夏雪草が帰る場所   作:Bestmeever

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第10話 昔みたいには

あれから、数年が過ぎた。

 

壊れていた本棚はとっくに直り、その前で本を読んでいた子供たちの中には、もうバベルの仕事を手伝っている者もいる。

 

俺自身、大きく変わったつもりはない。

 

けれど、周りを見れば時間が過ぎたことくらいは嫌でも分かった。

 

「セラスティア」

 

名前を呼ばれて振り返る。

 

そこに立っていたアスカロンは、昔みたいに俺を見上げてはいなかった。

 

背も伸びた。

 

武器の扱いも、もう一から教える必要なんてない。

 

俺が何か言う前に、アスカロンが手にしていた資料を軽く持ち上げる。

 

「これ、ケルシーから」

 

「俺に?」

 

「うん」

 

受け取って中を見る。

 

近くの補給路を確認してほしいという、簡単な任務だった。

 

「今日中?」

 

「できれば」

 

「分かった」

 

資料を畳む。

 

アスカロンはその場を離れようとせず、こちらを見ていた。

 

「まだ何かある?」

 

「終わったら暇?」

 

「たぶん」

 

「じゃあ、後で付き合って」

 

「何に?」

 

「何をするかはまだ決めてない」

 

「決めてから誘えよ」

 

「嫌?」

 

即座に聞き返される。

 

少しだけ笑ってしまった。

 

「嫌とは言ってない」

 

「じゃあ決まり」

 

満足したらしい。

 

アスカロンはそのまま歩き出す。

 

数歩進んだところで振り返った。

 

「遅くならないで」

 

「分かったよ」

 

今度こそ去っていく背中を見送り、手元の資料へ目を落とす。

 

以前なら、どうして俺なのかとケルシーへ聞きに行っていたかもしれない。

 

今では頼まれれば行く。

 

必要なら次も引き受ける。

 

そんなことをわざわざ考えることも、いつの間にかなくなっていた。

 

◇

 

「遅い」

 

執務室へ入るなり、ケルシーに言われた。

 

「まだ頼まれてから十分くらいしか経ってないだろ」

 

「八分だ」

 

「十分より短いじゃないか」

 

「だから何だ」

 

ケルシーは書類から顔を上げない。

 

机の前まで行き、アスカロンから受け取った資料を置く。

 

「ここを見てくればいいんだな?」

 

「ああ。昨日、輸送車が通った際に不自然な轍が見つかった。敵のものと断定するほどではないが、念のため確認しておきたい」

 

「了解」

 

「単独で構わない。ただし何か見つけても追跡はするな。場所を記録して戻れ」

 

「分かってる」

 

俺が返すと、ケルシーがようやくこちらを見る。

 

「……何だ?」

 

「いや」

 

「最近それ多くない?」

 

「何のことだ」

 

「何でもない」

 

聞いてもたぶん答えない。

 

踵を返して扉へ向かう。

 

「セラスティア」

 

後ろから名前を呼ばれる。

 

「夕方までには戻れ」

 

「アスカロンにも同じこと言われたよ」

 

「なら二人分守れ」

 

「はいはい」

 

扉を閉める直前。

 

「返事は一度でいい」

 

聞こえてきた声に、思わず笑った。

 

◇

 

任務自体は何も起きなかった。

 

怪しい轍は確かに残っていたが、周辺に人影はない。

 

位置だけ記録し、言われた通り深追いせず戻る。

 

報告を済ませた頃には、ちょうど夕食の時間になっていた。

 

今夜は珍しく、三人で食事をすることになっている。

 

◇

 

「遅いぞ」

 

部屋へ入るなり、テレシスが言った。

 

「お前までそれ言うのか」

 

「何の話だ」

 

「こっちの話」

 

卓にはすでに料理が並んでいる。

 

向かい側にはテレジアも座っていた。

 

「おかえりなさい、セラスティア」

 

「ただいま」

 

空いていた席へ座る。

 

三人がこうして同じ卓につくのは、少し久しぶりだった。

 

「冷めてしまう前に食べましょう」

 

テレジアの言葉に、俺も皿へ手を伸ばす。

 

「それ、俺のだろ」

 

同じ料理へ伸びてきたテレシスの手を止める。

 

「何を言っている。まだ誰の皿にも乗っていない」

 

「今俺が取ろうとした」

 

「だから何だ」

 

「昔からそうやって俺の分まで取るだろ」

 

「お前が勝手に多く取っていたからだ」

 

「取ってないよ」

 

思わず言い返す。

 

向かいから小さな笑い声が聞こえた。

 

見ると、テレジアが口元へ手を当てている。

 

「何だよ」

 

「いいえ。二人とも変わらないなと思って」

 

「こいつと一緒にするな」

 

「俺も同じこと言おうとした」

 

「ほら」

 

今度はテレジアが声を出して笑った。

 

テレシスも呆れたような顔をしながら、口元だけ少し緩んでいる。

 

こんなやり取りをしていると、本当に何も変わっていない気がした。

 

少なくとも、その瞬間だけは。

 

◇

 

食事の途中で扉が叩かれた。

 

テレジアが顔を上げる。

 

「どうぞ」

 

入ってきたのはバベルの兵士だった。

 

三人揃っているのを見て、一瞬だけ足を止める。

 

「失礼します。殿下、少しご報告が」

 

「構わないわ。何かあったの?」

 

兵士はテレジアへ一枚の書類を差し出した。

 

「明朝出発予定だった西側への輸送車ですが、軍事委員会側の通行許可が下りていません」

 

テレジアの表情が変わる。

 

「申請は昨日出していたはずよ」

 

「はい。ですが、経路の一部が軍事物資の搬送予定と重なっているため、保留になったと」

 

隣を見る。

 

テレシスも箸を置いていた。

 

「どの経路だ」

 

兵士が説明する。

 

テレシスは最後まで聞き、短く息を吐いた。

 

「その輸送車は通せ」

 

兵士が目を瞬く。

 

「よろしいのですか?」

 

「ああ」

 

「ですが、軍事委員会側では――」

 

「問題があるなら私が責任を持つ」

 

迷いのない声だった。

 

「軍事物資の時間をずらせ。そちらの方が急ぐ理由はない」

 

「承知しました」

 

兵士が頭を下げる。

 

扉が閉まる。

 

部屋に静けさが戻った。

 

「ありがとう、兄さん」

 

テレジアが言う。

 

テレシスは料理へ手を伸ばした。

 

「礼を言われるようなことではない。必要な物資なんだろう」

 

「ええ。薬が中心よ」

 

「なら遅らせる理由はない」

 

それだけ聞けば、何も問題はない。

 

実際、テレシスは輸送車を止めたかったわけではない。

 

軍事委員会にも予定があり、バベルにも予定がある。

 

ただ、それだけだ。

 

「最近、こういうことが増えたわね」

 

テレジアが静かに言った。

 

「組織が大きくなれば当然だ」

 

テレシスが返す。

 

「すべてをお前と私の間だけで決めることはできん」

 

「分かっているわ」

 

「なら問題ない」

 

テレジアは一瞬だけ黙った。

 

「……そうね」

 

また食事が始まる。

 

けれど、さっきまでのように料理の取り合いをする空気には戻らなかった。

 

誰が悪いわけでもない。

 

誰かが怒っているわけでもない。

 

それでも、一度入った仕事の話が卓の上から消えない。

 

俺は目の前の料理へ箸を伸ばした。

 

少し冷めていた。

 

◇

 

食事が終わる。

 

テレシスは次の会議があると言って先に立った。

 

「もう行くのか?」

 

「時間がない」

 

「せっかく三人揃ったのに」

 

俺が言うと、テレシスが少しだけ足を止める。

 

「お前に言われずとも分かっている」

 

「ならもう少しいればいいだろ」

 

「そういうわけにもいかん」

 

それだけ言って、扉へ向かう。

 

「セラスティア」

 

「ん?」

 

「次は、お前が先に予定を空けておけ」

 

「俺のせい?」

 

「今日一番遅く来たのはお前だ」

 

「それとこれは別だろ」

 

テレジアが小さく笑った。

 

テレシスも一瞬だけこちらを振り返る。

 

昔と変わらない、呆れた顔だった。

 

「またな」

 

「ああ」

 

扉が閉まる。

 

◇

 

残った食器を片づけながら、テレジアが言う。

 

「楽しかったわね」

 

「ああ」

 

それは本当だった。

 

三人で笑った。

 

くだらないことで言い合った。

 

途中から仕事の話になったけれど、それでも最後まで同じ卓にいた。

 

「今度はもう少しゆっくりしたいわ」

 

「じゃあテレシスに言っとく?」

 

「あなたもでしょう?」

 

「俺?」

 

「さっきアスカロンと約束していると言っていなかった?」

 

「あ」

 

忘れていた。

 

時計を見る。

 

「……まだ間に合うかな」

 

「急いだ方がいいと思うわ」

 

「行ってくる」

 

慌てて扉へ向かう。

 

後ろからテレジアの声が追ってきた。

 

「走らないのよ」

 

「分かってる!」

 

廊下へ出る。

 

結局、少しだけ走った。

 

◇

 

三人でいることが、特別だったわけじゃない。

 

昔は予定なんて合わせなくても、気づけば同じ場所にいた。

 

誰かが食事を始めれば、いつの間にか残りの二人もそこにいた。

 

それが当たり前だった。

 

今は違う。

 

テレジアにはテレジアの仕事がある。

 

テレシスにはテレシスの仕事がある。

 

俺にも、俺を待っている相手や任される仕事が増えた。

 

三人で食事をするために、予定を合わせなければならなくなった。

 

それだけのことだ。

 

それでも。

 

その小さな変化が、俺には妙に大きく思えた。

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