フロストノヴァ。
その名前を聞いてから、戦場の空気が少し変わった。
レユニオンの残存部隊は、それまでのようにばらばらに逃げているわけではない。スノーデビル小隊を中心に再びまとまり始め、スラム街の奥へ人を集めているらしい。最初は、逃げるために戦力を固めているだけだと思った。けれど、届く報告を聞いていると少し違う。
「撤退路を確保してる?」
端末を持ったオペレーターが頷く。
「はい。レユニオンの残存部隊だけではありません。周辺に取り残されている感染者も、同じ経路へ誘導しているようです」
「龍門の住民も?」
「確認中です。ただ、少なくとも無差別に排除している様子はありません」
今朝までなら、それだけでは特に引っかからなかったかもしれない。ただ、メフィストの牧群を見た直後に聞くと、差が大きすぎる。
「同じレユニオンなのよね」
テレジアが俺の横で言った。
「ああ」
「ずいぶん違うわ」
「同じサルカズだって、全員同じじゃないだろ」
「それはそうね」
俺たちは何百年もそれをやってきた。同じサルカズというだけで一つに括られ、外からは同じように恐れられる。そのくせ中では、考え方も目的も違って、互いに争うことさえある。分かっていたはずなのに、レユニオンという腕章を見ると、どこかで一つの集団として考えていた。
「セラスティアさん」
アーミヤの声で顔を上げる。ドクターとブレイズも一緒だった。
「これからスラム街側へ移動します。避難が遅れている人たちの捜索を優先します」
「スノーデビル小隊は?」
「近衛局と交戦中です。それと……黒い服の人たちも動いています」
今日、グレースロートが見た連中。武器を捨てたレユニオンまで追っていたという、龍門近衛局ではない部隊。アーミヤの表情が少し硬くなる。
「私たちは、私たちの任務を続けます。救助できる人がいるなら、まずそちらを」
「分かった」
それで十分だった。誰と戦うのかより、今は、誰を助けるのかを見た方がいい。
◇
スラム街へ近づくほど、気温が下がった。最初は風のせいかと思ったが、建物の壁に薄く霜が張っているのを見て違うと分かる。地面にも白い筋が伸びていた。
「これがフロストノヴァのアーツ?」
「はい」
アーミヤが答える。
「廃都市で戦った時も、周囲一帯が凍りました」
「随分厄介そうだな」
「……強いです」
返事まで少し間があった。怖い、というだけではないらしい。
「前に会ったんだよな」
「はい」
そこまでは前に聞いている。廃都市で偵察隊を救出する途中、フロストノヴァと交戦したことも、戦えなくなって撤退したことも。ただ、アーミヤの表情を見ると、それだけではなさそうだった。
「何かあった?」
アーミヤがドクターを見る。ドクターもこちらを見た。
「地面が崩れた」
「それは聞いた」
「その時、私とフロストノヴァが一緒に地下へ落ちた」
初めて聞く。歩きながら続きを待つ。
「上ではロドスとスノーデビル小隊が一時的に戦闘を止めた。双方の指揮官を掘り出すために」
「……一緒に?」
「ああ」
敵同士で、ついさっきまで殺し合っていた相手と。
「地下では?」
俺が聞くと、ドクターが少し考えた。
「話をした」
それだけ答えた。詳しく聞こうとしたところで、前方から声が飛ぶ。
「生存者です!」
全員がそちらへ向かった。
◇
崩れかけた建物の陰に、数人の住民が集まっていた。感染者もいれば、非感染者もいる。近衛局の隊員が確認していたが、その中に幼い子供を抱いた女がいた。怪我はなく、服にも戦闘の跡はほとんど見えない。それでも、ひどく怯えていた。
「こちらへ。安全な場所まで案内します」
アーミヤが声を掛ける。女はすぐには動かなかった。子供を抱き寄せ、何かを必死に説明している。近くにいた隊員が聞き取り、途中で表情を変えた。
「どうした?」
俺が尋ねると、隊員が答えた。
「この二人……レユニオンに助けられたそうです」
一瞬、聞き返しそうになった。
「レユニオン?」
「白い髪の女と、その部下だと」
アーミヤが女を見る。
「……フロストノヴァ」
名前が小さく漏れた。
聞けば、母子が建物の中へ取り残されているところを、スノーデビル小隊が見つけたらしい。二人は感染者でもレユニオンでもなかったが、それでも安全なところまで逃げろと外へ出されたという。その話を聞いている間、子供がアーミヤの耳を不思議そうに見ていた。怖がってはいない。少なくとも、ここへ来る途中でレユニオンから何かされた様子はなかった。
「この人たちを避難所へ」
「了解です」
オペレーターへ任せる。母親は何度か頭を下げてから歩き出した。子供も肩越しにこちらを見る。その姿が角を曲がって消えるまで、アーミヤは黙って見送っていた。
「敵なんだよな」
俺が言う。
「……はい」
「フロストノヴァは」
「今は、敵です」
アーミヤはそう答えた。敵だから人を助けないわけではなく、味方だから正しいことだけをするわけでもない。今日、黒い雨合羽を見たグレースロートの顔を思い出す。
「敵って言葉だけで見れば、随分簡単なのにね」
テレジアが母子の消えた方を見る。
「便利すぎるんだよ」
「ええ」
あれは敵、これは味方。そう決めてしまえば考えることは減るし、その方が戦いやすい。だからこそ、たぶん危ない。
◇
別の区画でグレースロートと合流した。腕に包帯が巻かれている。その少し後ろにはブレイズ。今朝は、二人の間には目に見えて距離があった。今は少し違った。近いわけではないが、互いを避けてもいない。
「怪我したの?」
俺が聞く。
「大したことはありません」
グレースロートが答える。ブレイズが横から口を挟んだ。
「感染者の子供を守ろうとして無茶したの」
グレースロートの眉が僅かに動いた。
「説明する必要ありました?」
「別に隠すことでもないでしょ」
それ以上は続かなかった。今朝、感染者に対するグレースロートの考え方を巡って、あれだけ空気が張り詰めていた二人だ。何があったのか細かく聞かなくても、少しは分かる。
「子供は?」
「無事です」
グレースロートの返事は早かった。それで十分だった。
「そう」
テレジアが二人を見ている。
「半日でも、人の見方って変わるものなのね」
俺は返事をしなかった。ブレイズも、グレースロートも、たぶん今朝のままではない。変わったというより、知らなかったものを一つ知っただけなのかもしれない。
◇
スラム街の奥では、戦闘が続いていた。直接そこへ入ることはなく、俺たちはそこから逃げてくる住民と負傷者を受け入れていた。
報告だけが次々に入る。スノーデビル小隊が撤退路を維持している。そこへレユニオンの残存兵が集まっている。龍門近衛局が接近。黒い雨合羽の部隊も戦闘へ入った。フロストノヴァが広範囲のアーツを使用。そして、端末から聞こえた言葉に眉を寄せた。
「唯一の退路?」
『他の経路は崩落しています。現在使用できるのは一か所だけで、そこをスノーデビル小隊が維持しています。レユニオンだけでなく、周辺住民も逃がしていることが確認されています』
さっきの親子だけじゃない。
その間にも負傷者が運ばれてくる。感染者も非感染者もいて、服装だけを見ても、どちらなのか分からない人間もいる。避難所の入口で、近衛局の隊員が声を上げた。
「感染者はこちらへ!非感染者は奥の――」
「待って」
思わず口を挟んだ。隊員が振り返る。すぐそばでは、腕から血を流した男が壁にもたれている。感染者だった。反対には、ほとんど怪我のない非感染者の家族が立っている。
「分けるのはあとでいい」
「ですが、感染者と非感染者を同じ場所に入れるのは――」
「今は怪我の重い順に診てくれ」
医療班を見る。
「歩ける人は奥へ。動けない人を先に運ぶ。感染者かどうかは、そのあと確認すればいい」
隊員はまだ迷っていた。無理もない。龍門では、それが普通なのかもしれない。
「目の前で死にかけてる人間に、先に感染者かどうかを聞く必要ある?」
返事はなかった。少しして、医療オペレーターが先に動いた。
「重傷者から診ます。こちらへ!」
周囲もそれに続く。壁にもたれていた感染者が担架へ乗せられ、そのすぐ後ろでは非感染者の老人が処置を受ける。同じ場所で、同じ順番の中で。
「さっき言っていたことね」
テレジアが俺の横へ来る。
「何が?」
「感染者だから、レユニオンだから。それだけで決めたくないって」
自分で言ったことくらい覚えている。ただ、言った時と、実際に目の前で決める時では少し違った。
「……別に、大したことしてないだろ」
「そうね」
テレジアは否定しなかった。
「普通のことよ」
今朝、アーミヤの指示を聞いて、普通のことを言っていると思った。普通のことほど、戦場では忘れられる。なら、今度は俺が忘れなければいい。
「セラスティア!」
別のオペレーターが走ってくる。
「南側で建物が崩れました!避難民が巻き込まれています!」
「行く」
反射的に答える。アーミヤもこちらを向いた。その直後、別方向から近衛局の通信が入る。スノーデビル小隊のいる区画へ、チェン長官たちも向かっているらしい。
「アーミヤ」
ドクターが呼ぶ。彼女は南側と、冷気の立ち込める奥を交互に見た。
「セラスティアさん。南側をお願いできますか?」
「ああ」
「私たちは、ここに残ります」
それ以上は聞かなかった。俺には俺の持ち場があり、アーミヤにはアーミヤの場所がある。
「頼んだ」
「はい。そちらもお願いします」
走り出す。後ろからテレジアもついてくる。スノーデビル小隊のいる方角とは逆だった。一瞬だけ、そちらへ目を向ける。白い霧のような冷気が、遠くの建物の間から立ち上っていた。
「行かなくていいの?」
テレジアが聞く。
「俺の場所はこっち」
答えて前を見る。今は、ここに助けを必要としている人がいる。
◇
崩れた建物から最後の一人を引き上げた頃には、戦況が大きく動いていた。
俺が戻ると、先にアーミヤの姿が見えた。近くにはドクター。少し離れた場所にはチェン長官もいる。ブレイズも戻ってきていた。誰もすぐには口を開かなかった。その空気だけで、何かが終わったと分かる。
「アーミヤ」
呼ぶと、こちらを見る。顔色が悪い。
「スノーデビル小隊は?」
少し間があった。
「……見届けました」
それだけで胸の奥が重くなる。アーミヤは続けた。
「フロストノヴァをファウストの部下たちに託して、自分たちは残りました」
「何のために?」
「撤退する感染者の人たちを逃がすためです」
フロストノヴァだけじゃなく、逃げていく感染者たちのために。
「フロストノヴァを逃がすために残って、黒い雨合羽の部隊を足止めしました。そのあと、近衛局とも交戦して……」
アーミヤは一度、視線を落とした。
「それでも、最後まで退きませんでした」
ブレイズが拳を強く握っている。助けようとしたのだろうが、間に合わなかった。
「生存者は?」
アーミヤは首を横に振った。行けば間に合ったのか、と頭に浮かぶ。でも、その時、俺は別の場所で崩れた建物から人を助けていた。両方には行けない。前に分かったつもりだったが、こういう時だけは簡単には飲み込めない。
「行きたかった?」
テレジアが静かに聞く。
「……ああ」
「そう」
「でも、俺が行かなかったから助かった人もいる」
「ええ」
テレジアは、どちらが正しいとも言わなかった。その二つが同時にあるだけだった。
「本人たちが選んだんだよな」
俺が呟くと、アーミヤが頷いた。
「はい」
誰かを逃がすために残る。その気持ちなら、少しくらいは知っている。
◇
しばらくして、俺たちも戦闘の跡が残る区画へ入った。路面が割れている。壁は凍りつき、ところどころ黒く焼けていた。近衛局の戦闘だけではない。黒い雨合羽の部隊が通った跡なのだろう。
倒れている者の中に、スノーデビル小隊の服が見えた。一人ではない。少し離れた場所にも、さらに奥にも。誰も動かない。俺は一人のそばへしゃがんだ。もう確認する必要もなかった。
「……最後まで、ここを守っていました」
後ろでアーミヤが言う。誰を守ったのか。フロストノヴァ、逃げていく感染者たち、あの道を通った龍門の住民もいた。それを全部逃がすために、ここへ残った。
「馬鹿だな」
言葉が漏れた。テレジアがこちらを見る。
「逃げればよかったのに」
自分でも、誰に向けて言っているのか分からなかった。倒れている相手か。フロストノヴァか。それとも、似たようなことを何度もしてきた自分自身か。
「本人たちは、そうしたかったのかもしれないわ」
テレジアが言う。
「誰かに命令されたからではなくて?」
「分からない」
俺には確かめようがないが、アーミヤは、その最期を見ている。
「だから嫌なんだよ」
「何が?」
「分かるところがあるのが」
レユニオンなのに、敵なのに、と続けそうになってやめた。それこそ、さっきまで考えていたことと同じだ。
テレジアは何も言わず、亡骸のそばへしゃがむ俺の隣にいた。触れられなくても、いつものように。
◇
大きな戦闘は、もう終わりへ向かっていた。レユニオンの残存部隊は撤退し、龍門近衛局も追撃の範囲を狭めている。作戦の確認が続く中、聞き慣れた声がした。
「ドクター」
ケルシーだ。ドクターが振り返る。ケルシーはアーミヤや俺ではなく、真っ直ぐドクターの前へ向かった。少し離れたところで二人が話し始める。全部は聞こえない。それでも、いくつかの言葉は届いた。龍門は、これ以上逃げた感染者を執拗に追わないこと。龍門側の戦いは、ここでほぼ終わること。そして、ロドスには、まだやるべきことが残っていること。
「……強制はしない」
ケルシーの声が聞こえる。ドクターは黙っている。
「ここから先に参加しないという選択肢もある」
少し間が空いた。
「だが、お前なら行くだろう」
ドクターが顔を上げる。
「相手がメフィストであろうと、フロストノヴァであろうと」
返事は短かった。
「ああ」
ケルシーはそれ以上、引き止めなかった。話を終えたドクターがこちらへ戻ってくる。
「行くの?」
俺が聞く。
「ああ」
「フロストノヴァを?」
「メフィストも。フロストノヴァも」
その言葉を聞いて、アーミヤも一歩前へ出た。
「私も同行します」
ドクターがアーミヤを見る。彼女の表情に迷いはなかった。
俺は少しだけ考えた。倒れていたスノーデビル小隊、助けられた親子、メフィストの牧群、ファウスト。全部同じレユニオンだった。それだけでは何も分からない。
「俺も行く」
言ったあとで、自分がテレジアへ何も聞かなかったことに気づいた。テレジアが少し笑う。
「何?」
「何でもないわ」
それ以上は聞かなかった。
◇
龍門の下層へ向かう途中、ドクターの隣を歩いた。
「さっきの話」
「フロストノヴァ?」
「ああ。地下では何を話した?」
少し沈黙が続く。
「スノーデビル小隊のことを家族みたいに思っている」
ドクターは前を見たまま答えた。
「みんなが生きられる場所を作ると約束していた」
さっきまで見てきたものと繋がる。
「それから、今のレユニオンにも疑問を持っていた」
「タルラに?」
「ああ」
ドクターが頷く。
「タルラが本当に感染者を裏切っているなら、自分で確かめるつもりだった」
少し間が空く。
「必要なら、自分で戦うつもりでもいた」
レユニオンの幹部だから従っている、という単純な話でもなかったらしい。
「それで、地下から出たあとも話した?」
「ああ」
「ロドスへ誘った?」
ドクターがこちらを見る。
「どうして分かった?」
「そこまで話せたなら、そのくらい言いそうだと思っただけ」
「掘り出されたあとに誘った」
地下での会話とは別だったらしい。
「答えは?」
「戦って、私たちが勝てたら考える、と」
少しだけ足が緩む。
「何だそれ」
「次に会えば敵だとも言っていた」
「……じゃあ、今から会うのがその次か」
「ああ」
隣でテレジアが小さく笑った。
「随分と物騒な再会になったのね」
「誘ったのはドクターだけどな」
もちろん聞こえていない。アーミヤが少し前を歩いている。その横にはブレイズ。グレースロートもいる。スノーデビル小隊はもういないが、まだフロストノヴァは生きている。話せる。選べる。少なくとも今は、まだ。
「セラスティア」
テレジアが呼ぶ。
「何?」
「会ったら、何を言うの?」
考える。答えは出なかった。
「分からない」
「そう」
「まず本人を見るよ」
名前でもレユニオンでも、誰かから聞いた話でもなく、自分の目で。
◇
下層へ進むにつれて、空気が冷たくなった。吐いた息が白い。壁に霜が浮かび、靴の下で薄い氷が割れる。ブレイズが前へ出た。
「近いね」
アーミヤも足を止める。誰も声を上げない。
通路の奥、薄暗い場所に、一人の女が立っていた。白い髪、長い耳。身体には隠しきれないほど源石の痕があり、呼吸も浅い。遠目でも、限界に近いと分かる。それでも、こちらを見る目だけは、まったく弱っていなかった。
アーミヤが一歩前へ出た。
「……やっぱり、ここにいたんですね」
白い女の視線がアーミヤからドクターへ移る。ドクターも彼女を見返した。
「こんにちは、フロストノヴァ」
一瞬、静かな間が落ちる。それから彼女は、俺たち全員を見るように視線を動かした。足元から冷気が広がる。テレジアが俺の隣で、その姿を見つめている。フロストノヴァは浅く息を吐いた。
「……こんにちは、ロドス」
今度は、名前だけではなかった。
目の前にいる。
一人の人間として。