朝から、テレジアの部屋には大きな地図が広げられていた。
机の上だけでは足りず、端の一部は床へ垂れている。
赤や黒の印がいくつも書き込まれ、その横には軍事委員会から届いたらしい資料が積まれていた。
俺は離れた椅子に座り、その様子を眺めている。
地図を挟んで向かい合っているのは、テレジアとテレシスだ。
「この一帯で目撃された部隊は、少なくとも三度進路を変えている」
テレシスが地図の上を指でなぞる。
「偶然迷い込んだ連中ではない。こちらの動きを探っている可能性が高い」
テレジアは手元の資料へ目を落とした。
「まだ村を襲ったわけでも、こちらへ攻撃を仕掛けてきたわけでもないのでしょう?」
「何かが起きてからでは遅い」
テレシスの返事は早かった。
「こちらの戦力や補給路を確認しているのなら、次に何をするかは考えるまでもない」
「だから先に攻撃するの?」
「必要ならな」
二人とも声を荒らげてはいない。普段と変わらない調子で話しているのに、なぜかさっきまでより居心地が悪かった。
テレジアが地図へ視線を戻す。
「まだ相手の目的は分かっていないわ」
「分からないから待つのか?」
「確かめたいと言っているの」
「その間に敵が準備を終える可能性は?」
「あるでしょうね」
テレジアは否定しなかった。
その答えに、テレシスが眉を寄せる。
「なら――」
「でも、こちらから武器を向ける理由にはならないわ」
静かな声だった。
テレシスの言葉が止まる。
テレジアは地図の上に置いていた手をゆっくりと引いた。
「警戒することには賛成よ。護衛を増やすことも、補給路を変えることも必要だと思う」
「なら何が違う」
「最初に剣を抜くかどうか」
二人の視線がぶつかる。
「私たちは、戦う力を持たなくてはいけない。誰かを守るためにも、それは必要よ」
テレジアは一度言葉を切った。
「でも、力を持つことと、それを最初に振るうことは同じではないわ」
テレシスはしばらく何も言わなかった。
やがて、息を吐く。
「……理想だけで国は守れん」
「ええ」
テレジアは穏やかに頷いた。
「だから、理想だけで守ろうとは思っていないわ」
「そう聞こえるがな」
「兄さんにはそう見えるのね」
その言葉に、テレシスの眉がわずかに動いた。
食料の使い道や兵の配置、誰を助けて何を優先するのか。昔から、この二人がそういうことで意見を違える場面は何度も見てきた。
そのたびに言い合って、最後にはどちらかが折れるか、別の方法を探していた。今日もそうなるだろうと、何となく思っていた。
「セラスティア」
突然名前を呼ばれ、顔を上げる。
テレシスがこちらを見ていた。
「お前はどう思う」
「俺?」
「他に誰がいる」
思わずテレジアを見る。
テレジアは何も言わず、俺の答えを待っている。
困った。
こういう時くらい、助け舟を出してくれてもいいと思う。
「相手が本当に攻めてくるなら、放っておくのはまずいだろ」
「ああ」
「でも、何をしに来たのか分からないなら、いきなり斬りかかるのも違うんじゃないか」
テレシスの目が細くなる。
「つまり?」
「先に見てくればいいだろ」
二人が黙った。
「……何だよ」
「いや」
テレシスが地図へ視線を戻す。
「随分単純な答えだと思ってな」
「悪かったな」
「だが」
テレシスは赤い印の一つを指先で軽く叩いた。
「間違ってはいない」
今度はテレジアを見る。
「偵察を出す」
「ええ」
「ただし、相手がこちらへの攻撃準備をしていると確認できた場合は、こちらも即座に動く」
テレジアは考えてから頷いた。
「それなら異論はないわ」
決まったらしい。知らないうちに肩へ力が入っていたらしく、俺は息を吐いた。
テレシスが資料をまとめ始める。
「人選はこちらで決める」
「お願いするわ」
「お前の方でも、周辺の集落には注意を促しておけ」
「ええ。補給物資も増やしておくわね」
さっきまでの空気が嘘のように、二人は次の話へ移っていく。
俺はそれを見ながら首を傾げた。
その時の俺には、結局いつも通り話がまとまったようにしか見えなかった。
◇
話し合いが終わり、テレシスが部屋を出ていく。
扉が閉まってから、テレジアは地図を畳み始めた。
俺も手を伸ばし、反対側を持つ。
「珍しかったな」
「何が?」
「テレシスとあそこまで言い合うの」
テレジアの手がわずかに止まった。
「そうかしら」
「そうだろ。いつもならもっと早くどっちかが折れてた」
「今日はどちらも折れなかったものね」
そう言って、テレジアは笑った。
けれど、その笑顔はいつもより薄く見えた。
「心配なのか?」
「兄さんのこと?」
「ああ」
テレジアはすぐには答えなかった。
畳み終えた地図の端を揃え、それを机の隅へ置く。
「兄さんは、カズデルを守りたいのよ」
「それは分かる」
「私も同じ」
それも分かっている。
テレシスが兵を増やすのも、テレジアが薬や食料を配るのも、方法が違うだけで二人が守ろうとしているものは同じだ。
少なくとも、今まではそう見えていた。
「だったら大丈夫じゃないか?」
俺がそう言うと、テレジアは目を伏せた。
「そうね」
その返事が、妙に耳に残った。
「意見が違うことと、話ができないことは同じではないわ」
テレジアはそう続ける。
「今日だって、最後には話がまとまったでしょう?」
「まあな」
「だから、大丈夫よ」
今度は俺へ向けて笑う。
いつもの笑顔だった。
俺もそれ以上は何も聞かなかった。
◇
部屋を出る前に、何となく机の上へ目を向ける。
さっきまで二人が見ていた地図が置かれていた。
同じ地図を見て、同じカズデルの話をしていたはずなのに、二人がその先に見ていたものまで同じだったのかは、俺にはまだ分からなかった。