ドクターが船を離れてから、しばらく経った。
最初に聞いた時は、任務かと思った。
でも違った。
テラを自分の目で見て回りたい。
そんな理由だったらしい。
「一人で?」
そう聞いた俺に、ケルシーはいつもの顔で答えた。
「本人がそう決めた」
「危なくない?」
「危険がないとは言わない」
「止めなかったの?」
「私が止めれば、あれが必ず従うと思っているのか?」
「……思ってない」
それで話は終わった。
ドクターとは、それまで何度か任務で一緒になっていた。
最初に組んだ時ほど、いちいち指示の理由を聞くこともなくなった。
こいつが行けと言うなら、たぶん何か見えている。
それくらいには信用するようになっていた。
だから。
出ていくなら、そのうち帰ってくるだろうと思っていた。
◇
「帰ってきた?」
廊下で呼び止められた俺は、思わず聞き返した。
目の前にいるアスカロンが頷く。
「ドクター」
「今日?」
「さっき」
思っていたより急だった。
「テレジアは?」
「迎えに行ってる」
「ケルシーは?」
「そわそわしてる」
「ケルシーが?」
想像できない。
アスカロンが少し考える。
「いつもより歩くのが速い」
「それをそわそわしてるって言う?」
「ケルシーなら」
「……まあ、分からなくもないけど」
俺たちは並んで歩き出す。
久しぶりに顔を見るくらいなら、急ぐ必要もない。
そう思っていた。
「もう一人いる」
アスカロンが言うまでは。
「もう一人?」
「女の子」
「ドクターが連れてきた?」
「うん」
足が少しだけ速くなる。
「何それ。アスカロンも見たの?」
「遠くからだけ」
「どんな子?」
アスカロンは少し考える。
「小さい。耳が長かった」
「コータス?」
「たぶん」
情報が少ない。
結局、直接見た方が早そうだった。
◇
外へ出ると、すぐに見つかった。
テレジア。
ドクター。
そして、知らない小さな女の子。
女の子はテレジアの腕の中で眠っていた。
長い耳が、歩くたびに小さく揺れている。
「本当にいた」
「言った」
「疑ってたわけじゃないよ」
近づく。
先にこちらへ気づいたのはドクターだった。
「セラスティア」
「久しぶり」
「ああ」
少しだけ、顔つきが変わった気がした。
痩せたというより、疲れている。
それなのに、以前よりも目が外を向いているようにも見えた。
何となく。
それが気になった。
「随分、意外な子を連れて帰ってきたな」
女の子を見る。
ドクターもそちらを見た。
「アーミヤだ」
「アーミヤ」
名前を口にする。
まだ眠っている。
「どうしたの?」
聞くと、ドクターは少しだけ間を置いた。
「旅の途中で出会った」
それだけでは説明になっていない。
たぶん、簡単に話せることでもないのだろう。
近くで見ると、少女の身体には治療の痕跡があった。
鉱石病。
それくらいは俺にも分かる。
「……そう」
それ以上は聞かなかった。
テレジアがアーミヤを抱き直す。
「長い旅だったみたい。まずは休んでもらいましょう」
「テレジアもずっと抱いてたら疲れるだろ」
「このくらい大丈夫よ」
「俺が代わる?」
「起こしてしまわない?」
「そんな雑に持たないよ」
手を伸ばそうとする。
その瞬間。
アーミヤの目が開いた。
「……ん……」
全員が止まる。
小さな目がゆっくり開いて、最初にテレジアを見る。
次に、一番近くにいた俺。
「……」
見つめ合う。
「……こんにちは」
とりあえず挨拶した。
アーミヤは何も言わない。
俺の顔をじっと見ている。
「セラスティア」
テレジアが小さく笑う。
「もう少し優しい顔をしたら?」
「普通の顔だけど」
「怖がらせてる」
「そんなに?」
アーミヤを見る。
少しだけ、テレジアの服を握る手に力が入った気がした。
地味に傷つく。
「俺、何もしてないのに」
「顔の問題じゃない?」
アスカロンが横から言う。
「お前まで言う?」
そのやり取りを見ていたアーミヤの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「あ」
俺が声を出すと、すぐに口元を隠される。
「今笑った?」
「……笑ってません」
初めて聞いた声だった。
思っていたよりしっかりしている。
「笑ったよな?」
アーミヤは答えず、テレジアの服へ少しだけ顔を隠した。
横を見る。
アスカロンが頷く。
見間違いではないらしい。
テレジアが楽しそうに笑っている。
その少し後ろで、ドクターの口元も僅かに緩んでいた。
俺は何も言わないことにした。
◇
アーミヤの検査が始まった。
俺にできることはない。
廊下の壁に寄りかかって待っていると、少ししてドクターが出てきた。
「終わった?」
「まだだ」
「じゃあ何で出てきたの?」
「ケルシーに追い出された」
「何したんだよ」
「何もしていない」
「本当に?」
「アーミヤの横に立っていただけだ」
それで邪魔だと言われたらしい。
何となく想像できた。
俺の隣へドクターが立つ。
しばらく、二人で黙る。
「元気なの?」
俺から聞いた。
「誰が?」
「アーミヤ」
ドクターの顔から、僅かに力が抜けた。
「今すぐどうこうという状態ではない」
「そっか」
「だが、感染はしている」
「ああ」
「旅を続けながら私にできることには限界があった。だから戻ってきた」
いつものドクターなら、もう少し簡単に話した気がする。
今は一つ一つ、言葉を選んでいた。
「大事なんだ」
何となく言った。
ドクターはこちらを見る。
「アーミヤ」
少し間があった。
「ああ」
短い返事。
でも、それで十分だった。
「じゃあ大丈夫」
「何がだ?」
「ここなら、ケルシーもいる。テレジアもいる」
少し考える。
「俺もいるし」
「最後のは必要か?」
「ひどくない?」
「治療はできないだろう」
「それ以外ならできる」
「例えば?」
聞かれる。
困った。
「……荷物持つとか」
ドクターが黙る。
「何?」
「変わらないなと思っただけだ」
「久しぶりに会って最初にそれ?」
「安心した」
「褒めてる?」
「一応」
分かりにくい。
でも、以前と同じやり取りができたことに少しだけ安心した。
◇
検査が終わったアーミヤは、思っていたより元気だった。
「ここが食堂よ」
テレジアがそう言って、入口の脇へ寄る。
アーミヤが興味深そうに中を覗き込んだ。
ドクターはケルシーに捕まったまま。
どうやら久しぶりに戻ってきた分、話すことが山ほどあるらしい。
俺は偶然通りかかっただけだった。
「セラスティア」
テレジアに呼び止められるまでは。
「何?」
「ちょうどよかったわ」
嫌な予感。
最近、この言葉を聞くと仕事を頼まれることが多い。
「何すればいい?」
「何もしなくていいわよ」
「本当?」
「そんなに疑わなくても」
テレジアが苦笑する。
その隣で、アーミヤが俺を見ていた。
さっきほど警戒してはいない。
「アーミヤ。この人がセラスティア」
「さっき聞きました」
「そうだったわね」
テレジアが俺を見る。
「よかったら、少し一緒に回ってくれる?」
「俺も?」
「ええ。嫌?」
「別に」
アーミヤを見る。
「俺でいいなら」
「……お願いします」
随分丁寧だ。
「そんな固くならなくていいよ」
「ですが……」
「普通でいいって」
「普通……」
難しそうな顔をされた。
どうやら、そっちの方が難しいらしい。
◇
船の中を歩く。
医療区画。
倉庫。
訓練場。
アーミヤはどこへ行っても、周りをよく見ていた。
「ここで皆さんが暮らしているんですか?」
「そうだよ」
「セラスティアさんも?」
「ああ」
「ずっと?」
「ずっとではないかな」
昔。
まだこの船が俺たちのものですらなかった頃。
カズデルにいた頃。
もっと昔。
いろんな場所を歩いた。
でも、それを今全部話す必要はない。
「今はここにいるよ」
「そうなんですね」
アーミヤが頷く。
その少し先から、声が飛んできた。
「セラスティア!」
見る。
構成員の一人が箱を抱えていた。
「悪い、これ後で運ぶの手伝ってくれ!」
「また?」
「頼む!」
「分かったよ」
手を上げる。
隣を見ると、アーミヤが俺を見ていた。
「どうした?」
「よく頼まれるんですね」
「……そう見える?」
「はい」
後ろから、テレジアの笑い声が聞こえた。
「皆、セラスティアを頼りにしているのよ」
「便利に使われてるだけじゃない?」
「それも信頼の形でしょう?」
「絶対違う」
アーミヤがまた笑った。
今度は隠さなかった。
◇
訓練場の前を通った時、アーミヤの足が止まった。
中では何人かが訓練している。
剣。
槍。
弓。
それぞれ違う武器を使っていた。
「怖い?」
聞いてみる。
アーミヤは少し迷ってから頷いた。
「……少しだけ。でも」
訓練場を見る。
「皆さん、誰かを守るために戦っているんですか?」
思わずテレジアを見る。
彼女は何も言わない。
ただ、アーミヤを見ていた。
「それだけじゃないと思うよ」
俺が答える。
「違うんですか?」
「金のために戦う奴もいるし、自分が生きるために戦う奴もいる」
アーミヤが俺を見る。
「セラスティアさんは?」
「俺?」
少し考える。
「その時によるかな」
「その時?」
「仕事だからって時もあるし、頼まれたからって時もある。守りたいものがある時もある」
「たくさんあるんですね」
「まあな」
アーミヤは少し考えてから、柔らかく笑った。
「いいですね」
「そう?」
「はい」
何がそんなにいいのかは分からない。
でも、否定する理由もなかった。
「そうかもな」
それだけ返した。
◇
案内が終わる頃、ドクターがこちらへ歩いてきた。
その後ろにはケルシーもいる。
「ドクター!」
アーミヤの顔が明るくなる。
そのまま走っていく。
ドクターが立ち止まった。
「検査はどうだった?」
「大丈夫でした!」
「正確には、継続的な経過観察と治療が必要だ」
すぐ後ろからケルシーが補足する。
アーミヤの表情が少しだけ曇った。
「だが、今すぐ状態が悪化する兆候はない。必要以上に不安になることはない」
「……はい!」
今度はさっきより明るい返事だった。
ドクターがアーミヤの頭へ手を置く。
慣れているようで、少しぎこちない。
「楽しかったか?」
「はい。テレジアさんに、いろんなところを案内してもらいました」
ちらりと俺を見る。
「セラスティアさんにも」
「俺はついて歩いてただけだけど」
「それでもです」
真面目だ。
「セラスティア」
ドクターがこちらを見る。
「ありがとう」
「別に」
手を軽く振る。
「今度何か奢って」
「何がいい?」
「本当に奢るの?」
「礼が欲しいんだろう?」
「冗談だったんだけど」
「なら取り消す」
「待って。それはそれでもったいない」
「セラスティア」
ケルシーの声。
「何?」
「子供の前でたかるな」
「たかってないよ」
横でアーミヤが笑う。
テレジアも笑っている。
ドクターは少し呆れている。
久しぶりに帰ってきた奴。
今日初めて会った子。
それを迎えたテレジア。
いつも通りのケルシー。
気づけば、廊下に人が増えていた。
「アーミヤ」
テレジアが呼ぶ。
「はい?」
テレジアはアーミヤの前へしゃがむ。
同じ高さで目を合わせた。
「改めて」
優しく笑う。
「ようこそ、バベルへ」
アーミヤは少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくり笑った。
「はい」
長い耳が小さく揺れる。
「よろしくお願いします」
その言葉を聞いて。
何となく思った。
この子も、これから何度もこの廊下で見かけるようになるのだろう。
名前を呼ばれて。
誰かを呼んで。
そんな当たり前の一人になっていく。
「セラスティアさん」
「何?」
早速、呼ばれた。
「今度、訓練場のことも教えてください」
「俺が?」
「はい」
「いいけど」
「ありがとうございます!」
随分、嬉しそうに笑う。
まだ今日会ったばかりなのに。
「……まあいいか」
「何がですか?」
「何でもない」
少し先で、テレジアが笑っていた。