第12話 三分だけ
カズデルを離れてから、四年ほどが過ぎた。
あの日を境に、バベルと軍事委員会の距離が元に戻ることはなかった。
初めの頃こそ小さな衝突が中心だったが、それも少しずつ増えている。
俺が任務へ出る回数も増えた。
護衛や偵察、行方不明者の捜索。
危険な場所から住民を逃がすこともある。
それでも、船へ戻れば知っている顔がいた。
テレジア。
ケルシー。
アスカロン。
昔からいる奴も、新しく加わった奴もいる。
だから、カズデルを離れたという感覚はあっても、居場所を失ったと思ったことはなかった。
そんなある日。
「セラスティア、少しいいかしら?」
テレジアに呼び止められた。
「いいけど」
「会ってほしい人がいるの」
「俺に?」
「ええ」
珍しい。
誰かを紹介されること自体はあるが、わざわざテレジア本人に呼ばれたのは久しぶりだった。
「誰?」
「来れば分かるわ」
「言ってくれてもいいだろ」
「その方が面白いでしょう?」
「そういうことするようになった?」
テレジアが楽しそうに笑う。
結局、俺はそのまま彼女の後についていった。
◇
部屋にはケルシーがいた。
もう一人。
見覚えのない人物が椅子に座っている。
服装からして戦闘員ではない。
少なくとも、強そうには見えなかった。
「連れてきたわ」
テレジアが言うと、見知らぬ人物がこちらを見る。
その視線だけが妙に印象に残った。
眠そうにも見える。
疲れているようにも見える。
それなのに俺を見た瞬間だけ、観察されているような感覚がした。
「セラスティアだ」
ケルシーが紹介する。
「戦闘と護衛を担当している。現場での判断も任せられる」
「随分ちゃんと紹介するな」
「事実を述べただけだ」
「悪いところも言う?」
「必要なら言う」
「やめて」
初対面の相手の前で聞きたくない。
見知らぬ人物の口元が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
「それで」
俺はそいつを見る。
「誰?」
「ドクター」
ケルシーが答えた。
「……名前は?」
「今はそれでいい」
本人が言う。
やっと声を聞いた。
落ち着いている。
ただ、どこか長い間誰とも話していなかった人間みたいな、不思議な間があった。
「変わった呼び方だな」
「セラスティアに言われたくないと思うわ」
「俺?」
テレジアを見る。
「どうして?」
「何でもないわ」
絶対何かある顔だった。
問い詰めようとしたところで、ケルシーが机の上へ資料を広げる。
「話を進めるぞ」
「はいはい」
「返事は一度でいい」
「それ、前も聞いた」
ケルシーを横目で見る。
その隣で、ドクターはすでに資料へ視線を落としていた。
「この人も行くの?」
「その予定だ」
「戦える?」
「ほぼ期待するな」
「本人の前で言う?」
「事実だ」
ドクターは特に気にしていないらしい。
資料を見たまま口を開く。
「だから君がいる」
「俺?」
「護衛だ」
なるほど。
俺はもう一度ドクターを見る。
細い。
少なくとも、前に立って戦わせる相手じゃない。
「何かあったら、俺のそばから離れないで」
「それは困る」
即座に返された。
「何で?」
「必要なら離れてもらう」
「護衛なんだけど」
「私を守るために、私の隣に居続ける必要があるとは限らない」
初対面から、妙なことを言う。
「その時になれば分かる」
「分からなかったら?」
「その時は説明する」
「できれば先にしてほしいんだけど」
ドクターは答えず、資料へ視線を戻した。
◇
任務自体は難しくない。
そのはずだった。
バベルが使っている小さな観測拠点から、記録と人員を回収する。
軍事委員会側の巡回経路が変わった可能性があり、このまま置いておくには危険になったらしい。
俺とドクター。
それに数人の護衛。
合わせても十人に届かない。
「こっちでいいの?」
歩きながら聞く。
予定していた道から外れている。
「問題ない」
先頭近くを歩くドクターが答える。
「でも遠回りだろ」
「予定していた経路には、少なくとも十二人が通った跡がある」
「見たの?」
「ああ」
気づかなかった。
正確には、人が通った跡があることには気づいていた。
人数までは数えていない。
「敵とは限らないだろ」
「そうだ。だから逃げているわけではない」
ドクターが少し先を指す。
「こちらから観測拠点へ向かえば、北側の高所を確認できる。誰かがいるなら先に把握できる」
「いなかったら?」
「遠回りしただけだ」
「結構歩くんだけど」
「運動になる」
思わず振り返った。
冗談なのか。
顔を見ても分からない。
「今の、冗談?」
「どちらだと思う?」
「……面倒くさいな」
後ろで護衛の一人が笑った。
◇
結局、遠回りは無駄ではなかった。
「いたな」
岩陰から北側を見る。
人影。
十人。
いや。
もっといる。
装備を見る限り、軍事委員会側だ。
観測拠点との距離も近い。
「十二より多くない?」
「増えたらしい」
「外した?」
「情報が更新された」
物は言いようだ。
「観測班は?」
「まだ中にいるはずだ」
ドクターが地形を見る。
正面には敵。
こちらは人数で負けている。
俺一人で突っ込めば、倒せなくはない。
でも、ドクターと他の連中を守りながらになる。
「俺が前に出る」
「待て」
「何?」
「まだ行くな」
止められた。
「このまま待ってたら向こうが先に観測拠点へ着くよ」
「だから、先に入る」
「どうやって?」
ドクターが指したのは、敵がいる方ではなかった。
反対側の崖。
その下に細い道がある。
「そこから二人だけで行く」
「二人?」
「君と私だ」
思わず見る。
「戦えないんだよな?」
「ああ」
「何で来るの?」
「中の記録を確認する必要がある」
「俺が持って帰るよ」
「何を持ち帰るべきか、君に判断できるなら任せる」
言葉に詰まる。
できない。
「……分かった」
結局、二人で行くことになった。
◇
観測拠点へ着いた時、中にいたのは三人だった。
そのうち一人が怪我をしている。
足をやられていた。
「予定より早いな」
俺が言うと、観測班の一人が首を振る。
「昨日から巡回が増えている。ここも見つかった可能性が高い」
嫌な予感がした。
外を見る。
まだ姿はない。
でも、時間はない。
ドクターはすぐに記録へ目を通し始めた。
「持ち出す資料を絞る。すべて運ぶ必要はない」
「どれくらいかかる?」
「二分」
短い。
本当に二分ほどで、持ち出すものが決まった。
「行くぞ」
怪我人を背負おうとする。
その時。
外から音がした。
足音。
複数。
「早いな」
俺は剣を抜く。
入口から覗く。
敵。
さっき見た連中の一部が、こちらへ向かっている。
「セラスティア」
「分かってる。ここで止める」
「違う」
背後から声が飛んだ。
「西へ行け」
振り返る。
「何?」
「建物の裏を抜けて、西側の高所へ回れ」
「俺が?」
「そうだ」
「その間ここは?」
「私たちだけになる」
「それ駄目だろ」
さっき俺に護衛を任せたばかりじゃないか。
「正面で君が戦えば、敵はここへ集まる」
ドクターは地図を指でなぞる。
「西側の高所からなら敵の後方へ出られる。そこに通信役がいるなら、増援を呼ばれる前に止められる」
「いるか分からないだろ」
「分からない。だが、巡回人数が急に増えたなら連絡手段は持っている可能性が高い」
外へ目を向ける。
敵はすぐそこまで来ている。
「でも、俺が離れたら――」
「奴らはこの拠点を壊しに来ているわけじゃない」
「何で分かる?」
「見つけてすぐ攻撃してこなかった。周囲を固めながら入口へ寄っている」
ドクターの指が地図上の建物を軽く叩く。
「おそらく目的は、中の人間か記録の確認だ。いきなり建物ごと潰すつもりなら、とっくに遠距離から攻撃している」
確かに。
敵は慎重に近づいている。
「だから三分は持つ?」
「必ずとは言わない」
ドクターが俺を見る。
「それでも、正面で戦い続けて包囲されるより可能性は高い」
怪我人。
戦えないドクター。
観測班。
俺がいれば、ここで守れる。
その方がずっと分かりやすい。
「セラスティア」
もう一度呼ばれる。
「君がここに残れば、全員で囲まれる」
その声に迷いはなかった。
「三分だけ、ここから離れてくれ」
今日会ったばかりだ。
信用する理由なんて、ほとんどない。
でも。
ここへ来るまで、こいつは俺が見落としたものを何度も拾っていた。
「……三分だからな」
「ああ」
「危なくなったら逃げろよ」
「善処する」
「それ、ケルシーが嫌いな返事だよ」
初めて、ドクターがはっきり笑った気がした。
俺は走り出した。
◇
西側の高所までは、二分とかからなかった。
下を見る。
予想通り。
敵の後ろへ出た。
その中に、一人だけ戦わず通信機器を触っている奴がいる。
「本当にいた」
少し腹が立つ。
当てられたことに。
飛び降りる。
着地と同時に距離を詰め、通信機器を蹴り飛ばす。
「な――」
驚いた相手の武器を弾く。
そのまま地面へ倒す。
周囲が俺に気づく。
三人。
四人。
一斉にこちらを向いた。
正面。
観測拠点からも音がする。
なるほど。
挟める。
こっちに意識を向ければ、拠点から離れる。
俺を無視すれば、後ろから崩せる。
敵にとっては嫌な位置だ。
あいつ、最初からこれを狙っていたのか。
一人が向かってくる。
受ける。
流す。
倒す。
次。
その途中。
視界の端に弓が見えた。
狙っている先は観測拠点。
「……!」
身体が先に動いた。
近くの敵を蹴り飛ばし、弓兵へ向かう。
予定していた位置から外れる。
矢が放たれた。
間に入る。
剣で弾く。
「セラスティア!」
遠くから声がした。
誰のものかは分からない。
弓兵を倒す。
その瞬間、敵の動きが変わった。
後退を始める。
「……何?」
追おうとして。
やめた。
深追いするな。
それは何度も言われている。
観測拠点を見る。
ドクターたちが建物から出てくる。
俺たちが入ったのとは別の道へ向かっていた。
退路。
本当に作っていた。
「三分」
小さく呟く。
少しだけ笑ってしまった。
◇
合流したのは、さらに少し先だった。
「怪我は?」
俺が聞く。
「ない」
ドクターが答える。
観測班も全員いる。
足を怪我した奴は、別の護衛に肩を貸してもらっていた。
「こっちも大丈夫」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
言ってから、一つ思い出す。
「俺、途中で指示された位置から外れたけど」
「ああ」
「気づいてた?」
「弓兵だろう」
「見えてたの?」
「完全には。ただ、君が予定より東へ動いた。理由があると思った」
少し黙る。
「怒らないんだ」
「なぜ?」
「指示通りじゃなかったから」
ドクターは前を向いたまま答える。
「私が欲しいのは、命令だけを守る人間ではない」
「……」
「全員を生きて戻すことが目的だ。状況が変わったなら、判断も変えればいい」
その言葉は、思っていたよりすんなりと入ってきた。
「ただし」
こちらを見る。
「次からは可能なら報告してくれ」
「戦ってる最中に?」
「可能なら、と言った」
「それなら」
少し考える。
「努力する」
「十分だ」
しばらく並んで歩く。
「ドクター」
「何だ?」
「次に俺を三分どこかへ行かせる時は、先に理由を教えて」
「時間があれば」
「なかったら?」
「今日と同じだ」
「また信じろって?」
ドクターはしばらくこちらを見た。
それから、前へ視線を戻す。
「一度成功した」
「一回だけだろ」
「なら、二回目の方が簡単だ」
「そういうもの?」
「少なくとも私はそう考える」
返す言葉が思いつかなかった。
◇
船へ戻った頃には、空が暗くなっていた。
報告を終えて廊下へ出る。
そこにテレジアがいた。
「おかえりなさい」
「ああ。ただいま」
自然に返す。
テレジアは俺の後ろを見る。
少し離れたところで、ドクターがケルシーに捕まっていた。
報告の続きをさせられているらしい。
「どうだった?」
「何が?」
「ドクターよ」
「ああ」
少し考える。
戦えない。
妙なことを言う。
人を勝手に危ないところへ走らせる。
説明も足りない。
でも。
俺が指示と違う動きをしても、結果だけを見て責めなかった。
それに。
三分で、本当に全員を連れ出した。
「変な奴」
「それだけ?」
テレジアが笑う。
「面倒くさいし」
「セラスティアと気が合いそうね」
「どこが?」
「何となく」
納得できない。
もう一度、ドクターの方を見る。
ケルシーに何か言われている。
こちらに気づいた。
一瞬だけ目が合う。
ドクターが軽く手を上げた。
俺も何となく返す。
今日初めて会ったばかりだ。
まだ、どんな奴なのかも分からない。
ただ。
もし次に、あいつが何かを見て。
俺に行けと言ったなら。
その時は一度くらい。
理由を聞く前に動いてみてもいい。
そんなことを思った。