最初は、小さな揉め事だったらしい。
バベルで子供たちに教えていた教師と、軍事委員会を支持する者との間で起きた争い。
何がきっかけだったのか、俺はその場を見ていない。
ただ、バベル側の教師が相手を傷つけたことで、それまで積もっていたものが一気に噴き出した。
バベルを快く思わない者。
軍事委員会を恐れる者。
サルカズ以外を受け入れるテレジアを支持する者。
それをカズデルを弱くする行為だと考える者。
昨日まで同じ道を歩いていた者同士が、どちら側なのかを気にするようになった。
バベルの物資が止められた。
軍事委員会の人間がバベル側の区域で追い返された。
そして数日のうちに、言葉だけでは済まなくなった。
◇
「そっち、まだ使える?」
「無理」
崩れた壁の前でしゃがんでいたアスカロンが、短く答える。
足元には砕けた石と木片が散乱していた。
少し前まで、ここはバベルが使っていた診療所だった。
今は屋根の一部が崩れ、窓も残っていない。
中にいた人間はもう避難させた。
幸い、動けないほどの怪我人はいなかった。
「じゃあこっちは諦めるしかないな」
俺は持っていた箱を下ろした。
薬品。
包帯。
まだ使えそうなものだけを回収している。
全部持ち出せればいいが、そんな余裕はない。
「セラスティア」
アスカロンが立ち上がる。
「あれ」
視線の先。
道の向こうから、何人かのバベル構成員がこちらへ走ってきていた。
先頭にいる男は俺を見つけると、そのまま速度を緩めず近づいてくる。
「セラスティア!」
「どうした?」
「撤収命令だ。ここだけじゃない。市内に残っているバベルの人員を集めてる」
俺とアスカロンは顔を見合わせた。
「誰の命令?」
聞かなくても、なんとなく分かっていた。
「テレジア様だ」
やっぱりか。
男は息を整えながら続ける。
「軍事委員会との衝突が広がってる。このまま市内に残れば、もっと巻き込む人が増える。今日中に主要な人員を移すって」
「今日?」
「ああ」
思ったより早い。
いや。
遅かったのかもしれない。
数日前から、こうなる気配はあった。
以前なら単なる行き違いで済んでいたことが、今は一つ間違えば武器を抜く理由になっている。
「分かった」
俺は箱を持ち直す。
「これだけ運んだら向かう」
「頼む」
男は別の場所へ走っていった。
その背中を見送り、隣を見る。
アスカロンは何も言わず、崩れた診療所を見ていた。
「アスカロン」
「分かってる」
「まだ何も言ってないけど」
「行くんでしょ。テレジア様のところに」
迷いのない目だった。
俺は少しだけ笑う。
「お前もだろ?」
「うん」
それ以上は聞かなかった。
昔なら、もう少し違う顔をしたのかもしれない。
テレジアとテレシス。
二人の間を当たり前のように行き来していた頃なら。
でも今のアスカロンは、もう自分で決めていた。
「じゃあ急ぐか」
「うん」
二人で残った物資を持ち上げる。
歩き出す前に、もう一度だけ診療所を振り返った。
つい最近まで、ここには患者がいて。
薬が並んでいて。
誰かが誰かを助けていた。
今はもう、壁しか残っていない。
数年前。
テレシスとテレジアが同じ机を挟み、
『意見が違うことと、話ができないことは同じではない』
そう話していたことを思い出した。
あの時は、本当にそうだった。
今だって。
たぶん、二人だけならまだ話せる。
でも。
もう二人だけの話ではなくなっていた。
◇
撤収の準備が進んでいた。
荷物を運ぶ者。
負傷者を支える者。
何を持っていくかで言い争う者。
置いていくしかない物を前に、立ち尽くしている者もいる。
俺も運んできた薬を預け、それから周囲を見渡した。
見覚えのある顔がいくつもあった。
昔、本棚を直した部屋にいた子供たちもいる。
全員ではない。
もう別の場所へ行った奴もいれば、ここに残る家族を選んだ奴もいる。
それでも、何人かはバベルと一緒に行くらしい。
俺を見つけた一人が、小さく手を上げた。
俺も手を上げ返す。
その近くでは、以前助けたことのある構成員が荷物を積んでいた。
ケルシーの姿もある。
次々と指示を出し、負傷者や物資の状況を確認していた。
「セラスティア」
呼ばれる。
「何?」
「そこに立っているなら働け」
「今来たところなんだけど」
「ならちょうどいい」
書類の束を渡される。
「北側の人員を確認しろ。まだ戻っていない者がいれば私に報告しろ」
「分かった」
理由は聞かない。
ケルシーも説明しない。
そのまま俺が動こうとしたところで、もう一度呼び止められた。
「それと」
「まだある?」
「テレジアが呼んでいる」
足が止まった。
「どこ?」
「外れの展望区画だ」
「分かった」
「セラスティア」
振り返ると、ケルシーは少しだけ間を置いた。
「テレシスもいる」
「……そう」
それだけ答えた。
驚きはしなかった。
最後に一度くらい、二人は話すだろうと思っていた。
◇
そこからは、カズデルの街がよく見えた。
何度も壊され。
何度も作り直され。
それでも残ってきた街。
遠くでは煙が上がっている。
けれど、街全体が戦場になっているわけではない。
まだ。
「来たのね」
テレジアがこちらを見る。
その少し離れたところには、テレシスが立っていた。
「呼んだ?」
「ええ。ごめんなさい、忙しい時に」
「別にいいよ」
テレジアの隣へ向かう。
テレシスは何も言わなかった。
いつものように腕を組み、街を見ている。
「撤収するんだって?」
「ええ」
テレジアが答える。
「これ以上ここに残れば、街の人たちまで巻き込んでしまうわ」
「戻る予定は?」
聞いてから、自分でも妙な質問だと思った。
テレジアは少しだけ黙る。
代わりに答えたのはテレシスだった。
「それは我々次第だ」
「我々?」
「私とテレジアだけではない」
テレシスが振り返る。
「軍事委員会。バベル。王庭。傭兵。そして、この街で暮らすすべてのサルカズだ」
それだけ増えれば、昔みたいに三人で話せば済むわけがない。
「市内での交戦は広げない」
テレシスが言う。
「軍事委員会にはそう命じる」
テレジアが頷く。
「私からもバベルの皆に伝えるわ。カズデルを戦場にはしない」
「街を出た後は保証せん」
「ええ」
穏やかな返事だった。
なのに。
それが一番はっきりした答えに聞こえた。
街の中では戦わない。
街を出れば。
二人は敵になる。
「本当に、こうするしかないの?」
気づけば聞いていた。
テレジアとテレシスが俺を見る。
「今さら何を言っている」
「分かってるけどさ」
分かっている。
最近の街を見れば分かる。
診療所まで壊れた。
少しの行き違いで、誰かが武器を抜く。
テレジアがここに残れば、バベルと軍事委員会は同じ街の中でぶつかり続ける。
それでも。
昔から二人を知っている。
二人が同じ場所に立っていた頃を知っている。
だから、聞いてしまった。
テレシスが目を細める。
「セラスティア。昔から、肝心なところでは諦めが悪いな」
「そうかな」
「自覚がないならなおさらだ」
言い返そうとしたが、テレジアが小さく笑った。
こんな時なのに。
本当に小さな笑いだった。
「私も、できることなら違う道を探したかったわ」
テレジアは街へ目を向ける。
「でも、今ここに留まることが、その道を遠ざけてしまうのなら……私は行く」
「テレジア」
「諦めるわけではないのよ」
俺を見る。
「場所が変わっても、私がしたいことは変わらないから」
その顔を見て、これ以上止める言葉は出なかった。
テレシスも何も言わない。
ただ街を見ている。
しばらくして、テレジアが彼の隣へ歩いた。
二人が並ぶ。
俺がずっと見てきた形だった。
テレジアと。
テレシス。
少し離れて、俺。
昔ならそれだけでよかった。
「テレシス」
「何だ」
「長かったわね」
何の話かは聞かなくても分かった。
「そうだな」
「最初は、本当に何もなかったのに」
「何もないどころか、瓦礫しかなかった」
「あなた、あの頃は今よりずっと怖い顔をしていたわ」
「お前は今より無茶をした」
「それはあなたもでしょう?」
テレシスは答えない。
テレジアが少し笑う。
二人の視線の先にはカズデルがある。
同じ景色を見ている。
けれど、その先に望んでいる未来まで同じではない。
「ここまでだ」
テレシスが言った。
テレジアはすぐには答えなかった。
それから、静かに頷く。
「ええ」
短い返事だった。
「ここからは、別々ね」
「ああ」
怒鳴り合いもない。
恨み言もない。
ただ、二人で同じ道を歩くことをやめる。
それだけだった。
なのに。
初めて二人の意見がはっきり食い違った時よりも。
久しぶりに三人で食卓を囲んだ時よりも。
今の二人は、ずっと遠く離れたように見えた。
「セラスティア」
テレシスが俺を呼んだ。
「何?」
こちらへ向き直る。
俺も自然と姿勢を正した。
何を言われるのか。
少しだけ身構える。
テレジアではなく、自分の側へ来いとでも言われるのか。
あるいは――。
「お前にどちらにつくかなど聞くつもりはない」
予想していた言葉とは違った。
「……どうして?」
テレシスが俺を見る。
昔と変わらない。
長い付き合いのある、あの目だった。
「聞くまでもない」
それだけ。
一瞬、何も言えなかった。
数年前。
テレシスは俺に聞いた。
『テレジア以外に、お前がここにいる理由は何だ』
あの時の俺には、すぐに答えられなかった。
今なら。
答えようと思えば、いくつも浮かぶ。
少し離れたところで撤収を手伝っているアスカロン。
当然のように仕事を押しつけてくるケルシー。
さっき手を振ってきた子供。
荷物を運んでいたバベルの連中。
守りたいと思うものは、いつの間にか増えていた。
そして、その中にはテレジアもいる。
誰より長く、ずっと昔から。
「……そっか」
口から出たのは、それだけだった。
テレシスも、それ以上は何も言わない。
分かっていたのだろう。
昔から俺を見てきたこいつなら。
俺がどちらへ歩くのかくらい。
「テレシス」
呼ぶ。
「何だ」
言いたいことはいくつかあった。
元気で、と言うのも違う。
またな、と言えるのかも分からない。
次に会った時。
俺たちが同じ側にいる保証はない。
結局。
「死ぬなよ」
そんな言葉しか出なかった。
テレシスが少しだけ目を細めた。
「誰に言っている」
「お前に」
「余計な心配だ」
いつもと同じ返事だった。
それが少しだけ嬉しかった。
「お前もだ、セラスティア」
「ああ」
「テレジアを頼む」
「……それは」
思わず苦笑する。
「言われなくても分かってるよ」
「そうだったな」
ほんの少し。
テレシスの口元が緩んだように見えた。
◇
撤収が始まる。
荷物を載せ。
人数を確認し。
一人ずつ、この街を離れていく。
最後の方に、俺とアスカロンは並んで歩いていた。
少し先にはテレジアがいる。
何度か後ろを振り返っていた。
「セラスティア。こっちに来たこと、後悔してる?」
考えるまでもなかった。
「してないよ」
アスカロンはそれ以上聞かなかった。
俺も聞き返さない。
お前は、と。
聞く必要はなかった。
しばらく歩く。
周りにはバベルの人間がいる。
怪我をした奴。
不安そうな奴。
何度もカズデルを振り返る奴。
それでも皆、前へ進んでいる。
俺も歩く。
前から声がした。
「セラスティア」
テレジアが立ち止まり、こちらを見ていた。
待っていたらしい。
俺は少し歩調を速める。
その横にはアスカロンもいる。
後ろにはバベルの皆がいる。
「行きましょう」
テレジアが言う。
「ああ」
振り返る。
遠くなり始めたカズデル。
そこにはテレシスが残っている。
いつか。
また同じ場所に立てる日が来るのか。
今の俺には分からない。
だから俺は、もう一度前を向いた。
テレジアの隣へ。
アスカロンたちと同じ道へ。
自分で足を踏み出した。