夏雪草が帰る場所   作:Bestmeever

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第18話 勝っているのに

冬に入ってから、地図に引かれる線が増えた。

 

赤。

 

青。

 

黒。

 

誰がどこまで進んだのか。どこを取って、どこを失ったのか。

 

作戦室へ行くたび、昨日までなかった印が増えている。

 

「また勝ったらしいよ」

 

廊下ですれ違った兵士が、隣の仲間にそう話していた。

 

最近、よく聞く言葉だった。

 

ドクターが指揮に入ってから、バベルは以前より戦えるようになった。

 

敵の補給路を断った。

 

包囲される前に部隊を逃がした。

 

少ない人数で拠点を奪った。

 

そんな報告はいくつも聞く。

 

だから、勝っているはずだった。

 

それなのに、食堂では知らないうちに空席が増えている。

 

医療区画の前を通れば、見覚えのない負傷者がいる。

 

倉庫へ行けば、前は積まれていた箱がなくなっている。

 

勝っているのに、少しずつ何かが減っていた。

 

◇

 

「東側の中継拠点を放棄する」

 

作戦室で、ドクターが地図の上から一つの駒を取り除いた。

 

俺は壁際に立っていた。

 

テレジアやケルシー、Ace、アスカロンのほかにも何人か集まっていた。

 

「放棄?」

 

現地部隊の指揮官が聞き返した。

 

「昨日は維持できると言っていたはずだ」

 

「昨日までの情報ならな」

 

ドクターが新しい報告書を机へ置く。

 

「軍事委員会側の部隊が、予定より一日早く南下している。このまま残れば明朝までに包囲される」

 

「だが、あそこには三か月分の物資がある」

 

「人間より大事か?」

 

声は強くなかった。

 

ただ、返事を挟む余地もなかった。

 

指揮官が黙る。

 

ドクターは続ける。

 

「運べるものだけ運ぶ。通信機材と医薬品を優先しろ。食料は重量を見て判断する」

 

「残りは?」

 

「使えないようにして捨てる」

 

「……三か月かけて集めた物資だぞ」

 

「なら、三か月分の物資を失うだけで済ませよう」

 

ドクターが地図を見る。

 

「兵士まで失う必要はない」

 

誰も何も言わなかった。

 

俺も地図の上に空いた場所を見る。

 

そこには少し前まで、バベルの印があった。

 

「もう一つ」

 

ドクターが別の駒へ手を伸ばす。

 

「北東の観測所も撤収する」

 

「そっちも?」

 

思わず口を挟んだ。

 

ドクターがこちらを見る。

 

「ああ」

 

「二つとも捨てるの?」

 

「維持できない」

 

「でも、それじゃ結構下がるだろ」

 

「下がる」

 

あっさり認める。

 

「取り返せる?」

 

「今は考えない」

 

「今は?」

 

「今日必要なのは、土地を守ることじゃない」

 

ドクターの指が地図の上を動き、二つの拠点とその周囲、そこに書かれた人数をなぞる。

 

「ここにいる人間を、明日も戦える場所まで戻すことだ」

 

「……」

 

正しい。

 

たぶん。

 

でも、妙な感じがした。

 

勝つための話をしているはずなのに、どんどん後ろへ下がっている。

 

「Ace」

 

「ああ」

 

呼ばれたAceが地図へ近づく。

 

「東側を頼む。第一便が出た後、残った人員と物資を回収してくれ」

 

「了解した」

 

「アスカロンは北東」

 

「分かった」

 

短い返事。

 

俺は何となく、自分の名前が呼ばれるのを待った。

 

けれど、次の指示へ進んでも呼ばれない。

 

「ドクター」

 

「何だ?」

 

「俺は?」

 

「残れ」

 

「ここに?」

 

「ああ」

 

「何で?」

 

Aceとアスカロンを見る。

 

二人とも出る。

 

だったら俺もと思った。

 

「船の戦力を全部外へ出すつもりはない」

 

ドクターが答える。

 

「だとしても、俺一人くらい」

 

「その一人が大きい」

 

言葉を切られた。

 

「敵はこちらの戦力をすべて把握しているわけじゃない。外へ出した戦力が増えるほど、船そのものは薄くなる」

 

視線が俺へ向く。

 

「君は最後まで見せない」

 

「……予備ってこと?」

 

「そう考えていい」

 

「何かあった時だけ使う?」

 

「ああ」

 

少し面白くない。

 

「戦力を余らせてるみたいだけど」

 

「余っている戦力と、残している戦力は違う」

 

即答だった。

 

横を見る。

 

ケルシーも何も言わない。

 

テレジアも少し考えてから口を開いた。

 

「私も、セラスティアには残ってほしいわ」

 

「テレジアも?」

 

「ええ」

 

「……分かった」

 

二人に言われると、これ以上は言いにくい。

 

アスカロンがこちらを見る。

 

ほんの少し、口元が動いた気がした。

 

「何?」

 

「別に」

 

「今笑った?」

 

「笑ってない」

 

絶対笑った。

 

「話を戻すぞ」

 

ケルシーに止められた。

 

◇

 

夕方、東側の撤収が始まった。

 

俺は作戦室に残っていた。

 

何もしていないわけではない。

 

戻ってくる部隊の配置や医療区画の空き、予備装備の確認。何か起きた時にすぐ出られるようにもしてある。

 

それでも落ち着かない。

 

机の上に置かれた通信機から、時々声が聞こえる。

 

『第一便、出発した』

 

Ace。

 

『負傷者七名。歩けない者は二名だ』

 

「収容車両の後部を空けてある」

 

ドクターが返す。

 

『了解』

 

通信が切れる。

 

少しして、別の声が入った。

 

『北東、撤収開始』

 

アスカロンだ。

 

「敵は?」

 

『まだ遠い。ただ、斥候が増えている』

 

「予定より十五分早めろ」

 

『分かった』

 

短い返事だけだった。

 

俺は壁際から地図を見る。

 

二つの拠点から、少しずつ駒が戻ってくる。

 

「順調?」

 

聞く。

 

「今のところは」

 

ドクターが答える。

 

目は地図から離れない。

 

テレジアはその隣。

 

ケルシーは別の机で報告をまとめている。

 

また通信が入る。

 

『こちら東側』

 

Ace。

 

さっきまでとは少し違う声だった。

 

『敵の先行部隊を確認した』

 

ドクターの手が止まる。

 

「距離は?」

 

『二キロを切った。思ったより速い』

 

作戦室の空気が変わった。

 

「第二便は?」

 

『今出す』

 

「残りは?」

 

『十三人。俺を含めてな』

 

「物資は捨てろ」

 

即答だった。

 

『まだ積める』

 

「いらない」

 

『医薬品が二箱残ってる』

 

「人間を乗せろ」

 

Aceが少しだけ黙った。

 

『了解』

 

通信が切れる。

 

俺は地図を見る。

 

「全部置いてくるの?」

 

「全部じゃない」

 

「まだ運べるって言ってただろ」

 

「荷台の空間には限界がある」

 

ドクターは地図から目を離さない。

 

「箱を積めば、人が乗れなくなる」

 

「……」

 

分かる。

 

分かるけど、三か月分の物資を数秒で捨てた。

 

「セラスティア」

 

テレジアが呼ぶ。

 

「何?」

 

「座ったら?」

 

「平気」

 

「さっきから同じところを歩いているわ」

 

足元を見ると、確かに同じところを行き来していた。少し恥ずかしい。

 

「別に緊張してないよ」

 

「そういうことにしておくわね」

 

椅子へ座る。

 

その直後、

 

『ドクター』

 

Aceの声。

 

「どうした?」

 

『四人いない』

 

全員が通信機を見る。

 

「誰だ?」

 

『最後の確認に行った連中だ。通信装置の破棄を担当してる』

 

「最後に連絡したのは?」

 

『三分前』

 

ドクターが地図を見る。

 

「敵は?」

 

『一キロ』

 

「爆破準備は?」

 

『終わってる』

 

短い沈黙。

 

中継拠点を敵に使わせないため、残った通信設備も物資も爆破する。

 

待てる時間には限りがある。

 

四人が戻らなくても、いつかは壊さなければならない。

 

「待てないの?」

 

俺が聞く。

 

ドクターは答えなかった。

 

Aceが言う。

 

『敵の斥候が見えた』

 

「人数」

 

『十以上』

 

「本隊は?」

 

『その後ろだ』

 

「……」

 

ドクターが目を閉じる。

 

ほんの一瞬。

 

また開く。

 

「九十秒だけ待つ」

 

ケルシーが顔を上げた。

 

「ドクター」

 

「九十秒だ」

 

声は変わらない。

 

「それ以上は待たない」

 

『了解』

 

通信が切れる。

 

誰も喋らなくなった。

 

時計だけを見る。

 

九十秒。

 

短い。

 

でも、こうして待っていると長い。

 

「……四人」

 

呟く。

 

テレジアがこちらを見る。

 

何も言わない。

 

三十秒。

 

通信はない。

 

四十五。

 

まだ。

 

一分。

 

「ドクター」

 

ケルシーが呼ぶ。

 

「ああ」

 

残り三十秒。

 

四人を待つか、敵に使われる前に拠点を爆破するか。

 

考えても、俺には答えが出なかった。

 

『――こちら東側!』

 

通信。

 

全員が顔を上げる。

 

Aceではない。

 

息を切らしている。

 

『戻った!四人とも戻った!』

 

「Ace」

 

ドクターが呼ぶ。

 

『聞いてる』

 

「今すぐ離れろ」

 

『了解!』

 

残り十七秒。

 

地図を見ながら、頭の中で距離を考える。

 

十。

 

九。

 

八。

 

『退避した!』

 

ドクターが手元の装置へ触れる。

 

「爆破」

 

次の瞬間、遠くから低い音が響いた。

 

船の床がほんの少しだけ震える。

 

誰もすぐには喋らなかった。

 

「……戻った」

 

口から出た。

 

四人とも戻った。

 

「ええ」

 

テレジアが答える。

 

ドクターはもう次の報告書を見ていた。

 

「北東は?」

 

あまりにも早く、次へ切り替えた。

 

『予定通り』

 

アスカロンの声。

 

『ただし、接触した』

 

「損害」

 

『二人』

 

俺の中に残っていた安堵が止まった。

 

「状態は?」

 

『一人は負傷。一人は――戻らない』

 

静かになる。

 

ドクターの指が一度だけ止まった。

 

「名前を」

 

アスカロンが答える。

 

知らない名前だった。

 

けれど、ドクターはその名前を一度繰り返した。

 

「……分かった」

 

それだけ。

 

「撤収を続けろ」

 

『了解』

 

通信が切れる。

 

四人は帰ってきた。

 

一人は帰ってこない。

 

何をどう思えばいいのか、分からなかった。

 

◇

 

夜、撤収した部隊が船へ戻ってきた。

 

俺は格納庫にいた。

 

戦いには出なかった。

 

だから、せめて戻ってきた奴らを手伝う。

 

担架が運ばれる。

 

空になった箱や壊れた武器、泥だらけの服が次々と入ってくる。

 

Aceが最後の方で戻ってきた。

 

「おかえり」

 

「ああ」

 

さすがに疲れている。

 

「怪我は?」

 

「ない」

 

「よかった」

 

Aceが近くの壁へ背中を預ける。

 

「そっちは?」

 

「何もなかった」

 

「それが一番だ」

 

少し言いにくくて、間が空いた。

 

「二つともなくなったんだよな」

 

「ああ」

 

「拠点」

 

「なくなった」

 

あっさりしている。

 

「負けたってこと?」

 

聞く。

 

Aceは少し考えた。

 

「さあな」

 

「さあって」

 

「拠点は失った。物資もかなり置いてきた」

 

指を折る。

 

「一人死んだ。何人か怪我した」

 

「……うん」

 

「だが、残った連中は戻った」

 

Aceが格納庫を見る。帰ってきた兵士たちの間を、荷物を運ぶ人や医療班が行き交っていた。

 

「俺はそっちの方が大事だと思ってる」

 

「じゃあ勝ち?」

 

「それも知らん」

 

Aceが笑う。

 

「戦争なんて、終わるまで分からんだろ」

 

「適当だな」

 

「お前が難しく考えすぎだ」

 

「今日ずっと作戦室だったから」

 

「それは疲れるな」

 

「戦う方が楽かも」

 

「それはドクターには言うなよ」

 

「何で?」

 

「本当に前へ出されるぞ」

 

久しぶりに、普通に笑えた。

 

けれど担架が横を通り、笑い声が止まる。

 

Aceも何も言わなかった。

 

◇

 

食堂へ行ったのは、かなり遅くなってからだった。

 

ほとんど人はいない。

 

残っていたものを適当に取って席に座る。

 

一人で食べる食堂は静かだった。

 

四人が戻ったと聞いた時は嬉しかった。

 

一人が戻らないと聞いた瞬間、その気持ちはどこかへ消えた。

 

それでも、四人が帰ってきたことまでなかったことになるわけじゃない。

 

「難しいな」

 

誰もいない机に言う。

 

返事はない。

 

食べ終えて皿を片づけ、廊下へ出た。

 

作戦室の前を通ると、まだ灯りがついている。

 

足が止まった。

 

中を見る。

 

ドクターが一人で、また地図と報告書を広げている。

 

いつもと同じ光景だった。

 

声を掛けようとして、やめる。

 

あの日、聞いた。

 

大丈夫なのか。

 

大丈夫だと答えた。

 

俺は信じると言った。

 

だから、もう一度同じことを聞くつもりはなかった。

 

そのまま通り過ぎようとした時、紙をめくる音が聞こえた。

 

何となく、もう一度だけ中を見る。

 

ドクターが一枚の紙を手にしている。

 

今日、北東で死んだ奴の報告書だった。

 

そこには名前や所属、年齢、それに短い経歴が記されていた。

 

ドクターはそれをしばらく見ていた。

 

地図を見る時より、ずっと長く。

 

「……」

 

何も言わず、歩き出す。

 

あいつは、人を数字で見ているわけじゃない。

 

たぶん、数字にしないと次を決められないだけだ。

 

それでも今日、拠点を二つ捨てた。

 

物資を捨てた。

 

一人が死んだ。

 

そして、ほとんどの人が帰ってきた。

 

勝ったのか、負けたのか。

 

まだ分からない。

 

◇

 

少し先の廊下で、テレジアと会った。

 

「あら」

 

「まだ起きてたの?」

 

「あなたに言われたくないわね」

 

「俺は今ご飯食べてきた」

 

「こんな時間に?」

 

「色々あったから」

 

テレジアが小さく笑う。

 

でも、すぐに作戦室の方を見る。

 

「ドクター?」

 

「いるよ」

 

「そう」

 

少しだけ間が空く。

 

俺は隣へ並んだ。

 

「今日さ」

 

「ええ」

 

「勝ったのかな」

 

テレジアがこちらを見る。

 

すぐには答えなかった。

 

「どうしてそう思うの?」

 

「Aceにも聞いた」

 

「何と?」

 

「分からないって」

 

「そう」

 

「拠点はなくなった。物資もなくなった。一人帰ってこなかった」

 

数える。

 

「でも、他は帰ってきた」

 

「ええ」

 

「だから」

 

少し考える。

 

「どっちなんだろうって」

 

テレジアはしばらく黙っていた。

 

「私は」

 

ゆっくり口を開く。

 

「今日戻ってきた人たちが、明日も生きていてくれることを嬉しいと思うわ」

 

「うん」

 

「失った場所は、また作れるかもしれない。物資も集め直せるかもしれない」

 

歩きながら静かに続ける。

 

「でも、戻ってこなかった人は戻らない」

 

「……うん」

 

「だから私は、今日の判断を間違いだったとは思わない」

 

テレジアが一度、作戦室を振り返る。

 

「それでも」

 

声が少し小さくなる。

 

「正しかったからといって、悲しくないわけではないのよ」

 

何となく、腑に落ちた。

 

「そっか」

 

「ええ」

 

少し歩く。

 

「セラスティア」

 

「何?」

 

「残るように言われたの、不満だったでしょう?」

 

ばれていた。

 

「少し」

 

「少し?」

 

「結構」

 

テレジアが笑う。

 

「でも」

 

俺は続ける。

 

「今は分かった気がする」

 

「何が?」

 

「全員外に出てたら、何かあった時に困るんだろ」

 

「ええ」

 

「なら次も残る」

 

言ってから、少しだけ付け足す。

 

「必要なら」

 

テレジアの目が柔らかくなる。

 

「ありがとう」

 

「礼を言うほど?」

 

「私には、ね」

 

何のことか少し分からなかった。

 

でも、聞かなかった。

 

廊下の窓から、暗い大地が見える。

 

あの向こうには、今日までバベルの拠点だった場所がある。

 

もう、そこにバベルの印はない。

 

それでも船の中には、戻ってきた人たちの声がある。

 

小さく、疲れた声。

 

でも、確かに聞こえる。

 

明日になれば、また地図に新しい線が引かれる。

 

また何かを選ばなければならない。

 

勝っているはずなのに。

 

戦争の終わりが近づいているとは、どうしても思えなかった。

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