あれから、数年が過ぎた。
壊れていた本棚はとっくに直り、その前で本を読んでいた子供たちの中には、もうバベルの仕事を手伝っている者もいる。
俺自身、大きく変わったつもりはない。
けれど、周りを見れば時間が過ぎたことくらいは嫌でも分かった。
「セラスティア」
名前を呼ばれて振り返る。
そこに立っていたアスカロンは、昔みたいに俺を見上げてはいなかった。
背も伸びた。
武器の扱いも、もう一から教える必要なんてない。
俺が何か言う前に、アスカロンが手にしていた資料を軽く持ち上げる。
「これ、ケルシーから」
「俺に?」
「うん」
受け取って中を見る。
近くの補給路を確認してほしいという、簡単な任務だった。
「今日中?」
「できれば」
「分かった」
資料を畳む。
アスカロンはその場を離れようとせず、こちらを見ていた。
「まだ何かある?」
「終わったら暇?」
「たぶん」
「じゃあ、後で付き合って」
「何に?」
「何をするかはまだ決めてない」
「決めてから誘えよ」
「嫌?」
即座に聞き返される。
少しだけ笑ってしまった。
「嫌とは言ってない」
「じゃあ決まり」
満足したらしい。
アスカロンはそのまま歩き出す。
数歩進んだところで振り返った。
「遅くならないで」
「分かったよ」
今度こそ去っていく背中を見送り、手元の資料へ目を落とす。
以前なら、どうして俺なのかとケルシーへ聞きに行っていたかもしれない。
今では頼まれれば行く。
必要なら次も引き受ける。
そんなことをわざわざ考えることも、いつの間にかなくなっていた。
◇
「遅い」
執務室へ入るなり、ケルシーに言われた。
「まだ頼まれてから十分くらいしか経ってないだろ」
「八分だ」
「十分より短いじゃないか」
「だから何だ」
ケルシーは書類から顔を上げない。
机の前まで行き、アスカロンから受け取った資料を置く。
「ここを見てくればいいんだな?」
「ああ。昨日、輸送車が通った際に不自然な轍が見つかった。敵のものと断定するほどではないが、念のため確認しておきたい」
「了解」
「単独で構わない。ただし何か見つけても追跡はするな。場所を記録して戻れ」
「分かってる」
俺が返すと、ケルシーがようやくこちらを見る。
「……何だ?」
「いや」
「最近それ多くない?」
「何のことだ」
「何でもない」
聞いてもたぶん答えない。
踵を返して扉へ向かう。
「セラスティア」
後ろから名前を呼ばれる。
「夕方までには戻れ」
「アスカロンにも同じこと言われたよ」
「なら二人分守れ」
「はいはい」
扉を閉める直前。
「返事は一度でいい」
聞こえてきた声に、思わず笑った。
◇
任務自体は何も起きなかった。
怪しい轍は確かに残っていたが、周辺に人影はない。
位置だけ記録し、言われた通り深追いせず戻る。
報告を済ませた頃には、ちょうど夕食の時間になっていた。
今夜は珍しく、三人で食事をすることになっている。
◇
「遅いぞ」
部屋へ入るなり、テレシスが言った。
「お前までそれ言うのか」
「何の話だ」
「こっちの話」
卓にはすでに料理が並んでいる。
向かい側にはテレジアも座っていた。
「おかえりなさい、セラスティア」
「ただいま」
空いていた席へ座る。
三人がこうして同じ卓につくのは、少し久しぶりだった。
「冷めてしまう前に食べましょう」
テレジアの言葉に、俺も皿へ手を伸ばす。
「それ、俺のだろ」
同じ料理へ伸びてきたテレシスの手を止める。
「何を言っている。まだ誰の皿にも乗っていない」
「今俺が取ろうとした」
「だから何だ」
「昔からそうやって俺の分まで取るだろ」
「お前が勝手に多く取っていたからだ」
「取ってないよ」
思わず言い返す。
向かいから小さな笑い声が聞こえた。
見ると、テレジアが口元へ手を当てている。
「何だよ」
「いいえ。二人とも変わらないなと思って」
「こいつと一緒にするな」
「俺も同じこと言おうとした」
「ほら」
今度はテレジアが声を出して笑った。
テレシスも呆れたような顔をしながら、口元だけ少し緩んでいる。
こんなやり取りをしていると、本当に何も変わっていない気がした。
少なくとも、その瞬間だけは。
◇
食事の途中で扉が叩かれた。
テレジアが顔を上げる。
「どうぞ」
入ってきたのはバベルの兵士だった。
三人揃っているのを見て、一瞬だけ足を止める。
「失礼します。殿下、少しご報告が」
「構わないわ。何かあったの?」
兵士はテレジアへ一枚の書類を差し出した。
「明朝出発予定だった西側への輸送車ですが、軍事委員会側の通行許可が下りていません」
テレジアの表情が変わる。
「申請は昨日出していたはずよ」
「はい。ですが、経路の一部が軍事物資の搬送予定と重なっているため、保留になったと」
隣を見る。
テレシスも箸を置いていた。
「どの経路だ」
兵士が説明する。
テレシスは最後まで聞き、短く息を吐いた。
「その輸送車は通せ」
兵士が目を瞬く。
「よろしいのですか?」
「ああ」
「ですが、軍事委員会側では――」
「問題があるなら私が責任を持つ」
迷いのない声だった。
「軍事物資の時間をずらせ。そちらの方が急ぐ理由はない」
「承知しました」
兵士が頭を下げる。
扉が閉まる。
部屋に静けさが戻った。
「ありがとう、兄さん」
テレジアが言う。
テレシスは料理へ手を伸ばした。
「礼を言われるようなことではない。必要な物資なんだろう」
「ええ。薬が中心よ」
「なら遅らせる理由はない」
それだけ聞けば、何も問題はない。
実際、テレシスは輸送車を止めたかったわけではない。
軍事委員会にも予定があり、バベルにも予定がある。
ただ、それだけだ。
「最近、こういうことが増えたわね」
テレジアが静かに言った。
「組織が大きくなれば当然だ」
テレシスが返す。
「すべてをお前と私の間だけで決めることはできん」
「分かっているわ」
「なら問題ない」
テレジアは一瞬だけ黙った。
「……そうね」
また食事が始まる。
けれど、さっきまでのように料理の取り合いをする空気には戻らなかった。
誰が悪いわけでもない。
誰かが怒っているわけでもない。
それでも、一度入った仕事の話が卓の上から消えない。
俺は目の前の料理へ箸を伸ばした。
少し冷めていた。
◇
食事が終わる。
テレシスは次の会議があると言って先に立った。
「もう行くのか?」
「時間がない」
「せっかく三人揃ったのに」
俺が言うと、テレシスが少しだけ足を止める。
「お前に言われずとも分かっている」
「ならもう少しいればいいだろ」
「そういうわけにもいかん」
それだけ言って、扉へ向かう。
「セラスティア」
「ん?」
「次は、お前が先に予定を空けておけ」
「俺のせい?」
「今日一番遅く来たのはお前だ」
「それとこれは別だろ」
テレジアが小さく笑った。
テレシスも一瞬だけこちらを振り返る。
昔と変わらない、呆れた顔だった。
「またな」
「ああ」
扉が閉まる。
◇
残った食器を片づけながら、テレジアが言う。
「楽しかったわね」
「ああ」
それは本当だった。
三人で笑った。
くだらないことで言い合った。
途中から仕事の話になったけれど、それでも最後まで同じ卓にいた。
「今度はもう少しゆっくりしたいわ」
「じゃあテレシスに言っとく?」
「あなたもでしょう?」
「俺?」
「さっきアスカロンと約束していると言っていなかった?」
「あ」
忘れていた。
時計を見る。
「……まだ間に合うかな」
「急いだ方がいいと思うわ」
「行ってくる」
慌てて扉へ向かう。
後ろからテレジアの声が追ってきた。
「走らないのよ」
「分かってる!」
廊下へ出る。
結局、少しだけ走った。
◇
三人でいることが、特別だったわけじゃない。
昔は予定なんて合わせなくても、気づけば同じ場所にいた。
誰かが食事を始めれば、いつの間にか残りの二人もそこにいた。
それが当たり前だった。
今は違う。
テレジアにはテレジアの仕事がある。
テレシスにはテレシスの仕事がある。
俺にも、俺を待っている相手や任される仕事が増えた。
三人で食事をするために、予定を合わせなければならなくなった。
それだけのことだ。
それでも。
その小さな変化が、俺には妙に大きく思えた。