第25話 そこにいる
目を覚ましたものの、しばらくは自分が眠っていたことに気づかなかった。
身体はまだ重く、頭の奥にも鈍い眠気が残っている。それでも、何日も眠れずにいた時とは違った。
ちゃんと眠った。
そこまで考えたところで昨夜のことを思い出し、俺は勢いよく身体を起こした。
「テレジア」
「おはよう、セラスティア」
すぐに声が返ってくる。
ベッドのそばには昨日と同じ姿のテレジアが立っていて、その姿を認めた瞬間、身体から力が抜けた。
「……よかった」
思わず漏れた言葉に、テレジアは何も聞き返さず、ただ穏やかにこちらを見ている。
起きた時にいなかったらどうしようと、眠る前はずっと考えていた。自分から目を閉じると決めたくせに最後まで怖かったが、それでも眠って、朝になっても彼女はまだいる。
それだけで、昨日より呼吸がしやすかった。
ベッドのそばに置いた本を見ると、開いたページには夏雪草の押し花もそのまま残っていた。
「消えてなくて安心した」
「花が?」
「両方」
答えると、テレジアの目元がわずかに和らいだ。何か言われるかと思ったけれど、彼女はそのまま窓の方へ視線を移す。
「外はもう明るいわ。思っていたより、よく眠っていたみたいね」
「途中で起きた記憶がない」
「身体が限界だったのでしょう」
「ずっと起きてたからな」
「それを自慢するように言わないの」
叱るというほど強い声ではなかった。生きていた頃にも何度か聞いた言い方で、それだけで懐かしくなる。
昨日までは、こんなやり取りが二度とできないと思っていた。廊下ですれ違って話すことも、隣に座ることも、俺が無茶をしてテレジアに心配されることも、全部終わったと思っていたのに、今は死んだはずの彼女から以前と変わらない声で小言を言われている。
おかしな話だった。
「……何だか変だな」
テレジアが不思議そうにこちらを見る。
「昨日まで、もう一回話せるなら何でもいいと思ってたのに」
身体を起こしながら続ける。
「こうして普通に話してると、本当に死んだのか分からなくなる」
テレジアはすぐには答えず、やがて自分の手へ目を落とした。
「触れられないことだけは、はっきりしているけれどね」
胸の奥が痛んだ。昨日、伸ばした手はそのまま彼女をすり抜けた。
それでも今朝は、昨日ほどその事実に押し潰されなかった。
「今は話せるだけでもいいよ」
テレジアが意外そうにこちらを見る。
「欲を言えば触りたいけど、それは今考えても仕方ないだろ」
「……そうね」
俺自身も、こんなふうに言えるとは思っていなかった。
昨日までは失ったものばかり考えていたし、今も失ったものが戻ったとは思っていない。テレジアは死んでいて、触れないし、いつ消えるのかも分からない。
それでも、今あるものまでないことにする必要はない。
そんなふうに思えた。
ベッドから足を下ろすと、机の上には昨日の食事が残っていた。スープは完全に冷え、パンも半分ほど残っている。
テレジアがそちらを見た。
「それはさすがに、新しいものをもらった方がいいと思うわ」
「パンくらいなら平気じゃないか?」
「今のあなたにお腹を壊される方が困るもの」
「幽霊になってもそこは変わらないんだな」
「心配する必要がなくなったわけではないもの」
あっさり返され、俺は笑った。泣きながら再会した時には、こんなふうに笑えるとは思わなかった。
テレジアが黙って俺を見る。その視線には気づいたけれど、何も言わない。
たぶん、俺が笑ったことを見ていたのだと思う。それ以上触れられない方が、今はありがたかった。
水を飲むと、昨日より味が分かった。腹も減っていて、身体が生きようとしている。
そんな当たり前のことに気づく。
「そういえば、お前って今、腹は減らないの?」
コップを置きながら尋ねる。
「今のところは何も感じないわ。眠気もないし、疲れている感じもしないの」
「便利そうだけど、羨ましいとは言いづらいな」
「ようやく気づいたのね」
「昨日はまだ余裕なかったから」
「それは知っているわ」
その言葉には、昨日の俺を責める響きはなく、ただ事実として受け止めているだけだった。
それからしばらく、俺たちは今のテレジアについて分かっていることを話した。
物には触れず、食事も必要ない。眠気や疲労も感じないらしい。俺には姿が見えて声も聞こえ、押し花が何らかの形で関係しているようだった。
それ以上は何も分からない。
「他の人にはどうなんだろうな」
「試してみなければ分からないわね」
「誰か来たら聞いてみるか」
そう言った直後に扉が叩かれ、二人ともそちらを見る。
「ちょうど来たな」
昨日、また様子を見に来ると言っていた。扉の向こうから聞こえてきたのは、予想どおりの声だった。
「セラスティア。起きているか」
「ああ。今開ける」
立ち上がる。
昨日とは違う。今日は自分から扉へ向かい、鍵を開けた。
そこには食事を載せた盆を持ったケルシーが立っていて、俺を見るなり視線を顔から全身へ動かした。
「眠れたようだな」
「ああ。久しぶりにちゃんと寝た」
「そうか」
ほんのわずかに肩の力が抜けたように見えた。
身を引いて、ケルシーを部屋へ通す。テレジアは机の近くに立ったまま、こちらを見ていた。
ケルシーは押し花の載った本を避けるように、少し離れた位置へ盆を置く。
「昨日より食欲はあるか」
「ある。ちょうど何かもらいに行こうと思ってた」
「なら、これを食べろ」
「助かる」
椅子へ腰を下ろしたが、ケルシーはすぐには帰らず、俺の様子を確かめるようにその場に立っていた。
「……まだ何かある?」
「扉の前で、お前の声が聞こえた」
「ああ」
そういえば普通に話していた。特に隠す理由もない。
「テレジアと話してたんだ」
ケルシーの動きが止まり、何を言われたのか理解するまでわずかに間があった。
「昨日、部屋に戻ったらいたんだ」
机の方を見ると、テレジアもケルシーを見ている。
「今もそこにいる」
俺の視線を追って、ケルシーが振り向く。
そこには机と本、その上の押し花がある。そして俺には、そのすぐそばに立つテレジアの姿も見えている。
けれど、ケルシーの目は彼女を捉えなかった。
「……私には、誰も見えない」
一瞬、息が詰まった。
テレジアへ視線を戻すと、彼女は驚いた様子こそあったものの、取り乱してはいなかった。
「……ケルシー」
静かに名前を呼ぶ。
けれどケルシーは反応せず、テレジアもしばらく彼女を見たあとで俺へ視線を戻した。
「やっぱり俺にしか見えてないみたいだ」
「そのようね」
「声も聞こえてない」
テレジアが静かに頷いた。
俺が向き直ると、ケルシーはまだ机のそばを見ていた。
「昨日、お前は悪夢について話していた」
何を考えているのかは分かった。
「あれとは違う」
「そう判断した根拠はあるのか」
責める声音ではなかった。医師として、それ以上に俺を心配する人間として聞いている。
「本物だって証明できるものは、まだない」
昨日、テレジア本人とも話した。俺たちしか知らない記憶を聞いても、それは俺自身が覚えている以上、証拠にはならない。
「俺も最初は、また自分で作った幻なんじゃないかって思った」
「今は?」
「信じたいと思ってる」
テレジアを見る。
「少なくとも、悪夢に出てきたあいつとは違う」
ケルシーが黙ったので、俺はそのまま続けた。
「昨日、お前のところから戻った後だった。部屋に入ったら『おかえりなさい』って声がして、振り返ったらいた」
ケルシーの瞳が僅かに揺れる。
「それから消えていないのか」
「一度だけ姿が薄くなった。でも押し花を持ったら戻った」
本を手に取り、挟んである花を見せる。
「だから、これが関係してるんじゃないかと思ってる」
ケルシーは押し花を見たまま、長い沈黙のあとでさらに確認した。
「テレジアに触れることは」
「できなかった。あのまま通り抜けた」
手を伸ばした時のことを思い出す。
「他に、頭痛や眩暈、吐き気はあるか。視界そのものに異常を感じることは?」
「ない。昨日より身体はずっと楽だよ」
額へ伸びてきた手を避けずに受け入れる。
温かい。
昨夜、テレジアに触れられなかった時とは違う、当たり前の感触だった。
「熱もない」
ケルシーが手を下ろす。
「食事も取る。水も飲む。今日は無理に仕事へ戻ろうとは思ってない」
言われる前に続けると、ケルシーが俺を見る。
「昨日言われたことは覚えてるよ」
今日を終えろ。
その先は、自分で決められる時に決めればいい。
忘れてはいない。
「……そうか」
短い返事だったが、俺には安心したようにも聞こえた。
それでも、ケルシーの表情は晴れない。
テレジアを見ると、彼女も同じことを感じているらしい。
「心配してるんだろうな」
「当然でしょうね。彼女からすれば、私はここにいないのだから」
「確かに」
そこでケルシーが反応した。
「今も話しているのか」
「ああ」
机のそばを示す。
「お前から見れば、一人で喋ってるようにしか見えないんだろうけど」
ケルシーは何も答えなかったが、その沈黙で十分だった。
「テレジアも、無理に信じてもらわなくていいって言ってる。俺もそう思う。まだ何も分かってないし」
押し花を見る。
「だから、今すぐ信じろとは言わないよ」
ケルシーが意外そうに俺を見る。
以前の俺なら、テレジアがいると言えばいる、それだけで押し通そうとしていたかもしれない。
今は、自分に見えるものを他人にも同じように信じろとは言えなかった。
「調べられることは調べたいと思ってる」
「その花も含めてか」
「ああ。ただ、壊したりはしたくない」
「それは当然だ」
即答だったので、思わずケルシーを見る。
彼女はそれ以上押し花には触れず、代わりに俺をもう一度見た。
「現時点で、お前自身に明確な身体異常はない。だが、しばらく様子は見る」
「分かった」
「テレジアが見えることについても、今は結論を出さない」
「それでいい」
張っていた空気がわずかに緩んだ気がした。
ただ、ケルシーの目は最後まで俺の隣には向かなかった。見えないのだから当然だと分かっていても、妙な感じがする。
生きていた頃、テレジアとケルシーが同じ部屋にいれば、二人が互いを無視することなんてほとんどなかった。
今は数歩しか離れていないのに、片方にしか相手が見えていない。
「……変な感じだな」
思わず漏れたが、ケルシーには説明しなかった。
テレジアも何も言わず、ただケルシーを見ている。
しばらくして、ケルシーが扉へ向かった。
「やるべきことが残っている。今日はここまでだ」
「ああ」
「食事は残すなとは言わない。だが、食べられるだけは食べろ」
「分かってる」
「また来る」
扉へ手を掛けたところで、俺は呼び止めた。
「ケルシー」
彼女が振り返る。
「俺、大丈夫だよ」
何を根拠に言うんだと返されるかと思ったし、今の自分が完全に大丈夫だとも思っていない。
「昨日よりは」
そう付け加えてから続ける。
「ちゃんと眠れたし、腹も減った。これからのことはまだ何も分からないけど、今すぐ全部決めようとは思ってない」
テレジアを見ると、ケルシーも俺の視線の先を追った。
そこには、俺にだけ見えるテレジアがいる。
「……分かった」
それだけ言って、ケルシーは部屋を出ていった。
扉が閉まったあともしばらくそのまま見送る。
「やっぱり心配させたかな」
「当然でしょうね。私がケルシーの立場でも、同じように考えたと思うわ」
「俺がおかしくなったって?」
「可能性としては考えるでしょう」
それは否定できなかった。
昨日まで悪夢に怯えていた人間が、次の日になって死んだ相手と話していると言い出したのだから、俺だって逆の立場なら心配する。
「そのうち何か分かればいいけど」
「焦る必要はないわ」
「そうだな」
昨日から分からないことばかりだったが、今すぐ全部に答えを出す必要はない。その考え方にも、だんだん慣れてきた。
机へ戻り、ケルシーが持ってきた食事からパンを取る。
「食べるのね」
「腹減ったから」
今度はテレジアに言われたからではない。
一口かじると、昨日よりずっと味がした。
◇
扉が閉まったあとも、ケルシーはすぐには歩き出せなかった。
背後にはセラスティアの部屋があり、厚い扉一枚を隔てた向こうから彼の声が聞こえてくる。
誰かへ話しかけ、間を置いて、また言葉を返している。
返事は一度も聞こえない。
先ほどまで自分も同じ部屋にいて、何度も確かめた。机のそばにも、窓際にも、ベッドの近くにも、ケルシーには誰の姿も見えなかった。
そこにあったのは一冊の本と一輪の押し花、そして何もない空間へ自然に視線を向けながら話すセラスティアだけだった。
扉の向こうから小さな笑い声が聞こえ、ケルシーは目を閉じる。
昨日の彼を思い出した。
食事を取らず、眠ることもできず、テレジアの姿をした悪夢に責められたと話していた。その後、自分の部屋を訪れ、これからどうすればいいのかと聞き、誰かに決めてもらえた方が楽なのだと口にした。
自分はそれを拒んだ。
『私はテレジアではない』
『テレジアの代わりにはならない』
必要な言葉だったし、今でもそう思っている。
自分が彼の人生を決めれば、テレジアへ預けていたものを今度は自分へ移すだけになる。セラスティア自身が選び始めているのなら、それを奪ってはいけない。
その判断は間違っていないはずだった。
だが、彼が語るテレジアが現れたのは、その直後だ。
『部屋に戻ったら、おかえりなさいって声がして』
その言葉を聞いた時、身体の芯が冷えた。
おかえりなさい。
あまりにも、セラスティアが聞きたかったはずの言葉だった。
彼は帰ってきた時、返事のないテレジアへ「ただいま」と告げている。もう二度と返らないはずだった言葉を、自分に拒まれた直後に聞いたという。
考えたくはなかった。それでも、その可能性を無視することはできない。
もっと違う言葉を選ぶべきだったのかもしれない。代わりにはならないと伝えるにしても、あのまま一人で部屋へ帰す必要はなかった。もう少し長く、そばにいればよかったのではないか。
自分が拒んだことで、セラスティアは最後に縋れる相手まで失った。
その先で、聞きたかった声と会いたかった姿、それにテレジアなら言いそうな言葉まで、彼自身の記憶から拾い上げて作り出したのだとしたら。
ケルシーは壁へ視線を落とす。
否定したいが、そのための根拠は何もなかった。
扉の向こうから再び声が聞こえ、やがてセラスティアが笑った。
テレジアが死んでから、初めて聞いた笑い声だった。
昨日までより眠れていて、食欲も戻り始めている。水も飲み、これから先を今すぐ誰かに決めてもらおうともしていない。
医療的に見れば、昨日より状態は良い。本来なら安心するべきだった。
それなのに、ケルシーにはその笑い声がひどく怖かった。
誰もいない場所へ向けられた笑顔だったからだ。
昨日、自分はほんの一瞬だけ、テレジアの空いた場所へ入れるのではないかと思った。
そんな自分を嫌悪して、その場所へ入ることを拒んだ。今でも、その判断そのものを間違いだとは思わない。
けれど、自分の言葉がセラスティアをさらに追い詰めた可能性まで、否定することはできなかった。
守ろうとしていたつもりで、別の何かを壊したのかもしれない。
ケルシーは閉じた扉を見る。
中では、またセラスティアが誰かに話しかけていた。
返事は聞こえない。
それでも彼には、返事が聞こえているらしい。
胸の奥が締め付けられた。
「私が……壊してしまったのか」