アーミヤがバベルへ来てから、少し経った。
最初の頃は廊下ですれ違うたびに丁寧に頭を下げられていたが、最近は少し変わってきた。
「セラスティアさん!」
今日も遠くから名前を呼ばれる。
振り返ると、アーミヤがこちらへ走ってきていた。
手には一冊のノート。
何となく。
嫌な予感がする。
「どうした?」
「お願いがあるんです」
「俺に?」
「はい!」
随分と力強い。
「何?」
「少し、勉強を見てもらえませんか?」
「……俺が?」
思わず聞き返した。
アーミヤが頷く。
「ケルシー先生から課題をいただいたんですけど、少し分からないところがあって」
「ケルシーは?」
「お仕事中です」
「テレジアは?」
「テレジアさんもお仕事です」
「ドクター」
「ケルシー先生と一緒です」
綺麗に逃げ道を塞がれた。
アーミヤが俺を見上げる。
「駄目ですか?」
「駄目ではないけど」
ノートを見る。
何をやらされるのか。
その方が問題だった。
◇
「……これ、子供にやらせる課題?」
机の上に広げられた紙を見ながら聞く。
簡単な船内図。
いくつか印が付いている。
居住区。
医療区画。
倉庫。
それぞれの地点を通り、最後に出発地点へ戻る。
条件に合う経路を考えろ。
そんな内容だった。
「ケルシー先生は、地図を見る練習だって言ってました」
「まあ、それなら」
できなくはない。
椅子を引き、アーミヤの隣へ座る。
「どこが分からない?」
「ここです」
指を差す。
「医療区画から倉庫へ行くなら、この道が一番近いと思うんです」
「ああ」
「でも、答えだとこっちになっていて」
別の道。
距離だけなら少し遠い。
「なるほど」
「どうしてですか?」
「こっちの方が安全だからじゃない?」
アーミヤが首を傾げる。
「安全?」
「この通路、狭いだろ」
地図を指す。
「もし何かあった時、逃げにくい。荷物を持ってたらもっと面倒だ」
「でも、船の中ですよ?」
「船の中でも何か起きるかもしれない」
「例えば?」
「敵が入ってきたとか」
「敵……」
「火事とか」
「火事」
「通路が崩れたとか」
アーミヤの顔がだんだん真剣になる。
「あと、待ち伏せされてた場合は――」
「待ち伏せ?」
「こっちなら角が少ないから、先を確認しやすい。向こうは二回曲がるし、曲がった先が見えないだろ」
ノートへ線を引く。
「だから俺なら、まずここを確認して――」
「セラスティア」
声がした。
振り返る。
いつの間にか。
扉のところにテレジアが立っていた。
「おかえり」
「ええ。ただいま」
テレジアは俺たちのところまで歩いてくる。
机の上を見る。
地図。
ノート。
俺が書き足した矢印。
丸。
注意書き。
「……何をしているの?」
「勉強」
「そうです!」
アーミヤも頷く。
テレジアがノートを手に取った。
「遮蔽物」
読み上げる。
次。
「退路を二つ確保」
もう一つ。
「相手より高い場所を取る」
顔を上げる。
「セラスティア」
「何?」
「アーミヤは何の勉強をしていたの?」
「地図の見方」
「戦場の地図ではないでしょう?」
「でも覚えておいて損はないよ」
「それはそうかもしれないけれど」
テレジアが困ったように笑う。
アーミヤは自分のノートを覗き込んだ。
「これは書かなくてもいいんですか?」
「今は書かなくていいと思うわ」
「……そうなんですね」
少し残念そうだ。
「消さなくていいよ」
俺が言う。
「いつか使うかもしれないし」
「使う日が来ない方がいいのだけれど」
「それはそう」
テレジアが俺の隣へ椅子を持ってくる。
「それで、本当の問題は?」
「ここです」
アーミヤがすぐに地図を指した。
「医療区画から倉庫まで、この道を通る理由が分からなくて」
「これは――」
テレジアが地図を見る。
少し考える。
「たぶん、搬送用の通路だからだと思うわ」
「搬送用?」
「ええ。距離は少し長くても、荷物を運ぶならこちらの方が通りやすいの」
「……」
俺も地図を見る。
言われてみれば。
道幅が違う。
「そういうことか」
「セラスティアも分かってなかったの?」
「安全な道を選ぶ問題かと思った」
「それで待ち伏せの話までしたのね」
「結果的に勉強にはなっただろ」
「なりました!」
アーミヤが元気よく答える。
テレジアが笑う。
「アーミヤがそう言うなら、いいことにしましょうか」
何となく。
助かった気がした。
◇
それからしばらく。
三人で机を囲んだ。
俺が分かるところは俺が教える。
分からないところはテレジアが教える。
時々。
二人とも分からない。
「これは?」
アーミヤが問題を指す。
俺とテレジアが同時に覗き込む。
しばらく。
誰も答えなかった。
「……ケルシーに聞こう」
「そうね」
意見が一致した。
「お二人でも分からないことがあるんですね」
アーミヤが少し驚いている。
「あるよ」
「たくさんあるわ」
テレジアが答える。
「大人になれば何でも分かるようになるわけではないのよ」
「そうなんですか?」
「むしろ、分からないことが増えるかもしれないわね」
「増えるんですか?」
「知らないことを知るから」
アーミヤは少し難しそうな顔をした。
俺は隣からノートを見る。
「今はこの問題だけ分かればいいんじゃない?」
「セラスティアはすぐそうやって後回しにするわね」
「全部一気に考えたら疲れるだろ」
「それも間違ってはいないけれど」
「じゃあいいじゃん」
「よくはないわ」
アーミヤが笑う。
「セラスティアさん」
「何?」
「ここも教えてください」
「どれ?」
◇
「終わりました!」
アーミヤが鉛筆を置いた。
ノートを見る。
一応。
全部埋まっている。
途中に俺が書いた余計な戦術知識も残っているが。
まあいいだろう。
「お疲れさま」
テレジアが言う。
「ありがとうございます!」
アーミヤが嬉しそうに笑う。
それから。
何かに気づいたようにテレジアを見る。
「テレジアさん」
「なあに?」
「今日はもうお仕事、終わったんですか?」
「あと少しだけ残っているわ」
「まだあるんですか?」
「ええ」
俺もテレジアを見る。
「今日、朝から仕事してたんだろ。昼はちゃんと食べた?」
「ちゃんと休んだわ」
「休んだかじゃなくて、食べたか聞いてるんだけど」
一瞬。
テレジアが黙った。
分かりやすい。
「……テレジアさん」
アーミヤまで声を低くする。
「何か食べないと駄目です」
「アーミヤまで」
「ケルシー先生も言ってました。忙しい時ほど、ちゃんと食べないといけないって」
「ケルシーが?」
「はい」
妙なところで効いてくる。
「じゃあ食べよう」
俺も立ち上がる。
「セラスティアまで?」
「二対一」
「そういう決め方なの?」
「多数決」
「まだアーミヤは賛成するとは言っていないでしょう?」
アーミヤが小さく手を上げた。
「私も賛成です」
「ほら」
テレジアが俺たちを交互に見る。
それから。
諦めたように笑った。
「分かったわ」
勝った。
◇
食堂へ行ったら。
ちょうど人が少ない時間だった。
残っていた料理をいくつか受け取る。
俺は皿を持って戻る。
机に置く。
一つ。
二つ。
三つ。
「……」
置いてから。
気づいた。
「どうしたの?」
テレジアが聞く。
「いや」
何となく。
皿を見る。
三人分。
別に。
おかしなことではない。
三人いるんだから。
三人分持ってくるのは当たり前だ。
「何でもない」
席に座る。
アーミヤが俺の向かい。
テレジアが隣。
「いただきます」
アーミヤが言う。
「いただきます」
テレジアも続く。
俺も少し遅れて。
「いただきます」
食べ始める。
少しして。
アーミヤがこちらを見る。
「セラスティアさん」
「何?」
「さっきの道なんですけど」
「道?」
「待ち伏せされていたら、高い場所を取るって」
テレジアの手が止まる。
「アーミヤ」
「はい?」
「その話は食事が終わってからにしましょう」
「どうしてですか?」
「セラスティアがまた余計なことまで教えるから」
「余計じゃないよ」
「食事中に敵襲の話をする必要はないでしょう?」
「いつ来るか分からないだろ」
「今は来ていないわ」
「来たら俺が守るよ」
言ってから。
少し考える。
「だから今聞いてもいいんじゃない?」
「どうしてそうなるの?」
アーミヤが吹き出した。
「何?」
「いえ」
口元を押さえる。
「お二人、いつもこんな感じなんですね」
俺とテレジアが目を合わせる。
「こんな感じ?」
「どんな感じかしら?」
同時に聞く。
アーミヤがまた笑った。
「何でもありません」
さっき俺がよく使う答えを。
そのまま返された。
「それ俺の真似?」
「違います」
「絶対そうだろ」
「違います」
楽しそうだから。
まあいいか。
◇
食事を終える頃には。
アーミヤの声が少しずつ小さくなっていた。
「眠い?」
聞く。
「眠くないです」
「目閉じてるけど」
「閉じてません……」
閉じている。
テレジアが笑う。
「今日は色々覚えたものね」
「まだ……大丈夫です」
アーミヤはそう言いながら。
こくり。
頭が落ちる。
また上がる。
少しして。
また落ちる。
「寝た方がいいよ」
「まだ……」
返事も最後まで続かなかった。
机へ伏せそうになったところで、身体を支える。
完全に眠っていた。
「早いな」
「疲れていたのね」
テレジアが立ち上がる。
「私が連れていくわ」
「俺がやる」
「起こしてしまわない?」
前にも。
同じことを言われた気がする。
「今度は大丈夫」
そっと抱き上げる。
軽い。
アーミヤは少しだけ身体を動かしたが。
目は開けなかった。
その代わり。
俺の服を小さく掴む。
「……起きてる?」
返事はない。
寝ているらしい。
「思っていたより様になっているわね」
隣からテレジアが言う。
「何が?」
「抱っこ」
「子供扱いするなよ」
「アーミヤを抱いているのはあなたでしょう?」
「俺のこと」
「分かっているわ」
楽しそうに笑われた。
二人で廊下を歩く。
途中ですれ違った人間が。
アーミヤを抱えている俺を見て。
テレジアを見て。
何となく笑った。
「何?」
聞いても。
「いや、何でもない」
と返された。
最近。
この答えばかり聞いている気がする。
◇
アーミヤの部屋へ着く。
ベッドへ寝かせる。
服を掴んでいた指を、一本ずつ外す。
布団をかける。
テレジアがその横に座った。
「おやすみなさい、アーミヤ」
髪を優しく撫でる。
その声が聞こえたのか。
アーミヤが少しだけ動いた。
「……おやすみ……なさい……」
小さな声。
「テレジアさん……」
「ええ」
少し間があって。
「セラスティアさんも……」
呼ばれた。
「おやすみ」
返す。
それで安心したのか。
今度こそ。
静かになった。
部屋を出る。
扉を閉める。
廊下には。
俺とテレジアだけが残った。
「すっかり懐かれたわね」
「そうかな」
「最初はあなたの顔を見て怖がっていたのに」
「それ忘れてくれない?」
「可愛かったもの」
「俺は傷ついたんだけど」
テレジアが笑う。
歩き出す。
少しして。
俺は気づいた。
「テレジア」
「なあに?」
「仕事」
足が止まる。
「あと少し残ってるって言ってただろ」
「……覚えていたのね」
「忘れると思った?」
「少しだけ」
「行くぞ」
「今から?」
「終わらせたら帰れるだろ」
「手伝ってくれるの?」
「できることなら」
テレジアが俺を見る。
柔らかく笑った。
「ありがとう」
「別に」
並んで歩き出す。
さっきまで。
三人だった。
今は二人。
明日になれば。
また廊下のどこかから。
「セラスティアさん」
と呼ばれるのだろう。
そんな気がした。