夏雪草が帰る場所   作:Bestmeever

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ここにいる理由
第1話 いつもの隣


あの日から、長い時間が過ぎた。

 

俺もテレジアも、もう子供ではない。

 

その間にいくつもの土地を歩き、争いを見てきた。戦場に立ったことだって、一度や二度ではない。昔なら持ち上げることすらできなかった武器を振るい、人を守るために誰かを斬ることにも、いつの間にか慣れてしまった。

 

「セラスティア、起きている?」

 

朝、まだ眠気の残る頭に届いたのは、控えめに扉を叩く音と、聞き慣れた声だった。

 

「……今起きた」

 

そう答えながら、俺は布団の中で目を閉じ直す。

 

嘘は言っていない。起きたのは本当だ。ただ、起き上がる気になっていないだけで。

 

「そう。それなら、もう入ってもいいかしら?」

 

「ちょっと待ってくれ。今から起き――」

 

「待たないわよ」

 

最後まで言い終える前に扉が開いた。

 

俺は諦めて身体を起こす。

 

部屋へ入ってきたテレジアは、寝台の上に座った俺を見るなり小さく息をついた。予想していたらしく、口元にはわずかに笑みが浮かんでいる。

 

「やっぱりまだ寝ていたのね」

 

「起きてたよ。目を閉じてただけだ」

 

「それを普通は寝ていたと言うのよ」

 

何も言い返せなかった。

 

戦場なら小さな物音ひとつで目を覚ませるというのに、何も起こらない朝になるとこれだ。こうして起こしに来る奴がいるから、気が緩んでいるだけなのかもしれない。

 

「昨日も遅くまで起きていたのでしょう?」

 

テレジアはカーテンを開けながらこちらを見る。

 

「まあ、それなりには」

 

「休める時くらいは、きちんと休みなさい」

 

「……はいはい」

 

「あら。随分と素直ね」

 

「反論したら長くなりそうだからな」

 

俺がそう返すと、テレジアは困ったように笑った。

 

昔から、この手の言い合いで俺が勝てた試しはほとんどない。

 

「ほら。起きたのなら顔を洗ってきて」

 

「母親みたいなこと言うなよ」

 

「起こしに来てもらわなければ、いつまで寝ていたか分からない人が言うことかしら?」

 

否定しようとして、やめた。

 

たぶん、テレジアが来なければ昼近くまで寝ていた。

 

それを口にしなくても分かったらしい。

 

「……その顔やめろよ」

 

「私は何も言っていないわ」

 

また負けた。

 

俺は観念して布団から出た。

 

◇

 

顔を洗い、着替えて部屋へ戻る。

 

テレジアは俺を待つ間、机の上に置かれていた紙へ目を通していた。隣から覗き込めば今日の予定らしい。午前中はいくつか話し合いがあり、その後は近隣の集落へ向かうことになっている。

 

「午後は外に出るのか?」

 

「ええ。少し確認しておきたいこともあるから、直接向かうつもりよ」

 

「じゃあ俺も行く」

 

考えるより先に言葉が出た。

 

テレジアが紙から顔を上げる。

 

「あなた、今日は訓練を見る予定ではなかったかしら?」

 

「あれなら明日でもいいだろ」

 

「昨日もそう言っていた気がするのだけれど」

 

「……明日はちゃんと見る」

 

穏やかな視線が返ってくる。どうやら明日になって忘れたふりをする手は使えなくなったらしい。

 

それでも、同行するつもりを変える気はなかった。

 

テレジアが外へ出るのなら、俺もついていく。

 

子供の頃から、それが当たり前だった。

 

「私についてこなくてもいいのよ?」

 

不意にそう言われ、俺はテレジアを見る。

 

「どうして?」

 

「あなたにはあなたの役目があるでしょう?それに、護衛なら他にもいるわ」

 

「俺の方が安心できるだろ」

 

自分で言うのもどうかとは思うが、それなりに長く生きてきた。

 

戦うことに関してだけなら、そこらの兵士に遅れを取るつもりはない。特に誰か一人を守りながら戦うことには、自信があった。

 

テレジアも否定する材料を探したらしいが、しばらく考えた末に諦めたように笑った。

 

「……それを自分で言えてしまうところが、あなたらしいわね」

 

「実際そうなんだから仕方ないだろ。それに、護衛が必要だからってだけじゃない」

 

「では、他にも理由があるの?」

 

「俺が一緒に行きたい。それじゃ駄目か?」

 

テレジアが一瞬黙った。

 

けれど、その表情は先ほどまでより柔らかい。

 

「いいえ。駄目ではないわ」

 

そう答えたあと、テレジアは俺の服へ視線を落とした。

 

「ただし、その前に襟を直しなさい」

 

言われて確認すると、片方だけ妙な方向に折れていた。

 

「これくらいいいだろ」

 

「よくないわ。じっとして」

 

テレジアが俺の前へ立ち、そのまま襟へ手を伸ばす。

 

近い。

 

子供の頃なら何とも思わなかった距離だ。

 

昔は服が汚れていようが髪に何か付いていようが、互いに気にせず触れていた。それなのに、いつ頃からだろう。こうして顔が近づくだけで、妙に意識するようになった。

 

薄い色の髪が目の前で揺れる。

 

俺はなんとなく視線を逸らした。

 

「……どうしたの?」

 

「いや。何でもない」

 

「そう?」

 

テレジアはそれ以上追及せず、いつも通り襟を整えていく。

 

その横顔を盗み見ると、耳がわずかに赤く見えた。

 

たぶん気のせいだ。そういうことにしておく。

 

「はい。これでいいわ」

 

「ありがと」

 

「どういたしまして」

 

テレジアが離れていく。

 

離れていくのを惜しいと思ってしまったことについても、深く考えないことにした。

 

「ところで、朝食は?」

 

「…………」

 

今度は答えられなかった。

 

テレジアは俺の沈黙だけですべて察したらしく、また先ほどと同じ顔になる。

 

今日はたぶん、何をやっても勝てない。

 

◇

 

午前中の話し合いが終わるまで、俺は部屋の外で待つことにした。

 

中へ入ったところで、政治やら今後の方針やらについて俺にできることはほとんどない。そういう話は昔からテレジアの方が得意だった。

 

廊下では多くの人間が行き交っている。

 

そのうちの一人が俺に気づき、慣れた様子で声を掛けてきた。

 

「今日も殿下待ちか?」

 

「ああ」

 

そいつは「相変わらずだな」と笑い、そのまま去っていった。

 

何がおかしいのか分からない。

 

俺がこうしてテレジアを待つことなんて、今に始まったことではなかった。

 

しばらくして、ようやく扉が開く。

 

「待たせたわね」

 

「思ったより長かったな。疲れてないか?」

 

「少し長引いただけよ。まだ大丈夫」

 

そう言って歩き出すテレジアの隣へ、いつものように並ぶ。

 

昔から自然とこの位置だった。

 

一歩後ろでも、一歩前でもない。

 

隣。

 

少なくとも、俺にとってはそこが当たり前だった。

 

「セラスティア」

 

しばらく歩いたところで、テレジアがふと俺の名前を呼んだ。

 

「あなた、本当に昔から私についてきてばかりね」

 

「今さらだな」

 

「ええ。本当に、今さらなのだけれど」

 

その声に、いつもとは少し違うものが混じっているような気がした。

 

「嫌なのか?」

 

聞けば、テレジアはわずかに目を見開いた。

 

「いいえ」

 

答えは早かった。

 

「嫌ではないわ。あなたがそばにいてくれることを、私はずっと嬉しいと思っているもの」

 

そこまで言ってから、テレジアは視線を伏せた。

 

「ただ……時々、考えるのよ」

 

「何を?」

 

「あなた自身が、何をしたいのかを」

 

思ってもいなかった問いだった。

 

俺は首を傾げる。

 

「俺が?」

 

「ええ。私についてくることでも、誰かを守ることでもなくて。あなた自身が選んで、あなた自身のためにしたいことはないの?」

 

すぐには答えが出なかった。

 

戦うことにも、偉くなることにも興味はないし、どこか遠くへ行きたいとも思わない。

 

長く生きてきたぶん、生き延びるだけで精一杯だった時期もあれば、その先でまた別の争いに巻き込まれることもあった。そのたびにいろいろなものを失ったが、振り返れば、そこにはいつもテレジアがいた。

 

辛い時も、何もしたくない時も、どうでもいいことで笑った時も、気づけば一緒に過ごしていた。

 

だから、それ以外のことを真面目に考えたことなどなかったのかもしれない。

 

しばらく考えてみても、やはり答えは同じだった。

 

「特にないな」

 

「……そう」

 

「テレジアのそばにいれば、それで十分だし」

 

口にした瞬間、テレジアの足が止まった。

 

「どうした?」

 

「……いいえ。何でもないわ」

 

そう答えて歩き出した彼女は、俺より半歩ほど前を歩いていた。追いつこうとすると、なぜかその分だけ歩調まで速くなる。

 

「絶対何かあるだろ。だったらこっち見ろよ」

 

「今は前を見て歩いているの」

 

「さっきまで普通に話してただろ」

 

「気のせいよ」

 

そこまで言われれば、これ以上聞いても教えてくれないのは分かる。

 

俺は諦めて隣へ追いついた。

 

それでもテレジアは、もう離れようとはしなかった。

 

幼い頃からいくつもの争いを越え、今日までずっと俺たちはそうして歩いてきた。

 

だからきっと、明日も。

 

その先も。

 

俺はこうしてテレジアの隣を歩いていくのだと思っていた。

 

彼女がいるから、俺もここにいる。

 

それで何も問題はないと、本気で思っていた。

 

そのことに疑問を持つ理由なんて、当時の俺には一つもなかった。




完結できるように頑張っていきます
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