冬に入ってから、地図に引かれる線が増えた。
赤。
青。
黒。
誰がどこまで進んだのか。どこを取って、どこを失ったのか。
作戦室へ行くたび、昨日までなかった印が増えている。
「また勝ったらしいよ」
廊下ですれ違った兵士が、隣の仲間にそう話していた。
最近、よく聞く言葉だった。
ドクターが指揮に入ってから、バベルは以前より戦えるようになった。
敵の補給路を断った。
包囲される前に部隊を逃がした。
少ない人数で拠点を奪った。
そんな報告はいくつも聞く。
だから、勝っているはずだった。
それなのに、食堂では知らないうちに空席が増えている。
医療区画の前を通れば、見覚えのない負傷者がいる。
倉庫へ行けば、前は積まれていた箱がなくなっている。
勝っているのに、少しずつ何かが減っていた。
◇
「東側の中継拠点を放棄する」
作戦室で、ドクターが地図の上から一つの駒を取り除いた。
俺は壁際に立っていた。
テレジアやケルシー、Ace、アスカロンのほかにも何人か集まっていた。
「放棄?」
現地部隊の指揮官が聞き返した。
「昨日は維持できると言っていたはずだ」
「昨日までの情報ならな」
ドクターが新しい報告書を机へ置く。
「軍事委員会側の部隊が、予定より一日早く南下している。このまま残れば明朝までに包囲される」
「だが、あそこには三か月分の物資がある」
「人間より大事か?」
声は強くなかった。
ただ、返事を挟む余地もなかった。
指揮官が黙る。
ドクターは続ける。
「運べるものだけ運ぶ。通信機材と医薬品を優先しろ。食料は重量を見て判断する」
「残りは?」
「使えないようにして捨てる」
「……三か月かけて集めた物資だぞ」
「なら、三か月分の物資を失うだけで済ませよう」
ドクターが地図を見る。
「兵士まで失う必要はない」
誰も何も言わなかった。
俺も地図の上に空いた場所を見る。
そこには少し前まで、バベルの印があった。
「もう一つ」
ドクターが別の駒へ手を伸ばす。
「北東の観測所も撤収する」
「そっちも?」
思わず口を挟んだ。
ドクターがこちらを見る。
「ああ」
「二つとも捨てるの?」
「維持できない」
「でも、それじゃ結構下がるだろ」
「下がる」
あっさり認める。
「取り返せる?」
「今は考えない」
「今は?」
「今日必要なのは、土地を守ることじゃない」
ドクターの指が地図の上を動き、二つの拠点とその周囲、そこに書かれた人数をなぞる。
「ここにいる人間を、明日も戦える場所まで戻すことだ」
「……」
正しい。
たぶん。
でも、妙な感じがした。
勝つための話をしているはずなのに、どんどん後ろへ下がっている。
「Ace」
「ああ」
呼ばれたAceが地図へ近づく。
「東側を頼む。第一便が出た後、残った人員と物資を回収してくれ」
「了解した」
「アスカロンは北東」
「分かった」
短い返事。
俺は何となく、自分の名前が呼ばれるのを待った。
けれど、次の指示へ進んでも呼ばれない。
「ドクター」
「何だ?」
「俺は?」
「残れ」
「ここに?」
「ああ」
「何で?」
Aceとアスカロンを見る。
二人とも出る。
だったら俺もと思った。
「船の戦力を全部外へ出すつもりはない」
ドクターが答える。
「だとしても、俺一人くらい」
「その一人が大きい」
言葉を切られた。
「敵はこちらの戦力をすべて把握しているわけじゃない。外へ出した戦力が増えるほど、船そのものは薄くなる」
視線が俺へ向く。
「君は最後まで見せない」
「……予備ってこと?」
「そう考えていい」
「何かあった時だけ使う?」
「ああ」
少し面白くない。
「戦力を余らせてるみたいだけど」
「余っている戦力と、残している戦力は違う」
即答だった。
横を見る。
ケルシーも何も言わない。
テレジアも少し考えてから口を開いた。
「私も、セラスティアには残ってほしいわ」
「テレジアも?」
「ええ」
「……分かった」
二人に言われると、これ以上は言いにくい。
アスカロンがこちらを見る。
ほんの少し、口元が動いた気がした。
「何?」
「別に」
「今笑った?」
「笑ってない」
絶対笑った。
「話を戻すぞ」
ケルシーに止められた。
◇
夕方、東側の撤収が始まった。
俺は作戦室に残っていた。
何もしていないわけではない。
戻ってくる部隊の配置や医療区画の空き、予備装備の確認。何か起きた時にすぐ出られるようにもしてある。
それでも落ち着かない。
机の上に置かれた通信機から、時々声が聞こえる。
『第一便、出発した』
Ace。
『負傷者七名。歩けない者は二名だ』
「収容車両の後部を空けてある」
ドクターが返す。
『了解』
通信が切れる。
少しして、別の声が入った。
『北東、撤収開始』
アスカロンだ。
「敵は?」
『まだ遠い。ただ、斥候が増えている』
「予定より十五分早めろ」
『分かった』
短い返事だけだった。
俺は壁際から地図を見る。
二つの拠点から、少しずつ駒が戻ってくる。
「順調?」
聞く。
「今のところは」
ドクターが答える。
目は地図から離れない。
テレジアはその隣。
ケルシーは別の机で報告をまとめている。
また通信が入る。
『こちら東側』
Ace。
さっきまでとは少し違う声だった。
『敵の先行部隊を確認した』
ドクターの手が止まる。
「距離は?」
『二キロを切った。思ったより速い』
作戦室の空気が変わった。
「第二便は?」
『今出す』
「残りは?」
『十三人。俺を含めてな』
「物資は捨てろ」
即答だった。
『まだ積める』
「いらない」
『医薬品が二箱残ってる』
「人間を乗せろ」
Aceが少しだけ黙った。
『了解』
通信が切れる。
俺は地図を見る。
「全部置いてくるの?」
「全部じゃない」
「まだ運べるって言ってただろ」
「荷台の空間には限界がある」
ドクターは地図から目を離さない。
「箱を積めば、人が乗れなくなる」
「……」
分かる。
分かるけど、三か月分の物資を数秒で捨てた。
「セラスティア」
テレジアが呼ぶ。
「何?」
「座ったら?」
「平気」
「さっきから同じところを歩いているわ」
足元を見ると、確かに同じところを行き来していた。少し恥ずかしい。
「別に緊張してないよ」
「そういうことにしておくわね」
椅子へ座る。
その直後、
『ドクター』
Aceの声。
「どうした?」
『四人いない』
全員が通信機を見る。
「誰だ?」
『最後の確認に行った連中だ。通信装置の破棄を担当してる』
「最後に連絡したのは?」
『三分前』
ドクターが地図を見る。
「敵は?」
『一キロ』
「爆破準備は?」
『終わってる』
短い沈黙。
中継拠点を敵に使わせないため、残った通信設備も物資も爆破する。
待てる時間には限りがある。
四人が戻らなくても、いつかは壊さなければならない。
「待てないの?」
俺が聞く。
ドクターは答えなかった。
Aceが言う。
『敵の斥候が見えた』
「人数」
『十以上』
「本隊は?」
『その後ろだ』
「……」
ドクターが目を閉じる。
ほんの一瞬。
また開く。
「九十秒だけ待つ」
ケルシーが顔を上げた。
「ドクター」
「九十秒だ」
声は変わらない。
「それ以上は待たない」
『了解』
通信が切れる。
誰も喋らなくなった。
時計だけを見る。
九十秒。
短い。
でも、こうして待っていると長い。
「……四人」
呟く。
テレジアがこちらを見る。
何も言わない。
三十秒。
通信はない。
四十五。
まだ。
一分。
「ドクター」
ケルシーが呼ぶ。
「ああ」
残り三十秒。
四人を待つか、敵に使われる前に拠点を爆破するか。
考えても、俺には答えが出なかった。
『――こちら東側!』
通信。
全員が顔を上げる。
Aceではない。
息を切らしている。
『戻った!四人とも戻った!』
「Ace」
ドクターが呼ぶ。
『聞いてる』
「今すぐ離れろ」
『了解!』
残り十七秒。
地図を見ながら、頭の中で距離を考える。
十。
九。
八。
『退避した!』
ドクターが手元の装置へ触れる。
「爆破」
次の瞬間、遠くから低い音が響いた。
船の床がほんの少しだけ震える。
誰もすぐには喋らなかった。
「……戻った」
口から出た。
四人とも戻った。
「ええ」
テレジアが答える。
ドクターはもう次の報告書を見ていた。
「北東は?」
あまりにも早く、次へ切り替えた。
『予定通り』
アスカロンの声。
『ただし、接触した』
「損害」
『二人』
俺の中に残っていた安堵が止まった。
「状態は?」
『一人は負傷。一人は――戻らない』
静かになる。
ドクターの指が一度だけ止まった。
「名前を」
アスカロンが答える。
知らない名前だった。
けれど、ドクターはその名前を一度繰り返した。
「……分かった」
それだけ。
「撤収を続けろ」
『了解』
通信が切れる。
四人は帰ってきた。
一人は帰ってこない。
何をどう思えばいいのか、分からなかった。
◇
夜、撤収した部隊が船へ戻ってきた。
俺は格納庫にいた。
戦いには出なかった。
だから、せめて戻ってきた奴らを手伝う。
担架が運ばれる。
空になった箱や壊れた武器、泥だらけの服が次々と入ってくる。
Aceが最後の方で戻ってきた。
「おかえり」
「ああ」
さすがに疲れている。
「怪我は?」
「ない」
「よかった」
Aceが近くの壁へ背中を預ける。
「そっちは?」
「何もなかった」
「それが一番だ」
少し言いにくくて、間が空いた。
「二つともなくなったんだよな」
「ああ」
「拠点」
「なくなった」
あっさりしている。
「負けたってこと?」
聞く。
Aceは少し考えた。
「さあな」
「さあって」
「拠点は失った。物資もかなり置いてきた」
指を折る。
「一人死んだ。何人か怪我した」
「……うん」
「だが、残った連中は戻った」
Aceが格納庫を見る。帰ってきた兵士たちの間を、荷物を運ぶ人や医療班が行き交っていた。
「俺はそっちの方が大事だと思ってる」
「じゃあ勝ち?」
「それも知らん」
Aceが笑う。
「戦争なんて、終わるまで分からんだろ」
「適当だな」
「お前が難しく考えすぎだ」
「今日ずっと作戦室だったから」
「それは疲れるな」
「戦う方が楽かも」
「それはドクターには言うなよ」
「何で?」
「本当に前へ出されるぞ」
久しぶりに、普通に笑えた。
けれど担架が横を通り、笑い声が止まる。
Aceも何も言わなかった。
◇
食堂へ行ったのは、かなり遅くなってからだった。
ほとんど人はいない。
残っていたものを適当に取って席に座る。
一人で食べる食堂は静かだった。
四人が戻ったと聞いた時は嬉しかった。
一人が戻らないと聞いた瞬間、その気持ちはどこかへ消えた。
それでも、四人が帰ってきたことまでなかったことになるわけじゃない。
「難しいな」
誰もいない机に言う。
返事はない。
食べ終えて皿を片づけ、廊下へ出た。
作戦室の前を通ると、まだ灯りがついている。
足が止まった。
中を見る。
ドクターが一人で、また地図と報告書を広げている。
いつもと同じ光景だった。
声を掛けようとして、やめる。
あの日、聞いた。
大丈夫なのか。
大丈夫だと答えた。
俺は信じると言った。
だから、もう一度同じことを聞くつもりはなかった。
そのまま通り過ぎようとした時、紙をめくる音が聞こえた。
何となく、もう一度だけ中を見る。
ドクターが一枚の紙を手にしている。
今日、北東で死んだ奴の報告書だった。
そこには名前や所属、年齢、それに短い経歴が記されていた。
ドクターはそれをしばらく見ていた。
地図を見る時より、ずっと長く。
「……」
何も言わず、歩き出す。
あいつは、人を数字で見ているわけじゃない。
たぶん、数字にしないと次を決められないだけだ。
それでも今日、拠点を二つ捨てた。
物資を捨てた。
一人が死んだ。
そして、ほとんどの人が帰ってきた。
勝ったのか、負けたのか。
まだ分からない。
◇
少し先の廊下で、テレジアと会った。
「あら」
「まだ起きてたの?」
「あなたに言われたくないわね」
「俺は今ご飯食べてきた」
「こんな時間に?」
「色々あったから」
テレジアが小さく笑う。
でも、すぐに作戦室の方を見る。
「ドクター?」
「いるよ」
「そう」
少しだけ間が空く。
俺は隣へ並んだ。
「今日さ」
「ええ」
「勝ったのかな」
テレジアがこちらを見る。
すぐには答えなかった。
「どうしてそう思うの?」
「Aceにも聞いた」
「何と?」
「分からないって」
「そう」
「拠点はなくなった。物資もなくなった。一人帰ってこなかった」
数える。
「でも、他は帰ってきた」
「ええ」
「だから」
少し考える。
「どっちなんだろうって」
テレジアはしばらく黙っていた。
「私は」
ゆっくり口を開く。
「今日戻ってきた人たちが、明日も生きていてくれることを嬉しいと思うわ」
「うん」
「失った場所は、また作れるかもしれない。物資も集め直せるかもしれない」
歩きながら静かに続ける。
「でも、戻ってこなかった人は戻らない」
「……うん」
「だから私は、今日の判断を間違いだったとは思わない」
テレジアが一度、作戦室を振り返る。
「それでも」
声が少し小さくなる。
「正しかったからといって、悲しくないわけではないのよ」
何となく、腑に落ちた。
「そっか」
「ええ」
少し歩く。
「セラスティア」
「何?」
「残るように言われたの、不満だったでしょう?」
ばれていた。
「少し」
「少し?」
「結構」
テレジアが笑う。
「でも」
俺は続ける。
「今は分かった気がする」
「何が?」
「全員外に出てたら、何かあった時に困るんだろ」
「ええ」
「なら次も残る」
言ってから、少しだけ付け足す。
「必要なら」
テレジアの目が柔らかくなる。
「ありがとう」
「礼を言うほど?」
「私には、ね」
何のことか少し分からなかった。
でも、聞かなかった。
廊下の窓から、暗い大地が見える。
あの向こうには、今日までバベルの拠点だった場所がある。
もう、そこにバベルの印はない。
それでも船の中には、戻ってきた人たちの声がある。
小さく、疲れた声。
でも、確かに聞こえる。
明日になれば、また地図に新しい線が引かれる。
また何かを選ばなければならない。
勝っているはずなのに。
戦争の終わりが近づいているとは、どうしても思えなかった。