返事はなかった。
そんなの分かっていた。それでも、少しくらい待てばいつもの声が返ってくるような気がして、指先を離せなかった。
「セラスティア」
後ろからケルシーに呼ばれる。
振り返らない。
「……何?」
「ここを離れる。艦内にはまだ敵が残っている」
言葉の意味がすぐには入ってこなかった。
「テレジアは?」
自分でも何を聞いているのか分からなかった。
ケルシーは答えず、テレジアの腕の中へ視線を落とした。
「アーミヤを頼む」
「俺が?」
「ああ」
アーミヤを見る。
いつもなら、名前を呼べばこちらを向く。走ってきて、どうでもいい話をして、テレジアの隣で笑っていた。
「でも、テレジアは」
「こちらで移す」
「俺が運ぶよ」
「アーミヤを頼むと言った」
ケルシーの声はいつも通りだった。
少なくとも、そう聞こえた。
口を開きかけて、やめる。
テレジアが最後まで腕の中に抱いていた子だ。
「……分かった」
その腕から、ゆっくりとアーミヤを受け取る。
何度も抱き上げたことがあるはずなのに、今日はひどく軽く感じた。
立ち上がる前に、もう一度だけテレジアを見る。
「すぐ戻るから」
言ったあとで、胸が痛んだ。
また同じことを言っている。
今度は返してくれる人がいないのに。
◇
医療区画へ向かう廊下は、戻ってきた時より騒がしくなっていた。
止まっていた警報の代わりに人の声が飛び交っている。侵入者の残党への対応と負傷者の搬送が続き、その間を船外から戻り始めた部隊が行き来していた。
誰も全体を把握できていない。
俺はアーミヤを抱いたまま、その間を進んだ。
途中で何度も顔を見る。
息はしている。それだけを確認して歩いた。
「セラスティア!」
見覚えのある兵士が駆けてくる。
「外の部隊が戻り始めてる。撤退だ」
「撤退?」
「ああ。このまま残れば軍事委員会に囲まれる」
朝はあれだけの人数が外へ出た。
皆、カズデルを取り戻せると思っていた。
俺もそう思っていた。
それが、数時間も経たないうちに終わった。
「分かった」
それ以上は聞かなかった。
今聞いたところで、何も変わらない。
医療区画へ着くと、すぐにアーミヤを預ける。
「お願いします」
「任せて」
寝台へ移された小さな身体から手が離れた。
急に両腕が空く。
戻ろう。テレジアのところへ。
扉へ向かったところで、廊下の向こうから走ってくる足音が聞こえた。
知っている足音だった。
「セラスティア」
アスカロン。
服の端が裂け、頬に血が付いている。
本人のものかどうかは分からない。
「アスカロン」
彼女は俺を見ると、そのまま医療区画へ視線を向けた。
「アーミヤは?」
「今預けてきた」
「ドクターは?」
「運ばれてる」
そこで言葉が止まった。
「……テレジア殿下は」
答えられなかった。
それだけで伝わった。
アスカロンの表情が消える。
長い沈黙のあと、目を伏せた。
「間に合わなかった」
何も返せない。
胸の奥が痛んだ。
「お前は違う。最初から船にいなかっただろ。任務だったんだ。戻れなかっただけだ」
アスカロンがこちらを見る。
「俺はいたんだ」
止められなかった。
「朝からずっと船にいた。テレジアの近くにいて、最後まで残るはずだった」
それでも、あの時はテレジアのそばにいなかった。
アスカロンは何も言わない。
「俺は……」
続きが出てこなかった。
俺が悪い。
そう言えたら楽だった。
けれど、それを言えば、助けた人たちのことまで間違いだったことになる。
テレジアは俺を送り出した。
俺はあの子たちを置いてこなかった。
それでもテレジアは死んだ。
どちらも本当だった。
「……ごめん」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
アスカロンはしばらく俺を見ていた。
「でも、お前は――」
「分かっている」
静かに遮られる。
「お前とは違う。だが、守れなかったことに変わりはない」
それだけだった。
俺も何も返せなかった。
アスカロンが廊下の奥を見る。
「殿下のところへ行く」
俺も黙って歩き出した。
◇
部屋へ戻ると、ドクターの姿はもうなかった。
テレジアだけが、まだそこにいた。
入口には何人かの医療班がいて、身体を別の区画へ移す準備を進めている。
アスカロンは部屋へ入ると、足を止めた。
何も言わず、一歩ずつテレジアのそばまで行く。
そして、静かに膝をついた。
「……戻りました、殿下」
返事はない。
アスカロンはしばらく顔を上げなかった。
任務へ出る前、戻ってくることが当たり前だった頃と、同じ言葉なのかもしれない。
けれど今は、それを聞いてくれる人がいない。
やがて、アスカロンの通信機が鳴った。
『機動層で侵入者を確認!まだ残っている!』
アスカロンが目を開く。
ゆっくりと立ち上がり、一度だけテレジアを見る。
「行く」
「俺も行く」
部屋の外へ出る。
その時、廊下の向こうでも負傷者を求める声が上がり、入口にいた医療班の何人かがそちらへ駆けていった。
残った一人が俺たちを見る。
「ここは任せて」
頷いた。
今はまだ、やることが残っている。
それに、今は一人になりたくなかった。
◇
怒鳴り声が響いたのは、それから少ししてだった。
「アスカロン!」
二人で振り返る。
Wがいた。
息を切らし、服には泥と血が付いている。
普段の余裕はどこにもなかった。
「……W」
アスカロンが名前を呼ぶ。
Wはそのまま歩み寄ってきた。
「Scoutが言ってたこと、本当なの?」
アスカロンは答えない。
「ねえ!テレジア殿下はどこ?」
「今は殿下のところへ行くべきではない」
Wの足が止まった。
「は?」
「まだ船内は安全ではない。侵入者を排除する」
「そんなこと聞いてない」
「W」
「殿下はどこって聞いてるのよ」
アスカロンの声は変わらない。
「まず船を掃討する。まだ侵入経路が残っている可能性がある」
Wの顔から表情が消えた。
次の瞬間、アスカロンの襟元を掴んだ。
「ふざけないで」
「……」
「死んだって言うなら、自分の目で見る」
アスカロンはWの手を振り払わなかった。
「今はお前の役目を果たせ」
「役目?」
「ここまで残ったものまで失いたくないなら」
Wの指が震える。
「あんたたち」
掴んでいた手が離れた。
「本当に、役に立たないわね」
笑おうとしたように見えた。
でも、笑えていなかった。
「何で信じたんだろ」
そのまま踵を返す。
「W!」
アスカロンが呼ぶ。
止まらない。
行き先は分かっていた。
テレジアの部屋。
俺も後を追おうとした。
けれど一歩目が出なかった。
◇
しばらくして戻ってきたWの顔を見て、何があったのか分かった。
さっきまでの怒りとは違う。
何もない。
そんな顔だった。
アスカロンが静かに聞く。
「見たか」
Wは答えなかった。
唇だけが動く。
「血しかなかった」
拳が握られる。
「誰もいない。血と、知らない足跡だけ」
胸の奥が冷えた。
さっきまで、確かにそこにいた。
医療班が移す準備をしていたはずだった。
「最後くらい」
Wの声が震えた。
「一回くらい……」
そこで言葉が途切れる。
Wが顔を上げた。
視線が俺に止まる。
「……あんた」
Wがゆっくり近づいてくる。
「あんた、ここに残ってたわよね」
「……ああ」
「殿下の近くに」
「いたよ」
次の瞬間、胸ぐらを掴まれた。
「じゃあ、何で?」
答えられない。
「あんたが殿下の横にいるなら――」
指に力が入る。
「あたし、信じたのよ」
覚えている。
訓練場で、俺を一度だけ殺したと笑ったあと。
あの時も、似たようなことを言っていた。
喉の奥が詰まった。
「……ごめん」
Wの顔が歪む。
「謝ってほしいんじゃない!」
強く引かれる。
「何でいなかったのよ!」
答えようと思えば理由はあった。
ドクターに命じられ、テレジアに送り出され、その先には助けを待っている人たちがいた。
全部、本当のことだった。
だとしても、今それを口にしたくなかった。
「黙ってないで、何か言いなさいよ!理由があったって言いなさいよ!」
頬に衝撃が走った。
視界が横へ流れる。
一歩よろけて、壁へ手をついた。
殴られたのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「W」
アスカロンが動く。
俺は手を上げて止めた。
「いい」
「セラスティア」
「大丈夫だから」
口の中に血の味がした。
Wを見る。
肩で息をしていた。
殴った本人の方が、泣きそうな顔をしている。
「あんたなら」
声が掠れる。
「あんたなら守れると思ってた」
何も返せない。
「殿下のそばにいたんでしょ?」
「……」
「ずっと、いたんでしょ?」
胸ぐらを掴む手が震える。
「あたしより近くにいたじゃない」
その通りだった。
「なのに」
Wの声が小さくなる。
「最後にいないのよ」
言葉が胸に刺さった。
俺自身、何度も同じことを考えている。
朝からずっと近くにいたのに、最後だけいなかった。
「次は逃げないって言ったわよね」
「……逃げてない」
ようやく出たのは、それだけだった。
Wの目が見開かれる。
「じゃあ何よ」
また声が震える。
「じゃあ、何だったのよ」
答えは喉まで来ていた。
それでも出さなかった。
テレジアに送り出されたから。
そんな言葉を今ここで使いたくなかった。
Wの手から力が抜ける。
「……最低」
胸ぐらが離れる。
俺に向けたのか、自分に向けたのか、それともここにいる全員へなのか分からなかった。
Wは俯いたまま、一歩離れる。
「今は」
一度、声が途切れた。
「今はあんたの顔、見たくない」
そのまま歩いていった。
アスカロンも止めなかった。
俺も追わなかった。
口元の血を袖で拭う。
痛みはほとんど気にならなかった。
少しして、アスカロンが口を開く。
「遺体の件は私が確認する」
「……うん」
それ以上、何も言えなかった。
◇
撤退準備は止まらなかった。
外へ出ていた部隊が次々と帰ってくる。
怪我人を抱えた者もいれば、朝より明らかに人数の減った班や、武器を失って戻ってくる奴もいた。
皆、朝とはまるで違う顔をしていた。
誰も勝ったとは言わない。
カズデルを取り戻すという言葉も、もう聞こえなかった。
俺は戻ってきた人間の収容を手伝った。
担架を運び、崩れた隔壁を動かし、残っていた侵入者を追い返す。頼まれたことなら何でもやった。
次に何をすればいいのか、自分で考えたくなかった。
何かを考えれば、結局テレジアのことに行き着く。
「セラスティア」
ケルシーが来た。
袖に血が付いている。
「アーミヤは?」
「容体は安定している」
「ドクターは?」
一瞬だけ間があった。
「反応はない。だが、生きている」
「そう」
生きている。
その言葉だけが妙に引っかかった。
「テレジアは?」
ケルシーの顔を見る。
今度はすぐに答えなかった。
「……まだ見つかっていない」
「やっぱり、誰かが?」
「その可能性が高い。移送の準備を進めていたが、その後の混乱で姿を消した。自力で動けるはずがない」
胸の奥が冷たくなる。
「誰が」
「まだ分からない」
「じゃあ探す」
即座に言った。
「駄目だ」
「何で」
「軍事委員会側の戦力がこちらへ集まり始めている。この船も、戻ってきた部隊も、すでに消耗している」
「俺一人なら行ける」
「認めない」
「まだ何も――」
「何をするつもりかは分かる」
「なら行かせてよ!」
声が大きくなる。
「俺なら追える。どこに連れていかれたのか探すくらい――」
「その間に包囲が完成する」
「じゃあ俺だけ残る」
「認めない」
即答だった。
「何で!」
「お前まで失うために撤退するわけではない」
「でも、テレジアが連れていかれたんだろ」
ケルシーの顔が僅かに強張った。
「そうだ」
「テレジアだぞ」
「ああ」
「分かってる?」
「分かっている!」
初めて声が強くなった。
周囲が静まる。
ケルシー自身も気づいたようだった。
一度目を閉じる。
それから、いつもの声へ戻した。
「……分かっている」
俺は何も言えない。
「私も追いたい」
ケルシーが続ける。
「今すぐにでも探しに行きたい。ここから持ち出されたままにしていいはずがない。そんなことは私にも分かっている」
「だったら」
「だが、残っている人間を全員ここで死なせるわけにはいかない」
息が詰まった。
「テレジアなら」
そこまで聞いて。
「言わないで」
ケルシーが黙る。
「それは、分かってるから」
テレジアなら、生きている人間を優先する。
考えるまでもない。
だからこそ、それが一番嫌だった。
「……分かった」
声が掠れた。
ケルシーはしばらく俺を見ていた。
「追跡は諦めない」
顔を上げる。
「撤退しても探す。必ずだ」
「……うん」
「すまない」
返事はできなかった。
◇
船が動き始めた。
いつもなら気にも留めない振動が、今日は足の裏からはっきり伝わってくる。
カズデルから離れていく。
八年前にも、一度この街を離れた。
あの時は少し先にテレジアがいて、アスカロンも、周りにはバベルの皆がいた。
俺は自分で前へ進んだ。
今日だって、アスカロンもケルシーも、アーミヤもドクターも、そして俺も戻ってきた。
一人だけいない。
どこにいるのかさえ、もう分からない。
窓の向こうで、カズデルが少しずつ遠くなる。
テレジアがどこへ連れていかれたのかも分からないまま、俺たちだけがここから離れていく。
その事実だけが、どうしても受け入れられなかった。
◇
気づけば、自分の部屋の前にいた。
どうやってここまで来たのか、あまり覚えていない。
扉を開けても、何も変わっていなかった。
机も椅子もベッドも、出る前と何一つ変わっていない。
当たり前だ。
ここでは何も起きていない。
中へ入って扉を閉めると、人の声が遠くなった。
ようやく、誰の声も聞こえなくなる。
椅子へ座ろうとして、やめた。
机の上の本が目に入り、手に取った。
いつものページを開くと、そこには昔テレジアが押し花にしてくれた夏雪草が挟まっている。
『押し花にしてみたの』
そう言って笑っていた顔まで、まだ覚えている。
指先で持ち上げる。
乾いた花びらは薄く、少し力を入れただけで壊れそうだった。
あの日から、ずっと持っていた。
二人でまた夏雪草を探しに行こうと話した。
今度は、普通に咲いている花を。
まだ行っていない。
花びらの端が少し曲がっている。
直そうとして、指を止めた。
触れば壊れそうだった。
結局、何もできない。
握り潰すことも、本へ戻すこともできないまま、テレジアがくれた押し花を手のひらに載せて床へ座り込んだ。
守れなかった。
誰かに言われるまでもなく、分かっていた。
あの人たちを助けたことを後悔したくない。
それでも、あの時戻っていればと考えるのも止められない。
どちらか一つなら、まだ楽だった。
俺は間違っていなかった。
俺が守れなかった。
その二つが、どうしても一つにならなかった。
「俺は、どうしたらよかったんだよ……テレジア」
返事はない。
手のひらを見る。
押し花は、テレジアがくれた時と同じ形でそこにあった。
ただ、そのまま座っていた。