アーミヤがテレジアのことを知ってから、数日が経った。何かが大きく変わったわけではない。テレジアが見えるのは今も俺だけで、アーミヤが彼女と話したければ俺が間に入る必要がある。ただ、以前にはなかった光景が増えた。
「テレジアさんもいますか?」
朝の廊下で会ったアーミヤが、挨拶の次にそう聞いた。
「いるよ。隣」
言われて、アーミヤが俺ではなく少し横を見る。実際には視線が少しずれていたが、わざわざ直すほどでもない。
「おはようございます、テレジアさん」
「おはよう、アーミヤ」
当然、返事は届かない。俺が伝えようとすると、テレジアがその前に続けた。
「それと、今日はちゃんと朝食を食べたのか聞いてくれる?」
「朝からそれ?」
「大事なことでしょう?」
仕方なくアーミヤへ向き直る。
「朝飯食べたかって」
「食べました」
即答だった。テレジアが疑うように目を細める。
「ちゃんと?」
「ちゃんとかって」
「食べました!」
今度は少し強かった。
「だってさ」
「ならいいわ」
伝える前に、アーミヤが息を吐く。
「たぶん今、納得しましたよね?」
「正解」
少しずつ、この妙な会話にも慣れてきているらしい。テレジアも嬉しそうだった。昔と同じではない。それでも三人で普通の話ができる時間は、思っていたより悪くなかった。
「アーミヤ」
廊下の先から呼ばれる。振り返ると、ケルシーがこちらへ歩いてきていた。その表情を見れば、ただの朝の挨拶ではないことくらい分かる。
「ドクターを呼んで作戦室へ来い。セラスティア、お前もだ」
アーミヤの表情がすぐに切り替わった。
「分かりました、ケルシー先生」
俺も頷く。横でテレジアが小さく息を吐いた。
「穏やかな朝はここまでみたいね」
どうやら、その通りだった。
◇
龍門から離れた場所に、チェルノボーグから切り離された都市区画が残っている。先行して調査へ入ったロドスの偵察隊から、レユニオンの存在が報告された。
メテオリーテ、フロストリーフ、ジェシカ。知っている連中だった。
「偵察班との通信状況が悪化している」
作戦室でケルシーが地図を示す。
「レユニオンの部隊が展開していることも確認された。偵察任務から救出任務へ切り替える」
ドクターが地図を確認している。その隣にはアーミヤ。今回はロドスだけではなく、龍門近衛局も共同で動き、チェンとホシグマが率いる部隊も現地へ向かうことになった。
「セラスティア」
ドクターに呼ばれた。
「うん」
「君は龍門側に残ってほしい」
少しだけ地図から顔を上げる。アーミヤたちが偵察班を助けに行く。自分もそちらへ行くものだと思っていた。ただ、ドクターは続けた。
「ここ数日、龍門周辺でもレユニオンの動きが増えている。偵察班が見つけた部隊だけが相手とは限らない」
ケルシーも頷く。
「龍門と協力関係を結んだ以上、こちらを空にするわけにはいかない。特に避難・防衛へ即座に回せる戦力を残しておきたい」
「それで俺か」
「そうだ」
筋は通っている。現地にはアーミヤだけでなく、ドクターもいる。チェンとホシグマも向かうし、ロドスの戦力も複数いる。
「分かった」
俺は地図を閉じた。アーミヤがこちらを見る。
「セラスティアさん」
「ちゃんと帰ってこいよ」
先に言う。アーミヤは一瞬だけ目を丸くして、それから頷いた。
「はい」
その視線が自然に俺の横へ移る。
「テレジアさんは?」
テレジアが柔らかく笑った。
「私も同じよ。気をつけて」
そのまま伝える。
「気をつけて、だって」
「分かりました」
アーミヤが笑う。ドクターが地図を畳みながら俺を見た。
「龍門側を頼む」
数日前なら、その言葉をもう少し重く受け取ったかもしれない。今は、
「了解」
それだけで済んだ。少し考えてから付け足す。
「そっちは任せる」
ドクターの動きが一瞬だけ止まった。けれど何かを聞き返すこともなく、短く頷く。
「ああ」
昔のような関係ではない。それでも、互いの持ち場を預けるくらいなら、もうできる。
◇
アーミヤたちが龍門を離れてから、しばらくは断片的に報告が届いていた。
偵察隊の痕跡を確認。レユニオンと交戦。負傷者あり。救出隊は前進中。
その後の報告では、廃都市内部でチェンが何者かを見つけて先行し、追おうとしたアーミヤたちはレユニオンに阻まれたらしい。戦闘後もチェンとは別れたままになり、さらに奥は天災の影響で源石濃度が高い区域だった。そこでアーミヤたちはホシグマたち龍門近衛局に外縁を任せ、通信の途絶えた偵察隊とチェンを探すため、ロドスだけで奥へ進んだ。
その後、一度はチェンと合流したものの、チェンは近衛局側へ戻ったらしい。やがてチェンたちは龍門へ退き、アーミヤとドクターたちは偵察隊の救出を続けるため廃都市に残った。
俺は龍門東部の外周を、数人のロドスオペレーターと巡回していた。
「向こうが気になる?」
テレジアが聞く。
「ああ」
端末を見る。連絡は来ない。
「でも、行かない」
龍門へ視線を戻す。ここを離れて廃都市へ向かったとしても、今から間に合う保証はない。それに、自分がここへ残された理由も分かっている。
「向こうにはアーミヤもドクターもいる。俺はこっちを任された」
「ええ」
テレジアは静かに頷いた。そう口にしても、端末を気にしてしまうことまでは止められなかった。
◇
状況が一気に変わったのは、朝だった。緊急通信が飛び込んでくる。
『龍門内部でレユニオンを確認!複数区画で同時に戦闘が発生!』
足を止める。
「場所は?」
『東部居住区、南側輸送路、それと――』
報告が続く。一か所ではない。離れた場所で同時に戦闘が始まっている。さらに別の通信が割り込んだ。
『L.G.D.本部が制圧された!』
一瞬、聞き間違えたかと思った。
「本部?」
『レユニオンが侵入している!近衛局は反撃態勢を整えてる!』
地図を開く。チェンたちが龍門へ戻った時には、すでに本部はレユニオンの手に落ちていたらしい。廃都市だけが戦場だったわけじゃない。龍門そのものも、同時に狙われていた。しかも本部だけではなく、居住区、輸送路、外周と、いくつもの場所で戦闘が起きている。
「戦力を散らすつもりか」
「そうみたいね」
テレジアも地図を見る。龍門近衛局も、ロドスも、一か所へ集まれない。
『セラスティア!東部居住区の避難が遅れてる!近衛局が敵部隊と交戦中で手が足りない!』
「分かった。そっちへ行く」
走り出す。アーミヤたちのことは気になるが、今はこっちだ。
◇
龍門の中で戦うのは、荒野や廃墟とは違う。道の左右には店があり、住居があり、ついさっきまで普通に生活していた人間がいる。
角を曲がった先で悲鳴が聞こえた。避難中の住民と、その前を塞ぐレユニオン。
「下がって!」
抜刀する。一人目の武器を刀の峰で弾き、手首を打つ。二人目の懐へ入り、腹へ柄を叩き込む。倒れたところを越えて三人目。殺す必要はない。ここで必要なのは、敵を倒すことより道を空けることだ。
「今のうちに!」
後ろのロドスオペレーターが住民を誘導する。
「怪我人を先に!走れる人は止まらないで!」
人の流れが動き始める。その中、壁際に一人だけ座り込んでいる男がいた。腕に黒い結晶。
感染者。
周囲の人間が距離を取っている。
「おい」
近づくと、男がこちらを見た。
「立てる?」
「……俺はいい」
「よくない」
「感染者だ」
「見れば分かる」
肩を貸す。男が困惑したように俺を見る。
「他の奴を先に」
「他も助ける。だから立って」
しばらくして、男の手が俺の肩を掴んだ。驚くほど軽かった。
「ロドスは感染者を治す会社なんだろ」
歩きながら聞かれる。
「製薬会社」
「同じじゃないのか」
「結構違う」
横でテレジアが笑った。
「そこは訂正するのね」
返事はしなかった。今は人が多い。その代わり、少しだけ口元が緩んだ。
◇
昼前、短い報告が入った。廃都市に残っているロドス隊は生存。そして、エリートオペレーターのブレイズが救援へ入った。それ以上の詳しい状況は分からない。
「ブレイズが行ったなら、少しは安心できる?」
テレジアが聞く。端末を閉じる。
「少しだけな」
アーミヤたちがまだ危険な場所にいることは変わらない。それでも、俺以外にも助けに行ける人間はいる。その事実は、ちゃんと受け入れられた。
◇
一つの避難経路を確保しても、終わりではなかった。次の区画で火災。別の場所ではレユニオンが退路へ回り込む。負傷者が出れば医療班へ運び、崩れた建物があれば中を確認する。午後になっても戦闘は続いた。
『セラスティア!北側避難路へ回ってくれ!』
通信が入る。
「今、建物に取り残されてる人がいる」
二階の窓で、誰かが手を振っている。
『そこには別班を向かわせた!もうすぐ着く!北側は避難民が数十人いる!』
窓を見る。今なら、自分で行けばすぐに助けられる。でも、別班が来る。それを信じない理由はない。
「了解。北へ回る」
方向を変える。
「セラスティア」
走り出した俺へテレジアが声を掛ける。
「うん」
「ちゃんと任せられるようになったのね」
少しだけ息を吐く。
「まだ気になるけどな」
窓を一度だけ振り返る。ちょうどロドスの別班が建物の前へ到着したところだった。
「俺が行かなくても助けられるなら、それでいい」
「ええ」
テレジアはそれ以上何も言わなかった。ただ、少し嬉しそうに俺の横をついてきた。
◇
日が傾いても、龍門の戦闘は終わらなかった。本部を取られたままでも、近衛局は各地で反撃を続けている。やがて、チェン率いる部隊がL.G.D.本部の奪還へ本格的に動き始めたという報告が入った。
俺はまだ東側にいた。朝から何度戦ったか、もう数えていない。
「本部へ行かなくていいの?」
テレジアが聞く。
「向こうにはチェンたちがいる。それに、こっちの避難もまだ終わってない」
それだけ答えて、次の区画へ向かう。もう、自分がどこにいるべきかで迷うことはなかった。
◇
深夜。チェン隊がL.G.D.本部内部へ突入したという情報が届く。メフィスト、ファウスト。敵の幹部が本部にいるらしい。一方、廃都市側については断片的な報告しか入ってこない。ブレイズが現地へ入った。アーミヤたちは生きている。それ以上は、よく分からない。
「長いな」
壁へ背を預ける。朝から戦い続けている。
「少し座ったら?」
「座ってる暇あるかな」
「今、座っているでしょう?」
言われて気づく。壁際の箱に腰を下ろしていた。
「……疲れてるな」
「ええ」
テレジアは笑わなかった。
「少しだけ休んで。呼ばれたら立てばいいわ」
「分かった」
数分だけ、目を閉じた。
◇
日付が変わってからも、龍門のあちこちで続いていた戦闘は少しずつ減っていった。ただ、L.G.D.本部だけはまだ終わらない。アーミヤたちも戻ってこない。夜明け前、ようやく新しい報告が入った。
『廃都市組を回収!』
すぐに端末を取る。
「アーミヤは?」
『生存確認!ドクターも無事!負傷者あり!』
長く息を吐くと、肩から力が抜けた。
「生きてた」
「ええ」
テレジアも同じように安心した顔をしている。しかし、続いて入った報告にもう一度端末を見る。
『スワイヤーの手配で回収に成功!ブレイズ、アーミヤ、ドクターはそのままL.G.D.本部方面へ向かう!』
「そのまま?」
朝から廃都市で戦って、救援を受けて、それでも今度は本部へ行く。
「アーミヤ……」
名前が漏れる。テレジアも心配そうに本部の方角を見る。
「本人が決めたのなら」
「分かってる」
止めたい気持ちはある。無理をするなとも思う。それでも、アーミヤが自分で行くと決めたのなら、そこから先まで俺が決めることではない。
「帰ってきたら怒る」
「ふふ。そうね」
それくらいはしていいだろう。
◇
しばらくして、ドクターから通信が入った。雑音が強く、風の音も聞こえる。
『セラスティア』
「どこにいる?」
『L.G.D.本部の上空だ』
本当にそのまま行ったらしい。
「アーミヤは?」
『隣にいる』
雑音の合間に、風の音がまた入る。
「無茶してる?」
『かなり疲れている』
正直な返事だった。
「そっちは?」
ドクターが聞く。
「東側はほぼ片付いた。避難も大部分は終わってる」
『なら』
一拍置いて、続いた。
『そっちを頼む』
朝、俺へ言ったのと同じ言葉。
「了解」
迷わない。
「本部は任せた」
『ああ』
短い通信だったが、それで十分だった。
◇
本部で何が起きているのか、俺には断片的にしか分からなかった。チェン、メフィスト、ファウスト。そこへブレイズ、アーミヤ、ドクター。遠くから大きな爆発音が響き、夜空が一瞬だけ明るくなった。
「派手だな」
「ブレイズかしら」
「多分」
あいつならやる。
俺はまだ残っている負傷者を運び、避難路を確認する。逃げ遅れた住民がいないか、もう一度建物を回った。
◇
空が白み始める頃、L.G.D.本部奪還の報告が入った。周囲にいたオペレーターたちから、小さな歓声が上がる。大声を出す元気すら残っていない者もいた。俺もようやく肩の力を抜く。
「終わったか」
「ひとまずは、ね」
テレジアが言う。
本当に、ひとまずだ。レユニオンが消えたわけではない。逃げた敵もいるし、壊れた街も残っている。それでも今は、勝ったと言っていい。
端末が鳴った。ドクターからだった。
「お疲れ」
『そちらは?』
「東側は落ち着いた。避難も終わったよ」
『死傷者は』
「いる。でも、守れた人の方が多い」
通信の向こうで短い沈黙があった。
『助かった』
その言葉に、昔のドクターを思い出しかける。やめた。今、この言葉を言ったのは今のドクターだ。
「そっちもな」
返す。
「本部、任せてよかった」
今度は向こうが少し黙った。
『……ああ』
それだけだった。でも、悪くなかった。
「アーミヤをちゃんと休ませて」
『ケルシーにも同じことを言われるだろうな』
「じゃあ二人分聞け」
通信の向こうで僅かに息が漏れる。笑ったのかもしれない。
「帰ってこいよ」
『ああ』
通信が切れた。テレジアがこちらを見る。
「少しずつね」
何を指しているのか、聞かなくても分かった。
「まあな」
昔と同じところまで戻る必要はないし、戻れるとも思っていない。それでも、新しく積み直すことはできる。
◇
アーミヤと顔を合わせたのは、空が明るくなり始めてからだった。ロドスへ戻ると、医療区画の前にアーミヤがいた。椅子に座っている。明らかに疲れていた。
「セラスティアさん」
こちらに気づく。
「お疲れ」
「セラスティアさんも」
俺の横へ視線を移す。
「テレジアさんは?」
テレジアはすでにアーミヤの前まで行っていた。
「おかえりなさい、アーミヤ」
「おかえりだって」
アーミヤの表情が少しだけ緩む。
「ただいま戻りました」
それから、テレジアのいるあたりへ少しだけ頭を下げた。
「無事でよかった」
俺が言う。
「はい」
「でも顔色悪い」
「ケルシー先生にも言われました」
「なら寝ろ」
「このあと休みます」
「絶対?」
「絶対です」
そこまで言うなら、今日は信じる。隣へ座ると、テレジアはアーミヤの反対側へ腰を下ろすような格好をした。少しだけ、三人で並んでいるように見える。
「廃都市で何があった?」
俺から聞く。アーミヤの表情が変わった。疲れだけではない。何かを思い出している。
「レユニオンの部隊に遭遇しました」
「途中で連絡が途切れてた」
「はい」
アーミヤが自分の手を見る。
「すごく強い人がいたんです」
「誰?」
「フロストノヴァ」
初めて聞く名前だった。テレジアも黙って聞いている。
「周りが一気に凍りました。地面も、建物も……火まで消えて」
「そんなに?」
「はい」
アーミヤの声に、まだ僅かに緊張が残っている。
「私たちは、逃げるので精一杯でした」
それだけで十分だった。敵がどういう人物なのか、何を考えているのかはまだ何も分からない。ただ、アーミヤたちをそこまで追い詰める相手がいる。
「フロストノヴァ」
名前を口にする。覚えておく。
「また会うかもしれないな」
「……そうですね」
アーミヤも、それ以上は言わなかった。テレジアが静かにその名前を繰り返す。
「フロストノヴァ……」
彼女も知らないらしい。
「今日はもう、それくらいにしましょう」
テレジアがアーミヤを見る。
「疲れているもの」
「寝ろってさ」
「テレジアさんが?」
「うん」
アーミヤが少しだけ困った顔をする。
「二人とも同じこと言うんですね」
「見れば分かるから」
「私もそう思うわ」
「テレジアも同意」
逃げ道がなくなったらしい。アーミヤが立ち上がる。
「分かりました。今日は休みます」
「うん」
「テレジアさんも、おやすみなさい」
「おやすみ、アーミヤ」
「おやすみ、だって」
アーミヤが笑う。
「はい。おやすみなさい」
歩いていく背中を見る。少し前までなら、ちゃんと部屋に戻るかついて行ったかもしれない。今はしない。本人が休むと言った。なら、信じる。
「今日は見送るだけなのね」
テレジアが言う。
「ああ」
「それでいいと思うわ」
俺も、そう思う。
◇
俺たちも部屋へ戻る。龍門はまだ完全には静かではない。日が昇れば、今日壊れた場所を直す仕事が始まる。負傷者もいるし、逃げたレユニオンもいる。フロストノヴァという新しい名前も出てきた。何一つ、終わったわけではない。
それでも、昨日から今日にかけて、俺は龍門に残った。アーミヤたちは廃都市へ行き、チェンたちは本部を取り返した。最後にはアーミヤとドクター、ブレイズもそこへ加わった。別々の場所で、それぞれが自分にできることをした。
全部を自分でやらなくても、守れるものはある。昔の俺には、それがよく分かっていなかった。今だって、完全に分かったとは思わない。
それでも、一つずつなら覚えていける気がした。