夏雪草が帰る場所   作:Bestmeever

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第20話 行ってきます

朝から、船の中が騒がしかった。

 

春の冷たさがまだ残る空気の中、装備を抱えた兵士が廊下を行き交い、倉庫から運び出された箱が次々と搬出口へ消えていく。作戦室の扉も、朝から何度開いたか分からない。

 

これまでにも、大きな作戦は何度もあった。勝ったことだってある。

 

それでも、今日だけはどこか違った。

 

廊下を走る奴も、装備を確認する奴も、いつもより顔が明るい。

 

理由は分かっている。

 

カズデルを取り戻す。

 

何年も口にしてきた言葉が、初めて手の届くところまで来ていた。

 

軍事委員会との戦力差は、今も埋まっていない。真正面からぶつかればバベルの方が不利で、カズデルそのものを包囲して奪い返すなんて、少し前までなら考えることすらできなかった。

 

でも、今はテレシスがいない。

 

ヴィクトリアで起きた争いへ介入するため、軍事委員会の主力を率いてロンディニウムへ向かった。その結果、カズデルに残っている戦力はこれまでよりずっと少ない。

 

長く続いた内戦で、こっちも散々削られた。

 

人も物資も失い、戻らなかった奴も多い。

 

それでも今なら、本当に届くかもしれない。

 

「邪魔」

 

後ろから声を掛けられて振り返ると、大きな箱を抱えたWが立っていた。

 

「ごめん」

 

横へ避けると、そのまま通り過ぎようとする。

 

「Wも出るの?」

 

「見れば分かるでしょ」

 

「どこ?」

 

「前線」

 

短く答えたWが、こちらを見る。

 

「何よ」

 

「いや。気をつけて」

 

「誰に言ってんの?」

 

鼻で笑われた。

 

そのまま歩いていくかと思ったが、数歩進んだところで止まり、振り返らないまま片手だけ上げる。

 

「そっちもね」

 

「俺?」

 

返事はなかった。

 

そのまま角を曲がって見えなくなる。

 

そっちも、と言われても、たぶん俺は今日も船に残る。

 

◇

 

作戦室へ入った時には、ほとんど全員が揃っていた。

 

壁一面に広げられた地図の中央には、カズデルがある。

 

今まで何度も見てきたはずなのに、今日はその周囲に並べられた駒の意味が違って見えた。

 

ドクターが地図の前に立っている。

 

ケルシー、Ace、何人かの部隊指揮官。それにテレジアもいた。

 

アスカロンの姿はない。すでに船外で別の任務に就いている。

 

俺が壁際へ移動したところで、ドクターが口を開いた。

 

「全員、分かっていると思うが、最初に一つ確認しておく」

 

部屋が静かになる。

 

「我々が軍事委員会より強くなったわけじゃない」

 

地図の上、カズデルを囲うように並べられた駒をドクターが指でなぞる。

 

「兵力差は今も大きい。本来なら、この戦力でカズデルを包囲して奪還すること自体が不可能に近い」

 

誰も口を挟まなかった。

 

それは、ここにいる全員が知っている。

 

「だが、テレシスは主力を率いてロンディニウムへ向かった。カズデルに残された戦力は限られている。そして、この状況がいつまで続くかは分からない」

 

そこで指が止まり、部屋の空気が変わった。

 

「だから、今やる」

 

単純だった。

 

「カズデルを取り戻す」

 

誰かが小さく息を呑んだ。

 

俺も地図を見る。

 

ずっと遠かった場所。

 

戻れなかった場所。

 

何度勝っても、何度戦線を押し返しても、結局取り戻せなかった場所へ、今日ようやく手を伸ばす。

 

ドクターは続けた。

 

「戦力差を埋めるため、動かせる戦闘要員はほぼ全て投入する。複数地点から同時に入り、軍事委員会側が立て直す前に要所を押さえる」

 

地図の上で、いくつもの駒が船から離れていく。

 

「Aceは予定の部隊と合流。配置についたら、それ以上は進むな」

 

「ああ」

 

「敵が引いても追わなくていい。必要なのは撃破数じゃない。こちらが必要な場所を確保することだ」

 

「了解した」

 

次々と名前が呼ばれていく。

 

前線へ出る部隊だけではない。負傷者を受け入れる医療班、補給を運ぶ人間、戻ってくる部隊のために経路を確保する者まで動く。

 

「ケルシー」

 

「分かっている。市街側の各部隊との連携だろう」

 

「ああ。状況が変われば、すぐに知らせてくれ」

 

「お前に言われるまでもない」

 

ケルシーが資料を取る。

 

改めて地図を見ると、残った駒は驚くほど少なかった。

 

AceもケルシーもWも出る。アスカロンは最初から船の外だ。

 

本当に、今日に賭けるつもりなんだ。

 

ドクターが今度は、ランドシップを示す駒へ指を置いた。

 

「ただし、ランドシップを完全に無防備にはできない。テレジアはここに残る。艦内警備と緊急時の対応に必要な最低限の戦力も残す」

 

何人かの名前が呼ばれた。

 

通信要員や警備、医療区画に残す最低限の人員。

 

最後に、俺の名前が呼ばれる。

 

「セラスティア」

 

「うん」

 

「君も残れ」

 

予想していた。

 

それでも一応、地図を見る。

 

「ほとんど出すんだろ?」

 

「だからだ」

 

ドクターが船を示す駒を指先で叩く。

 

「市街戦へ戦力を回せば回すほど、ランドシップ側の余裕はなくなる。ここにも即応できる戦力が必要だ」

 

一拍置いてから、続ける。

 

「それに、君は最後まで見せない」

 

前にも聞いた言葉だった。

 

「またそれ?」

 

「ああ」

 

でも、今は以前ほど引っかからない。

 

地図を見れば分かる。

 

今日の作戦を成立させるために、ほとんど全員が船から離れる。それでもテレジアが残る以上、最低限の護衛戦力は必要だ。

 

その中で、俺が一番強い。

 

なら、ここに置く理由も分かる。

 

「分かった」

 

素直に答えると、ドクターがこちらを見た。

 

「不満はないのか?」

 

「必要なんだろ?」

 

「ああ」

 

「なら残るよ」

 

それで話は終わった。

 

隣を見ると、テレジアと目が合う。

 

なぜか嬉しそうに笑っていた。

 

理由を聞きたかったが、作戦中なのでやめておいた。

 

◇

 

昼を過ぎる頃には、船の中から随分と人が減っていた。

 

静かというほどではない。通信員は走っているし、医療区画では戻ってくる負傷者を受け入れる準備が進んでいる。警備に残った兵士の姿もある。

 

それでも、いつもと比べれば明らかに薄い。

 

俺は搬出口の近くで、剣と予備装備、通信機を順に確認していた。

 

問題はない。

 

「結局、準備しているのね」

 

声がして顔を上げると、テレジアが立っていた。

 

「何かあったら出るから」

 

「そうね」

 

「残るって、何もしないって意味じゃないだろ」

 

「ええ。あなたならそう言うと思ったわ」

 

隣へ来る。

 

この前、一緒に休憩した時のことを思い出した。

 

今日は書類を抱えていない。代わりに、通信端末を一つ持っている。

 

「忙しくないの?」

 

「忙しいわ」

 

「じゃあ何してるの?」

 

「少しくらい、あなたの顔を見てもいいでしょう?」

 

普通に言われて、一瞬返事に困った。

 

この前から、こういうのが増えた気がする。

 

前なら、もう少し誤魔化していたと思う。

 

「……いいけど」

 

「ありがとう」

 

テレジアが隣に並ぶ。

 

しばらく、二人で外を見ていた。

 

船の外では、まだ物資を運んでいる人間がいる。

 

春の風が吹き込み、遠くにはカズデルの方向から上がる煙が見えた。

 

「あそこまで来たんだな」

 

「ええ」

 

「本当に取り戻せるのかな」

 

テレジアはすぐには答えなかった。

 

「取り戻したいわ」

 

「答えになってないよ」

 

「そうね」

 

そう言って笑う。

 

「でも、今はそれで十分だと思っているの。勝てると信じることと、勝てると言い切ることは違うから」

 

もう一度、遠くを見る。

 

ここまで来るのに、ずいぶん掛かった。

 

「あなたは?」

 

聞かれて、少し考える。

 

「みんな帰ってくればいい」

 

テレジアがこちらを見る。

 

「カズデルを取り戻すのも大事だけど。Aceも、ケルシーも、Wも、アスカロンも。出てる奴がみんな帰ってきて、そのうえで勝ってたら一番いい」

 

「欲張りね」

 

「駄目?」

 

「いいえ」

 

テレジアが柔らかく笑う。

 

「私も、それがいいわ」

 

その時、腰につけていた通信機が二度鳴った。

 

緊急回線だ。

 

すぐに取る。

 

「セラスティア」

 

『作戦室へ来てくれ』

 

ドクターの声は、さっきまでより明らかに短く、切迫していた。

 

「何かあった?」

 

『ああ』

 

それだけで通信が切れる。

 

テレジアを見ると、さっきまでの柔らかい表情が消えていた。

 

「行ってくる」

 

「ええ」

 

二人で船内へ戻った。

 

◇

 

作戦室へ入る。

 

ドクターが地図の前にいた。

 

通信員が二人いるだけで、朝までここにいた人間の大半はもう船の外だ。

 

「何?」

 

地図へ近づくと、ドクターが南側を指した。

 

船からそれほど遠くない。

 

今日の主戦場からは少し外れた場所だ。

 

「ここに避難経路がある」

 

「うん」

 

「周辺の住民を後方へ逃がすために使っていた。先ほど、近くで戦闘が起きた」

 

新しい印が置かれる。

 

「軍事委員会?」

 

「所属は確認できていない。こちらの主力を狙った動きではないようだが、流れ弾で古い建物が崩れた」

 

指が避難経路の途中へ移る。

 

「地下通路の入口が塞がれた。中に避難中の民間人が残っている」

 

「何人?」

 

「現時点で確認できているのは二十七人。子供が五人、歩けない負傷者が三人。ただし、避難経路には別の集団が合流していた可能性がある。正確な人数はまだ分からない」

 

思ったより多い。

 

しかも、これで全部とは限らない。

 

「助けに行く部隊は?」

 

「近くにいない」

 

「じゃあ誰か戻す?」

 

「戻せない」

 

即答だった。

 

地図を見る。

 

近くの部隊は全部、もう別の場所で動いている。

 

今日の作戦には最初から余裕なんてほとんどない。一つ戻せば、そこに穴が空く。

 

「救助班は?」

 

「向かわせている。ただし問題がある」

 

別の印を置く。

 

「瓦礫が大きすぎる。重機を回せる道も塞がれた。それに、敵かもしれない一団がこの方向へ動いている」

 

「どれくらい?」

 

「早ければ一時間以内」

 

俺は地図を見た。

 

ドクターも黙っている。

 

何となく、次に言われることが分かった。

 

「俺?」

 

「ああ」

 

「俺は艦内警備で残したんじゃなかった?」

 

「その予定だった」

 

「俺が出たら?」

 

ドクターはすぐには答えなかった。

 

地図の上には、ランドシップを示す印と、その周囲に残された小さな駒がある。

 

通信要員、警備員、最低限の防衛戦力。

 

その中から俺が抜ければ、意味は大きく変わる。

 

「防衛力は落ちる」

 

ドクターが答えた。

 

「かなり?」

 

「ああ」

 

誤魔化さなかった。

 

「それでも行かせるの?」

 

「他に、この時間で間に合う戦力がない」

 

声は平坦だった。

 

「市街戦の部隊を引き抜けば、奪還作戦そのものに穴が空く。救助班だけでは瓦礫を突破できない可能性が高い。重機を送れば間に合わない」

 

「今必要なのは部隊一つじゃない。瓦礫を短時間で動かせて、一人でも敵を止められて、救助班の足を引っ張らない人間だ」

 

ドクターが俺を見る。

 

「君が一番適している」

 

声だけは、迷っていなかった。

 

朝、俺はカズデル奪還のために船へ残ると決めた。

 

ほとんど全ての戦力を外へ出す中で、テレジアのいる船に残された最後の予備。それを今、使うことになる。

 

地図のこちら側にはテレジアがいて、向こうには少なくとも二十七人の避難民がいる。

 

しかも、それが全員とは限らない。

 

地図の上では数字や駒にしか見えなくても、実際には子供も、負傷して歩けない奴もいる。

 

「……分かった」

 

顔を上げる。

 

「行く」

 

ドクターが頷いた。

 

「救助班が先行している。南側の出口から出れば途中で合流できる」

 

「どのくらいで着く?」

 

「君なら二十分前後」

 

「救助にどれくらい?」

 

「分からない。崩落の状況が不明だ。中にも瓦礫がある可能性がある」

 

そこは行ってみないと分からない。

 

「敵が来たら?」

 

「民間人を優先しろ。戦う必要がないなら戦うな」

 

「分かった」

 

踵を返しかけたところで、ドクターに呼び止められた。

 

「セラスティア」

 

「何?」

 

何かを言いかけたように見えたが、ドクターはわずかに視線を落とした。

 

「……いや」

 

妙だと思ったが、今は時間がない。

 

作戦室を出る。

 

◇

 

廊下へ出ると、テレジアが壁際で待っていた。

 

「聞いてた?」

 

「少しだけ」

 

「行くことになった」

 

「ええ」

 

テレジアは驚かなかった。

 

俺も、もう迷っていない。

 

「二十七人は確認できてる。でも、まだ増えるかもしれない。子供もいる。だから――」

 

テレジアが柔らかく笑った。

 

「あなたを必要としている人たちがいるのでしょう?」

 

「うん。助けてくるよ」

 

「ええ」

 

二人で搬出口へ向かう。

 

ほんの短い距離だ。

 

別に、見送りなんて必要ない。

 

テレジアも忙しいし、俺も急がなきゃいけない。

 

それなのに、結局出口まで一緒に来た。

 

外では救助班の車両が準備を終えている。

 

俺も剣と予備装備、通信機を確認した。

 

「セラスティア」

 

「ん?」

 

振り向くと、すぐ近くにテレジアがいた。

 

「少しだけ、動かないで」

 

何かと思うより先に、テレジアの手が伸びてくる。

 

いつの間にか乱れていた襟元を、指先で直された。

 

「これでいいわ」

 

「そんなところ見てたの?」

 

「見えるもの」

 

手が離れると思ったが、テレジアの指先はそのまま俺の肩に残った。

 

ほんの一瞬。

 

普段なら気にも留めないような時間だった。

 

目が合う。

 

「……何?」

 

テレジアは困ったように笑った。

 

「何でもないわ」

 

そう言って、今度こそ手を離す。

 

その直後、救助班から声が飛んだ。

 

「セラスティア!」

 

「今行く!」

 

返事をして、一歩外へ出る。

 

春の風が吹いた。

 

振り返ると、テレジアはまだ同じ場所に立っていた。

 

特別な表情をしているわけじゃない。いつもみたいに穏やかに笑っている。

 

だから俺も、いつもみたいに手を上げた。

 

「じゃあ、行ってきます」

 

テレジアも小さく手を上げる。

 

「ええ。いってらっしゃい、セラスティア」

 

「うん」

 

一度だけ手を振り返し、前を向いて救助班の後を追った。

 

◇

 

現場が見えたのは、それから少ししてだった。

 

遠くからでも、古い建物が一つ完全に崩れているのが分かる。

 

土煙の向こうに、折れた柱と砕けた壁が重なっていた。

 

救助班の一人が俺に気づき、こちらへ走ってくる。

 

「セラスティア!」

 

「状況は?」

 

「入口は見つけた。ただ、報告より酷い」

 

案内された先には瓦礫の隙間があり、その奥に地下へ続いていたらしい階段が見えた。

 

上半分が完全に潰れている。

 

「これ退かせば入れる?」

 

「そこだけなら」

 

救助班の男が首を振った。

 

「中から声が聞こえた。入口の向こうでも崩れてるらしい」

 

「何人いる?」

 

「最初に確認できていた二十七人はいる」

 

男が一度、地下の方を見る。

 

「ただ、別の避難組が途中で合流していた。少なくとも、あと二十人はいる」

 

思わず瓦礫を見る。

 

最低でも四十七人。

 

それ以上いる可能性もある。

 

その時、地下の奥から微かに子供の泣き声が聞こえた。

 

「……分かった」

 

剣を外して地面へ置き、両手を空ける。

 

「どこから動かせばいい?」

 

救助班が一瞬だけ俺を見る。

 

すぐに、一番大きな瓦礫を指した。

 

「まず、それだ」

 

岩のような壁の破片だった。

 

普通なら何人必要になるのか分からない。

 

手を掛けると、ずしりと重さが伝わってくる。それでも、動かせないほどじゃない。

 

「退いて」

 

周りが離れる。

 

力を入れると、瓦礫が徐々に浮き、奥の隙間が広がっていく。

 

中からまた声が聞こえた。

 

「いる!中にいるぞ!」

 

救助班の誰かが声を上げる。

 

もう一度力を込めたところで、通信機から呼びかけが入った。

 

『南側救助班、応答しろ』

 

別の人間が取る。

 

『こちら救助班』

 

『北東方向に武装集団を確認。そちらへ移動している可能性がある』

 

「距離は?」

 

『推定、四十分』

 

瓦礫の向こうには、それだけの人間がまだ取り残されている。

 

「セラスティア」

 

救助班の男がこちらを見る。

 

「どうする?」

 

答えるまでもなかった。

 

もう一度、瓦礫へ手を掛ける。

 

「全員出す。そのために来たんだろ」

 

力を込めるたび、塞がれていた入口が少しずつ開いていった。

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