「おかえりなさい」
身体が動かなかった。
聞き間違えるはずがない。
何度も聞いてきた声だった。
任務から戻った時。
部屋へ帰った時。
何でもない一日の終わりに。
ずっと俺を迎えてくれた声。
もう二度と聞けないと思っていた。
ゆっくり振り返る。
机のそばに、誰かが立っていた。
淡い髪。長い角。見慣れた服。
そして、俺を見つめるあの穏やかな目。
「……テレジア?」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥が痛くなった。
彼女が小さく笑う。
「ええ」
その声を聞いた途端、息の仕方が分からなくなった。
一歩、近づこうとする。
足に力が入らない。
もういないと思っていた。二度と会えないと思っていた。
声も、顔も、俺を見る目も、全部あの日で終わったはずだった。
なのに、目の前にいる。
「……本当に?」
自分でも情けないくらい、声が震えた。
テレジアは答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
頭の中では、あの夢が何度も蘇っている。
どうして守ってくれなかったの。
どうして置いていったの。
どうして連れて帰ってくれなかったの。
同じ顔。
同じ声。
だからこそ、信じることができなかった。
「……違う」
テレジアの表情が僅かに変わる。
「セラスティア?」
「また俺が見てるんだろ」
声にすると、少しだけ現実に戻った。
「今度は起きたまま見えてるだけだ。だって、お前は……」
続きが喉につかえる。
それでも言わなければならなかった。
「死んだ」
口にした瞬間、目の前にいるテレジアの姿がひどく遠く感じた。
彼女は否定しなかった。
目を伏せる。
「ええ」
短い返事だった。
「私は死んだわ」
分かっていた。
分かっていたはずなのに、本人の口から聞くのは耐えられなかった。
視界が滲む。
「じゃあ……何で」
テレジアも困ったように自分の手を見る。
「私にも分からないの」
「分からない?」
「ええ。気がついた時には、自分がどこにいるのかも分からなかったわ。ただ、あなたの声だけがとても遠くから聞こえていて……今こうして話せている理由も、まだ分からないの」
そんなの。
俺が作った幻なら、何とでも言える。
知らないと言わせることだってできる。
俺に都合のいいテレジアを、頭の中で作っているだけかもしれない。
その考えが顔に出ていたのだろう。
テレジアが静かに言った。
「信じられない?」
「……分からない」
嘘はつけなかった。
「夢にもお前が出てきた」
テレジアは黙って聞いている。
「俺を責めてた。どうして守らなかったのかって。置いていったって。連れて帰ってくれなかったって」
「そう」
「でも、あれはお前じゃないって分かってる」
そこまでは自分で言えた。
「ケルシーにも言われた。本物のお前なら、そんなこと言わないって」
テレジアは僅かに目を細めた。
「だから今のお前も、俺が見たいように見てるだけかもしれない」
言い切ると、部屋が静かになった。
テレジアはしばらく俺を見ていた。
やがて、寂しそうに笑う。
「そうね。今の私には、それを否定する方法がないわ」
「それに」と、テレジアは続ける。
「私たちしか知らない昔の話をしたところで、あなた自身が覚えているのでしょう?」
その通りだった。
押し花のこと。
子供の頃のこと。
テレシスと三人で過ごした時間。
何を聞いても、俺の中に答えがある。
「だから、今すぐ信じなくてもいいわ」
「信じたいよ」
考えるより先に言葉が出た。
テレジアが目を見開く。
「信じたいに決まってるだろ」
喉が痛かった。
「だって、会いたかった」
声が崩れる。
「ずっと」
死んでから、まだ何日も経っていない。
それなのに、何年も会っていなかったような気がした。
もう二度と会えないと思った時間が、それだけ長く感じられた。
「帰ってきても返事がなくて」
あの日の光景が浮かぶ。
冷たくなり始めた指。
血。
返ってこなかった声。
「俺、ただいまって言ったんだ」
テレジアの表情が揺れる。
「聞こえないって分かってたのに。それでも言った」
涙が頬を伝った。
拭う気にはなれなかった。
テレジアの手が上がる。
何度もそうしてくれた昔のように、俺の頬へ向かって指先が伸びた。
けれど、触れるはずだった場所で、その指は何の抵抗もなく頬をすり抜ける。
テレジアの手が止まった。
「……」
彼女は自分の指先を見る。
それから俺の頬へ視線を戻した。
さっきまで浮かんでいた微笑みが消えていた。
どうしようもなく悲しそうな顔だった。
俺も何も言えなかった。
今まで目の前に立っているだけなら、まだどこかで昔と同じテレジアだと思えていた。
でも、今の一瞬だけは違った。
彼女自身も、もう触れられないことを知ってしまった。
「もう、おかえりって言ってもらえないと思ってた」
ようやく声を出す。
テレジアはゆっくり手を下ろした。
「だから」
息を整えようとして、失敗する。
「今、お前が本物かどうかも分からないのに」
笑おうとして、できなかった。
「それでも、嬉しいんだ」
死んだ人間を前に、こんなことを言っていいのか分からない。
「幽霊でも何でもいいって、今は思ってる」
テレジアの目が僅かに潤んだように見えた。
「セラスティア」
名前を呼ばれる。
その声だけで、また胸が痛んだ。
「……会いたかった」
もう一度言う。
今度は、ちゃんと言えた。
テレジアが俯く。
「私もよ」
小さな声だった。
「私も、あなたに会いたかった」
張り詰めていたものが切れた。
一歩近づく。
今度は足が動いた。
さっき彼女の指が俺の頬をすり抜けたのを見た。
それでも、自分の手なら何か違うかもしれないと、そんな馬鹿なことを思った。
指先をテレジアの手へ伸ばす。
触れるはずだった。
何もなかった。
そのまま通り抜ける。
反射的に手を引いた。
感触がない。
温度もない。
柔らかさも、何も。
「……触れないんだな」
声が震える。
テレジアが自分の手を見る。
「そうみたいね」
「抱きしめることも?」
テレジアは答えなかった。
答えなくても分かった。
俺は手を握る。
「そっか」
会えた。でも、生き返ったわけじゃない。
目の前にいても、もう触れられない。
あの日の前には戻れない。
その現実が、遅れて押し寄せてきた。
「……本当に死んだんだな」
「ええ」
テレジアは誤魔化さなかった。
「俺、帰ってきたんだよ」
「ええ」
「ちゃんと全員助けた。誰も置いてこなかった」
「ええ」
「……でも、お前はいなかった」
その先が出なかった。
テレジアの顔が滲む。
「俺がもっと早く戻ってたら」
「セラスティア」
「あと少しだけ早かったらって、ずっと考えてる」
「それは分からないわ」
優しい声だった。
だからこそ止まった。
「あなたが戻っていれば何が変わったのか、私にも分からない。あなたがいたら助かったとも、何も変わらなかったとも言えないわ」
テレジアが俺を見る。
「起きなかったことの答えを、私たちは知ることができないもの」
「……」
「だから私は、その答えをあなたに渡せない」
また、答えをくれない。
ケルシーも。
テレジアも。
今の俺が一番欲しいものを、誰もくれなかった。
「……みんな、そればっかりだ」
「そうね」
「俺はまだ分からないんだよ」
声が大きくなる。
「助けたことは間違ってなかったと思ってる。でも、お前は死んだ」
テレジアは黙っている。
「どっちも本当なのに、どうしたらいいのか分からない」
昨日、返事のない押し花に聞いた言葉だった。
今度はテレジア本人の姿を見ながら聞いている。
長い沈黙があった。
「分からないわ」
返ってきたのは、それだった。
「……テレジアまで?」
「ええ」
テレジアは目を逸らさない。
「私は、あなたがあの人たちを助けたことを間違いだとは思わない。でも、それであなたの苦しみがなくなるとも思っていないわ」
胸が強く痛む。
「私が『あなたは正しかった』と言えば、それで全部終わる?」
答えられなかった。
終わらない。
たぶん、何度言われても俺はあの時戻っていればと考える。
「でしょう?」
テレジアの声は穏やかだった。
「なら、私があなたのために答えを作ってはいけないわ」
ケルシーの言葉が蘇る。
その選択まで私に渡すな。
目の前のテレジアも、同じ場所から俺を見ている。
「前なら、お前にそう言われたら、それで終わってた気がする」
テレジアがいるから。
テレジアが言うから。
それだけでよかった。
「今は、違うの?」
「分からない」
少し考える。
「でも、お前が間違ってないって言ってくれても、自分で考えないと駄目なんだと思う」
口にすると怖かった。
自分で選ぶことも、その結果を背負うことも、まだ怖い。
「……そう」
テレジアが微笑んだ。
嬉しそうに見えた。
「何で笑うんだよ」
「嬉しかったから」
「俺、今かなり困ってるんだけど」
「ええ。分かっているわ」
その笑顔は、いつものように穏やかだった。
でも、どこか泣きそうにも見えた。
「ずっと、そうなってほしいと思っていたの」
胸が詰まった。
「私がいるからではなくて。私がそう言うからでもなくて」
テレジアが言葉を選ぶ。
「あなた自身が、ここにいたいと思ってほしかった」
昔、聞いたことがある。
似たような言葉を。
その時は、全部は分からなかった。
今も分かったとは言えない。
「でも」
テレジアが続ける。
「だからといって、私のことを全部置いていってほしいわけではないのよ」
顔を上げる。
「……どういう意味?」
「そのままの意味よ」
テレジアの視線が机へ向く。
押し花。
子供の頃、彼女が作ってくれた夏雪草。
「まだ持っていてくれたのね」
「当たり前だろ」
反射的に答える。
「ずっと持ってた。お前にもらったものだから」
彼女の顔から、一瞬だけ笑みが消えた。
代わりに、どうしようもなく優しい表情になる。
「……ありがとう」
「何でお前が礼を言うんだよ」
「嬉しいからよ」
その言葉を聞いて、また泣きそうになった。
生きていた時なら、照れて誤魔化していたかもしれない。
今はそんな余裕がなかった。
「捨てられるわけないだろ。お前がいなくなったからって」
言葉が止まる。
テレジアがいなくなっても、残っているものがある。
押し花も、思い出も、俺が選んできたものも残っている。
今は、それくらいしか分からない。
その時、テレジアの輪郭がほんの僅かに揺れた。
「……?」
目を凝らす。
一瞬だけ薄くなったように見えた。
「テレジア?」
思わず声が強くなる。
「大丈夫」
「消えるの?」
「分からないわ」
「待って」
机の押し花へ手を伸ばす。
壊さないように、そっと持ち上げる。
その瞬間、テレジアの姿が戻った。
さっきより輪郭がはっきりして見える。
「……これ?」
押し花を見る。
テレジアも同じものを見ていた。
「たぶん」
「これがあるから、お前がここに?」
「まだ分からないわ。でも、何か関係はありそうね」
手の中の花を見る。
昔、テレジアが押し花にして俺にくれたもの。
ずっと持ち続けてきた花が、今また俺たちの間にある。
「……なくさなくてよかった」
思わず呟く。
「ずっと大切にしてくれていたのね」
「ああ」
「そんなに?」
「そんなにだよ」
今度は迷わなかった。
テレジアが柔らかく笑う。
その笑顔を見られるだけで、胸が痛いのに嬉しかった。
「……いつからいたの?」
「分からないの」
「死んだ時から?」
「いいえ」
すぐに返ってきた。
「少なくとも、ずっとあなたのそばにいたわけではないわ」
「じゃあ」
「気づいた時には、とても遠くからあなたを感じていたの」
「俺を?」
「ええ。でも、私が呼んでも、あなたには届かなかった」
テレジアが押し花を見る。
「さっき、やっと届いたの」
「さっきって」
「あなたが、この部屋へ帰ってきた時」
胸が鳴る。
だから、最初の言葉が。
「おかえりなさい、だったの?」
「ええ」
当然のように頷く。
「約束したでしょう?」
春の日、肩を並べて座って、俺が帰るたびに何度でも「おかえりなさい」と言えるようにしようと話した。
「……覚えてるんだ」
「忘れると思った?」
「だって」
死んだのに。
その言葉は飲み込んだ。
テレジアは、俺が何を言いかけたのか分かったらしい。
「少なくとも、私は全部を忘れてしまったわけではないみたい」
その声には、彼女自身の戸惑いも混じっていた。
何が残っていて、どうしてここにいて、いつまでいられるのか。何一つ分からない。
それでも、今はいる。
「セラスティア」
名前を呼ばれる。
「何?」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
胸が痛んだ。
あの日、返事のない身体へ言った。
ただいま。
今度は、ちゃんとこちらを見てくれている。
声が返ってくる。
それでも、この人は生きていない。
全部元に戻ったわけじゃない。
触れることもできない。
それでも、もう一度会えた。
「……ただいま」
声が震えた。
テレジアが笑う。
「ええ。おかえりなさい」
その瞬間、我慢できなくなった。
顔を俯ける。
涙が落ちる。
「……ずっと、それが聞きたかった」
「ええ」
「帰ってきた時に」
「ええ」
「お前に言ってほしかった」
テレジアは黙って聞いている。
さっき頬へ伸ばされた手を思い出した。
今はもう、慰めるように触れることもできない。
そのことが余計に悲しかった。
「聞けた」
自分で涙を拭う。
「もう二度と聞けないと思ってたのに」
目の前を見る。
いる。
本当にテレジアなのか、まだ分からない。どうしてここにいるのかも、いつまでいられるのかも分からない。
「……会えてよかった」
言葉にすると、胸の奥が少しだけほどけた。
テレジアの目も僅かに潤んでいた。
「私も」
小さく答える。
「会えてよかったわ」
◇
どれくらいそうしていたのか分からない。
俺はベッドへ腰を下ろしていた。
テレジアは机のそばにいる。
座ろうとしたけれど、椅子には触れられなかった。
その事実を見るたびに胸は痛む。
それでも、声が聞こえる。
姿も見える。
今は、それだけで十分だと思いたかった。
机の上には食事が残っている。
「ケルシーが持ってきたの?」
「ああ」
「食べた?」
「少し」
テレジアが食事を見る。
「残っているわね」
「食べるよ」
言われる前に答えた。
テレジアがこちらを見る。
「今、私が言おうとしたから?」
「違う」
少し考える。
「戻ったら、もう少し食べるって決めてた」
「そう」
それだけだった。
褒めるでもない。
食べなさいと命じるでもない。
その方がよかった。
パンを少しちぎり、口に入れる。
まだ味は薄い。
それでも、さっきより飲み込めた。
水も飲む。
テレジアは何も言わず見ていた。
「……ずっといる?」
口にしてから、後悔した。
テレジアはすぐには答えなかった。
「分からないわ」
やっぱり。
「消えるかもしれない?」
「そうかもしれない」
押し花を握る手に力が入りそうになって、止める。
壊したくない。
これが何かに繋がっているのなら、なおさら。
「怖い?」
テレジアに聞かれた。
「……ああ」
嘘をつく意味はなかった。
「またいなくなるのが怖い。さっきまで、もう二度と会えないと思ってたんだ」
テレジアを見る。
「一回諦めたものが戻ってきたら、今度は失うのが前より怖くなった」
「そうね」
「でも、だからってずっと起きて見張ってるのも違うんだろ」
テレジアが僅かに目を細める。
「ええ」
「ケルシーにも身体を休めろって言われた」
「なら、なおさらね」
「……分かってる」
ベッドを見る。
身体は限界だった。
眠るのはまだ怖い。
またあの夢を見るかもしれない。
目を閉じて、次に開けた時にはテレジアがいないかもしれない。
「ここにいるとは約束できないわ」
胸が痛む。
「今の私には、自分がどうなっているのかさえ分からないもの」
「……うん」
「それでも眠らない?」
少し考える。
消えるまで見ていたい気持ちはあった。
それでも、俺はベッドを見た。身体はもう限界だった。
「寝るよ」
答える。
テレジアが少し驚いた顔をした。
「怖いけど」
机へ近づき、押し花を開いた本の上へそっと戻す。
壊れていないことを確かめてから、本ごとベッドのすぐそばへ置いた。
手放すのは少し怖かった。
それでも、握ったまま眠る方がずっと怖い。
久しぶりにベッドへ身体を預ける。
「会えたから」
テレジアを見る。
「だから、今度はちゃんと寝る」
彼女はしばらく俺を見ていた。
「そう」
その声が優しかった。
目を閉じようとして、もう一度だけ見る。
まだ、いる。
「テレジア」
「何?」
「もし起きた時、いなくても」
言葉が止まる。
怖い。
それでも続けた。
「……探すから」
テレジアが僅かに目を見開いた。
「私を?」
「ああ」
ベッドのそばに置いた押し花を見る。
「どうしてここにいるのかも。これが何なのかも、自分で探す」
テレジアはしばらく何も言わなかった。
それから、とても静かに笑った。
「ええ」
怖さは消えていない。
起きた時には、テレジアがいなくなっているかもしれない。
それでも俺は今度こそ、自分から目を閉じた。