朝から、船の中が騒がしかった。
春の冷たさがまだ残る空気の中、装備を抱えた兵士が廊下を行き交い、倉庫から運び出された箱が次々と搬出口へ消えていく。作戦室の扉も、朝から何度開いたか分からない。
これまでにも、大きな作戦は何度もあった。勝ったことだってある。
それでも、今日だけはどこか違った。
廊下を走る奴も、装備を確認する奴も、いつもより顔が明るい。
理由は分かっている。
カズデルを取り戻す。
何年も口にしてきた言葉が、初めて手の届くところまで来ていた。
軍事委員会との戦力差は、今も埋まっていない。真正面からぶつかればバベルの方が不利で、カズデルそのものを包囲して奪い返すなんて、少し前までなら考えることすらできなかった。
でも、今はテレシスがいない。
ヴィクトリアで起きた争いへ介入するため、軍事委員会の主力を率いてロンディニウムへ向かった。その結果、カズデルに残っている戦力はこれまでよりずっと少ない。
長く続いた内戦で、こっちも散々削られた。
人も物資も失い、戻らなかった奴も多い。
それでも今なら、本当に届くかもしれない。
「邪魔」
後ろから声を掛けられて振り返ると、大きな箱を抱えたWが立っていた。
「ごめん」
横へ避けると、そのまま通り過ぎようとする。
「Wも出るの?」
「見れば分かるでしょ」
「どこ?」
「前線」
短く答えたWが、こちらを見る。
「何よ」
「いや。気をつけて」
「誰に言ってんの?」
鼻で笑われた。
そのまま歩いていくかと思ったが、数歩進んだところで止まり、振り返らないまま片手だけ上げる。
「そっちもね」
「俺?」
返事はなかった。
そのまま角を曲がって見えなくなる。
そっちも、と言われても、たぶん俺は今日も船に残る。
◇
作戦室へ入った時には、ほとんど全員が揃っていた。
壁一面に広げられた地図の中央には、カズデルがある。
今まで何度も見てきたはずなのに、今日はその周囲に並べられた駒の意味が違って見えた。
ドクターが地図の前に立っている。
ケルシー、Ace、何人かの部隊指揮官。それにテレジアもいた。
アスカロンの姿はない。すでに船外で別の任務に就いている。
俺が壁際へ移動したところで、ドクターが口を開いた。
「全員、分かっていると思うが、最初に一つ確認しておく」
部屋が静かになる。
「我々が軍事委員会より強くなったわけじゃない」
地図の上、カズデルを囲うように並べられた駒をドクターが指でなぞる。
「兵力差は今も大きい。本来なら、この戦力でカズデルを包囲して奪還すること自体が不可能に近い」
誰も口を挟まなかった。
それは、ここにいる全員が知っている。
「だが、テレシスは主力を率いてロンディニウムへ向かった。カズデルに残された戦力は限られている。そして、この状況がいつまで続くかは分からない」
そこで指が止まり、部屋の空気が変わった。
「だから、今やる」
単純だった。
「カズデルを取り戻す」
誰かが小さく息を呑んだ。
俺も地図を見る。
ずっと遠かった場所。
戻れなかった場所。
何度勝っても、何度戦線を押し返しても、結局取り戻せなかった場所へ、今日ようやく手を伸ばす。
ドクターは続けた。
「戦力差を埋めるため、動かせる戦闘要員はほぼ全て投入する。複数地点から同時に入り、軍事委員会側が立て直す前に要所を押さえる」
地図の上で、いくつもの駒が船から離れていく。
「Aceは予定の部隊と合流。配置についたら、それ以上は進むな」
「ああ」
「敵が引いても追わなくていい。必要なのは撃破数じゃない。こちらが必要な場所を確保することだ」
「了解した」
次々と名前が呼ばれていく。
前線へ出る部隊だけではない。負傷者を受け入れる医療班、補給を運ぶ人間、戻ってくる部隊のために経路を確保する者まで動く。
「ケルシー」
「分かっている。市街側の各部隊との連携だろう」
「ああ。状況が変われば、すぐに知らせてくれ」
「お前に言われるまでもない」
ケルシーが資料を取る。
改めて地図を見ると、残った駒は驚くほど少なかった。
AceもケルシーもWも出る。アスカロンは最初から船の外だ。
本当に、今日に賭けるつもりなんだ。
ドクターが今度は、ランドシップを示す駒へ指を置いた。
「ただし、ランドシップを完全に無防備にはできない。テレジアはここに残る。艦内警備と緊急時の対応に必要な最低限の戦力も残す」
何人かの名前が呼ばれた。
通信要員や警備、医療区画に残す最低限の人員。
最後に、俺の名前が呼ばれる。
「セラスティア」
「うん」
「君も残れ」
予想していた。
それでも一応、地図を見る。
「ほとんど出すんだろ?」
「だからだ」
ドクターが船を示す駒を指先で叩く。
「市街戦へ戦力を回せば回すほど、ランドシップ側の余裕はなくなる。ここにも即応できる戦力が必要だ」
一拍置いてから、続ける。
「それに、君は最後まで見せない」
前にも聞いた言葉だった。
「またそれ?」
「ああ」
でも、今は以前ほど引っかからない。
地図を見れば分かる。
今日の作戦を成立させるために、ほとんど全員が船から離れる。それでもテレジアが残る以上、最低限の護衛戦力は必要だ。
その中で、俺が一番強い。
なら、ここに置く理由も分かる。
「分かった」
素直に答えると、ドクターがこちらを見た。
「不満はないのか?」
「必要なんだろ?」
「ああ」
「なら残るよ」
それで話は終わった。
隣を見ると、テレジアと目が合う。
なぜか嬉しそうに笑っていた。
理由を聞きたかったが、作戦中なのでやめておいた。
◇
昼を過ぎる頃には、船の中から随分と人が減っていた。
静かというほどではない。通信員は走っているし、医療区画では戻ってくる負傷者を受け入れる準備が進んでいる。警備に残った兵士の姿もある。
それでも、いつもと比べれば明らかに薄い。
俺は搬出口の近くで、剣と予備装備、通信機を順に確認していた。
問題はない。
「結局、準備しているのね」
声がして顔を上げると、テレジアが立っていた。
「何かあったら出るから」
「そうね」
「残るって、何もしないって意味じゃないだろ」
「ええ。あなたならそう言うと思ったわ」
隣へ来る。
この前、一緒に休憩した時のことを思い出した。
今日は書類を抱えていない。代わりに、通信端末を一つ持っている。
「忙しくないの?」
「忙しいわ」
「じゃあ何してるの?」
「少しくらい、あなたの顔を見てもいいでしょう?」
普通に言われて、一瞬返事に困った。
この前から、こういうのが増えた気がする。
前なら、もう少し誤魔化していたと思う。
「……いいけど」
「ありがとう」
テレジアが隣に並ぶ。
しばらく、二人で外を見ていた。
船の外では、まだ物資を運んでいる人間がいる。
春の風が吹き込み、遠くにはカズデルの方向から上がる煙が見えた。
「あそこまで来たんだな」
「ええ」
「本当に取り戻せるのかな」
テレジアはすぐには答えなかった。
「取り戻したいわ」
「答えになってないよ」
「そうね」
そう言って笑う。
「でも、今はそれで十分だと思っているの。勝てると信じることと、勝てると言い切ることは違うから」
もう一度、遠くを見る。
ここまで来るのに、ずいぶん掛かった。
「あなたは?」
聞かれて、少し考える。
「みんな帰ってくればいい」
テレジアがこちらを見る。
「カズデルを取り戻すのも大事だけど。Aceも、ケルシーも、Wも、アスカロンも。出てる奴がみんな帰ってきて、そのうえで勝ってたら一番いい」
「欲張りね」
「駄目?」
「いいえ」
テレジアが柔らかく笑う。
「私も、それがいいわ」
その時、腰につけていた通信機が二度鳴った。
緊急回線だ。
すぐに取る。
「セラスティア」
『作戦室へ来てくれ』
ドクターの声は、さっきまでより明らかに短く、切迫していた。
「何かあった?」
『ああ』
それだけで通信が切れる。
テレジアを見ると、さっきまでの柔らかい表情が消えていた。
「行ってくる」
「ええ」
二人で船内へ戻った。
◇
作戦室へ入る。
ドクターが地図の前にいた。
通信員が二人いるだけで、朝までここにいた人間の大半はもう船の外だ。
「何?」
地図へ近づくと、ドクターが南側を指した。
船からそれほど遠くない。
今日の主戦場からは少し外れた場所だ。
「ここに避難経路がある」
「うん」
「周辺の住民を後方へ逃がすために使っていた。先ほど、近くで戦闘が起きた」
新しい印が置かれる。
「軍事委員会?」
「所属は確認できていない。こちらの主力を狙った動きではないようだが、流れ弾で古い建物が崩れた」
指が避難経路の途中へ移る。
「地下通路の入口が塞がれた。中に避難中の民間人が残っている」
「何人?」
「現時点で確認できているのは二十七人。子供が五人、歩けない負傷者が三人。ただし、避難経路には別の集団が合流していた可能性がある。正確な人数はまだ分からない」
思ったより多い。
しかも、これで全部とは限らない。
「助けに行く部隊は?」
「近くにいない」
「じゃあ誰か戻す?」
「戻せない」
即答だった。
地図を見る。
近くの部隊は全部、もう別の場所で動いている。
今日の作戦には最初から余裕なんてほとんどない。一つ戻せば、そこに穴が空く。
「救助班は?」
「向かわせている。ただし問題がある」
別の印を置く。
「瓦礫が大きすぎる。重機を回せる道も塞がれた。それに、敵かもしれない一団がこの方向へ動いている」
「どれくらい?」
「早ければ一時間以内」
俺は地図を見た。
ドクターも黙っている。
何となく、次に言われることが分かった。
「俺?」
「ああ」
「俺は艦内警備で残したんじゃなかった?」
「その予定だった」
「俺が出たら?」
ドクターはすぐには答えなかった。
地図の上には、ランドシップを示す印と、その周囲に残された小さな駒がある。
通信要員、警備員、最低限の防衛戦力。
その中から俺が抜ければ、意味は大きく変わる。
「防衛力は落ちる」
ドクターが答えた。
「かなり?」
「ああ」
誤魔化さなかった。
「それでも行かせるの?」
「他に、この時間で間に合う戦力がない」
声は平坦だった。
「市街戦の部隊を引き抜けば、奪還作戦そのものに穴が空く。救助班だけでは瓦礫を突破できない可能性が高い。重機を送れば間に合わない」
「今必要なのは部隊一つじゃない。瓦礫を短時間で動かせて、一人でも敵を止められて、救助班の足を引っ張らない人間だ」
ドクターが俺を見る。
「君が一番適している」
声だけは、迷っていなかった。
朝、俺はカズデル奪還のために船へ残ると決めた。
ほとんど全ての戦力を外へ出す中で、テレジアのいる船に残された最後の予備。それを今、使うことになる。
地図のこちら側にはテレジアがいて、向こうには少なくとも二十七人の避難民がいる。
しかも、それが全員とは限らない。
地図の上では数字や駒にしか見えなくても、実際には子供も、負傷して歩けない奴もいる。
「……分かった」
顔を上げる。
「行く」
ドクターが頷いた。
「救助班が先行している。南側の出口から出れば途中で合流できる」
「どのくらいで着く?」
「君なら二十分前後」
「救助にどれくらい?」
「分からない。崩落の状況が不明だ。中にも瓦礫がある可能性がある」
そこは行ってみないと分からない。
「敵が来たら?」
「民間人を優先しろ。戦う必要がないなら戦うな」
「分かった」
踵を返しかけたところで、ドクターに呼び止められた。
「セラスティア」
「何?」
何かを言いかけたように見えたが、ドクターはわずかに視線を落とした。
「……いや」
妙だと思ったが、今は時間がない。
作戦室を出る。
◇
廊下へ出ると、テレジアが壁際で待っていた。
「聞いてた?」
「少しだけ」
「行くことになった」
「ええ」
テレジアは驚かなかった。
俺も、もう迷っていない。
「二十七人は確認できてる。でも、まだ増えるかもしれない。子供もいる。だから――」
テレジアが柔らかく笑った。
「あなたを必要としている人たちがいるのでしょう?」
「うん。助けてくるよ」
「ええ」
二人で搬出口へ向かう。
ほんの短い距離だ。
別に、見送りなんて必要ない。
テレジアも忙しいし、俺も急がなきゃいけない。
それなのに、結局出口まで一緒に来た。
外では救助班の車両が準備を終えている。
俺も剣と予備装備、通信機を確認した。
「セラスティア」
「ん?」
振り向くと、すぐ近くにテレジアがいた。
「少しだけ、動かないで」
何かと思うより先に、テレジアの手が伸びてくる。
いつの間にか乱れていた襟元を、指先で直された。
「これでいいわ」
「そんなところ見てたの?」
「見えるもの」
手が離れると思ったが、テレジアの指先はそのまま俺の肩に残った。
ほんの一瞬。
普段なら気にも留めないような時間だった。
目が合う。
「……何?」
テレジアは困ったように笑った。
「何でもないわ」
そう言って、今度こそ手を離す。
その直後、救助班から声が飛んだ。
「セラスティア!」
「今行く!」
返事をして、一歩外へ出る。
春の風が吹いた。
振り返ると、テレジアはまだ同じ場所に立っていた。
特別な表情をしているわけじゃない。いつもみたいに穏やかに笑っている。
だから俺も、いつもみたいに手を上げた。
「じゃあ、行ってきます」
テレジアも小さく手を上げる。
「ええ。いってらっしゃい、セラスティア」
「うん」
一度だけ手を振り返し、前を向いて救助班の後を追った。
◇
現場が見えたのは、それから少ししてだった。
遠くからでも、古い建物が一つ完全に崩れているのが分かる。
土煙の向こうに、折れた柱と砕けた壁が重なっていた。
救助班の一人が俺に気づき、こちらへ走ってくる。
「セラスティア!」
「状況は?」
「入口は見つけた。ただ、報告より酷い」
案内された先には瓦礫の隙間があり、その奥に地下へ続いていたらしい階段が見えた。
上半分が完全に潰れている。
「これ退かせば入れる?」
「そこだけなら」
救助班の男が首を振った。
「中から声が聞こえた。入口の向こうでも崩れてるらしい」
「何人いる?」
「最初に確認できていた二十七人はいる」
男が一度、地下の方を見る。
「ただ、別の避難組が途中で合流していた。少なくとも、あと二十人はいる」
思わず瓦礫を見る。
最低でも四十七人。
それ以上いる可能性もある。
その時、地下の奥から微かに子供の泣き声が聞こえた。
「……分かった」
剣を外して地面へ置き、両手を空ける。
「どこから動かせばいい?」
救助班が一瞬だけ俺を見る。
すぐに、一番大きな瓦礫を指した。
「まず、それだ」
岩のような壁の破片だった。
普通なら何人必要になるのか分からない。
手を掛けると、ずしりと重さが伝わってくる。それでも、動かせないほどじゃない。
「退いて」
周りが離れる。
力を入れると、瓦礫が徐々に浮き、奥の隙間が広がっていく。
中からまた声が聞こえた。
「いる!中にいるぞ!」
救助班の誰かが声を上げる。
もう一度力を込めたところで、通信機から呼びかけが入った。
『南側救助班、応答しろ』
別の人間が取る。
『こちら救助班』
『北東方向に武装集団を確認。そちらへ移動している可能性がある』
「距離は?」
『推定、四十分』
瓦礫の向こうには、それだけの人間がまだ取り残されている。
「セラスティア」
救助班の男がこちらを見る。
「どうする?」
答えるまでもなかった。
もう一度、瓦礫へ手を掛ける。
「全員出す。そのために来たんだろ」
力を込めるたび、塞がれていた入口が少しずつ開いていった。