龍門近衛局本部を取り戻してから、まだ数時間しか経っていない。
夜が明けた龍門には、昨夜の戦闘の跡がそのまま残っていた。焼けた道路、崩れた壁、回収の終わっていない武器。暗いうちは見えなかったものまで、朝の光が容赦なく照らしている。そして、俺たちにゆっくり休んでいる時間はなかった。
「顔に出てるわよ」
隣を歩くテレジアが言った。
「何が?」
「眠いって」
「少しは寝たよ」
「少し、でしょう?」
そこは否定できない。前を歩くアーミヤも似たようなものだろう。
「アーミヤ」
呼ぶと振り返る。
「はい?」
「休めた?」
「少しだけです。でも、大丈夫です。任務には支障ありません」
顔色は良くない。ただ、足取りはしっかりしている。昨日までなら、それでも部屋へ戻そうとしたかもしれない。
「分かった。きつくなったら言えよ」
「はい。セラスティアさんも、無理はしないでくださいね」
それ以上は言わなかった。本人が立つと決めているなら、今はそれを信じる。
テレジアは何も言わず、アーミヤの背中を見ていた。
◇
今回の作戦は、昨夜までとは少し違う。龍門近衛局本部を奪還したことで、龍門側はようやく本格的な反撃へ移れるようになった。市内に残ったレユニオンの戦力を削りながら包囲を狭め、逃走経路を制限する。龍門近衛局とロドスの共同作戦だ。
「抵抗をやめた人には、まず降伏を勧告してください」
アーミヤが集まったオペレーターたちへ指示を出す。
「負傷者を見つけた場合も、可能な範囲で救護をお願いします。必要以上に相手を追い詰める必要はありません」
一度、全員を見回す。
「私たちは私たちの役目を果たしましょう」
今回はそれ以上、長く語らなかった。まだ作戦は始まったばかりだ。全員が装備を確認し、それぞれの持ち場へ向かう。俺も立ち上がった。
「何を考えていたの?」
テレジアが聞く。
「アーミヤの話?」
「ええ」
「普通のこと言ってるなって」
「普通のことほど、戦場では忘れられやすいものよ」
その言葉には、たぶんテレジア自身の経験も混ざっている。俺は何も返さず、武器を持ち直した。
◇
作戦開始からしばらくして、ブレイズと合流した。昨日まで廃都市で戦い、そのまま龍門へ戻ってきたはずなのに、相変わらず声だけは元気だった。
「アーミヤ!」
「ブレイズさん!?」
見つけるなりアーミヤを抱き上げる。
「ブレイズさん、ちょっと……苦しいです!」
「ちゃんと生きてるか確認してるだけ!」
「さっき別れたばかりじゃないですか!もう、下ろしてください!」
確認方法がおかしい。ようやく地面へ戻されたアーミヤが服を整える。
「もう……ちゃんとしてください、ブレイズさん」
そこで、ブレイズの視線がグレースロートで止まった。向こうも足を止め、空気が変わった。
「……あんた」
ブレイズの声が低くなる。以前、感染者へ向けてグレースロートが言ったことを、ブレイズはまだ忘れていないらしい。
「ブレイズさん!」
アーミヤの声が強くなる。
「分かってる。今ここで揉める気はないよ」
そう言いながらも、視線は外さない。グレースロートも言い返さなかった。少しの沈黙のあと、ブレイズが先へ行く。アーミヤはその背中を見送り、それからグレースロートへ向き直った。
「グレースロートさん。ブレイズさんは少し誤解しているところがあります」
「いいんです。実際、私はああいうことを言いましたから」
「でも、過去に言ったことだけで、今のあなたまで決めつけていいとは思いません」
グレースロートは答えなかった。同じロドスにいて、同じ任務へ出ている。だからといって、同じものを同じように見ているわけじゃない。
その後、ブレイズが合流するまでの間に何があったのかを、断片的に聞いた。同じ感染者から、どうして龍門に味方するのかと罵られたらしい。それでもブレイズは敵を制圧し、こちらへ戻ってきた。
「簡単じゃないわね」
テレジアが呟く。
「昔からそうだろ」
「ええ」
だからこそ、同じ場所にいる意味があるのかもしれない。
◇
戦線は少しずつ狭まっていった。疲弊したレユニオンが武器を捨てる場面もあれば、最後まで抵抗を続ける者もいる。倒れた仲間を置いていけず、その場に残る者もいた。同じ腕章をつけていても、全員が同じように動くわけじゃない。
少し先では、アーミヤが負傷したレユニオン兵を医療班へ運ぶよう指示している。
「この人もお願いします。まだ治療できます」
近くのオペレーターが僅かに迷う。
「レユニオンですが……」
「分かっています」
アーミヤは相手を見た。
「でも、今はもう戦っていません。お願いします」
「……了解」
担架が運ばれていく。テレジアもそちらを見る。
「同じ痛みがあるからといって、同じ答えを選ぶわけじゃないものね」
サルカズだってそうだった。同じ故郷を持ち、同じ差別と傷を抱えていても、互いに殺し合った。
「それでも、やめようとする人がいなくなったら、本当に終わるのでしょうね」
俺は小さく頷いた。
◇
異変が起きたのは、それから間もなくだった。一人の感染者が路地から飛び出してくる。全身から源石が伸びていた。目は開いているのに、こちらを見ている感じがしない。
「止まれ!」
近衛局の警告を無視して突進してくる。前へ出て、腕を受け流し、そのまま地面へ押さえ込もうとして違和感に気づいた。肩が明らかに壊れている。それでも止まらない。
「聞こえてるか?」
反応なし。別の方向からも同じような感染者が現れる。一人、二人、その後ろにも。
「皆さん、気をつけてください!陣形を組み直します!」
アーミヤの指示が飛ぶ。俺は目の前の男を気絶させ、距離を取った。倒れた身体がまだ痙攣している。
「メフィストの術だ」
ドクターが言った。昨夜、龍門近衛局本部にいた少年。メフィストという名前を思い出す。
「こいつら全員?」
周囲を見れば、異常化した感染者たちはロドスや龍門近衛局だけを狙っているわけではなかった。離れた場所から悲鳴が聞こえる。仲間だったはずの相手から逃げているレユニオンの兵士までいる。
「……ひどい」
テレジアの声が低い。彼女は暴れ続ける感染者たちを見ていた。
「自分の仲間まで」
「ああ」
意思すら奪われている。戦っているんじゃない。使われているだけだ。
◇
少し離れた区画へ向かったグレースロートからの連絡が、一時途絶えた。戻ってきた時、彼女の顔色は戦闘の疲れだけでは説明できなかった。アーミヤが駆け寄る。
「グレースロートさん、どうしたんですか?」
「……黒い服の人たちがいました」
声が固い。
「龍門近衛局ではありません」
近くにいた俺たちも足を止める。
「レユニオンを追っていて……降伏した人も」
そこで言葉が詰まる。
「武器を捨てていたのに」
アーミヤの表情が険しくなる。
「……分かりました。チェン長官にも伝えます」
一拍置く。
「グレースロートさん、今は無理に話さなくて大丈夫です」
グレースロートは頷いた。それ以上は言わなかったが、さっきまでとは違う何かが彼女の中に残ったことだけは分かった。
◇
メフィストに変えられた感染者たち。戦線が進むほど、その数は増えていった。最初は、まだ助けられると思っていた。腕を折らないように押さえる。気絶させる。武器だけを落とす。何度も繰り返した。でも、倒しても起き上がる。痛みを感じていない。身体が壊れていることすら理解していない。
その中に、もう歩ける状態ではないはずの感染者がいた。脚は不自然に曲がり、胸からは源石が突き出している。それでも這ってくる。
「セラスティアさん」
アーミヤの声。俺は動きを止めた。彼女も見ている。
「……もう、これ以上は」
その先が続かない。俺も分かっていた。生かして捕まえる。その選択が、今はこの人たちを苦しめ続けることになる。一体が呻いた。言葉ではない。でも、妙に人間らしい音だった。
アーミヤが目を閉じる。しばらくして開いた。
「皆さん、下がっていてください」
「アーミヤ?」
「……私がやります」
声は震えていたが、決めていた。俺は何も言わなかった。テレジアも止めない。俺たちは少し離れる。その後、何が起きたのかを細かく見ようとは思わなかった。あれほど暴れていた感染者たちの声が、一つずつ聞こえなくなっていった。
アーミヤはしばらく動かなかった。俺もすぐには近づかなかった。やがて彼女が振り返る。
「……行きましょう。まだ、やることがあります」
それだけだった。
「うん」
慰める言葉を探さない。正しかったとも、間違っていたとも言わない。本人が選んだ。その重さまで奪ってはいけない気がした。
テレジアもアーミヤの横を歩く。触れることはできない。声も届かない。それでも、しばらく彼女の隣から離れなかった。
◇
別方面では、グレースロートがファウストと接触していた。後から聞いた話では、互いに撃てる位置にいながら、その場ではどちらも撃たなかったらしい。
ファウストは去り際に、次に会った時は撃つと告げた。
包囲が狭まり始めた頃、その言葉どおりファウストが再び姿を現した。
交戦が始まる直前、アーミヤが全隊へ通信を繋いだ。
『皆さん、聞こえますか?』
周囲のオペレーターたちが耳を傾ける。
『今回の作戦で、まず守らなければならないのは龍門です。でも、自分たちが何のために戦っているのか、それだけは忘れないでください』
今日見たことを、たぶん全部抱えたまま話している。
通信が切れる。
ほどなくして、今度は別回線が入った。相手はチェンだった。詳しい内容までは聞こえなかったが、アーミヤの声だけは近くにいた俺にも届く。
「チェン長官、こちらは配置につきました」
少しの間、相手の話を聞いてから続ける。
「……近衛局が早い段階でスラムに動いたからこそ、今の対応ができていることは分かっています。作戦上の責任をチェン長官に求めるつもりはありません」
そこで言葉を切る。
「でも、個人的には……」
声音が変わる。
「チェン長官。ミーシャさんは死にました」
胸の奥が僅かに重くなる。あの時のミーシャを思い出す。
「私は、チェン長官の感染者に対する考え方には同意できません。龍門を愛している人なら、感染者でも非感染者でも、龍門のために戦うことができます」
返事があったらしく、アーミヤは少し黙った。
「……そうですね。時間が経つだけでは、何も変わらないのかもしれません。だったら、私たちが変えます」
チェンの返事が来たが、アーミヤは引かなかった。
「甘い考えだと言われても構いません。ミーシャさんも、これまで亡くなったたくさんの感染者も、私はなかったことにはできません」
端末を握る。
「チェン長官にも、分かってほしいです。ロドスの感染者と非感染者が、どうして一緒に龍門のために戦っているのかを」
その直後、アーミヤの視線が前方へ向いた。
「……来ました、チェン長官」
通信が切れる。
アーミヤはすぐにドクターとともに、ファウストが現れた戦線へ向かった。俺はその場に残り、自分の持ち場へ視線を戻す。
まだ、作戦は終わっていない。
◇
ファウストは、メフィストたちを逃がすために殿として残った。聞けば、それだけで意味は分かる。自分が残れば、その分だけ仲間が遠くへ行ける。そして、残った側がどうなるかも。
俺には俺の持ち場がある。全部の戦場へ俺が入ればいいわけじゃない。昨日、ようやく少し覚えたことだ。
俺たちの正面にも、メフィストによって変えられた感染者の群れが押し寄せた。
「前を支える!負傷者は下がれ!」
武器を抜く。一人。二人。三人。遠くから、規則正しいクロスボウの音が響いていた。
しばらくして、音が途絶えた。
◇
ファウストが死んだという報告は、ほどなく届いた。俺たちが現場へ向かっている途中、遠くから鋭い音が響いた。一発。続けて、いくつもの音。見上げると、何本もの高威力のボルトが、龍門の空へ向けて放たれていた。
こちらを狙ってはいない。逃げていくレユニオンの狙撃手たち。ファウストの部下。誰かに意味を教えられたわけではない。それでも、何のために撃ったのかは分かった。
「……弔ってるのか」
テレジアも空を見る。
「たぶん」
ボルトは高く上がり、やがて視界から消えた。戦場には似合わないほど、静かな時間だった。
◇
現場へ着いた時には、すべて終わっていた。グレースロート、アーミヤ、ドクター、ブレイズ。地面には、壊れたクロスボウが残っている。
アーミヤがグレースロートを見る。
「ファウストと……知り合いだったんですか?」
グレースロートはすぐには答えなかった。
「知り合い、と言っていいのかは分かりません」
視線が地面のクロスボウへ向く。
「少し、話しただけです」
それ以上は続けなかった。誰も続きを求めなかった。
しばらく沈黙が続く。
「アーミヤ」
グレースロートが顔を上げる。
「一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「ロドスは」
少し間があった。
「何のために戦っているんですか?」
今日だけでも、感染者が感染者を捕らえた。感染者が自分の仲間を襲った。降伏した感染者が殺された。アーミヤ自身の手で、もう救えない感染者を止めた。そして、感染者のために戦っていたファウストが死んだ。
簡単に答えられる問いじゃない。アーミヤもすぐには話さなかった。
「……私も、それはいつも考えています」
声は静かだった。
「私たちがしていることは、本当に正しいのか。戦うことで、もっと悪い結果を生んでしまうんじゃないかって」
グレースロートが聞いている。
「私たちが戦わなければならないのは、目の前にある一つ一つの死だけではないと思っています」
アーミヤは少しだけ視線を落とした。
「感染者が非感染者を憎んで、非感染者が感染者を恐れて……そうやって、お互いを傷つけ合ってしまう。その原因そのものを、少しずつなくしていかなければいけません」
顔を上げる。
「鉱石病なら、薬でできることがあります。偏見や恐怖なら、私たちの行動で変えられることもあるはずです」
すぐには変わらない。それくらい、アーミヤも分かっているはずだった。
「全部をすぐになくすことはできないと思います。それでも、そういうものを一つずつ減らしていく。それが、ロドスの戦いなんだと私は思っています」
グレースロートは何も言わずに聞いている。
「今まで起きたことを、なかったことにはできません」
ミーシャ。ファウスト。今日倒れた人たち。
「でも、過去から続いている悲劇があるからといって、これから起こる悲劇まで同じにする必要はないと思います」
アーミヤがグレースロートを見る。
「まだ変えられるものがあるなら、私はそこへ手を伸ばしたいです」
グレースロートはすぐには答えなかった。しばらくして、地面に残っていたクロスボウの前まで歩き、屈む。壊れて血のついたクロスボウを拾い上げた。
誰も止めなかった。
◇
人が少なくなってから、テレジアが隣へ来た。しばらく二人で何も言わずにいる。先に口を開いたのはテレジアだった。
「セラスティアは?」
「何?」
「何のために戦っているの?」
さっき、グレースロートがアーミヤへ投げた問い。今度は俺に来た。
昔なら、答えるのに一秒もいらなかった。
テレジアがいるから。テレジアを守るため。それで終わった。
今は違う。
アーミヤ、ロドス、Ace、Scout、ミーシャ。昨日助けた龍門の住民や、今日見たレユニオンの兵士たち、名前すら知らない人間まで、いろいろな顔が浮かぶ。
「まだ、ちゃんとは分からない」
正直に答える。テレジアは急かさない。
「でも」
グレースロートが持っていったクロスボウを思い出す。
「感染者だから死んでも仕方ないとか、レユニオンだから殺していいとか。龍門を守るなら何をやってもいいとか」
一度、息を吐く。
「そういうのは嫌だ」
今の俺が言えるのは、そこまでだった。
「なら、今はそれを忘れなければいいんじゃないかしら」
「答えになってないけどな」
「今すぐ決めなくてもいいでしょう?」
テレジアがこちらを見る。
「これからも生きていくなら、その途中で考えればいいわ」
昔の俺なら、そこで少し困ったかもしれない。自分がこれからも生きる。そんな前提自体が薄かった。
「ああ」
今は、自然に頷けた。
まだ、答えを出す時間はある。
◇
端末が鳴った。アーミヤが通信を取る。
「アーミヤです。……ガヴィルさん?」
相手の声までは聞こえない。最初は普通だった表情が、少しずつ険しくなる。
「地下に通路が?」
ドクターも近づく。アーミヤがさらに話を聞く。
「黒い服の人たちも……?」
一度、息を呑んだ。
「スノーデビル小隊……?」
その名前には聞き覚えがない。ただ、アーミヤの反応には覚えがあった。通信が終わる。
「何があった?」
「スラムの地下に、外へ繋がる通路が見つかったそうです」
アーミヤが端末を見る。
「そこからスノーデビル小隊が入り、レユニオンの部隊と合流しています」
「スノーデビル?」
「フロストノヴァが率いている部隊です」
今朝、アーミヤから聞いた名前。廃都市を凍らせ、アーミヤたちを撤退させた感染者。
「本人は?」
「まだ、フロストノヴァ本人の位置までは確認できていません」
少しだけ間を置く。
「でも、スノーデビル小隊がここにいるなら……近くにいる可能性は高いと思います」
「フロストノヴァ……」
テレジアが小さく名前を繰り返す。俺は武器の柄へ手を置いた。
まだ、何も知らない。どんな人間なのか、何を考えて戦っているのか、どうしてここまで来たのか。
今度は、名前を聞くだけでは終わらなさそうだった。