冬が終わった。
春の冷たさも、少しずつ和らいでいた。
戦線は以前よりカズデルへ近づいている。作戦室の地図から消えた印もあれば、新しく増えた印もある。
勝っている。
今なら、前より素直にそう言えるのかもしれない。
それでも船の中が暇になるわけではなかった。むしろ、終わりへ近づいているからこそ、やることは増えているように見えた。
その中でも、特に忙しそうな奴がいる。
「テレジア」
返事がない。
もう一度名前を呼ぶと、ようやく机の向こうから顔が上がった。
「なあに?」
「なあに、じゃないよ」
手に持っていた包みを机へ置く。
机の端まで書類が積まれ、その隙間には朝から置いてあるらしいカップまで残っている。中身はもう冷めていた。
「昼。もうそんな時間って顔してるけど、とっくにそんな時間だからな」
「……本当に?」
今さら窓の外を見て確認している。
「ケルシーから?」
「何で分かったの?」
「あなたが自分から私の食事を持ってくるなんて珍しいもの」
「失礼だな。たまには持ってくるだろ」
「そうだったかしら」
少し考える顔をされた。
腹が立つ。
「食べないなら持って帰るよ」
包みへ手を伸ばすと、その前にテレジアが俺の手ごと押さえた。
「食べるわ」
重なった指先が止まる。
一瞬だけのことなのに、どちらもすぐには動かなかった。
テレジアが先に視線を落とし、それから少し遅れて手を離す。
「それに、あなたもまだでしょう?せっかくだから一緒に食べましょうか」
図星だった。
黙った俺を見て、テレジアが楽しそうに笑う。
「……これから食べるつもりだったんだけど」
「では、ちょうどいいわね」
机の上は書類だらけで、食事を広げる場所もほとんどない。
「ここで食べるの?」
「少しだけ外へ行きましょう。ここにいると、食べながら書類へ手を伸ばしてしまいそうだもの」
「自覚あるんだ」
「ええ。だから離れるのよ」
「休憩も仕事のうち、とか言うつもり?」
「よく分かったわね」
「それ、ケルシーの前でも言える?」
テレジアの視線がすっと逸れた。
言えないらしい。
「行きましょうか」
「誤魔化したな」
テレジアは答えず、立ち上がった。
◇
周辺の安全確認は済んでいる。
船を降りてすぐの場所で、俺も一緒なら問題ない。
入口にいた兵士へ一言伝えて外へ出る。
船体の影を抜けると、少し涼しい風が吹いていた。
「気持ちいいわね」
テレジアが髪を押さえる。
「寒くないならいいけど」
「これくらいなら平気よ。それに」
隣を見ると、テレジアもこちらを見ていた。
「寒くなったら、あなたがいるでしょう?」
「俺は毛布じゃないぞ」
「知っているわ」
何でもない顔で返された。
少し歩くと、ちょうど座れそうな資材箱が積まれていた。
そこへ並んで腰を下ろし、包みを開く。
パンと肉、それに少しの野菜。
特別なものではない。
最近は食料にも余裕があるわけじゃなかった。
一つ取ろうと手を伸ばしたところで、隣から伸びた手が俺の狙っていた方を先に掴んだ。
目が合う。
「そっち俺の」
「同じものでは?」
「そっちの方が少し大きい」
「まあ。よく見ているのね」
「食べ物だからな」
「では、こちらを」
小さい方を差し出してくる。
「交換しろって?」
「公平でしょう?」
「最初から小さい方取ればよかっただろ」
「もう持ってしまったもの」
絶対わざとだ。
少し迷って交換すると、テレジアが満足そうに笑った。
「ありがとう」
「最近ちょっと図々しくない?」
「幼馴染ですもの」
「便利な言葉だな、それ」
パンを齧る。
隣でもテレジアがゆっくり食べ始め、そのまましばらく何も話さなかった。
風が吹く。
遠くで何かを運ぶ音がして、船の中から誰かの声も聞こえてくる。
こうしていると、戦争をしている最中だということを少し忘れそうになる。
ふと、隣から視線を感じた。
「さっきから見てるだろ」
「少しだけ。あなたがちゃんと食べているか確認していたの」
「俺はお前と違って忘れないよ。少なくとも昼を夕方まで放置したりはしない」
「それなら安心ね」
そう言いながら、テレジアが俺の持っていたパンへ顔を寄せ、そのまま一口齧った。
「……それ俺の」
「知っているわ」
「知ってて食べたの?」
「味が違うか気になって」
「同じだよ」
「そうみたいね」
全然悪びれない。
むしろ少し楽しそうだ。
「じゃあ俺も」
テレジアの方へ手を伸ばすと、一瞬だけ彼女の目が大きくなった。
そのまま、テレジアが持っていた方を一口齧る。
「……同じだな」
「……そうね」
急に、さっきまでより静かになった。
テレジアが少しだけ顔を逸らす。
耳がほんの少し赤い。
俺も何となく前を向いた。
よく考えたら、互いが食べていたものをそのまま口にしたことになる。
今さら気づいた。
たぶん、テレジアも同じことに気づいている。
「……次から自分の食えよ」
「あなたもね」
「最初に取ったのそっちだろ」
「覚えていないわ」
「絶対嘘」
テレジアが笑う。
俺も少し遅れて笑った。
その時、少し離れたところで荷車が傾いた。
車輪が地面の窪みに嵌まったらしい。
二人の構成員が押しているが動かず、荷台には箱がいくつも積まれている。
「ちょっと行ってくる」
立ち上がる。
テレジアは荷車と俺を順番に見て、それから柔らかく笑った。
「ええ。いってらっしゃい」
ほんの少し離れるだけなのに、妙にちゃんとした送り方だった。
荷車まで歩く。
「手伝うよ」
「セラスティア?」
驚かれた。
「後ろ押せばいい?」
「あ、ああ。頼む」
荷台へ手を掛け、合図に合わせて押す。
一度では動かなかったが、もう一度力を入れると車輪が窪みから抜けて勢いよく前へ出た。
「おっと」
荷車を止める。
「助かった」
「これどこまで?」
「医療区画の搬入口」
見る。
結構ある。
「そこまで押すよ。途中でまた嵌まったら面倒だろ」
「いや、そこまでしてもらわなくても」
「もうここまで来たし」
そのまま荷車の後ろへ回った。
結局、搬入口まで運び、箱を二つ下ろすところまで手伝った。
元の場所へ戻る頃には、思ったより時間が経っていた。
テレジアはまだ同じ場所に座っている。
食べ終わった包みを畳みながら、戻ってきた俺に気づくと、その顔が嬉しそうに緩んだ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
普通に返した。
なのに、数歩進んだところで足が止まる。
何となく、今の言葉が耳に残った。
テレジアもじっと俺を見ている。
「……何?」
「また戻ってきてくれたなと思って」
「荷車押してただけだろ」
「それでもよ」
テレジアが自分の隣を軽く叩く。
戻って隣へ座ると、さっきより少し距離が近かった。
「私、この言葉が好きなのかもしれないわ」
「おかえりなさい?」
「ええ。特に、あなたに言うのが好き」
言われた意味を理解するまで、少し時間が掛かった。
「……それ、結構すごいこと言ってない?」
「そうかしら」
「そうだと思うけど」
「では、忘れてくれる?」
「無理」
即答した。
テレジアが少し目を丸くする。
「覚えておく」
「……意地悪ね」
「言った方が悪い」
「そうかもしれないわ」
困ったように笑っている。
でも、嫌そうには見えなかった。
「なら、何度でも言えるようにしないといけないわね」
テレジアが身体をこちらへ向ける。
「あなたが帰ってくるたびに、おかえりなさいって」
胸の奥が妙に落ち着かない。嬉しいのは確かだけど、たぶんそれだけじゃなかった。
「じゃあ俺も、帰るたびにただいまって言うよ」
テレジアの目が細くなる。
「約束?」
「そんな大げさなもの?」
「私には大事よ」
そう言われると、断る理由もなかった。
「分かった。約束」
「ええ」
テレジアが嬉しそうに頷く。
そのまま、少しだけ沈黙が続いた。
いつもなら何か喋っていたと思う。
でも、今は黙っていても気まずくなかった。
むしろ、このままでもいいと思った。
隣から小さな息が聞こえる。
その直後、肩に軽い重さが乗った。
横を見ると、テレジアが俺の肩へ頭を預けている。
「……眠い?」
「少しだけ。でも、部屋へ戻るほどではないわ」
目を閉じたまま、テレジアが小さく笑う。
「今は、ここがいいの」
「そっか」
それ以上は何も言わなかった。
動けば離れてしまう気がして、俺もそのままでいる。
風に揺れたテレジアの髪が頬へ触れる。
少しくすぐったい。
でも、直さなかった。
しばらくして、肩に寄りかかったままテレジアが口を開く。
「重くない?」
「全然。お前一人で重いなら、俺もう戦えないよ」
「そういう意味ではないのだけれど」
「分かってる」
言うと、肩越しに小さく笑う気配がした。
少ししてテレジアが身体を起こす。
離れたところだけ、急に風が冷たく感じた。
「ありがとう」
「昼飯持ってきたのに、休憩まで付き合わされるとは思わなかった」
「嫌だった?」
少しだけ、からかうような目。
「嫌だったら肩貸してないよ」
言ってから、少し遅れて自分の言葉に気づく。
テレジアも黙った。
「……そうね」
その声が妙に嬉しそうだった。
残していた分を食べていると、足元に白いものが見えた。
土の端。
船の影から少し外れたところ。
踏まれずに残った小さな草の間から、白い花が一輪だけ咲いている。
「テレジア、あれ」
二人で花のところまで歩き、しゃがむ。
白くて、小さい。
「夏雪草?」
テレジアはしばらく花を眺めてから、首を振った。
「違うわね。少し似ているけれど」
「そっか」
少し残念だった。でも、約束した花がこんなふうに偶然見つからなくてよかった気もする。
「今度、ちゃんと探しに行こうな」
テレジアの笑みが柔らかくなる。
「ええ」
「ちゃんと時間作ろう」
「あなたから言ってくれるの?」
「約束したの俺だし」
「私もしたわ」
「じゃあ、二人とも忘れないようにしないとな」
「そうね」
白い花は摘まなかった。
そこに咲いたままにする。
立ち上がる時、同時に手を伸ばして指先が触れた。
今度はどちらも驚かなかった。
それだけで、少し嬉しかった。
先に歩き出したのはテレジアだった。
距離はさっきより少し近いままだった。
また資材箱へ戻る。
ちょうどその時、船の方から何人か歩いてきた。
外へ出ていた小隊らしい。
泥が付いていて、武器も持っている。
でも、全員自分の足で歩いていた。
入口にいた兵士が手を上げる。
「おかえり」
先頭の一人も手を上げた。
「ただいま」
何でもないやり取り。
誰も足を止めない。
テレジアがその姿を見ていた。
「帰ってきたわね。全員いるみたい」
「よかったな」
少し前、撤収部隊の帰還を待っていた時のことを思い出す。
あの頃までなら、たぶん何も考えなかった。
でも今は、あの言葉が妙に耳に残る。
「前はあんまり気にしてなかったけどさ。バベルって、『ただいま』とか『おかえり』って言うこと多いよな。外に出ても、結局ここへ戻ってくる前提でみんな動いてる気がする」
口にしてから、自分でも少し意外だった。
テレジアは少しだけ目を細める。
「それは、嬉しいわ」
「何でお前が嬉しいんだよ」
「バベルを作った一人ですもの」
「そっち?」
「他に何があるの?」
少しだけ、からかうような顔。
「何でもない」
テレジアは追及せず、代わりに戻っていく人たちへもう一度目を向けた。
「私はね、ここが誰かにとって帰ってこられる場所であってほしいと思っているの。戦うためだけではなくて、外で何があっても、ここへ戻れば知っている顔がいて、食事があって、眠れる場所がある。そういう場所であってほしいのよ」
「書類もある」
「それは少ない方がいいわね」
「珍しく意見合ったな」
笑う。
テレジアも笑った。
「でも、もうそうなってるんじゃない?少なくとも俺は、外に出たらここに戻ってくるつもりでいるよ」
さらっと言った。
テレジアが少しだけ目を細める。
「……そこに、私もいたら?」
「何でそんなこと聞くんだよ。お前がいるなら、なおさら戻るだろ」
思わず笑って返してから、少し遅れて自分が何を言ったのか分かった。
テレジアも黙っている。
目が合う。
どちらも、しばらく逸らさなかった。
「……嬉しいわ」
今度は誤魔化さなかった。
胸の奥を真っ直ぐ触られた気がした。
昔なら、テレジアがいるというだけで十分だった。
でも今は、船の中の声も、アーミヤたちも、帰ってきた誰かに「おかえり」と言える時間も、なくしたくないと思っている。
「お前がいるのは、やっぱり特別だよ」
言った。
テレジアの目が少し大きくなる。
今度は、俺も目を逸らさなかった。
「……そう」
小さな声。
「私もよ」
それ以上はどちらも言わなかった。
言葉にしなくても、今はそれで十分な気がした。
◇
船へ戻る。
結局、休憩と言いながら予定より長く外にいた。
並んで歩いていると、手の甲が触れた。
一度は離れたものの、少ししてまた指先が触れる。
今度はどちらも避けなかった。
握ってはいない。
ほんの少し動かせば手を繋げる距離のまま、並んで歩く。
「ケルシーに怒られるかな」
その距離のまま言う。
「どうでしょう」
テレジアも手を離さない。
「お前のせいだからな」
「誘ったのは私だけれど、荷車を最後まで運んだのはあなたでしょう?」
「見てたなら手伝えよ」
「私が行ったら、余計に気を遣わせてしまうわ」
「それはそうかも」
普通に話している。
でも、指先だけがずっと触れたままだった。
廊下へ入る直前、人の気配が増える。
どちらからともなく手が離れた。
少しだけ、惜しいと思った。
向こうからアーミヤが来た。
こちらを見るなり足を止める。
「テレジアさん!探していたんですよ」
嫌な予感がした。
「ケルシー先生が、テレジアさんはちゃんと休んでいるか確認してきてほしいって」
テレジアと目が合う。
「ちゃんと休んだよな?」
「ええ。食事もしたわ」
俺も頷いておく。
「外でかなりゆっくりしてたよ」
アーミヤの顔が少しだけ緩んだ。
「それならよかったです。でも、次の会議までまだ時間がありますから、すぐに仕事へ戻っては駄目ですよ。ケルシー先生にもそう言われています」
テレジアが黙った。
「厳重だな」
「あなた」
こちらを見る。
「一緒に怒られてくれる?」
「何で俺まで?」
「幼馴染でしょう?」
「やっぱり便利な言葉にしてるだろ」
アーミヤが笑った。
テレジアも笑う。
仕方なく、俺も笑った。
三人で歩き出す。
少しして、アーミヤが先に曲がり角を曲がった。
ほんの一瞬だけ二人になる。
「セラスティア」
「ん?」
「今日は、ありがとう」
「飯持ってきただけだろ」
「それだけじゃないわ」
何のことか聞こうとした。
でも、テレジアはただ笑っていた。
その顔を見て、聞かなくてもいい気がした。
「じゃあ次は、お前が飯持ってきてよ」
「私が?」
「たまには」
テレジアは一度目を伏せ、それから柔らかく笑った。
「ええ。あなたの分なら、忘れないわ」
「……ずいぶん自信あるんだな」
「覚えていたいもの」
返事に困った。
「……じゃあ、楽しみにしてる」
「ええ。楽しみにしていて?」
「忘れるなよ」
「忘れないわ」
今度は迷わず言った。
それから悪戯っぽく笑う。
「次は私があなたを休ませる番ね。今日みたいに、ちゃんと外へ連れ出してあげる」
「俺はちゃんと休んでる」
「どうかしら。あなた、自分のことになると案外適当でしょう?」
「お前にだけは言われたくない」
二人で笑う。
そのまま、今度は何を食べるかみたいな話をしながら歩いた。
隣にいる距離は、外へ出た時より少しだけ近いままだった。
結局、テレジアが机へ戻れたのは、それからしばらく経ってからだった。