夏雪草が帰る場所   作:Bestmeever

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第22話 守れなかった

返事はなかった。

 

そんなの分かっていた。それでも、少しくらい待てばいつもの声が返ってくるような気がして、指先を離せなかった。

 

「セラスティア」

 

後ろからケルシーに呼ばれる。

 

振り返らない。

 

「……何?」

 

「ここを離れる。艦内にはまだ敵が残っている」

 

言葉の意味がすぐには入ってこなかった。

 

「テレジアは?」

 

自分でも何を聞いているのか分からなかった。

 

ケルシーは答えず、テレジアの腕の中へ視線を落とした。

 

「アーミヤを頼む」

 

「俺が?」

 

「ああ」

 

アーミヤを見る。

 

いつもなら、名前を呼べばこちらを向く。走ってきて、どうでもいい話をして、テレジアの隣で笑っていた。

 

「でも、テレジアは」

 

「こちらで移す」

 

「俺が運ぶよ」

 

「アーミヤを頼むと言った」

 

ケルシーの声はいつも通りだった。

 

少なくとも、そう聞こえた。

 

口を開きかけて、やめる。

 

テレジアが最後まで腕の中に抱いていた子だ。

 

「……分かった」

 

その腕から、ゆっくりとアーミヤを受け取る。

 

何度も抱き上げたことがあるはずなのに、今日はひどく軽く感じた。

 

立ち上がる前に、もう一度だけテレジアを見る。

 

「すぐ戻るから」

 

言ったあとで、胸が痛んだ。

 

また同じことを言っている。

 

今度は返してくれる人がいないのに。

 

◇

 

医療区画へ向かう廊下は、戻ってきた時より騒がしくなっていた。

 

止まっていた警報の代わりに人の声が飛び交っている。侵入者の残党への対応と負傷者の搬送が続き、その間を船外から戻り始めた部隊が行き来していた。

 

誰も全体を把握できていない。

 

俺はアーミヤを抱いたまま、その間を進んだ。

 

途中で何度も顔を見る。

 

息はしている。それだけを確認して歩いた。

 

「セラスティア!」

 

見覚えのある兵士が駆けてくる。

 

「外の部隊が戻り始めてる。撤退だ」

 

「撤退?」

 

「ああ。このまま残れば軍事委員会に囲まれる」

 

朝はあれだけの人数が外へ出た。

 

皆、カズデルを取り戻せると思っていた。

 

俺もそう思っていた。

 

それが、数時間も経たないうちに終わった。

 

「分かった」

 

それ以上は聞かなかった。

 

今聞いたところで、何も変わらない。

 

医療区画へ着くと、すぐにアーミヤを預ける。

 

「お願いします」

 

「任せて」

 

寝台へ移された小さな身体から手が離れた。

 

急に両腕が空く。

 

戻ろう。テレジアのところへ。

 

扉へ向かったところで、廊下の向こうから走ってくる足音が聞こえた。

 

知っている足音だった。

 

「セラスティア」

 

アスカロン。

 

服の端が裂け、頬に血が付いている。

 

本人のものかどうかは分からない。

 

「アスカロン」

 

彼女は俺を見ると、そのまま医療区画へ視線を向けた。

 

「アーミヤは?」

 

「今預けてきた」

 

「ドクターは?」

 

「運ばれてる」

 

そこで言葉が止まった。

 

「……テレジア殿下は」

 

答えられなかった。

 

それだけで伝わった。

 

アスカロンの表情が消える。

 

長い沈黙のあと、目を伏せた。

 

「間に合わなかった」

 

何も返せない。

 

胸の奥が痛んだ。

 

「お前は違う。最初から船にいなかっただろ。任務だったんだ。戻れなかっただけだ」

 

アスカロンがこちらを見る。

 

「俺はいたんだ」

 

止められなかった。

 

「朝からずっと船にいた。テレジアの近くにいて、最後まで残るはずだった」

 

それでも、あの時はテレジアのそばにいなかった。

 

アスカロンは何も言わない。

 

「俺は……」

 

続きが出てこなかった。

 

俺が悪い。

 

そう言えたら楽だった。

 

けれど、それを言えば、助けた人たちのことまで間違いだったことになる。

 

テレジアは俺を送り出した。

 

俺はあの子たちを置いてこなかった。

 

それでもテレジアは死んだ。

 

どちらも本当だった。

 

「……ごめん」

 

誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。

 

アスカロンはしばらく俺を見ていた。

 

「でも、お前は――」

 

「分かっている」

 

静かに遮られる。

 

「お前とは違う。だが、守れなかったことに変わりはない」

 

それだけだった。

 

俺も何も返せなかった。

 

アスカロンが廊下の奥を見る。

 

「殿下のところへ行く」

 

俺も黙って歩き出した。

 

◇

 

部屋へ戻ると、ドクターの姿はもうなかった。

 

テレジアだけが、まだそこにいた。

 

入口には何人かの医療班がいて、身体を別の区画へ移す準備を進めている。

 

アスカロンは部屋へ入ると、足を止めた。

 

何も言わず、一歩ずつテレジアのそばまで行く。

 

そして、静かに膝をついた。

 

「……戻りました、殿下」

 

返事はない。

 

アスカロンはしばらく顔を上げなかった。

 

任務へ出る前、戻ってくることが当たり前だった頃と、同じ言葉なのかもしれない。

 

けれど今は、それを聞いてくれる人がいない。

 

やがて、アスカロンの通信機が鳴った。

 

『機動層で侵入者を確認!まだ残っている!』

 

アスカロンが目を開く。

 

ゆっくりと立ち上がり、一度だけテレジアを見る。

 

「行く」

 

「俺も行く」

 

部屋の外へ出る。

 

その時、廊下の向こうでも負傷者を求める声が上がり、入口にいた医療班の何人かがそちらへ駆けていった。

 

残った一人が俺たちを見る。

 

「ここは任せて」

 

頷いた。

 

今はまだ、やることが残っている。

 

それに、今は一人になりたくなかった。

 

◇

 

怒鳴り声が響いたのは、それから少ししてだった。

 

「アスカロン!」

 

二人で振り返る。

 

Wがいた。

 

息を切らし、服には泥と血が付いている。

 

普段の余裕はどこにもなかった。

 

「……W」

 

アスカロンが名前を呼ぶ。

 

Wはそのまま歩み寄ってきた。

 

「Scoutが言ってたこと、本当なの?」

 

アスカロンは答えない。

 

「ねえ!テレジア殿下はどこ?」

 

「今は殿下のところへ行くべきではない」

 

Wの足が止まった。

 

「は?」

 

「まだ船内は安全ではない。侵入者を排除する」

 

「そんなこと聞いてない」

 

「W」

 

「殿下はどこって聞いてるのよ」

 

アスカロンの声は変わらない。

 

「まず船を掃討する。まだ侵入経路が残っている可能性がある」

 

Wの顔から表情が消えた。

 

次の瞬間、アスカロンの襟元を掴んだ。

 

「ふざけないで」

 

「……」

 

「死んだって言うなら、自分の目で見る」

 

アスカロンはWの手を振り払わなかった。

 

「今はお前の役目を果たせ」

 

「役目?」

 

「ここまで残ったものまで失いたくないなら」

 

Wの指が震える。

 

「あんたたち」

 

掴んでいた手が離れた。

 

「本当に、役に立たないわね」

 

笑おうとしたように見えた。

 

でも、笑えていなかった。

 

「何で信じたんだろ」

 

そのまま踵を返す。

 

「W!」

 

アスカロンが呼ぶ。

 

止まらない。

 

行き先は分かっていた。

 

テレジアの部屋。

 

俺も後を追おうとした。

 

けれど一歩目が出なかった。

 

◇

 

しばらくして戻ってきたWの顔を見て、何があったのか分かった。

 

さっきまでの怒りとは違う。

 

何もない。

 

そんな顔だった。

 

アスカロンが静かに聞く。

 

「見たか」

 

Wは答えなかった。

 

唇だけが動く。

 

「血しかなかった」

 

拳が握られる。

 

「誰もいない。血と、知らない足跡だけ」

 

胸の奥が冷えた。

 

さっきまで、確かにそこにいた。

 

医療班が移す準備をしていたはずだった。

 

「最後くらい」

 

Wの声が震えた。

 

「一回くらい……」

 

そこで言葉が途切れる。

 

Wが顔を上げた。

 

視線が俺に止まる。

 

「……あんた」

 

Wがゆっくり近づいてくる。

 

「あんた、ここに残ってたわよね」

 

「……ああ」

 

「殿下の近くに」

 

「いたよ」

 

次の瞬間、胸ぐらを掴まれた。

 

「じゃあ、何で?」

 

答えられない。

 

「あんたが殿下の横にいるなら――」

 

指に力が入る。

 

「あたし、信じたのよ」

 

覚えている。

 

訓練場で、俺を一度だけ殺したと笑ったあと。

 

あの時も、似たようなことを言っていた。

 

喉の奥が詰まった。

 

「……ごめん」

 

Wの顔が歪む。

 

「謝ってほしいんじゃない!」

 

強く引かれる。

 

「何でいなかったのよ!」

 

答えようと思えば理由はあった。

 

ドクターに命じられ、テレジアに送り出され、その先には助けを待っている人たちがいた。

 

全部、本当のことだった。

 

だとしても、今それを口にしたくなかった。

 

「黙ってないで、何か言いなさいよ!理由があったって言いなさいよ!」

 

頬に衝撃が走った。

 

視界が横へ流れる。

 

一歩よろけて、壁へ手をついた。

 

殴られたのだと気づくまで、少し時間がかかった。

 

「W」

 

アスカロンが動く。

 

俺は手を上げて止めた。

 

「いい」

 

「セラスティア」

 

「大丈夫だから」

 

口の中に血の味がした。

 

Wを見る。

 

肩で息をしていた。

 

殴った本人の方が、泣きそうな顔をしている。

 

「あんたなら」

 

声が掠れる。

 

「あんたなら守れると思ってた」

 

何も返せない。

 

「殿下のそばにいたんでしょ?」

 

「……」

 

「ずっと、いたんでしょ?」

 

胸ぐらを掴む手が震える。

 

「あたしより近くにいたじゃない」

 

その通りだった。

 

「なのに」

 

Wの声が小さくなる。

 

「最後にいないのよ」

 

言葉が胸に刺さった。

 

俺自身、何度も同じことを考えている。

 

朝からずっと近くにいたのに、最後だけいなかった。

 

「次は逃げないって言ったわよね」

 

「……逃げてない」

 

ようやく出たのは、それだけだった。

 

Wの目が見開かれる。

 

「じゃあ何よ」

 

また声が震える。

 

「じゃあ、何だったのよ」

 

答えは喉まで来ていた。

 

それでも出さなかった。

 

テレジアに送り出されたから。

 

そんな言葉を今ここで使いたくなかった。

 

Wの手から力が抜ける。

 

「……最低」

 

胸ぐらが離れる。

 

俺に向けたのか、自分に向けたのか、それともここにいる全員へなのか分からなかった。

 

Wは俯いたまま、一歩離れる。

 

「今は」

 

一度、声が途切れた。

 

「今はあんたの顔、見たくない」

 

そのまま歩いていった。

 

アスカロンも止めなかった。

 

俺も追わなかった。

 

口元の血を袖で拭う。

 

痛みはほとんど気にならなかった。

 

少しして、アスカロンが口を開く。

 

「遺体の件は私が確認する」

 

「……うん」

 

それ以上、何も言えなかった。

 

◇

 

撤退準備は止まらなかった。

 

外へ出ていた部隊が次々と帰ってくる。

 

怪我人を抱えた者もいれば、朝より明らかに人数の減った班や、武器を失って戻ってくる奴もいた。

 

皆、朝とはまるで違う顔をしていた。

 

誰も勝ったとは言わない。

 

カズデルを取り戻すという言葉も、もう聞こえなかった。

 

俺は戻ってきた人間の収容を手伝った。

 

担架を運び、崩れた隔壁を動かし、残っていた侵入者を追い返す。頼まれたことなら何でもやった。

 

次に何をすればいいのか、自分で考えたくなかった。

 

何かを考えれば、結局テレジアのことに行き着く。

 

「セラスティア」

 

ケルシーが来た。

 

袖に血が付いている。

 

「アーミヤは?」

 

「容体は安定している」

 

「ドクターは?」

 

一瞬だけ間があった。

 

「反応はない。だが、生きている」

 

「そう」

 

生きている。

 

その言葉だけが妙に引っかかった。

 

「テレジアは?」

 

ケルシーの顔を見る。

 

今度はすぐに答えなかった。

 

「……まだ見つかっていない」

 

「やっぱり、誰かが?」

 

「その可能性が高い。移送の準備を進めていたが、その後の混乱で姿を消した。自力で動けるはずがない」

 

胸の奥が冷たくなる。

 

「誰が」

 

「まだ分からない」

 

「じゃあ探す」

 

即座に言った。

 

「駄目だ」

 

「何で」

 

「軍事委員会側の戦力がこちらへ集まり始めている。この船も、戻ってきた部隊も、すでに消耗している」

 

「俺一人なら行ける」

 

「認めない」

 

「まだ何も――」

 

「何をするつもりかは分かる」

 

「なら行かせてよ!」

 

声が大きくなる。

 

「俺なら追える。どこに連れていかれたのか探すくらい――」

 

「その間に包囲が完成する」

 

「じゃあ俺だけ残る」

 

「認めない」

 

即答だった。

 

「何で!」

 

「お前まで失うために撤退するわけではない」

 

「でも、テレジアが連れていかれたんだろ」

 

ケルシーの顔が僅かに強張った。

 

「そうだ」

 

「テレジアだぞ」

 

「ああ」

 

「分かってる?」

 

「分かっている!」

 

初めて声が強くなった。

 

周囲が静まる。

 

ケルシー自身も気づいたようだった。

 

一度目を閉じる。

 

それから、いつもの声へ戻した。

 

「……分かっている」

 

俺は何も言えない。

 

「私も追いたい」

 

ケルシーが続ける。

 

「今すぐにでも探しに行きたい。ここから持ち出されたままにしていいはずがない。そんなことは私にも分かっている」

 

「だったら」

 

「だが、残っている人間を全員ここで死なせるわけにはいかない」

 

息が詰まった。

 

「テレジアなら」

 

そこまで聞いて。

 

「言わないで」

 

ケルシーが黙る。

 

「それは、分かってるから」

 

テレジアなら、生きている人間を優先する。

 

考えるまでもない。

 

だからこそ、それが一番嫌だった。

 

「……分かった」

 

声が掠れた。

 

ケルシーはしばらく俺を見ていた。

 

「追跡は諦めない」

 

顔を上げる。

 

「撤退しても探す。必ずだ」

 

「……うん」

 

「すまない」

 

返事はできなかった。

 

◇

 

船が動き始めた。

 

いつもなら気にも留めない振動が、今日は足の裏からはっきり伝わってくる。

 

カズデルから離れていく。

 

八年前にも、一度この街を離れた。

 

あの時は少し先にテレジアがいて、アスカロンも、周りにはバベルの皆がいた。

 

俺は自分で前へ進んだ。

 

今日だって、アスカロンもケルシーも、アーミヤもドクターも、そして俺も戻ってきた。

 

一人だけいない。

 

どこにいるのかさえ、もう分からない。

 

窓の向こうで、カズデルが少しずつ遠くなる。

 

テレジアがどこへ連れていかれたのかも分からないまま、俺たちだけがここから離れていく。

 

その事実だけが、どうしても受け入れられなかった。

 

◇

 

気づけば、自分の部屋の前にいた。

 

どうやってここまで来たのか、あまり覚えていない。

 

扉を開けても、何も変わっていなかった。

 

机も椅子もベッドも、出る前と何一つ変わっていない。

 

当たり前だ。

 

ここでは何も起きていない。

 

中へ入って扉を閉めると、人の声が遠くなった。

 

ようやく、誰の声も聞こえなくなる。

 

椅子へ座ろうとして、やめた。

 

机の上の本が目に入り、手に取った。

 

いつものページを開くと、そこには昔テレジアが押し花にしてくれた夏雪草が挟まっている。

 

『押し花にしてみたの』

 

そう言って笑っていた顔まで、まだ覚えている。

 

指先で持ち上げる。

 

乾いた花びらは薄く、少し力を入れただけで壊れそうだった。

 

あの日から、ずっと持っていた。

 

二人でまた夏雪草を探しに行こうと話した。

 

今度は、普通に咲いている花を。

 

まだ行っていない。

 

花びらの端が少し曲がっている。

 

直そうとして、指を止めた。

 

触れば壊れそうだった。

 

結局、何もできない。

 

握り潰すことも、本へ戻すこともできないまま、テレジアがくれた押し花を手のひらに載せて床へ座り込んだ。

 

守れなかった。

 

誰かに言われるまでもなく、分かっていた。

 

あの人たちを助けたことを後悔したくない。

 

それでも、あの時戻っていればと考えるのも止められない。

 

どちらか一つなら、まだ楽だった。

 

俺は間違っていなかった。

 

俺が守れなかった。

 

その二つが、どうしても一つにならなかった。

 

「俺は、どうしたらよかったんだよ……テレジア」

 

返事はない。

 

手のひらを見る。

 

押し花は、テレジアがくれた時と同じ形でそこにあった。

 

ただ、そのまま座っていた。

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