第1話 いつもの隣
あの日から、長い時間が過ぎた。
俺もテレジアも、もう子供ではない。
その間にいくつもの土地を歩き、争いを見てきた。戦場に立ったことだって、一度や二度ではない。昔なら持ち上げることすらできなかった武器を振るい、人を守るために誰かを斬ることにも、いつの間にか慣れてしまった。
それでも、変わらなかったものはある。
「セラスティア、起きている?」
朝。
まだ眠気の残る頭に届いたのは、控えめに扉を叩く音と、聞き慣れた声だった。
「……今起きた」
そう答えながら、俺は布団の中で目を閉じ直す。
嘘は言っていない。起きたのは本当だ。
ただ、起き上がる気になっていないだけで。
「そう。それなら、もう入ってもいいかしら?」
「ちょっと待ってくれ。今から起き――」
「待たないわよ」
最後まで言い終える前に扉が開いた。
俺は諦めて身体を起こす。
部屋へ入ってきたテレジアは、寝台の上に座った俺を見るなり、予想していたと言わんばかりに小さく息をついた。けれど、本気で呆れているわけではないらしい。口元にはわずかに笑みが浮かんでいる。
「やっぱりまだ寝ていたのね」
「起きてたよ。目を閉じてただけだ」
「それを普通は寝ていたと言うのよ」
何も言い返せなかった。
戦場なら小さな物音ひとつで目を覚ませるというのに、何も起こらない朝になるとこれだ。我ながらよく分からない。
もっとも、こうして起こしに来る奴がいるから気が緩んでいるだけなのかもしれない。
「昨日も遅くまで起きていたのでしょう?」
テレジアはそう言いながら窓の方へ歩き、閉じていたカーテンを開けた。
差し込んできた光に目を細める。
「まあ、それなりには」
「それなり、では分からないわ。何時まで?」
「覚えてない」
俺が答えると、テレジアの動きが止まった。
ゆっくりこちらを振り返る。
「セラスティア」
「……その顔やめろよ」
「あら。私はまだ何も言っていないけれど?」
「これから説教しますって顔してる」
「そんな顔はしていないわ。ただ、無理をするなとは言わないけれど、休める時くらいはきちんと休みなさいと言おうと思っただけよ」
「やっぱり説教じゃないか」
思わずそう返すと、テレジアは困ったように笑った。
結局、昔からこの手の言い合いで俺が勝てた試しはほとんどない。
「ほら。起きたのなら顔を洗ってきて」
「母親みたいなこと言うなよ」
「起こしに来てもらわなければ、いつまで寝ていたか分からない人が言うことかしら?」
反射的に否定しようとして、やめた。
たぶん、テレジアが来なければ昼近くまで寝ていた。
それを口にしなくても分かったらしい。
「でしょう?」
「……何も言ってないだろ」
「顔を見れば分かるわ」
また負けた。
俺は観念して布団から出た。
◇
顔を洗い、着替えて部屋へ戻る。
テレジアは俺を待つ間、机の上に置かれていた紙へ目を通していた。
隣から覗き込めば、今日の予定らしい。午前中はいくつか話し合いがあり、その後は近隣の集落へ向かうことになっている。
「午後は外に出るのか?」
「ええ。少し確認しておきたいこともあるから、直接向かうつもりよ」
「じゃあ俺も行く」
考えるより先に言葉が出た。
テレジアが紙から顔を上げる。
その反応でようやく、今日は自分にも別の予定があったような気がしてきた。
「セラスティア。あなた、今日は訓練を見ると言っていなかったかしら?」
「あれなら明日でもいいだろ」
「昨日も同じことを言っていた気がするのだけれど」
「……明日。明日はちゃんと見る」
「なら、そういうことにしておきましょう」
穏やかな声だったが、忘れないようしっかり記憶された気がする。
俺よりテレジアの方が俺の予定を把握しているというのもどうなのだろう。
もっとも、それでも同行するつもりを変える気はなかった。
テレジアが外へ出るのなら、俺もついていく。
子供の頃から、それが当たり前だった。
「私についてこなくてもいいのよ?」
不意にそう言われ、俺はテレジアを見る。
「どうして?」
「どうしてって……あなたにはあなたの役目があるでしょう?それに、護衛なら他にもいるわ」
「俺の方が安心できるだろ」
自分で言うのもどうかとは思うが、それなりに長く生きてきた。
戦うことに関してだけなら、そこらの兵士に遅れを取るつもりはない。特に誰か一人を守りながら戦うことには、自信があった。
テレジアも否定する材料を探したらしいが、しばらく考えた末に諦めたように笑った。
「……それを自分で言えてしまうところが、あなたらしいわね」
「実際そうなんだから仕方ないだろ。それに、護衛が必要だからってだけじゃない」
「では、他にも理由があるの?」
「俺が一緒に行きたい。それじゃ駄目か?」
一瞬だけ、テレジアが黙った。
けれど、その表情は先ほどまでより柔らかい。
「いいえ。駄目ではないわ」
そう答えたあと、テレジアは俺の服へ視線を落とした。
「ただし、その前に襟を直しなさい」
言われて確認すると、片方だけ妙な方向に折れていた。
「これくらいいいだろ」
「よくないわ。じっとして」
テレジアが俺の前へ立ち、そのまま襟へ手を伸ばす。
近い。
子供の頃なら何とも思わなかった距離だ。
昔は服が汚れていようが髪に何か付いていようが、互いに気にせず触れていた。それなのに、いつ頃からだろう。こうして顔が近づくだけで、妙に意識するようになった。
薄い色の髪が目の前で揺れる。
俺はなんとなく視線を逸らした。
「……どうしたの?」
「いや。何でもない」
「そう?」
テレジアはそれ以上追及せず、いつも通り襟を整えていく。
その横顔を盗み見ると、耳がほんの少しだけ赤く見えた。
たぶん、気のせいだ。
そういうことにしておく。
「はい。これでいいわ」
「ありがと」
「どういたしまして」
テレジアが離れていく。
ほんの少しだけ惜しいと思ってしまったことについても、深く考えないことにした。
その直後。
「ところで、朝食はもう食べたの?」
「…………」
今度は答えられなかった。
俺の沈黙だけですべて察したらしい。
テレジアはまた、さっきと同じ顔をする。
今日はたぶん、何をやっても勝てない。
◇
午前中の話し合いが終わるまで、俺は部屋の外で待つことにした。
中へ入ったところで、政治やら今後の方針やらについて俺にできることはほとんどない。そういう話は昔からテレジアの方が得意だった。
廊下では多くの人間が行き交っている。
そのうちの一人が俺に気づき、慣れた様子で声を掛けてきた。
「今日も殿下待ちか?」
「そうだけど、何かおかしいか?」
「いや。相変わらずだと思ってな」
そいつは妙に楽しそうに笑ったまま去っていった。
何がおかしいのか分からない。
俺がこうしてテレジアを待つことなんて、今に始まったことではなかった。
しばらくして、ようやく扉が開く。
「待たせたわね」
「思ったより長かったな。疲れてないか?」
「少し長引いただけよ。まだ大丈夫」
そう言って歩き出すテレジアの隣へ、いつものように並ぶ。
先ほどの兵士のことを話すと、テレジアはすぐに口元を緩めた。
「何だよ。テレジアまで笑うなよ」
「笑っていないわ」
「その顔で言っても説得力ないぞ」
「気のせいではないかしら?」
「最近それ、便利に使ってないか?」
俺がそう言っても、テレジアは答えなかった。
ただ、楽しそうな笑みだけは消えない。
昔から自然とこの位置だった。
一歩後ろでも、一歩前でもない。
隣。
少なくとも、俺にとってはそこが当たり前だった。
「セラスティア」
しばらく歩いたところで、テレジアがふと俺の名前を呼んだ。
「あなた、本当に昔から私についてきてばかりね」
「今さらだな」
「ええ。本当に、今さらなのだけれど」
その声に、いつもとは少し違うものが混じっているような気がした。
「嫌なのか?」
聞けば、テレジアはわずかに目を見開いた。
「いいえ」
答えは早かった。
「嫌ではないわ。あなたがそばにいてくれることを、私はずっと嬉しいと思っているもの」
そこまで言ってから、テレジアは少しだけ視線を伏せた。
「ただ……時々、考えるのよ」
「何を?」
「あなた自身が、何をしたいのかを」
思ってもいなかった問いだった。
俺は首を傾げる。
「俺が?」
「ええ。私についてくることでも、誰かを守ることでもなくて。あなた自身が選んで、あなた自身のためにしたいことはないの?」
すぐには答えが出なかった。
戦いたいわけではない。
偉くなりたいわけでもない。
どこか遠くへ行きたいとも思わない。
長く生きてきた。
生き延びるだけで精一杯だった時期もあったし、それを越えたと思えばまた別の争いが始まった。そのたびに、いろいろなものを失った。
それでも一つだけ、変わらなかったものがある。
振り返れば、いつもテレジアがいた。
辛い時も、何もしたくない時も、どうでもいいことで笑った時も。
気がつけば、俺の隣にはいつも彼女がいた。
だから、それ以外のことを真面目に考えたことなどなかったのかもしれない。
しばらく考えてみても、やはり答えは同じだった。
「特にないな」
「……そう」
「テレジアのそばにいれば、それで十分だし」
口にした瞬間。
テレジアの足が止まった。
「どうした?」
「……いいえ。何でもないわ」
そう答えて歩き出した彼女は、今度はほんの少しだけ俺より前を歩いていた。
顔が見えない。
追いつこうとすると、何故か歩く速度まで少し上がる。
「絶対何かあるだろ」
「何もありません」
「じゃあこっち見ろよ」
「今は前を見て歩いているの」
「さっきまで普通に話してただろ」
「気のせいよ」
「またそれかよ」
結局、理由は教えてくれなかった。
それでも少し歩けば、いつものように横へ並べた。
俺が隣に立っても、テレジアはもう離れようとはしなかった。
幼い頃から。
いくつもの争いを越えて。
今日までずっと、俺たちはそうして歩いてきた。
だからきっと、明日も。
その先も。
俺はこうしてテレジアの隣を歩いていくのだと思っていた。
彼女がいるから、俺もここにいる。
それで何も問題はないと、本気で思っていた。
そのことに疑問を持つ理由なんて、当時の俺には一つもなかった。
完結できるように頑張っていきます