夏雪草が帰る場所   作:Bestmeever

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第11話 聞くまでもない

最初は、小さな揉め事だったらしい。

 

バベルで子供たちに教えていた教師と、軍事委員会を支持する者との間で起きた争い。

 

何がきっかけだったのか、俺はその場を見ていない。

 

ただ、バベル側の教師が相手を傷つけたことで、それまで積もっていたものが一気に噴き出した。

 

バベルを快く思わない者。

 

軍事委員会を恐れる者。

 

サルカズ以外を受け入れるテレジアを支持する者。

 

それをカズデルを弱くする行為だと考える者。

 

昨日まで同じ道を歩いていた者同士が、どちら側なのかを気にするようになった。

 

バベルの物資が止められた。

 

軍事委員会の人間がバベル側の区域で追い返された。

 

そして数日のうちに、言葉だけでは済まなくなった。

 

◇

 

「そっち、まだ使える?」

 

「無理」

 

崩れた壁の前でしゃがんでいたアスカロンが、短く答える。

 

足元には砕けた石と木片が散乱していた。

 

少し前まで、ここはバベルが使っていた診療所だった。

 

今は屋根の一部が崩れ、窓も残っていない。

 

中にいた人間はもう避難させた。

 

幸い、動けないほどの怪我人はいなかった。

 

「じゃあこっちは諦めるしかないな」

 

俺は持っていた箱を下ろした。

 

薬品。

 

包帯。

 

まだ使えそうなものだけを回収している。

 

全部持ち出せればいいが、そんな余裕はない。

 

「セラスティア」

 

アスカロンが立ち上がる。

 

「あれ」

 

視線の先。

 

道の向こうから、何人かのバベル構成員がこちらへ走ってきていた。

 

先頭にいる男は俺を見つけると、そのまま速度を緩めず近づいてくる。

 

「セラスティア!」

 

「どうした?」

 

「撤収命令だ。ここだけじゃない。市内に残っているバベルの人員を集めてる」

 

俺とアスカロンは顔を見合わせた。

 

「誰の命令?」

 

聞かなくても、なんとなく分かっていた。

 

「テレジア様だ」

 

やっぱりか。

 

男は息を整えながら続ける。

 

「軍事委員会との衝突が広がってる。このまま市内に残れば、もっと巻き込む人が増える。今日中に主要な人員を移すって」

 

「今日?」

 

「ああ」

 

思ったより早い。

 

いや。

 

遅かったのかもしれない。

 

数日前から、こうなる気配はあった。

 

以前なら単なる行き違いで済んでいたことが、今は一つ間違えば武器を抜く理由になっている。

 

「分かった」

 

俺は箱を持ち直す。

 

「これだけ運んだら向かう」

 

「頼む」

 

男は別の場所へ走っていった。

 

その背中を見送り、隣を見る。

 

アスカロンは何も言わず、崩れた診療所を見ていた。

 

「アスカロン」

 

「分かってる」

 

「まだ何も言ってないけど」

 

「行くんでしょ。テレジア様のところに」

 

迷いのない目だった。

 

俺は少しだけ笑う。

 

「お前もだろ?」

 

「うん」

 

それ以上は聞かなかった。

 

昔なら、もう少し違う顔をしたのかもしれない。

 

テレジアとテレシス。

 

二人の間を当たり前のように行き来していた頃なら。

 

でも今のアスカロンは、もう自分で決めていた。

 

「じゃあ急ぐか」

 

「うん」

 

二人で残った物資を持ち上げる。

 

歩き出す前に、もう一度だけ診療所を振り返った。

 

つい最近まで、ここには患者がいて。

 

薬が並んでいて。

 

誰かが誰かを助けていた。

 

今はもう、壁しか残っていない。

 

数年前。

 

テレシスとテレジアが同じ机を挟み、

 

『意見が違うことと、話ができないことは同じではない』

 

そう話していたことを思い出した。

 

あの時は、本当にそうだった。

 

今だって。

 

たぶん、二人だけならまだ話せる。

 

でも。

 

もう二人だけの話ではなくなっていた。

 

◇

 

撤収の準備が進んでいた。

 

荷物を運ぶ者。

 

負傷者を支える者。

 

何を持っていくかで言い争う者。

 

置いていくしかない物を前に、立ち尽くしている者もいる。

 

俺も運んできた薬を預け、それから周囲を見渡した。

 

見覚えのある顔がいくつもあった。

 

昔、本棚を直した部屋にいた子供たちもいる。

 

全員ではない。

 

もう別の場所へ行った奴もいれば、ここに残る家族を選んだ奴もいる。

 

それでも、何人かはバベルと一緒に行くらしい。

 

俺を見つけた一人が、小さく手を上げた。

 

俺も手を上げ返す。

 

その近くでは、以前助けたことのある構成員が荷物を積んでいた。

 

ケルシーの姿もある。

 

次々と指示を出し、負傷者や物資の状況を確認していた。

 

「セラスティア」

 

呼ばれる。

 

「何?」

 

「そこに立っているなら働け」

 

「今来たところなんだけど」

 

「ならちょうどいい」

 

書類の束を渡される。

 

「北側の人員を確認しろ。まだ戻っていない者がいれば私に報告しろ」

 

「分かった」

 

理由は聞かない。

 

ケルシーも説明しない。

 

そのまま俺が動こうとしたところで、もう一度呼び止められた。

 

「それと」

 

「まだある?」

 

「テレジアが呼んでいる」

 

足が止まった。

 

「どこ?」

 

「外れの展望区画だ」

 

「分かった」

 

「セラスティア」

 

振り返ると、ケルシーは少しだけ間を置いた。

 

「テレシスもいる」

 

「……そう」

 

それだけ答えた。

 

驚きはしなかった。

 

最後に一度くらい、二人は話すだろうと思っていた。

 

◇

 

そこからは、カズデルの街がよく見えた。

 

何度も壊され。

 

何度も作り直され。

 

それでも残ってきた街。

 

遠くでは煙が上がっている。

 

けれど、街全体が戦場になっているわけではない。

 

まだ。

 

「来たのね」

 

テレジアがこちらを見る。

 

その少し離れたところには、テレシスが立っていた。

 

「呼んだ?」

 

「ええ。ごめんなさい、忙しい時に」

 

「別にいいよ」

 

テレジアの隣へ向かう。

 

テレシスは何も言わなかった。

 

いつものように腕を組み、街を見ている。

 

「撤収するんだって?」

 

「ええ」

 

テレジアが答える。

 

「これ以上ここに残れば、街の人たちまで巻き込んでしまうわ」

 

「戻る予定は?」

 

聞いてから、自分でも妙な質問だと思った。

 

テレジアは少しだけ黙る。

 

代わりに答えたのはテレシスだった。

 

「それは我々次第だ」

 

「我々?」

 

「私とテレジアだけではない」

 

テレシスが振り返る。

 

「軍事委員会。バベル。王庭。傭兵。そして、この街で暮らすすべてのサルカズだ」

 

それだけ増えれば、昔みたいに三人で話せば済むわけがない。

 

「市内での交戦は広げない」

 

テレシスが言う。

 

「軍事委員会にはそう命じる」

 

テレジアが頷く。

 

「私からもバベルの皆に伝えるわ。カズデルを戦場にはしない」

 

「街を出た後は保証せん」

 

「ええ」

 

穏やかな返事だった。

 

なのに。

 

それが一番はっきりした答えに聞こえた。

 

街の中では戦わない。

 

街を出れば。

 

二人は敵になる。

 

「本当に、こうするしかないの?」

 

気づけば聞いていた。

 

テレジアとテレシスが俺を見る。

 

「今さら何を言っている」

 

「分かってるけどさ」

 

分かっている。

 

最近の街を見れば分かる。

 

診療所まで壊れた。

 

少しの行き違いで、誰かが武器を抜く。

 

テレジアがここに残れば、バベルと軍事委員会は同じ街の中でぶつかり続ける。

 

それでも。

 

昔から二人を知っている。

 

二人が同じ場所に立っていた頃を知っている。

 

だから、聞いてしまった。

 

テレシスが目を細める。

 

「セラスティア。昔から、肝心なところでは諦めが悪いな」

 

「そうかな」

 

「自覚がないならなおさらだ」

 

言い返そうとしたが、テレジアが小さく笑った。

 

こんな時なのに。

 

本当に小さな笑いだった。

 

「私も、できることなら違う道を探したかったわ」

 

テレジアは街へ目を向ける。

 

「でも、今ここに留まることが、その道を遠ざけてしまうのなら……私は行く」

 

「テレジア」

 

「諦めるわけではないのよ」

 

俺を見る。

 

「場所が変わっても、私がしたいことは変わらないから」

 

その顔を見て、これ以上止める言葉は出なかった。

 

テレシスも何も言わない。

 

ただ街を見ている。

 

しばらくして、テレジアが彼の隣へ歩いた。

 

二人が並ぶ。

 

俺がずっと見てきた形だった。

 

テレジアと。

 

テレシス。

 

少し離れて、俺。

 

昔ならそれだけでよかった。

 

「テレシス」

 

「何だ」

 

「長かったわね」

 

何の話かは聞かなくても分かった。

 

「そうだな」

 

「最初は、本当に何もなかったのに」

 

「何もないどころか、瓦礫しかなかった」

 

「あなた、あの頃は今よりずっと怖い顔をしていたわ」

 

「お前は今より無茶をした」

 

「それはあなたもでしょう?」

 

テレシスは答えない。

 

テレジアが少し笑う。

 

二人の視線の先にはカズデルがある。

 

同じ景色を見ている。

 

けれど、その先に望んでいる未来まで同じではない。

 

「ここまでだ」

 

テレシスが言った。

 

テレジアはすぐには答えなかった。

 

それから、静かに頷く。

 

「ええ」

 

短い返事だった。

 

「ここからは、別々ね」

 

「ああ」

 

怒鳴り合いもない。

 

恨み言もない。

 

ただ、二人で同じ道を歩くことをやめる。

 

それだけだった。

 

なのに。

 

初めて二人の意見がはっきり食い違った時よりも。

 

久しぶりに三人で食卓を囲んだ時よりも。

 

今の二人は、ずっと遠く離れたように見えた。

 

「セラスティア」

 

テレシスが俺を呼んだ。

 

「何?」

 

こちらへ向き直る。

 

俺も自然と姿勢を正した。

 

何を言われるのか。

 

少しだけ身構える。

 

テレジアではなく、自分の側へ来いとでも言われるのか。

 

あるいは――。

 

「お前にどちらにつくかなど聞くつもりはない」

 

予想していた言葉とは違った。

 

「……どうして?」

 

テレシスが俺を見る。

 

昔と変わらない。

 

長い付き合いのある、あの目だった。

 

「聞くまでもない」

 

それだけ。

 

一瞬、何も言えなかった。

 

数年前。

 

テレシスは俺に聞いた。

 

『テレジア以外に、お前がここにいる理由は何だ』

 

あの時の俺には、すぐに答えられなかった。

 

今なら。

 

答えようと思えば、いくつも浮かぶ。

 

少し離れたところで撤収を手伝っているアスカロン。

 

当然のように仕事を押しつけてくるケルシー。

 

さっき手を振ってきた子供。

 

荷物を運んでいたバベルの連中。

 

守りたいと思うものは、いつの間にか増えていた。

 

そして、その中にはテレジアもいる。

 

誰より長く、ずっと昔から。

 

「……そっか」

 

口から出たのは、それだけだった。

 

テレシスも、それ以上は何も言わない。

 

分かっていたのだろう。

 

昔から俺を見てきたこいつなら。

 

俺がどちらへ歩くのかくらい。

 

「テレシス」

 

呼ぶ。

 

「何だ」

 

言いたいことはいくつかあった。

 

元気で、と言うのも違う。

 

またな、と言えるのかも分からない。

 

次に会った時。

 

俺たちが同じ側にいる保証はない。

 

結局。

 

「死ぬなよ」

 

そんな言葉しか出なかった。

 

テレシスが少しだけ目を細めた。

 

「誰に言っている」

 

「お前に」

 

「余計な心配だ」

 

いつもと同じ返事だった。

 

それが少しだけ嬉しかった。

 

「お前もだ、セラスティア」

 

「ああ」

 

「テレジアを頼む」

 

「……それは」

 

思わず苦笑する。

 

「言われなくても分かってるよ」

 

「そうだったな」

 

ほんの少し。

 

テレシスの口元が緩んだように見えた。

 

◇

 

撤収が始まる。

 

荷物を載せ。

 

人数を確認し。

 

一人ずつ、この街を離れていく。

 

最後の方に、俺とアスカロンは並んで歩いていた。

 

少し先にはテレジアがいる。

 

何度か後ろを振り返っていた。

 

「セラスティア。こっちに来たこと、後悔してる?」

 

考えるまでもなかった。

 

「してないよ」

 

アスカロンはそれ以上聞かなかった。

 

俺も聞き返さない。

 

お前は、と。

 

聞く必要はなかった。

 

しばらく歩く。

 

周りにはバベルの人間がいる。

 

怪我をした奴。

 

不安そうな奴。

 

何度もカズデルを振り返る奴。

 

それでも皆、前へ進んでいる。

 

俺も歩く。

 

前から声がした。

 

「セラスティア」

 

テレジアが立ち止まり、こちらを見ていた。

 

待っていたらしい。

 

俺は少し歩調を速める。

 

その横にはアスカロンもいる。

 

後ろにはバベルの皆がいる。

 

「行きましょう」

 

テレジアが言う。

 

「ああ」

 

振り返る。

 

遠くなり始めたカズデル。

 

そこにはテレシスが残っている。

 

いつか。

 

また同じ場所に立てる日が来るのか。

 

今の俺には分からない。

 

だから俺は、もう一度前を向いた。

 

テレジアの隣へ。

 

アスカロンたちと同じ道へ。

 

自分で足を踏み出した。

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