「セラスティア、そろそろ起きた方がいいわ」
目を開ける前から、誰の声かは分かっていた。
薄く目を開くと、ベッドの脇にテレジアがいる。窓から差し込む弱い光の中で、昔と変わらない姿のままこちらを見下ろしていた。
「……あと少し」
「今日は早いのでしょう?」
「分かってる」
返事をしながら目を閉じ直しかけて、諦めた。
こうなるとテレジアは何も言わない。ただそこにいる。それが一番寝づらいことを、この二年余りでよく知っていた。
身体を起こすと、テレジアが満足そうに窓の方へ視線を向ける。
「おはよう、セラスティア」
「おはよう」
あの日、目を覚ましてもテレジアが消えていなかった朝から、二年以上が過ぎた。
結局、今でも分からないことは多い。どうして彼女がここにいるのか、なぜ俺にだけ姿が見えて声が聞こえるのか、あの押し花がどこまで関係しているのか。
調べても、はっきりした答えは出なかった。
分かったことといえば、夏雪草の押し花が何かしらの支えになっているらしいことと、テレジアには物へ触れることができないことくらいだ。
それでも、二年もあれば慣れる。
最初は眠るたび、次に目を開けた時にはいなくなっているのではないかと怖かった。今では、寝坊を注意されることの方が多い。
机へ向かい、薄い保護ケースを手に取った。
中には、ずっと持ち続けてきた夏雪草の押し花がある。
昔のように本へ挟んだまま持ち歩くのはやめた。任務で潰したら洒落にならない。
ケースを服の内側へしまう。
「今日は外へ出るの?」
「いや。今のところは船に残る予定」
「今のところ?」
「朝の会議で変わるかもしれない」
上着を羽織る。
ロドスになってから、任務の種類は増えた。
戦闘だけではない。護衛や救助、偵察、感染者の避難支援。時には、交渉相手が話を聞く気になるまで横に立っているだけということもある。
そして少し前から、俺の所属には一つ肩書きが増えていた。
エリートオペレーター。
最初に聞いた時は断った。名前が変わったところで、やることまで変わるとは思わなかったからだ。
けれどAceに「肩書きじゃなくて責任の話だ」と言われ、ケルシーにも必要だと押し切られた。
結局、受けた。
今では新人の訓練や、現場での判断まで任されることがある。昔なら面倒だと断っていたような仕事も、最近は気づけば引き受けていた。
「似合ってきたわね」
テレジアが言う。
「何が?」
「今のあなた」
鏡の前で襟を整えながら、少し考える。
「昔とそんなに変わってないだろ」
「そうかしら」
「強さもそこまで変わってないし」
「強さの話はしていないわ」
それ以上は説明してくれなかった。
二年経っても、こういうところは変わらない。
部屋を出る。
廊下では、もう多くのオペレーターが動き始めていた。
バベルという名前はなくなった。
今ここにあるのはロドス・アイランド。感染者の治療法を探す製薬会社だ。
もちろん、それだけではない。
武装したオペレーターはいるし、危険地域での救助や護衛も行う。テラを歩く以上、武器を持たずに済むほど世界は優しくなかった。
それでも、昔とは違う。
医療部門へ向かう者がいて、薬品の箱を運ぶ者がいる。食堂の前では朝食を受け取る列ができ、その脇を訓練帰りらしい新人が駆け抜けていった。
こういう光景を見るのは嫌いではなかった。
「セラスティアさん!」
前から聞き慣れた声がした。
書類を抱えたアーミヤがこちらへ歩いてくる。
昔より背は伸びた。それでも大量の書類に隠れそうになっているところを見ると、まだ心配になる。
「おはよう、アーミヤ」
「おはようございます。今日は早いですね」
「俺だって毎日寝坊してるわけじゃないよ」
「昨日、Aceさんが探してましたけど」
「それは起きてた。部屋にいなかっただけ」
「それならいいんですけど……」
妙に納得していない。
アーミヤの隣では、テレジアが静かに笑っていた。当然、その姿はアーミヤには見えていない。
この二年間、俺はテレジアのことを話していない。
ケルシーにさえ見えなかった。それ以上、誰かに信じてもらおうとは思わなかった。
何より、幼い頃からテレジアを慕っていたアーミヤへ、確かなことが何も分からない状態で伝えるのが怖かった。
だから人がいる場所では、テレジアもほとんど俺へ話しかけない。俺もなるべく返事をしない。
いつの間にか、それが二人の習慣になっていた。
「会議ですよね?」
アーミヤが聞く。
「ああ」
「私も向かうところです。一緒に行きましょう」
並んで歩き出す。
テレジアも少し後ろをついてくる。
アーミヤが抱えている資料の上から、一枚の紙がずり落ちそうになった。
手を伸ばして取る。
「持とうか?」
「大丈夫です。これくらいなら」
「一枚落ちかけてたけど」
「……少しだけお願いします」
半分ほど受け取った。
昔なら、そのまま全部持っていたかもしれない。
今のアーミヤには、自分で抱えているものがたくさんある。手伝うことはできても、それを全部横から奪う必要はない。
「今日の作戦、セラスティアさんは参加されるんですか?」
「まだ聞いてない」
「そうなんですね」
アーミヤの歩調がほんの少しだけ落ちる。
今日、アーミヤたちはチェルノボーグへ向かう。目的は、眠り続けているドクターの救出だ。
最後に見たドクターは、何を言っても返事をしなかった。
アーミヤが名前を呼んでも、ケルシーがそばにいても、何も。
その後、ケルシーがチェルノボーグの石棺へ運んだ。
ようやく迎えに行ける。
「不安?」
俺が聞くと、アーミヤは少し考えてから頷いた。
「あります。でも、行きたいです」
それ以上は言わなかった。
俺も止めなかった。
アーミヤ自身が決めたことだ。
「じゃあ、帰ってこいよ」
「はい」
返事はすぐだった。
「必ず帰ってきます」
その言葉を聞いて、胸の奥が痛んだ。
昔なら、必ずなんて言うなと止めていたかもしれない。
けれど今は、その言葉を飲み込めた。
「待ってる」
それだけ言うと、アーミヤは小さく笑った。
◇
作戦室には、すでに何人か集まっていた。
Ace。
Scout。
ドーベルマン。
ケルシー。
他にも現地へ向かう部隊の担当者がいる。
アスカロンはケルシーの少し後ろに立っていた。
目が合う。
「……来たか」
「ああ」
アスカロンは一度だけ頷き、すぐに視線をケルシーへ戻した。
それだけだった。
この二年、俺とアスカロンの関係が悪くなったわけではない。
任務で一緒になれば問題なく動ける。互いの力量も知っているから、戦闘中に余計な確認をする必要もなかった。
けれど、任務以外の話は以前より減った。
二年前、テレジアの亡骸を前にアスカロンは「私も守れなかった」と言った。
俺は、あいつは最初から船にいなかったのだと返した。
それ以来、あの日のことを二人で話したことはない。
避けているのかどうかさえ、互いに確かめていなかった。
昔より言葉が少なくなったアスカロンと、何を話せばいいのか分からない俺。
必要なことなら普通に話せる。
必要ではないことになると、少し難しくなる。
Aceがこちらに気づく。
「来たか」
「ああ」
「てっきり、お前も現地組だと思ってた」
「俺もそう思ってたよ」
「なら同じだな」
Aceが軽く肩を竦めたところで、ケルシーが全員を見る。
会話が止まった。
「始める」
卓上の地図へチェルノボーグ周辺が映し出される。
「目的はこれまで共有した通りだ。チェルノボーグ市内へ入り、石棺に収容されているドクターを回収する」
地図が切り替わる。
都市の移動経路と周辺の天災観測情報、予測される時間が表示された。
「チェルノボーグは間もなくこの地域を離れる可能性が高い。都市がウルサス内陸へ戻れば、次の機会を作ることは極めて難しくなる」
Scoutが地図を見たまま口を開く。
「だから今しかない」
「ああ」
ケルシーが頷く。
「現地での最優先事項はドクターの回収だ。不必要な交戦は避けろ。状況が悪化した場合、任務継続の判断はアーミヤに委ねる」
アーミヤが真っ直ぐケルシーを見る。
「分かりました」
テレジアが少し離れた場所から、そんなアーミヤを見ていた。
この二年で、アーミヤは大きくなった。
身体だけではない。
人の前に立つことも、判断を求められることも増えた。
それでも、無茶をすれば心配になるし、帰ってくるまでは気になる。
たぶん、そこはこれから先も変わらない。
「Ace隊は現地部隊との合流と後方支援。Scoutは先行偵察を担当する」
二人がそれぞれ頷く。
「ドーベルマンはアーミヤ隊と行動しろ」
「了解」
そして、ケルシーの視線が俺へ向いた。
何となく分かった。
「セラスティア」
「うん」
「お前は残れ」
予想していた言葉だった。
作戦室の空気は変わらない。
俺だけが、一瞬だけ昔の光景を思い出した。
ランドシップに残れ。
最後まで見せない。
あの日も、俺は残る側だった。
そのあと助けを求める声が来て、船を離れた。
帰ってきた時には、テレジアはいなかった。
胸の内側に入れた押し花の存在を意識する。
テレジアは何も言わない。
今は、俺が答えるのを待っている。
「理由は?」
聞いたのは、それだけだった。
ケルシーも余計なことは言わない。
「現地へ投入する戦力は十分ではない。だからこそ、全員を出すこともできない」
卓上の表示がランドシップ側へ切り替わる。
「ロドスには負傷者の受け入れと、救出部隊が追跡された場合の防衛戦力が必要だ。予想外の事態が起きた時、即座に動ける戦力も残しておく」
「それが俺?」
「そうだ」
簡潔だった。
それなら分かる。
俺が行けば、現地では戦力になる。多くの敵を倒すこともできるだろう。
けれど、俺がいなくなった船が安全になるわけではない。
どちらにいる方が役に立つのか。
今の情報だけなら、答えは難しくなかった。
「分かった。残るよ」
ケルシーが一瞬だけ黙った。
「不満はないのか」
昔、似たようなことをドクターに聞かれた気がした。
あの時の俺は、必要なんだろ、と答えた。
今も大きくは変わらない。
「行きたいとは思う」
アーミヤを見る。
Aceも、Scoutも。
それから、まだここにはいないドクターのことも。
「でも、俺が行きたいことと、俺が行くべきかは別だろ」
ケルシーの瞳が僅かに細くなる。
「ここで必要なら残る。それでいい」
「……了解した」
それで話は終わった。
胸の奥には、まだ向こうへ行きたい気持ちが残っている。
それでも、不思議と足を動かそうとは思わなかった。
今はここにいる。
それでいいと思えた。
◇
会議が終わると、出発までは早かった。
現地へ向かう部隊が装備を整え、通路を行き交う。
俺は格納区画の入口で、出撃班の最終確認を手伝っていた。
「エリートになったのに留守番か」
Aceが装備を確認しながら言う。
「エリートだから留守番なんだろ」
「言うようになったな」
「お前らが帰ってきた時に船がなかったら困るだろ」
Aceが笑う。
「それもそうだ」
重い盾を持ち上げる。
何度見ても大きい。
「ドクターを頼む」
俺が言うと、Aceは真面目な顔に戻った。
「ああ」
「アーミヤも」
「そっちは本人に言え」
「もう言った」
「なら俺から言うことはないな」
Aceらしかった。
少し離れたところでは、Scoutが自分の部隊と最終確認をしている。
視線が合うと、軽く手を上げられた。
俺も返す。
二年前、あれだけのものを失った。
それでも、残った奴らはここにいる。
バベルではなく、ロドスとして。
「セラスティアさん」
アーミヤが来る。
必要最低限の装備を身につけていた。
さっきまで書類を抱えていた時とは、雰囲気が違う。
「行ってきます」
一瞬、胸が止まりそうになった。
その言葉には、今でも別の記憶が重なる。
それでも、もう目を逸らさなかった。
「ああ」
アーミヤを見る。
「いってらっしゃい」
ちゃんと言えた。
アーミヤが少し笑う。
「はい」
そのまま出撃班へ戻っていった。
隣で、テレジアが静かにアーミヤを見送っている。
「大きくなったわね」
周囲に人がいる。
返事はせず、小さく頷いた。
それだけでテレジアには伝わったらしい。
◇
出撃部隊が船を離れたあと、格納区画は急に静かになった。
残った人員が、それぞれの持ち場へ戻っていく。
俺も防衛区画へ向かった。
途中で、アスカロンが同じ通路へ入ってくる。
隣に並ぶわけでもなく、少し距離を空けて歩いていた。
しばらく会話はなかった。
任務中なら、この沈黙は何とも思わない。必要なことだけ話せばいい。
今は、何となく別の意味があるように感じた。
「……残ることにしたんだな」
先に口を開いたのはアスカロンだった。
「ケルシーに言われた。でも、俺もその方がいいと思ってる」
「ならいい」
それで終わる。
足音だけが続いた。
少しして、俺から聞いた。
「お前も残るんだろ」
「私はここにいる」
簡潔な返事だった。
ケルシーのそばに。
言葉にしなくても、それで意味は通じた。
二年前から、アスカロンは以前よりケルシーの近くにいる。
あの人まで失わせないためなのか、自分が今度こそ守ると決めたのか。
聞いたことはない。
聞けば答えるかもしれない。
それでも俺は、ずっと聞かなかった。
アスカロンも、俺がなぜロドスに残り続けたのか詳しく尋ねてこなかった。
互いに知らないわけではない。
むしろ、知りすぎているのかもしれない。
だからこそ、一番聞きたいところだけが聞けない。
分岐路が近づく。俺は防衛区画へ、アスカロンは別の通路へ向かうことになる。
別れる直前、名前を呼ばれた。
「セラスティア」
足を止める。
アスカロンは数歩先にいた。
すぐには続きが来なかった。
やがて、短く言う。
「……無理はするな」
二年前なら、その言葉をどう受け取っていたか分からない。
今は、心配されているのだとそのまま受け取れた。
「お前もな」
アスカロンは答えず、一度だけ頷く。
そのまま背を向けかけて、また止まった。
「帰還部隊が戻れば、負傷者の搬送が増える。防衛区画を離れる時は連絡しろ」
いつもの仕事の話に戻っていた。
「ああ。分かった」
今度こそ、アスカロンは去っていく。
俺も引き止めなかった。
もう少し何か話せた気もするし、昔ならもっと自然に話せていた気もする。
けれど、今すぐ昔と同じに戻らなければならないわけでもない。
少なくとも、さっきの言葉を聞けただけで十分だった。
途中で人が途切れた。
そこでようやく、テレジアが口を開いた。
「驚いたわ」
「何が?」
「もっと行きたがると思っていたの」
「行きたいよ」
それは否定しない。
「それでも残るのね」
「まあな」
テレジアは小さく笑った。
「そう」
それ以上は言わなかった。
俺も続けなかった。
心配だから一緒にいなければならないわけではない。
そんなことを、わざわざ口にする必要はない気がした。
テレジアは何も褒めない。
ただ、いつものように隣を歩いている。
その方がよかった。
「そういえば」
俺はふと思い出す。
「二年前、お前が戻ってきた時。ケルシー、俺が壊れたと思ってたんだよな」
テレジアが僅かに困ったように笑う。
「無理もないわ」
「今も半分くらい思ってそう」
「それは本人に聞いてみたら?」
「嫌だよ」
即答した。
二年の間、ケルシーは一度もテレジアがいると信じたとは言わなかった。
逆に、もう幻覚だとも言わなくなった。
最初の頃は何度も状態を確認された。
睡眠や食事、頭痛、視界、任務中の判断。
そのうち回数は減った。
俺が普通に任務へ出て、普通に戻り、他のオペレーターと働く。その生活が続き、エリートオペレーターにまでなった頃には、テレジアについて直接聞かれることもほとんどなくなっていた。
信じたわけではないのだと思う。
ただ、以前のように否定もしない。
今は、そのくらいだった。
通信端末が鳴り、足を止める。
作戦情報の更新だった。
画面には、チェルノボーグへの潜入部隊が作戦を開始したと表示されている。
しばらく、その文字を見ていた。
二年以上前、ドクターは俺たちの前からいなくなった。
あの日のことを、俺はまだ全部整理できているわけではない。
それでも、戻ってくるなら話すことはある。
昔と同じには戻れなくても、今の俺と今のドクターで、何かを始めることはできるかもしれない。
「始まった?」
テレジアが聞く。
「ああ」
端末を閉じる。
「アーミヤたちがチェルノボーグに入った」
防衛区画へ向かって、再び歩き始めた。
胸の奥には、向こうへ行きたい気持ちがまだ残っている。
けれど、だからといって足がチェルノボーグへ向くことはなかった。
今日はここにいる。
ここで、帰ってくる奴らを待つ。
そう決めて、俺は防衛区画へ向かった。
チェルノボーグでは、ドクターを連れ戻すための作戦が始まっている。