AceとScoutが、もう戻らないと分かったのは、チェルノボーグからの帰還後だった。
最初は、まだ連絡がないだけだと思っていた。Aceはアーミヤたちを逃がすために残り、Scoutも部隊ごと通信が途絶えている。その時点で分かっていたのはそれだけだったから、俺は待った。
格納区画へ行くたびに、大きな盾が戻ってくるんじゃないかと思った。通信室の前を通れば、Scout隊から今さら連絡が入るんじゃないかと端末を見た。
でも、来なかった。
あとから届いた報告で、ようやく終わった。
Aceも。
Scoutも。
もう帰ってこない。
分かってしまえば、何かが大きく変わると思っていた。
実際には、そんなに分かりやすくは変わらなかった。
廊下を歩けば、向こうからAceが大きな盾を担いで来るような気がする。作戦室の近くを通れば、Scoutが壁際に立って、こちらへ軽く手を上げるような気もした。
朝にはいた。Aceとは話して、ドクターとアーミヤを頼むと言った。あいつはいつもの調子で返した。
Scoutとは言葉すら交わしていない。
目が合って、互いに手を上げただけだった。
また帰ってきた時に話せばいいと思っていたから。
「……ちゃんと、言っとけばよかったかな」
口にしてから、自分でも何を言いたかったのか分からなかった。
いってらっしゃい。
気をつけろ。
帰ってこい。
何でもいい。
最後になると知っていれば、もう少しくらい何か言ったのかもしれない。
隣を歩いていたテレジアがこちらを見る。
「そうかもしれないわね」
慰めるような声ではなかった。
ただ、否定もしなかった。
それでよかった。
「でも、最後になると分かっていたら、きっと誰に対してもそう思うのでしょうね」
少し考える。
「……それもそうか」
「AceもScoutも、あなたが何も思っていなかったとは考えないと思うわ」
「本人たちに聞けないけどな」
「ええ」
テレジアの声が僅かに柔らかくなる。
「だから、残った側は勝手に考えるしかないのかもしれないわね」
「それ結構困るな」
「ふふ。そうね」
二年前にも、大勢を失った。
テレジアも。
今度はAceとScout。
長く生きているからといって、こういうことに慣れるわけではないらしい。
「慣れたくないな」
「私も、慣れてほしくはないわ」
「お前が言うと重いんだけど」
「そう?」
「そうだよ」
テレジアが少しだけ笑った。
たぶん、慣れなくていい。
AceもScoutも、ちゃんとここにいた。
それを忘れなければいい。
そして、ロドスは止まらない。
チェルノボーグから戻って数日後、俺たちは龍門へ向かった。
新しい仕事が始まる。
ロドスだけで完結していた任務とは違う。龍門近衛局と情報を共有し、相手の指揮系統を意識しながら動く必要がある。
正直、面倒だった。
「顔に出ていますよ」
隣を歩いていたアーミヤに言われる。
「何が?」
「面倒だな、って」
「よく分かったな」
「長い付き合いですから」
少し得意そうだった。
その後ろでは、テレジアが楽しそうに笑っている。
「私にも分かったわ」
周囲に人がいる。
当然返事はできない。
代わりに一瞬だけ後ろを見る。
テレジアは、何がおかしいのかまだ笑っていた。
二人から同時に笑われている気がして、少し納得がいかなかった。
それでも、こうして普通に話せる時間があることを、以前より少しだけ大事に思うようになった。
龍門での最初の大きな仕事は、ミーシャという一人の少女を探すことだった。彼女はチェルノボーグから逃げてきたウルサス人の感染者で、龍門近衛局だけでなく、レユニオンまでその行方を追っている。
一人の少女を、いくつもの勢力が探している。
それだけで、面倒事なのは十分分かった。
◇
「セラスティア」
作戦開始前、携帯端末に表示された地図を見ていると、ドクターから名前を呼ばれた。
顔を上げる。
チェルノボーグから帰還して以来、何度か話してはいる。
それでも、昔のような距離ではない。
話す必要があれば話す。
任務なら指示も受ける。
食堂で見かけても、わざわざ隣へ座るほどではない。
今はそれくらいだった。
ドクターが地図の一点を示す。
「君には東側を頼みたい」
「捜索じゃなくて?」
「ああ。アーミヤたちがミーシャを探している間、周辺住民の避難経路を確保してほしい。敵対的な感染者も確認されている」
表示を拡大する。
細い路地と入り組んだ建物が続き、人が逃げるには面倒な場所だった。
「俺をアーミヤのところに置かなくていい?」
「必要になれば呼ぶ」
「それまでは?」
「そちらにいる人たちを頼みたい」
昔のドクターなら、同じ配置にしただろうか。それとも、違う場所へ俺を置いただろうか。
考えかけて、やめる。
目の前にいるのは今のドクターだ。
そして、言われた配置には理由がある。
「分かった」
端末を閉じる。
ドクターが少しだけ俺を見る。
「何だよ」
「もっと理由を聞かれると思っていた」
「聞いたじゃん」
「そうだな」
そこで会話は終わった。
作戦室を出て、人が途切れたところでテレジアが口を開く。
「随分素直だったわね」
「何が?」
「ドクターの指示」
「納得できたから」
「そう」
「昔の俺ならもっと言ってた?」
「昔のあなたなら、アーミヤのところへ行きたいと言ったでしょうね」
否定できない。
「今だって行きたいよ」
「でも、行かない」
「向こうが足りてるならな」
テレジアは嬉しそうに笑った。
昔のドクターだったら、理由を聞く前に動いていた時期もあった。
だからといって、今のドクターに同じ信用を最初から渡すつもりはない。
ただ、納得できるなら動く。
今はそれでいい。
◇
ミーシャが見つかったという報告が入ったのは、それからしばらくしてだった。
俺は避難中の住民を別の通りへ誘導していた。
戦闘はあったが、大きなものではない。
最後の一人を安全な区画へ送り届けたところで端末が鳴る。
『対象を確保しました』
アーミヤの声だった。
「怪我は?」
『私たちは大丈夫です。ミーシャさんも少し疲れていますけど、大きな怪我はありません』
「そっか」
声が少し明るい。
上手く話せたらしい。
『セラスティアさんは?』
「こっちも終わった」
『では、合流できますか?』
「分かった」
指定された場所へ向かう。
合流した時、アーミヤたちの近くに白い髪の少女――ミーシャがいた。警戒しているのが遠目でも分かった。
ロドスの人間から少し距離を取り、周囲を何度も確認している。
無理もない。チェルノボーグから逃げて知らない土地へ来たうえ、今度は龍門近衛局とロドスとレユニオンに探されている。こんな状況で誰を信じればいいのかなんて、俺でも困る。
「セラスティアさん」
アーミヤがこちらに気づく。
ミーシャも俺を見る。
さらに警戒された。
「そんなに怖い?」
「セラスティアさん、初対面ですよ」
「だから聞いたんだけど」
アーミヤが小さく息を吐く。
「こちらはセラスティアさんです。ロドスのオペレーターで……」
少し考える。
「とても強い方です」
「結局それなんだ」
「事実でしょう?」
否定はしない。
横を見ると、テレジアがミーシャをじっと見ている。
「疲れているわね」
小さな声。
「そりゃそうだろ」
危うく普通に返しかけて、口を閉じる。
アーミヤが不思議そうにこちらを見る。
「どうしました?」
「何でもない」
誤魔化す。
ミーシャが俺たちを交互に見る。
ほんの少しだけ、さっきより表情から力が抜けた気がした。
「セラスティア」
俺から名乗る。
ミーシャは少し迷ったあと、小さな声で名乗った。
「……ミーシャ」
「うん。聞いてる」
それ以上、何も聞かなかった。
俺が聞くことではない。
近くに水が置いてある。
一本取って、差し出す。
「いる?」
ミーシャが水を見る。
それから俺を見る。
「……大丈夫なの?」
「水?」
「……何か入ってたり」
「入ってないよ」
隣からアーミヤが口を挟む。
「セラスティアさん、その答え方だと余計に怪しく聞こえます」
「じゃあアーミヤが先に飲む?」
「どうして私が毒見する流れになるんですか?」
「毒入ってないから大丈夫」
「それなら毒見いらないじゃないですか」
後ろでテレジアが笑っている。
「昔から、こういうところは変わらないのね」
返事はできない。
ミーシャも少しだけ困った顔になった。
でも、やがて水を受け取る。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ほんの少し、警戒が薄れた。
それで十分だと思った。
ミーシャが水を飲む姿を、テレジアはしばらく見ていた。
「まだ若いのに」
声は小さい。
「一人でここまで来たのね」
その言葉には返事をしなかった。
ただ、俺も同じ少女を見ていた。
◇
長くは続かなかった。
ミーシャはロドスの手から離れた。
龍門近衛局と行動していたところを、レユニオンに奪われた。
最初に聞いた時、俺はまだ別の区画にいた。
『対象が拉致されました』
通信から聞こえた声に足を止める。
「誰に?」
『現在確認中です。敵はサルカズと思われる女性一名を中心に――』
「一人?」
『はい。ただ、龍門近衛局の増援も足止めされています』
妙な引っかかりがあった。
白い髪のサルカズ。それも一人で龍門近衛局を止めるほどの相手。
でも、そんな条件に当てはまる奴なんて他にもいるかもしれない。
「映像は?」
『現場記録を回収中です』
「分かった。来たら見せて」
通信を切る。
「気になる?」
隣からテレジアが聞く。
「ちょっと」
「心当たりが?」
「……まだ分からない」
「そう」
「お前は?」
「私も同じよ」
テレジアは少し考えるように目を細める。
「でも、一人であそこまで派手に動くサルカズと言われると、思い当たる子がいないわけではないわね」
「やっぱり?」
「ええ。でも、決めつけるのはまだ早いでしょう?」
「俺もそう思ってた」
「なら、映像を待ちましょう」
分からないまま決めつけない。
二人でそう決めて、映像を待つことにした。
◇
その日の夜、回収された映像を見た。
画質はよくなく、距離も遠い。煙も重なっていたが、それでも十分だった。
白い髪。
角。
笑う時の立ち方。
爆発の中を歩く姿。
画面を止める。
「……W?」
名前が口から漏れた。
見間違えるはずがない。
バベルにいた。テレジアの死後、「あんたなら守れると思ってた」と俺に言った女だ。
画面を見つめたまま、声が漏れた。
「何であいつがレユニオンにいるんだよ」
テレジアも止めた映像を見つめていた。
いつもの穏やかな表情ではない。
「……私にも分からないわ」
「お前も?」
「ええ。あの子がバベルを離れてから、私は今のWが何をしてきたのか知らないもの」
そうだった。
俺に見えるテレジアは、何でも知っているわけではない。
テレジアが画面の中のWを見る。
「でも、Wが理由もなく誰かの下につくとは思えないわ」
「俺も」
「昔から、忠誠心だけで動くような子ではなかったでしょう?」
「テレジアには結構忠実だったけどな」
「それは……」
少し困ったように笑う。
「嬉しいけれど、そういう意味ではなくて」
「分かってる」
Wがレユニオンを心から信じて、レユニオンのためだけに戦っている。
そんな姿は、どうしても想像できない。
「何か目的があるのか」
「そうかもしれないわ」
「お前なら何だと思う?」
「分からない」
すぐに返ってきた。
「でも、あの子は自分が大切だと思ったものについて、とても頑固だから」
「知ってる」
だから、テレジアが死んだあと、あんな顔で俺を見た。
「あの日から、まともに話してないんだよな」
「ええ」
「俺も避けてたけど」
「Wも、でしょうね」
「何でお前がそこまで分かるんだよ」
「二人とも分かりやすかったもの」
「嘘だろ」
「本当よ?」
テレジアが小さく笑う。
「追う?」
その問いに画面から目を離す。
追いたい。
話したいことがある。
いや、話したいのかどうかすら分からない。
あの日から、俺とWの間に残ったものは何一つ片付いていない。
でも今追いかけたところで、Wが何をしているのかも、どこへ向かったのかも分からない。
何より、今追っているのは別の相手だ。
「今はいい」
端末を閉じる。
「ミーシャが先だ」
テレジアは俺を見て、穏やかに笑った。
「それでいいと思っただけ」
自分でも、迷わずミーシャを優先できたことが少し意外だった。
Wのことは気になる。
でも、今追っているのはあいつではない。
◇
ミーシャには弟がいた。アレックス――レユニオンでスカルシュレッダーと呼ばれている男だった。
その事実を知った頃には、ロドスと龍門近衛局はすでにレユニオンの追跡へ入っていた。
俺も出た。
ただし、アーミヤやドクターとは別の場所だった。
「弟さん、生きていたのね」
移動しながらテレジアが言う。
「ああ」
「ミーシャは嬉しかったでしょうね」
「たぶんな」
「でも、その弟がレユニオンにいる」
「……ああ」
それだけで、簡単に連れて帰れる話ではなくなった。
「家族が見つかったから良かった、では終わらないわね」
「テラでそんな綺麗に終わる方が珍しいだろ」
言ってから、嫌な言い方だったと思う。
でも、テレジアは怒らなかった。
「そうね」
少し寂しそうに、それだけ答えた。
ドクターから通信が入る。
『北側から増援が入っている』
「確認した」
『君にはそちらを止めてほしい』
「何人?」
『正確には不明だ。ただ、このまま通せば本隊が挟まれる』
地図を見る。
「アーミヤたちは?」
『前進している』
「ミーシャは?」
『まだ確保できていない』
向こうへ行きたい気持ちはあった。
それでも、北側から来る敵を放っておけば、本隊が挟まれて別の誰かが危なくなる。
「分かった。こっちは止める」
『頼む』
通信が切れた。
武器を抜く。
ミーシャのことは気になる。
けれど、今の俺がやるべきことはこっちだ。
前を見る。
「じゃあ行ってくる」
「ええ」
テレジアがいつものように言う。
「いってらっしゃい、セラスティア」
一瞬だけ、昔の記憶が重なった。
でも、今はその言葉を怖いとは思わなかった。
「ああ」
駆け出した。
◇
最初のスカルシュレッダーが倒れたことを知ったのは、そのあとだった。
戦闘中に入った報告は短かった。
スカルシュレッダーがドクターへ接近。
自爆も辞さない攻撃。
アーミヤが阻止。
敵指揮官、重傷。
それだけだった。
全部が終わってから合流する。
先に見えたのはドクター。
無事だった。
次にアーミヤ。
動いていない。
その少し先に、一人の男が倒れている。
近くではレユニオンが撤退を始めていた。
「アーミヤ」
呼ぶ。
肩が小さく動いた。
こちらを見る。
顔色が悪い。
「怪我は?」
「……ありません」
「ドクターは?」
「大丈夫です」
その返事を聞いてから、倒れている男を見る。
説明されなくても、何が起きたのかは分かった。
「私が」
アーミヤの声が震える。
「ドクターを守らないとって……それで」
言葉が続かない。
俺は何も言わず待った。
「後悔はしていません」
ようやく出てきた言葉だった。
「ドクターを守ったことは、後悔してません。でも……」
アーミヤが手を強く握る。
「他に何かできたんじゃないかって」
大丈夫。
仕方なかった。
正しいことをした。
言おうと思えば言える。
でも、俺はその場にいなかった。
その瞬間を見ていない。
何より、今のアーミヤが欲しいのが、その答えなのか分からない。
「分からない」
そう答えた。
アーミヤが俺を見る。
「俺、その時ここにいなかったから」
「……はい」
「だから、正しかったとか間違ってたとか、俺が勝手に決めるのは違うと思う」
アーミヤは俯く。
その肩へ手を置き、少しだけ力を入れる。
「でも、ドクターを守りたかったことまで、否定しなくていいんじゃない?」
長い沈黙のあと、アーミヤが小さく頷いた。
「……はい」
それ以上は言わなかった。
ここはまだ戦場だ。
泣く場所でも、答えを出す場所でもない。
少し離れたところで、テレジアが倒れたスカルシュレッダーを静かに見ていた。
やがて俺の近くまで来る。
「アーミヤ、大丈夫かしら」
小さな声だった。
「分からない」
「そうね」
アーミヤを見る。
「今すぐ大丈夫にならなくてもいいのでしょうね」
「……うん」
「少し前のあなたなら、すぐに何とかしようとしていたかもしれないわ」
「慰めれば楽になると思ってたからな」
「今は?」
「分からないなら、分からないまま横にいるしかないだろ」
テレジアが柔らかく笑う。
「それも、十分だと思うわ」
返事はしなかった。
ただ、アーミヤの肩から手は離さなかった。
◇
翌日、俺は一つの報告を聞いた。
Wが、また現れた。
あいつはロドスと龍門近衛局の前へ姿を見せた。
そして、その後もレユニオン側に残っている。
画面越しに見ただけではない。
もう間違いなかった。
「本当に何してるんだよ」
端末を見ながら呟く。
「さあ」
テレジアも横から画面を見る。
「でも、元気そうではあるわね」
「見るところそこ?」
「大事でしょう?」
「まあ……死んでるよりはいいけど」
「ええ」
安心してしまった自分がいる。
関係が壊れたままでも、生きているならいつか話す機会はある。
「会ったら何を言うの?」
テレジアが聞く。
「分からない」
「怒る?」
「たぶん向こうが先に怒る」
「そうかもしれないわね」
「止めてよ」
「私には触れられないもの」
「そういう問題?」
テレジアが楽しそうに笑う。
「……殴られるかも」
「あなたが?」
「俺が」
「それくらいは受けてもいいのではなくて?」
「ひどくない?」
「冗談よ」
絶対半分くらい本気だ。
端末を閉じる。
「まあいいよ」
「ええ」
「会った時に聞く」
何でレユニオンにいるのか。
何をしているのか。
あの日から、俺のことをどう思っているのか。
聞きたいことは多い。
でも、今じゃない。
「その時は、ちゃんと話せるといいわね」
テレジアが言う。
「……努力する」
「ふふ。十分よ」
◇
その後、ミーシャが再び現れた。
最初に報告を聞いた時、何を言っているのか分からなかった。
「スカルシュレッダー?」
確認する。
『はい』
通信担当が答える。
『レユニオン部隊を率いています。ただ……識別結果が』
「何?」
少しの沈黙。
『ミーシャです』
言葉が出なかった。
弟が死んだ。
そのあと、今度は姉があいつの仮面を被った。
最初に会った時、水を渡すと毒が入っているのかと疑われた。それでもアーミヤと話しているうちに、少しずつ警戒を解いてくれた。
その少女が、今、レユニオンの先頭にいる。
「……ミーシャ」
テレジアが名前を呼ぶ。
「弟さんのあとを継いだのね」
「ああ」
「アーミヤには、辛いでしょうね」
「たぶん」
「あなたも?」
少し考える。
「俺は一回会っただけだから」
「それでも?」
あの水を受け取った時の顔が浮かぶ。
「……嫌ではあるよ」
「ええ」
テレジアはそれ以上聞かなかった。俺は端末へ問いかけた。
「アーミヤは?」
『すでに現地へ向かっています』
「俺も行く」
武器を取る。
その直後、ドクターから通信が入った。
『セラスティア』
「今行く」
『待ってくれ』
足が止まる。
「何?」
『西側からレユニオンの別働隊が回り込んでいる』
表示された地図を見る。
アーミヤたちとは逆方向。
「そっちは他に回せない?」
『難しい』
「俺がミーシャのところへ行けば」
そこまで言って、止まる。
俺が行けば、殺さずに止められるかもしれない。武器を壊して、身体を押さえて、連れ帰る。たぶん、俺ならできる。
『セラスティア』
ドクターの声。
「……分かってる」
目を閉じる。
一人を救いに行けば、その間に別の誰かが死ぬかもしれない。
強いから全部できる。
そんなことはない。
身体は一つしかない。
「西だな」
『ああ』
「行く」
『頼む』
通信が切れる。
しばらく動けずにいた。
テレジアが隣へ来る。
「ミーシャのところへ行きたかった?」
「ああ。俺なら止められるかもしれない」
口にすると、余計に嫌になる。
テレジアが静かに言う。
「でも、あなたが今向かう場所にも、あなたでなければ守れない人がいるのでしょう?」
「……そうだな」
「なら」
それ以上は言わなかった。
俺も要らなかった。
「行ってくる」
「ええ」
テレジアは今度も、同じ言葉で送り出した。
「いってらっしゃい」
走り出す。
胸の奥に、嫌なものが残ったまま。
◇
西側の戦闘が終わった頃、本隊からの通信も止んだ。俺も本隊のもとへ戻ったが、途中で誰にも聞かなくても何となく分かってしまった。
空気が違った。
現場へ着くと、龍門近衛局とロドスの人員、その間にいる負傷者たちが目に入った。誰も勝った顔をしていない。
アーミヤがいた。
立っている。
その視線の先。
地面に、一つの仮面が落ちていた。
足が止まる。
「……ミーシャは?」
アーミヤは答えなかった。
必要なかった。
終わった。
それだけ分かった。
テレジアも仮面を見る。
「……そう」
小さな声だった。
悲しそうだった。
でも、それ以上は何も言わない。
今、一番何かを言うべき相手は俺たちではない。
近づく。
アーミヤの目が赤い。
「帰ろう」
言った。
アーミヤがこちらを見る。
「……はい」
でも、動かない。
急かさなかった。
テレジアも黙って待つ。
少しして、アーミヤが自分から一歩を踏み出した。
俺は隣を歩く。
ドクターもいる。
少し後ろにはテレジア。
昔の並びに、少しだけ似ていた。
でも、何も同じではなかった。
◇
その夜、部屋の扉が叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのはアーミヤだった。
もう制服ではない。
それでも、疲れた顔をしている。
「まだ起きてたんですね」
「まだ寝る時間じゃないだろ」
「そうですね」
笑みを浮かべたが、すぐに消えた。
テレジアがアーミヤを見る。
「来たわね」
返事はしない。
アーミヤがいるから。
でも、たぶん俺も同じことを思っていた。
「どうした?」
アーミヤが少し迷う。
「……少しだけ、ここにいてもいいですか?」
「いいよ」
すぐ答えた。
テレジアも続ける。
「もちろんよ」
胸の奥がふっと温かくなる。
アーミヤが椅子へ向かおうとする。
「そっち?」
「え?」
ベッドの隣を軽く叩く。
「座れば?」
一瞬迷ってから、アーミヤが隣へ腰を下ろした。
昔より大きくなった。
バベルにいた頃とは違う。
ロドスの前に立って、人を動かして、誰かの命について決めるようになった。
それでも、こうして俺の部屋へ来る時くらい、ずっとリーダーでいる必要はない。
「大きくなったわね」
テレジアが呟く。
たぶん、何度見てもそう思うのだろう。
「セラスティアさん」
「うん」
アーミヤは膝の上で手を握る。
「私、ミーシャさんを助けたかったんです」
「うん」
「最初は、全然信じてもらえなくて。でも、少しずつ話してくれて……」
知っている。
「私たちは、あなたを助けたいって言いました」
「うん」
声が震える。
「なのに、何もできませんでした」
違う、と言いかけた。アーミヤはミーシャを探して、守ろうとして、何度も追いかけた。ドクターを守り、最後までミーシャと話そうともしていた。何もしていないわけじゃない。
テレジアも、何か言いたそうにしている。
でも、口を開かなかった。
たぶん、俺と同じことを考えたのだと思う。
全部言ってしまえば、今のアーミヤの気持ちを否定することになる。
「助けたかったんだな」
それだけ言う。
「……はい」
返事は小さかった。
手を伸ばす。
アーミヤの頭へ置く。
耳の間を避けて、ゆっくり髪を撫でる。
アーミヤの身体が僅かに固まった。
「セラスティアさん」
「何?」
「子供扱いしてませんか?」
「してる」
「……してるんですか」
「今くらいいいだろ」
また撫でる。
「外じゃロドスのリーダーなんだから。俺の部屋まで持ってこなくていいよ」
アーミヤは何も言わなかった。
ただ、こちらへ身体を寄せる。
それを見て、テレジアが柔らかく笑った。
「昔と同じね」
小さく呟く。
アーミヤが幼かった頃、不安そうにしていると俺かテレジアのところへ来た。
今は、もう何でも俺たちに任せる子供ではない。
自分で考えて、自分で選ぶ。
だからといって、甘えてはいけない理由にはならない。
「頑張ったわね、アーミヤ」
テレジアの声がする。
「よく頑張ったわ」
アーミヤの目から、一滴だけ涙が落ちた。
その瞬間、テレジアが反射的に手を伸ばす。
アーミヤの頭へ。
俺の手のすぐ近くへ。
けれど、指先は髪をすり抜けた。
テレジアの表情が曇る。
「……まだ、触れられないのね」
本当に小さな声だった。
「昔なら」
テレジアが寂しそうに笑う。
「私のところにも来てくれたのに」
ほかに人はいない。
アーミヤはこちらへ顔を預けたまま、目を伏せている。
俺は小さな声で返した。
「今も来てるようなもんだろ」
テレジアが俺を見る。
「ええ」
それから、もう一度アーミヤを見る。
「そうね」
その顔が穏やかになった。
俺は何も言わず、代わりにもう一度アーミヤの頭を撫でた。
「セラスティアさん」
「何?」
「ロドスがしていることって」
声が小さい。
「本当に正しいんでしょうか」
手を止めない。
すぐには答えなかった。
二百年近く生きても、戦場をいくつ見ても、そんなことは分からない。
「分からない」
正直に言う。
アーミヤが顔を上げる。
「セラスティアさんでも?」
「ああ」
横からテレジアの声がする。
「私にも分からないわ」
その言葉が少しだけ嬉しかった。
俺だけではない。
かつて多くのサルカズを導いたテレジアだって、全部の答えを持っているわけではない。
「……そうですか」
アーミヤが呟く。
ゆっくり撫でる。
「でも、ミーシャを助けたいと思ったことまで、間違いだったことにしなくていいんじゃない?」
アーミヤは黙る。
「救えなかったことと、救いたかったことは別だよ」
「ええ」
テレジアも静かに頷く。
「その気持ちまで否定してしまったら、きっと次に手を伸ばすことまで怖くなってしまうもの」
俺はテレジアを見る。
「……それ、アーミヤに言えたらいいのにな」
小さく言う。
テレジアが少し困ったように笑う。
「そうね」
「何か言いました?」
アーミヤが顔を上げる。
「いや、独り言」
「最近、多いですよね」
少しだけ心臓が跳ねる。
「そう?」
アーミヤはしばらくこちらを見ていたが、それ以上は追及しなかった。
でも、何となく前よりこちらをよく見ている気がした。
テレジアも気づいたらしい。
「……そろそろ、隠すのも難しいかもしれないわね」
返事はしない。
今はまだ。
「何が正しかったのかは、俺には決められない」
アーミヤへ戻る。
「アーミヤの代わりに、これからどうするかを決めることもできない」
「……はい」
アーミヤを見る。
「でも、決めるまで隣にいることくらいならできるよ」
目が少しだけ見開かれる。
横でテレジアが微笑む。
「私もよ、アーミヤ」
それでも、確かにここにいる。
アーミヤはまた顔を伏せた。
「……ずるいです」
「何が?」
「そういうこと言うの」
「駄目だった?」
「駄目じゃないです」
声が少しだけ泣いていた。
「だから、ずるいです」
よく分からない。
でも、怒ってはいないらしい。
「今日はもう仕事やめたら?」
「報告書が残っています」
「明日」
「ケルシー先生に怒られます」
「俺が止めたって言えば?」
「セラスティアさんも一緒に怒られますよ」
「それは嫌だな」
「じゃあ駄目です」
「私も怒られるのかしら」
テレジアが楽しそうに言う。
思わず口元が緩む。
「どうしたんですか?」
「何でもない」
「またですか?」
「また」
アーミヤが少しだけ呆れた顔をする。
でも、その顔にはさっきまでより力が戻っていた。
隣では、テレジアも笑っている。
それでも、今ここには三人いる。
しばらくして、アーミヤがふと顔を上げた。
俺ではなく、俺の少し横を見る。
さっき俺が何度も視線を向けた場所。
そこにはテレジアがいる。
「……セラスティアさん」
「何?」
何かを聞こうとしたように見えた。
テレジアもアーミヤを見る。
一瞬、部屋が静かになる。
「……いえ」
アーミヤは少し迷ってから首を振った。
「何でもありません」
「そう?」
「はい」
また少しだけ身体を寄せてくる。
俺は何も聞かなかった。
テレジアも。
「今は、それでいいわ」
小さく言っただけだった。
そのまま、もう一度アーミヤの頭を撫でる。
テレジアは触れられない代わりに、そのすぐ隣へ座るように腰を下ろした。
その夜、俺たちは答えを出さなかった。
ミーシャを救えなかった理由も。
ロドスが正しいのかも。
アーミヤがこれから何を選ぶのかも。
ただ、助けたかったという気持ちだけは、なかったことにしなかった。