで十分すぎるほどだった。

 

 町の者たちは、噂話をひとしきり終えると、また何食わぬ顔で杯を傾け、店員は洗い物に戻っていった。彼らにとってそれは、もう過ぎ去った悲劇のひとつに過ぎない。少し経てばまた別の噂に取って代わられる、そういう類の話だ。

 

 だが珠世(たまよ)にとっては、そうではなかった。

 

 珠世(たまよ)は闇の奥へと後退りながら、拾い集めた言葉の欠片を、静かに胸の内で組み立て直していく。慶蔵(けいぞう)が先に。恋雪(こゆき)が、空のすずり箱の前で。狛治(はくじ)が、橋の上で姿を消した。どれもが伝聞で、どれもが又聞きで、確かなことは何ひとつない。それでも、そのひとつひとつが、珠世(たまよ)の足を墓のある方角へと引き寄せていった。

 

 

 

 

 

 墓地へと続く夜道を辿りながら、珠世(たまよ)の意識はふと、少し前の記憶へと引き戻されていった。

 

 あれは、まだ月のきれいな晩だったと思う。恋雪(こゆき)の住む道場を訪ねると、いつものように床から半身を起こした恋雪(こゆき)が、珠世(たまよ)の来訪に気づいて目を輝かせた。その頃にはもう、発作の間隔もずいぶん空くようになっていて、頬にも以前より色が差していた。珠世(たまよ)が枕元に腰を下ろすと、恋雪(こゆき)はもじもじと着物の袖を弄びながら、なかなか本題を切り出そうとしなかった。

 

「あの……珠世(たまよ)さん」

 

「なあに」

 

「実は……祝言を、挙げることになりまして」

 

 言葉にした途端、恋雪(こゆき)の顔が耳まで赤く染まった。俯いたまま、それでも隠しきれない喜びが口元から零れ落ちてくる。珠世(たまよ)は思わず息を呑んだ。目の前の少女――いや、もう少女と呼ぶには大人びてきた娘は、まるで別人のように晴れやかな顔をしていた。出会った頃の、あの諦めと覚悟だけを瞳の奥に沈めていた面影は、もうそこにはない。

 

「そう。おめでとう」

 

 珠世(たまよ)がそう告げると、恋雪(こゆき)はますます顔を赤くして、それでいて隠しきれない笑みを浮かべた。しばらく二人で他愛のない話をした。祝言の支度がどれほど大変か、慶蔵(けいぞう)がどれほど張り切っているか、狛治(はくじ)がどれほど不器用に照れているか――恋雪(こゆき)は身振り手振りを交えながら、まるで少年のように快活に語った。珠世(たまよ)はただ相槌を打ちながら、その声に耳を傾け続けた。

 

 ふいに、恋雪(こゆき)の声が少しだけ静かになった。

 

「珠世(たまよ)さん。わたし、もう……あの薬は、使わないと思います」

 

 珠世(たまよ)は驚いて顔を上げた。恋雪(こゆき)は窓の外に視線をやりながら、どこか吹っ切れたような、それでいて少し寂しさの滲む横顔で続けた。

 

「人として、生きていこうと思うんです。狛治(はくじ)さんと一緒に。ずっと、ずっと先まで」

 

 その言葉には、迷いがなかった。恋雪(こゆき)の瞳の中には、以前まで揺らめいていた不安の影が見当たらない。代わりにあったのは、これから続いていくはずの、ありふれた日々への確かな期待だった。子を産み、老い、病に倒れ、いつかは死ぬ――そんな当たり前の人としての一生を、恋雪(こゆき)はようやく自分のものとして受け入れようとしていた。

 

 珠世(たまよ)はその横顔をしばらく見つめていた。眩しかった。人ならざる身になって幾星霜、珠世(たまよ)が捨て去ったはずのものを、この娘は今まさに手にしようとしている。老いること、死ぬこと、限りある時の中で誰かと共に生きること――それらはかつて珠世(たまよ)自身も持っていたはずのものであり、そして無惨(むざん)によって永遠に奪われたものでもあった。恋雪(こゆき)の言葉ひとつひとつが、忘れかけていたその眩しさを、静かに珠世(たまよ)の胸の奥に呼び覚ましていく。

 

 羨ましい、と思った。同時に、誇らしくもあった。この娘が選び取ったのは、鬼としての力ではなく、人としての儚さだ。それでいい。それがいい。珠世(たまよ)は心の中でそう繰り返しながら、努めて穏やかな声で言った。

 

「そう。それがいいと思います」

 

 多くの言葉は要らなかった。珠世(たまよ)はただ、「今度、ささやかな祝いの品を持ってきますね――」と告げる。恋雪(こゆき)はその言葉を受け取ると、こぼれるような笑顔でもう一度礼を言った。

 

 その夜、月明かりの下を歩いて帰る珠世(たまよ)の足取りは、いつになく軽かった。

 

 ――それが、恋雪(こゆき)との最後の会話だった。

 

 墓地へと向かう暗い夜道の上で、珠世(たまよ)はその事実を、今更のように噛み締める。あの晩交わした言葉のどれもが、二度と交わせないものになってしまった。人として生きると誓った娘の眩しい笑顔だけが、珠世(たまよ)の中に取り残されたまま、行き場をなくして揺れていた。

 

 

 

 

 

 墓地は町外れの小高い場所にあった。夜露に濡れた下草を踏みしめながら、珠世(たまよ)は迷いのない足取りで奥へと進んでいく。新しい土の匂いは、遠くからでも分かった。まだ馴染みきっていない二つの盛り土が、月明かりの下でひっそりと並んでいる。

 

 珠世(たまよ)は膝をつき、そのうちの小さいほうへ手を伸ばした。土を掻き分ける手つきに迷いはない。だが、掌が座棺(ざかん)の蓋に触れる瞬間だけ、指先がわずかに強張った。この先に何があるのか、頭では分かっている。分かっていてなお、体が一拍だけ抵抗するのだ。

 

 蓋を開けた瞬間、珠世(たまよ)の眉がぴくりと動いた。

 

 異様な気配が、棺の中から漏れ出していた。仮死状態のはずの体から立ち上るその気配は、珠世(たまよ)が予想していたものとは違う。恋雪(こゆき)の体は、すでに変質を始めていた。皮膚の下で何かが蠢くように脈打ち、指先はところどころ黒ずみ、爪の形がわずかに歪んでいる。呼吸はない。それでいて、完全な死とも言い切れない、宙吊りのような状態が続いていた。

 

 珠世(たまよ)は棺の縁に手をかけたまま、しばらく動けなかった。

 

 ――薬が、作用している。

 

 恐らく、成功とはいいがたいあの試作薬は、まだ死の淵にあった恋雪(こゆき)の体に取り込まれ、鬼へと変えようとする力を、すでに勝手に働かせ始めていたのだ。珠世(たまよ)が手を下すまでもなく、恋雪(こゆき)の体は独りでに、人ならざるものへと変わりかけていた。だがその変化は、あまりに中途半端だった。鬼としての形も、人としての形も、どちらも定まりきらないまま、体の内側で互いを食い合っている。

 

 これは危険だ、と珠世(たまよ)は即座に悟った。

 

 不完全な鬼化は、時に本人の意思すら置き去りにする。理性が定着する前に肉体だけが目覚めれば、そこにあるのはただの獣に近い。飢えに突き動かされるまま、目についた人間に牙を立てる化け物と成り果てる可能性は、決して低くない。珠世(たまよ)自身、その手の失敗を幾度も見てきた。

 

 珠世(たまよ)は棺の中の恋雪(こゆき)を、じっと見下ろした。

 

 閉じた瞼の下で、恋雪(こゆき)はまだ何も知らない。人として生きると誓った、あの晴れやかな笑顔のままで、この身に何が起きているのかを知らないまま、ここに横たわっている。珠世(たまよ)の胸に、鈍い痛みが走った。

 

 ――もしもこのまま、恋雪(こゆき)が理性のかけらも持たぬまま目覚め、人を襲う獣に成り果てるのなら。

 

 珠世(たまよ)の中で、ひとつの覚悟が静かに形を成していく。それだけは、絶対に許してはならない。あの晩、あの笑顔で「人として生きる」と告げてくれた娘を、ただの化け物として終わらせるわけにはいかない。もし今から施す処置がうまくいかず、恋雪(こゆき)の中身が失われたまま鬼だけが残ってしまうのなら――その時は、自分の手で終わらせる。誰かに任せることではない。恋雪(こゆき)をここまで巻き込んでしまった責めを、他の誰でもない自分が引き受けるべきだと、珠世(たまよ)は思い定めていた。

 

 だが、まだ諦めるには早い。

 

 珠世(たまよ)は懐から小さな包みを取り出した。あれから急ぎで作り上げた、鬼化を安定させるための術式――正式な血を与え、暴走しかけた変化を制御しながら理性の土台を編み込んでいく、珠世(たまよ)なりの手当てだ。急ごしらえもいいところだが、少しでも支えになる。そう信じるほかなかった。

 

 珠世(たまよ)は静かに恋雪(こゆき)の首筋に指を這わせ、脈打つ気配の乱れを確かめる。荒れ狂う変化の奔流の中に、かろうじて残っている恋雪(こゆき)自身の輪郭を探り当てるように、慎重に、けれど迷いなく、己の血を与えていく。

 

「大丈夫。私が、ちゃんと連れて行くから」

 

 誰に聞かせるでもない呟きが、闇に溶けて消えた。

 

 処置を施す珠世(たまよ)の横顔は、月明かりの下でひどく静かだった。祈るような、それでいてどこか覚悟を秘めた表情のまま、珠世(たまよ)は夜が明けるまで、恋雪(こゆき)の傍らを離れなかった。

 

 

 

 

 

 血を与え終えた珠世(たまよ)の指先に、ふと違和感が走った。

 

 恋雪(こゆき)の体内で脈打っている気配――それは、たった今自分が注ぎ込んだばかりの力とは、明らかに質が異なっていた。珠世(たまよ)が知り尽くしているはずの、己の血の流れ方とは違う。それでいて、紛れもなくどこかで触れたことのある気配だった。

 

 珠世(たまよ)は棺の縁に手をついたまま、しばし呼吸を忘れた。

 

 自分が与えたものとは別に、恋雪(こゆき)の体にはすでに、何かが宿っていた。未完成ゆえの試作薬がその出所なのか、それとも、なにか別ものが作用していたのか。考えを巡らせても、答えらしい答えには行き着かない。珠世(たまよ)自身が把握しきれていない何かが、恋雪(こゆき)の中で静かに息づいている。その事実だけが、拭いようのない疑問となって胸の奥に沈んでいった。

 

 だが今は、それを解き明かしている暇はない。

 

 東の空が、わずかに白み始めていた。夜明けまでにこの場を離れなければ、人目に晒される危険がある。珠世(たまよ)は迷いを振り切るように棺の中へ両腕を差し入れ、恋雪(こゆき)の体をそっと抱き上げた。思っていたより軽い。人であった頃から、ずっと軽いままだった。その軽さが、珠世(たまよ)の腕の中でひどく頼りなく感じられる。

 

 珠世(たまよ)は恋雪(こゆき)を布でくるみ、崩した土をもとに戻す間も惜しんで、夜の闇に紛れながら山道を急いだ。町からできるだけ離れ、人の気配のない場所――以前から用意してあった隠れ家へと、休むことなく歩き続けた。

 

 隠れ家に着く頃には、空はすっかり明けきる寸前だった。珠世(たまよ)は奥の一室に敷いた布団に、恋雪(こゆき)の体をそっと横たえる。荒い息が自分の口から漏れていることに、珠世(たまよ)はそこでようやく気づいた。

 

 恋雪(こゆき)は、眠っているように見えた。

 

 胸は上下していない。脈も感じられない。それでいて、完全な死の静けさとも違う、奇妙な均衡の中に留まっている。珠世(たまよ)は枕元に座り込み、その寝顔をじっと見つめた。頬にはまだ、かすかな血の気が残っている。眉間に力みはなく、苦しんだ形跡は表情のどこにも見当たらない。ただ静かに、深い眠りに落ちているだけのようにも見えた。

 

 成功したのか、失敗したのか。

 

 珠世(たまよ)自身にも、それは分からなかった。処置が正しく働き、暴走しかけていた変化が理性の土台の上に落ち着いたのか。それとも、まだ内側では見えない綱引きが続いていて、目覚めた瞬間にすべてが崩れ去るのか。判断材料はどこにもない。ただ待つしかない、ということだけが確かだった。

 

 珠世(たまよ)は布団の傍らに膝を崩し、恋雪(こゆき)の額にかかる髪をそっと払った。指先に触れる肌は、人であった頃の温もりとは違う、冷たく滑らかな感触に変わりつつある。それでも珠世(たまよ)は、その手を離さなかった。

 

「大丈夫。ゆっくりでいいから」

 

 囁くような声は、誰に届くでもなく部屋の中に溶けていった。窓の外では、いつの間にか朝の光が薄く差し込み始めている。珠世(たまよ)はその光を避けるように部屋の奥へと身を寄せながらも、恋雪(こゆき)の傍らからは片時も離れなかった。

 

 眠り続ける恋雪(こゆき)の顔を見つめる時間だけが、ただ静かに流れていく。珠世(たまよ)にできることは、もう祈ることだけだった。この娘の中で、人であった記憶と心が、鬼としての体に呑まれずに残ってくれることを。あの晩交わした、人として生きるという約束が、たとえ違う形になったとしても、どこかで続いていってくれることを。

 

 夜明けの静寂の中、珠世(たまよ)はただじっと、生まれ変わろうとする少女の寝顔を見守り続けた。

 

 

 

 

 

 ***

 

 ――かくして、ひとつの時代が幕を閉じた。

 

 拳ひとつで弱き者を守ろうとした男は、愛する者を喪った夜、その拳で全てを薙ぎ払い、闇の底へと姿を消した。病弱な体に抗い、ただ人として生きることだけを望んだ娘は、その願いすら遂げられぬまま、人ならざる眠りの中へと落ちていった。道場の確執も、交わされた約束も、注がれた祝いの言葉も――残酷な一夜のうちに、すべてが歴史の下へと埋もれてしまった。

 

 素流(そりゅう)の道場に、もう門を叩く者はいない。玄武(げんぶ)の道場に、もう剣を振るう者はいない。町の噂話も、やがて風化し、語り継がれることさえなくなっていくだろう。人の営みとは、そういうものだ。悲劇は一時の噂となり、噂はやがて忘却へと呑まれていく。

 

 だが、消えぬものもある。

 

 隠れ家の奥深く、静かに眠り続ける少女の中には、かつて確かに交わされた誓いの記憶が、まだ息づいていた。とある未来の物語と、蓄えた無数の記憶の中に、人として生きようとした自分自身の想いもまた、そっと仕舞い込まれている。それは、いつか目覚める時のための、小さな灯火だった。

 

 一方、闇の奥へと消えた男の行方を知る者は、この時代にはまだ誰もいない。無惨(むざん)に見出され、新たな名を与えられ、拳ひとつで数多の刃を退けるほどの化け物へと変わり果てていくその姿を、この町の誰一人として目にすることはなかった。ただ、遠い未来のいつか、この男が「猗窩座(あかざ)」という名で呼ばれるようになることだけは、すでに定められた運命として、静かに時を待っていた。

 

 月日は巡り、季節は幾度となく移ろい、江戸の世はやがて過去のものとなる。人の一生など、鬼にとっては瞬きにも似た一時に過ぎない。それでも、その瞬きの中に確かに刻まれた想いは、時を超えて色褪せることなく残り続ける。

 

 ――百年が経ち、二百年が経ち、更にまた月日が流れてもなお。

 

 いつか、この物語の続きは、全く違う時代の景色の中で語られることになる。刀を携えた少年が家族の仇を追い、鬼と化した少女が兄である少年と共に旅を続ける。そして――かつて拳ひとつで弱者を守ろうとした男が、今度は大切な誰かを守れなかった悔恨を胸に、闇の中で凶拳を振るうことになる。

 

 猗窩座(あかざ)にまつわる因果は、この夜から始まっていた。

 

 猗窩座(あかざ)と恋雪(こゆき)の物語は、まだ終わってはいない。ここから始まる長い年月の果てに、二人が再びまみえる時――その時こそが、真にこの物語の名にふさわしい瞬間となるだろう。

 

 




>第二章――了

>第二章で自分が読みたい部分の8割近くを消化してしまったので、一旦完結です。
「原作開始」となる第三章以降が、現時点では超絶ダイジェスト版になりそうでしたので……。もしも、原作を活かしつつ、読みたいシーンが増えてきたら、AIさんにまた頑張ってもらいます。

>それと、ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました。
感想や評価などいただけましたら、色々と励みになります。

>第三章以降のAIさんが作ったイメージ画像だけ投稿しておきます。

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