翌日の昼を少し過ぎた頃、俺は部屋にいた。昨日の任務で使った装備はすでに整備へ回してあるし、今日の予定も午後にいくつか確認がある程度だった。珍しく時間が空いた。
「暇そうね」
窓際にいたテレジアが言う。
「暇じゃないよ。休んでる」
「それを暇と言うのではなくて?」
「違う」
「そう?」
絶対分かって言っている。ベッドへ横になろうかと思ったところで、扉が叩かれた。
「どうぞ」
扉が開き、顔を覗かせたのはアーミヤだった。
「失礼します」
「どうした?」
昨日より顔色はいい。それでも、完全に疲れが抜けたようには見えなかった。
「ケルシー先生のところに行ってきたんです」
「怒られた?」
「怒られてません」
間がある。
「……休むようには言われました」
「ほぼ怒られてるじゃん」
「違います」
テレジアが笑う。
「ケルシーらしいわね」
当然、アーミヤには聞こえない。昨日と同じように椅子へ行こうとしたので、ベッドの隣を軽く叩くと、アーミヤがこちらを見た。
「今日もですか?」
「嫌なら椅子でもいいけど」
「嫌とは言ってません」
昨日と同じ場所へ座る。
ただ、昨日とは少し違った。アーミヤは座ってもすぐには話さず、机、窓、棚と部屋の中を見ていき、それから俺の少し横、テレジアがいる場所で視線を止めた。気のせいではない。明らかに見ている。テレジアも気づいたらしく、アーミヤと同じように首を傾げた。もちろん視線は合わない。
「アーミヤ?」
「はい」
返事はした。でも、また俺の横を見る。
「何かある?」
聞くと、アーミヤは迷った。
「……昨日から、聞こうか迷ってたことがあるんです」
嫌な予感がして、テレジアを見る。
「昨日もそうでした」
アーミヤが続ける。
「私と話している時、何度か同じところを見ていましたよね」
「気のせいじゃない?」
「今も見ました」
逃げ道がなかった。テレジアが口元へ手を当てて笑っている。お前のせいでもあるんだからな。
「それに、前からときどきありましたよね」
「何が?」
「誰もいないところを見て、少し間を置いてから返事をしたり。何もないはずの場所を気にしていたり」
思い当たる。完全に隠してきたつもりだったが、二年以上も一緒にいれば、全部を隠し通せるわけではない。俺にとってテレジアと話すことはもう日常になっていて、周りに誰もいないと思って返事をしたり、視線だけ向けたりすることは確かにあった。
「昨日、ここに来て、やっぱり気のせいじゃないのかなって思ったんです」
「……よく見てるな」
「長い付き合いですから」
昨日も聞いた言葉だったが、今度は少し意味が違った。
「セラスティアさん」
アーミヤの声が変わる。怖がっているわけではなく、聞いていいのか迷っているような顔だった。
「誰か、いるんですか?」
すぐには答えられず、テレジアを見る。今度は笑っていなかった。静かに俺を見ている。答えは自分で決めろということだと思う。
「……いるよ」
アーミヤの耳が僅かに動く。
「誰ですか?」
ここまで来たら、誤魔化す方がおかしい。それでも、名前を口にするまで少し時間がかかった。
「テレジア」
アーミヤが固まった。しばらく何も言わない。
「……テレジアさん?」
「ああ」
「ここに?」
「いる」
アーミヤの視線がすぐ俺の隣へ向く。でも少しずれていて、テレジアはもう少し右だ。そのことが妙に苦しかった。
「今も……ですか?」
「今も」
「どこに?」
俺は手で示す。
「そこ」
テレジアはアーミヤの前へ少し移動した。
「もうちょっと左」
アーミヤが顔を動かす。
「そこ」
今度はちゃんとテレジアの方を向いた。見えてはいない。何もない場所を見ているだけだ。それでも、テレジアの表情が変わった。
「アーミヤ」
名前を呼ぶ。届かない。分かっているのに、もう一度呼ぶ。
「アーミヤ」
声が震えていた。俺は黙っていた。アーミヤも、何も見えない場所をずっと見ている。やがて、俺へ顔を戻した。
「いつからですか?」
「あの日のあとから」
テレジアが死んで、俺が目を覚ました時、そこにいた。それ以上は、今ここで説明しなくていい気がした。
「ケルシー先生には話したんですか?」
「話した。でも、ケルシーには見えないし、声も聞こえない。今のところ、見えてるのは俺だけだ」
アーミヤが黙る。
「どうして……?」
俺は首を振った。
「分からない。俺にも、詳しいことは分かってないんだ」
アーミヤはしばらく俺を見ていた。もう少し聞かれると思ったが、それ以上は聞かなかった。
「触れたりは?」
「できない」
アーミヤの表情が曇る。昨日、テレジアの指がアーミヤの髪をすり抜けたのを思い出す。
「……どうして」
アーミヤが小さく言った。
「どうして、教えてくれなかったんですか?」
責めるような声ではなかった。だから余計に答えづらかった。
「最初は、俺自身も信じられなかったから」
「信じられなかった?」
「俺にしか見えないんだぞ。だから、しばらくは誰かに言えるようなことじゃなかった」
それは本当だった。ケルシーにすら見えなかったし、自分に何が起きているのかも分からなかった。
一度言葉を切ってから続ける。
「それに、アーミヤに言うのが怖かった」
「私に?」
「ああ」
アーミヤは幼い頃からずっとテレジアのことが大好きだった。そんなアーミヤに、俺には見えるけどお前には見えないと言うのが怖かった。
「お前がどう思うか分からなかったから。傷つくかもしれないと思った」
アーミヤは黙って聞いていたが、少しして口を開いた。
「セラスティアさん」
「うん」
「それは、私が決めたかったです」
顔を上げる。
「何を?」
「傷つくかどうかも。信じるかどうかも」
強い言い方ではなかった。でも、はっきりしていた。
「セラスティアさんが私のことを考えてくれたのは分かります。でも、私がどう思うかまで先に決めないでほしかったです」
何も返せなかった。テレジアを見ると、彼女も少し困ったように、でも嬉しそうに笑っている。
「大きくなったでしょう?」
小さく言ったその声が聞こえていたら、たぶんアーミヤは少し怒ったと思う。
「……ごめん」
俺が言うと、アーミヤの耳が僅かに下がった。
「謝ってほしいわけじゃないんです」
「うん」
アーミヤがもう一度、テレジアのいる場所を見る。
「でも、これからは教えてください」
「分かった」
「隠さないでください」
「努力する」
「努力じゃなくて」
「分かったって」
いつものアーミヤが少し戻ってきた。テレジアが笑う。
「私からもお願いするわ」
「お前は俺にしか聞こえないだろ」
反射的に返した。
「あ」
アーミヤが俺を見る。やった。
「……今」
「忘れて」
「テレジアさん、何か言ったんですか?」
もう遅かった。テレジアは完全に楽しんでいる。
「何て?」
その問いに、一瞬だけ部屋が静かになった気がした。
「……私からもお願いするわ、って」
アーミヤの目が大きくなる。
「テレジアさんが?」
「ああ」
「今、私のことを見ていますか?」
テレジアを見る。
「見てる」
「どんな顔ですか?」
「笑ってる」
「セラスティア」
テレジアが少し不満そうに言う。
「それだけ?もっとあるでしょう?」
「面倒くさいな」
「誰が?」
アーミヤが聞く。
「テレジア」
また普通に答えてしまった。もう隠す必要もないか。テレジアが呆れたように笑う。
「本当に、変なところは変わらないのね」
「変なところって言われた」
「私、何も言ってませんよ?」
「テレジアが」
アーミヤが、泣きそうな顔のままほんの少し笑った。
「……本当に、いるんですね」
その声で、胸の奥が少し痛くなった。
「うん」
アーミヤはまたテレジアの方を見る。何も見えていない。それでも、今度は迷わなかった。
「お久しぶりです、テレジアさん」
テレジアの表情が止まる。
「アーミヤ……」
「私には、テレジアさんが見えません。声も聞こえません。でも」
息を吸う。
「セラスティアさんが、そんな嘘をつくとは思わないので」
「お前それ褒めてる?」
「褒めています」
即答だった。
「だから、信じます」
テレジアが口元を押さえた。泣いている。幽霊でも涙は出るらしい。落ちる前に消えていくけれど。
「……ありがとう、アーミヤ」
俺を見る。
「伝えて」
分かった。
「ありがとう、って」
アーミヤの目も潤む。
「はい」
それから少し迷って、アーミヤが続ける。
「私も……会いたかったです」
テレジアが目を閉じ、アーミヤの頬へ手を伸ばす。触れない。指先がそのまま通り抜ける。でも今度は昨日と少し違った。アーミヤは何も感じていないはずなのに、ほんの僅かに、テレジアが手を伸ばしている方へ顔を傾けた。たぶん偶然だ。それでも、誰も何も言わなかった。
◇
しばらくしてアーミヤが落ち着いた頃、俺たちは机を囲んでいた。俺とアーミヤの向かいには、椅子に座るような格好でテレジアもいる。当然、椅子そのものには何も起きない。
「そこですか?」
アーミヤが聞く。
「そこ。向かい側」
アーミヤが何もない椅子へ身体を向ける。テレジアは嬉しそうだった。
「何だか不思議ですね」
「俺はもう慣れた」
「セラスティアは慣れすぎなのよ」
「何て言ってますか?」
早い。もう使いこなしている。
「俺が慣れすぎだって」
「それは私も思います」
「何で?」
二人に同じことを言われた。一人は聞こえていないはずなのに、納得いかない。アーミヤが笑った。昨日とは違う笑い方だった。完全に元気になったわけではないし、ミーシャのことが消えたわけでもない。それでも、昔のアーミヤに近い顔だった。
「テレジアさん」
アーミヤが呼ぶと、テレジアがすぐ顔を上げる。
「なあに?」
聞こえない。
「……ミーシャさんのこと」
アーミヤの表情が戻る。
「昨日、セラスティアさんには聞きました」
ロドスは正しいのか。自分は間違っていなかったのか。答えは出なかった。
「テレジアさんは」
そこで一度止まり、俺を見る。
「なんて言ってますか?」
テレジアを見る。すぐには答えず、窓の外へ目を向けて考えている。アーミヤは急かさない。俺も急かさなかった。やがて、テレジアが口を開いた。
「私にも、何が正しかったのかは分からないわ」
テレジアはアーミヤを見る。
「今からなら、いくらでも別の道を考えることはできる。でも、それは結果を知っている今だから言えることよ」
少し間を置いて、穏やかに続ける。
「救えなかったことを忘れなくていい。悲しかったことも、苦しかったことも。でも、救いたいと思った自分まで嫌いにならないで。そうしてしまったら、次に誰かを助けたいと思った時、手を伸ばすことまで怖くなってしまうから」
テレジアは少しだけ声を強めた。
「それから、私の言葉を答えにしないでね。私は、あなたに私と同じ道を歩いてほしいわけではないの」
テレジアは笑った。
「あなたが見て、あなたが考えて、あなた自身の答えを選んでほしい」
「……長い」
思わず言う。
「セラスティア?」
「省略していい?」
「駄目よ」
「だよな」
アーミヤが不思議そうに俺を見る。
「長かったんですか?」
「長かった」
「全部お願いします」
こっちも容赦がない。仕方なく、覚えている限りそのまま伝えた。途中で何度かテレジアに訂正が入る。
「そこは少し違うわ」
「細かいよ」
「大事なところよ」
「セラスティアさん?」
「今訂正入った」
アーミヤが小さく笑う。それでも最後まで聞いて、俺が伝え終える頃には俯いていた。
「……そうですか」
しばらく誰も話さなかった。テレジアが心配そうにアーミヤを見ている。
「重かったかしら」
「お前が言ったんだろ」
「そうだけれど」
「何て言ってますか?」
聞こえてないのに、よく分かるな。
「重かったかな、って心配してる」
アーミヤが顔を上げ、考える。
「重いです」
テレジアが固まった。
「でも、テレジアさんらしいなって思いました」
「……そう?」
テレジアが俺に聞く。
「そうだって」
伝えると、テレジアが安心したように笑った。
「ありがとうございます」
アーミヤが何もない席へ向かって頭を下げる。
「まだ分かりません。ロドスが正しいのかも、自分がこれから何をすればいいのかも。でも、考えます」
テレジアが頷く。
「ええ」
俺が伝えようとしたところで、アーミヤが先に言った。
「たぶん今、頷いてますよね?」
伝えようとしていた言葉が止まる。
「何で分かった?」
「何となくです」
テレジアが嬉しそうに笑った。
「やっぱり、私のアーミヤね」
「それ伝える?」
「もちろん」
「今のはやめた方が」
「セラスティアさん?」
仕方ない。
「私のアーミヤね、だって」
アーミヤの顔が一気に赤くなった。
「テ、テレジアさん!」
当然、声は届かない。
「ふふ」
テレジアだけが楽しそうだった。何だこれ。
◇
そこからは、任務やミーシャ、ロドスの正しさとは関係のない、もっと普通の話になった。
「最近ちゃんと眠っているの?」
「テレジアがちゃんと寝てるかって」
「寝ています」
「昨日俺の部屋来たの何時だっけ?」
「寝ています」
「二回言った」
「セラスティアさんは?」
「俺?」
「最近また寝坊してるじゃないですか」
「毎日じゃない」
テレジアが笑う。
「昨日も朝食を抜いていたでしょう?」
「何で知ってるんだよ」
「一緒にいるもの」
「テレジアさん、何て?」
「……何でもない」
「教えてください」
「俺が朝飯抜いたって」
アーミヤの目が細くなる。
「セラスティアさん。ちゃんと食べてください」
「お前も昨日ろくに食ってないだろ」
「私は食べました」
「少しだけだろ」
「見てたんですか?」
「見てた」
「二人ともよ」
テレジアが言う。
「何て?」
「二人ともだって」
アーミヤと顔を見合わせる。
「……はい」
「……分かった」
二人同時に答えた。テレジアが満足そうだった。
昔、こんなことがあった。アーミヤがまだ小さかった頃、三人で同じ机を囲んで、飯を食って、仕事の話をして、くだらないことでテレジアに注意された。今の状況は似ているけれど、違う。あの頃のアーミヤは、俺たちの言うことを聞いていればいい子供だった。今は自分で考えるし、俺にもテレジアにも反論する。
それでいい。むしろ、その方がいい。
「セラスティアさん」
「何?」
「これからも、テレジアさんが何か言ったら、教えてくれますか?」
「全部?」
「できれば」
「結構喋るよ、こいつ」
「セラスティア?」
「ほら」
アーミヤが笑う。でも俺は少し考えた。
「聞きたい時は、ちゃんと教える。全部俺が勝手に伝えるんじゃなくて、アーミヤが聞きたい時に」
テレジアを見ると、彼女も頷いた。
「私も、それがいいと思うわ」
「テレジアもそれでいいって」
アーミヤは考えて、頷いた。
「分かりました」
それでいい。テレジアの言葉だから正しい、テレジアがそう言うから従う。昔の俺には、そういうところがあった。アーミヤには同じようになってほしくない。
「でも、普通の話は教えてくださいね」
「普通の?」
「今日何食べたいとか。最近のセラスティアさんの寝坊とか」
「後半いらなくない?」
「必要です」
「必要よ」
「お前まで言うなよ」
また二人に笑われた。一人にはもう一人の声は聞こえていないのに、何となく同じところで笑っている。
◇
しばらくして、アーミヤが立ち上がった。
「そろそろ戻ります」
「休めって言われたんじゃないの?」
「部屋へ戻るんです」
「ならいい」
「セラスティアさんも休んでください」
「はいはい」
「返事が軽いです」
「分かったって」
扉へ向かう途中で、アーミヤが止まった。振り返る。俺ではなく、テレジアがいる方へ。
「テレジアさん」
テレジアも顔を上げる。
「今日は、ありがとうございました」
いつものように軽く頭を下げる。
「また来てもいいですか?」
テレジアの顔が一気に柔らかくなる。
「もちろん」
俺を見る。言わなくても分かった。
「もちろん、だって」
アーミヤが笑う。
「よかった。じゃあ、また来ます」
「うん」
「ええ。待っているわ」
今度は頼まれる前に伝える。
「待ってるって」
アーミヤが一度だけ頷いた。
「はい」
扉が閉まって、静かになった。少しして、テレジアが息を吐く。
「……嬉しいものね」
「何が?」
「また来る、と言ってもらえること」
窓際へ戻る。その横顔は少し寂しそうで、それ以上に嬉しそうだった。
「直接話せたらよかったのにな」
「そうね」
否定しない。
「抱きしめることもできないし」
「うん」
昨日、アーミヤへ伸ばした手は触れられなかった。
「でも、聞こうとしてくれたわ」
「何を?」
「私の言葉を」
少し考える。確かに、見えない、聞こえない、触れられない。それでもアーミヤは、テレジアがいると信じて、「なんて言っていますか」と聞いた。
「それだけで、今は十分よ」
テレジアが笑った。俺もたぶん同じだった。
昔と同じ三人には戻れない。俺も、アーミヤも、テレジアも、あの頃とは違う。
それでも、もう一度三人で話すことくらいはできる。
少し変なやり方だけど、今はそれで十分だった。