「どうして守ってくれなかったの?」
テレジアが俺を見ていた。
見慣れた顔だった。穏やかな目も、少し困ったように下がった眉も、何も変わらない。
なのに、その口から出てくる言葉だけが違った。
「俺は……」
声が出ない。
言わなければいけないことは、いくつもあった。
助けを待っている人たちがいた。
俺はちゃんと助けた。
全員連れて帰った。
それなのに、どれ一つ口から出てこなかった。
「どうして私を置いていったの?」
「違う」
ようやく声が出る。
「置いていったんじゃない」
「でも、あなたはいなかったでしょう?」
何も返せなかった。
テレジアが一歩近づく。
「どうして連れて帰ってくれなかったの?」
胸が痛んだ。
「待って」
手を伸ばす。
届かない。
一歩進んでも、距離が縮まらない。
「テレジア」
彼女が遠ざかる。
「待ってくれ」
また手を伸ばした。
「テレジア!」
目を開けた。
息ができなかった。
何度か浅く息を吸って、ようやく自分がどこにいるのか分かる。
暗い部屋。
自分の部屋だった。
ベッドへ行く前に眠ってしまったらしい。床に座ったまま、背中をベッドへ預けている。
机の上には開いた本があり、その横に夏雪草の押し花が置かれていた。
「……」
夢だった。
そんなことは分かっている。
あれはテレジアじゃない。
本物のテレジアなら、あんなことは言わない。
「……そんなこと、言わないだろ」
声にしても、誰も答えなかった。
どうして守ってくれなかったの。
どうして私を置いていったの。
どうして連れて帰ってくれなかったの。
夢の中の声だけが残っている。
あれはテレジアの言葉じゃない。
俺が自分で自分を責めて、それをテレジアの声で聞いただけだ。
分かっている。
それでも、もう一度目を閉じる気にはなれなかった。
眠ったら、また会うかもしれない。
あんなテレジアに。
俺はそのまま、朝まで起きていた。
◇
テレジアが死んでから、どれくらい経ったのか。
考えようとして、やめた。
窓の外が明るくなり、暗くなって、また明るくなる。それだけで時間が過ぎていった。
一度眠ってからは、まともに眠っていない。
身体は重い。目を閉じれば眠れると思うのに、あの夢を思い出すと閉じられなかった。
最後に見たテレジアよりも、ずっと前の姿ばかりが頭に浮かぶ。
笑っている顔。
困ったように俺を見る顔。
名前を呼ぶ声。
『いってらっしゃい、セラスティア』
最後に聞いたその言葉だけは、どうしても消えなかった。
俺は帰った。
頼まれた人たちも守った。
瓦礫の下にいた人たちを置いて戻ればよかったとは思えない。俺が残ったから生きている人がいることも分かっている。
なのに、帰る場所にテレジアはいなかった。
二つとも本当なのが、一番苦しかった。
扉が叩かれる。
返事はしなかった。
もう一度、少し強く音がする。
「セラスティア」
ケルシーの声だった。
俺は動かなかった。
「いるのは分かっている。開けろ」
鍵は掛けてある。
誰とも話したくなかった。
今、誰かに何かを言われても、まともに返せる気がしない。
しばらくすると、扉の向こうが静かになった。
帰ったのかと思った直後、小さく金属の動く音がした。
鍵が外れる。
顔を上げた時には、扉が開いていた。
ケルシーが立っている。
片手には盆を持っていた。
湯気の残るスープとパン。それに水。
「……何しに来たの?」
自分でも驚くほど、声に力がなかった。
「食事を持ってきた」
ケルシーはそれだけ答えて部屋へ入り、机の上へ盆を置いた。
押し花のすぐ隣だった。
「食べろ」
「いらない」
「食欲があるかどうかは聞いていない」
いつもの言い方だった。
普段なら何か返していたと思う。
今日は言葉が出なかった。
ケルシーの視線が俺の顔から手へ移り、それから部屋の中を一度見回す。
「最後に食事を取ったのはいつだ」
「覚えてない」
「水は」
「分からない」
「最後にまともに眠ったのは?」
少し黙ってから答える。
「……寝たよ」
「どれくらいだ」
「分からない」
「それ以降は?」
答えなかった。
それだけで察したらしい。
「悪夢か」
顔を上げる。
「……何で分かるの」
「今のお前を見れば分かる」
ケルシーはそれ以上問い詰めず、少し離れた椅子へ座った。
食事を持ってきただけなら、もう帰ってもいいはずなのに。
部屋が静かになる。
その静けさが嫌だった。
テレジアがいなくなってから、何も聞こえない場所にいると、本当にあいつの声がどこにもないことを思い知らされる。
「……みんなは?」
俺から口を開いた。
「動いている。負傷者の治療、人員の確認、物資の整理。これから決めなければならないことも多い」
「そう」
「だが、お前が今すぐそこへ加わる必要はない」
少し意外だった。
「……いいの?」
「ああ。食事を取れ。水を飲め。眠れないなら横になれ。今のお前に必要なのは、何かを決めることではない」
「何も決めなくていいの?」
「今はな」
短い返事だった。
何も決めなくていい。
その言葉を聞いて、ほんの少しだけ身体から力が抜けた。
けれど、明日になればどうする。
その次は。
以前なら、そこにテレジアがいた。
テレジアがいるから。
テレジアがそう言うから。
それで済ませていた。
でも、ずっとそれでは駄目だということも、もう分かっている。
バベルに残ったのは自分で決めた。
あの日、助けを求める人たちのところに残ったのも、最後には自分で選んだ。
少しずつでも、自分で選べるようになっていたはずだった。
なのに、その先を今は何一つ考えられない。
「……夢に」
自分でも、どうして口にしたのか分からなかった。
ケルシーは何も言わず待つ。
「テレジアが出てきた」
声が掠れた。
「何で守ってくれなかったのって言われた。置いていったって。何で連れて帰ってくれなかったんだって」
夢の中の声が蘇る。
「だから、寝たくない」
しばらくして、ケルシーが静かに言った。
「それはテレジアではない」
分かっている。
何度も自分に言った。
それでも、他の誰かから言われた瞬間、胸の奥に張り付いていたものが少しだけ動いた。
「……うん」
「あいつがお前にそんな言葉を残した事実もない」
「分かってる」
「なら、その夢をテレジアの言葉にするな」
俯く。
「俺も、そう思ってる」
ケルシーが僅かに目を細める。
「テレジアなら、あの人たちを助けたことを責めない」
自分の口で言った。
「それくらいは分かる。だから、あれが本物じゃないことも分かってる。それでも、眠ったらまた同じ声が聞こえる気がするんだ」
ケルシーは無理に否定しなかった。
「ああ」
それだけだった。
眠れとも言わない。
立ち上がり、机の上の盆を見る。
「食事は置いていく。今日中に少しでも口にしろ」
「……分かった」
今度は命令かどうか聞かなかった。
ケルシーが扉へ向かう。
その背中を見ていると、声を掛けたくなった。
行かないで。
もう少しここにいて。
そんな言葉が喉まで来る。
今、一人になるのは怖かった。
その気持ちまで嘘にするつもりはない。
ただ、それを理由にケルシーをここへ縛りつけたら、また誰か一人に自分の全部を預けるところへ戻ってしまう気がした。
言わずにいると、扉の前でケルシーが足を止めた。
「セラスティア」
「何?」
「また様子を見に来る」
振り返らないまま言った。
「……うん」
扉が閉まる。
また静かになった。
机の上には、押し花と食事が並んでいる。
しばらく眺めてから立ち上がった。
ケルシーに言われたからかもしれない。
それでも、スープへ手を伸ばしたのは自分だった。
一口だけ飲む。
味は、ほとんど分からなかった。
◇
ケルシーは机の上の書類へ目を落としていた。
文字は読めるし、内容も理解できる。それでも、同じ行を何度読み返しても頭に残らなかった。
書類を置くと、先ほど見たセラスティアの顔が浮かぶ。
泣いてはいなかった。
怒っても、誰かを責めてもいなかった。
その方が危うく見えた。
ただ、以前の彼とまったく同じではない。
救助した人間について、セラスティアは一度も「助けなければよかった」と言わなかった。
テレジアを守れなかった自分を責めても、自分が救った命まで否定しようとはしていない。
かつてなら、テレジアを失ったという結果だけで、自分の選択まで否定していたかもしれない。
今は、間違っていなかったことと守れなかったことを、どちらも抱えている。
苦しいだろう。
それでも、以前のように自分の選択そのものまで否定してはいなかった。
扉が叩かれた。
顔を上げる。
「入れ」
扉が開いた。
セラスティアだった。
先ほどより顔色が良くなったわけではない。目の下の影も消えていない。
それでも、自分の足でここまで来た。
「……少し、いい?」
「ああ」
中へ入り、扉を閉める。
すぐには座らなかった。
何度か口を開きかけてはやめ、やがて名前を呼ぶ。
「ケルシー」
「何だ」
「俺は……」
そこで止まった。
握られた拳を見る。
「俺は、これからどうすればいい?」
ケルシーの呼吸が、一瞬だけ止まった。
頭の奥に、あまりにも醜い考えが浮かんだ。
テレジアはいない。
今なら、自分を必要としてくれるのではないか。
これまでテレジアだけがいた場所へ、自分が入れるのではないか。
ほんの一瞬、それでも確かにそう思った。
次の瞬間には、自分自身に吐き気がした。
目の前の男は、最も大切な人間を失ったばかりだ。
その傷口を見て、自分の居場所を探した。
机の下で手を握る。
爪が掌へ食い込んだ。
沈黙を別の意味に取ったらしい。
「……分からないなら、それでもいい」
「違う」
思ったより強い声になった。
セラスティアが顔を上げる。
今ここで、言葉を間違えるわけにはいかない。
「私はテレジアではない」
セラスティアの目が揺れた。
「……分かってる」
「それは分かっている。だが、お前は今、自分で進む先が見えない。その答えを私に求めている」
黙った。
「私がここに残れと言えば、残るのか」
少し考えてから返事が来る。
「任務なら従う。今までもそうしてきた」
「それ以外は?」
視線が落ちた。
「……分からない」
以前なら、もっと簡単に誰かへ答えを預けていたのだろう。
だが、今のセラスティアは続けた。
「俺だって、全部誰かに決めてもらうのが駄目なのは前より分かってる。バベルに残るって決めたのも俺だし、あの人たちを助けるって決めたのも、最後は俺だった」
「……ああ」
「助けたことを間違いだったとは思ってない」
声が震える。
「思いたくない、じゃない。間違いじゃなかったと思ってる」
言葉が途切れた。
「でも、テレジアは死んだ」
ケルシーは答えなかった。
「自分で選んだ結果が、これだった」
「セラスティア」
「分かってるよ。俺が救助に行ったからテレジアが死んだなんて、そんな単純な話じゃないことくらい」
顔が上がる。
「でも、じゃあ次はどう選べばいい?」
「また自分で決めて、また誰かを失ったらって思うと……怖いんだ」
声が掠れる。
「少しだけ、誰かに決めてもらえたら楽だと思った」
ケルシーは否定しなかった。
「そうだろうな」
セラスティアが顔を上げる。
「だが、それでも私は選ばない」
「……」
「お前の人生を、私が決めることはできない。決めるべきでもない」
「……うん」
「お前はもう、自分で選び始めている。あの日もそうだ」
セラスティアの目が僅かに動く。
「テレジアに言われたからだけではない。助けを求める人間を置いていかないと、お前自身が決めた」
その目を見る。
「その選択まで私に渡すな」
胸の奥が痛んだ。
それでも続ける。
「テレジアに預けていたものを、今度は私へ預けるな」
静かな部屋に声が残った。
「私はお前に生きていてほしい。傷を放置すれば治療する。食事を取らなければ持っていく。眠れないなら身体を休ませろと言う。任務で必要なら指示もする」
セラスティアは黙って聞いている。
「必要なら何度でもここへ来い。それを拒むつもりもない」
そこで言葉を切る。
「だが、お前が何のために生きるのかまで、私に決めさせるな」
セラスティアの指が僅かに震えた。
「私は、テレジアの代わりにはならない」
それはセラスティアだけへ向けた言葉ではなかった。
自分にも言っている。
彼が自分を必要とするなら、その場所へ手を伸ばしたいと一瞬でも思ってしまった。
だからこそ、ならない。
なってはいけない。
「……じゃあ」
少しして、セラスティアが口を開く。
「今は、どうすればいい?」
さっきとは違う問いだった。
これからの人生全部ではない。
この一日をどうすればいいのか。
ケルシーは答えた。
「分からなくていい」
「……え?」
「その先の答えは、今出す必要がない。明日までに生きる理由を決める必要もない。テレジアが死んだことを納得する必要もない。前を向けとも言わない」
一度言葉を切る。
「ただし、死ぬな」
セラスティアをまっすぐ見る。
「食べろ。水を飲め。眠れなくても身体を休ませろ」
「……」
「今日を終えろ」
長い沈黙のあと、セラスティアが小さく息を吐いた。
「……それなら、できるかもしれない」
「ああ」
「今夜も眠れないかもしれないけど」
「無理に眠る必要はない。ただし横にはなれ」
「またあの夢を見たら」
ケルシーは少しだけ黙った。
「それでも、あれはテレジアではない」
セラスティアが目を伏せる。
「……うん」
「何度見ても同じだ」
「分かってる」
先ほどより、少しだけ力のある返事だった。
セラスティアが扉へ向かう。
「戻るよ」
「ああ」
扉へ手をかけたところで、一度止まった。
「食事」
「何だ」
「少しだけ食べた」
ケルシーはしばらく答えなかった。
「……そうか」
「味は分からなかったけど」
「それでもいい」
セラスティアが小さく頷く。
「残りも……戻ったら、もう少し食べる」
命令を待たなかった。
ケルシーは僅かに目を細める。
「ああ」
扉が開く。
閉じる直前、セラスティアが一度だけ振り返った。
「ケルシー」
「何だ」
「明日のことは、明日考えるよ」
「ああ」
それだけだった。
扉が閉まる。
◇
廊下へ出ても、足は重いままだった。
ケルシーと話したからといって、何かが急に楽になったわけではない。
これから何をするのか。
テレジアを探すのか。
バベルに残るのか。
その先で何を守るのか。
何一つ決まっていない。
また自分で選ばなければならない。それは、やっぱり怖かった。
「……怖いよ」
誰もいない廊下で、小さく声が漏れた。
分かったから平気になるわけじゃない。怖さまでなくなったわけでもない。
『その選択まで私に渡すな』
ケルシーの言葉が残っている。
『今日を終えろ』
今は、それでいい。
それ以上先のことを考えれば、また足が止まりそうだった。
しばらく歩いて、自分の部屋へ戻る。
扉の前で立ち止まった。
中には誰もいない。
さっきまでと同じ部屋だ。
机の上にはケルシーが持ってきた食事と、夏雪草の押し花が残っている。
一人になるのは、まだ怖かった。
それでも扉を開ける。
部屋の中は暗い。
廊下から差し込んだ細い明かりが、机の上を照らしている。
押し花が見えた。
テレジアが作って、俺にくれた花。
何年も持ち続けてきた。
これからも持っていたいと思う。
テレジアがいなくても生きていくことと、テレジアを忘れることは、たぶん違う。
今は、それくらいしか分からない。
部屋へ入り、後ろ手に扉を閉めた。
静かになった。
やっぱり嫌だった。
何も聞こえない。
もう二度と、あの声で名前を呼ばれることもない。
「いってらっしゃい」と送り出されることも。
帰った時に迎えてもらうこともない。
分かっている。
それくらい、もう分かっている。
だからこそ、聞こえるはずがなかった。
「おかえりなさい」