夏雪草が帰る場所   作:Bestmeever

34 / 35
第33話 残された温もり

「……こんにちは、ロドス」

 

フロストノヴァの声は、思っていたより落ち着いていた。

 

通路の奥に立つ白い髪の女。その周囲では黒い結晶がゆっくりと浮かび、壁や天井に張りついた霜が、彼女の呼吸に合わせるように広がっている。近づくだけで肺の奥が冷え、吐いた息が白くなった。

 

今日、スノーデビル小隊の亡骸を見た時には分からなかった。あれほどの人間が命を懸けて逃がした相手が、今、俺たちの目の前にいる。

 

「……フロストノヴァさん」

 

アーミヤが一歩前へ出る。

 

「もう、戦う必要はありません。私たちはあなたと話をするために来たんです」

 

「話なら、前にもしただろう」

 

フロストノヴァはドクターへ視線を向けた。彼女の足元から冷気が流れ、こちらへ伸びてきたところで薄い氷の膜に変わる。

 

「約束も覚えている。だから、私はここにいる」

 

「だったら、なおさらこんなことをする必要ないでしょ!」

 

ブレイズが声を荒らげた。

 

「その身体、どうなってるか分かってるの!?源石が皮膚を突き破ってるじゃない!」

 

見れば、確かに異常だった。フロストノヴァの周囲を漂っている黒い結晶の一部は、彼女自身の身体から生まれているように見える。服の隙間から覗く肌には源石が食い込み、呼吸をするたびに僅かに肩が上下していた。それなのに、本人は痛がる素振りさえ見せない。

 

「……ひどい状態ね」

 

テレジアが隣で呟いた。

 

俺も同じことを考えていた。百年以上、戦場で感染者を見てきた。鉱石病がどんなふうに人の身体を壊すのかも、それなりに知っているつもりだった。だが、ここまで身体を蝕まれながら、なお自分の力で立っている人間はそう多くない。

 

「なあ、フロストノヴァ」

 

声を掛けると、彼女の目がこちらへ向いた。

 

「何だ、お前は」

 

「セラスティア。ロドスのオペレーターだ」

 

「……それで?」

 

「今日、あんたたちが逃がした親子に会ったよ。白い髪の女に助けられたって話してた」

 

僅かに、フロストノヴァの表情が動いた。

 

「感染者じゃない、龍門の住民だった。それでも助けたんだな」

 

「ああ」

 

彼女は短く答えた。

 

「子供がいたからな。あんなところで死なせる理由もない」

 

「二人とも無事だ。避難所まで送り届けたよ」

 

それを聞いたフロストノヴァは、少しだけ目を伏せた。

 

「……そうか」

 

何かを思い出すような間があった。

 

「それなら、よかった」

 

たったそれだけだった。けれど、その一言を聞いて、親子に会ってから抱いていた印象が間違っていなかったことだけは分かった。

 

この人は、ちゃんと他人の命を気に掛ける人間だ。だからこそ、彼女自身にも生きていてほしかった。

 

「それなら、あんた自身も――」

 

「勘違いするな」

 

言い終える前に遮られた。

 

「私は助けを求めて、ここに立っているわけじゃない」

 

冷気が強まる。

 

「スノーデビル小隊の指揮官として、私は負けた。守るべき者たちを失い、部隊も失った。だが、戦士としての私まで負けたわけじゃない」

 

ブレイズが歯を食いしばった。

 

「そんなことのために死ぬつもり?」

 

「私には、戦う理由がある」

 

フロストノヴァは一度目を伏せ、再び俺たちを見据えた。

 

「……タルラを、今のままにしてはおけない」

 

アーミヤの表情が変わった。

 

「彼女を……?」

 

「私はあいつを知っている。だからこそ、今のやり方を見過ごせない。だが、もう私一人で止められる相手ではない」

 

フロストノヴァはドクターへ視線を移す。

 

「ロドスが感染者のために戦うというなら、あいつを止められるのか確かめたい」

 

静かな声だった。俺たちを脅すためではなく、自分で決めたことを伝える声だった。それが妙に厄介だった。

 

最初に異変を感じたのはアーミヤだった。

 

「……っ!」

 

彼女が突然、胸元を押さえる。

 

「アーミヤ?」

 

支えようとしたところで、ブレイズが先に肩を掴んだ。

 

「アーミヤ!あいつの感情を無理に覗こうとしちゃ駄目!」

 

「違います……!」

 

アーミヤは顔を上げようとして、うまくできなかった。

 

「私から見たんじゃありません。フロストノヴァさんの感情が、勝手に流れ込んできて……!」

 

テレジアが表情を曇らせた。

 

「セラスティア、アーミヤのそばにいて」

 

言われるより先に、俺はアーミヤの反対側へ回っていた。身体が震えているが、寒さだけが原因ではなさそうだった。

 

「アーミヤ、聞こえるか?」

 

「……はい。大丈夫です」

 

そう答えながら、彼女はフロストノヴァを見つめていた。恐怖、悲しみ、そしてそれらを押し流すほどの怒り。俺には何も感じ取れないが、アーミヤの顔を見れば、どれほど強いものが流れ込んできたのかくらいは分かる。

 

「……そんな」

 

彼女が呟く。フロストノヴァは、まるでその反応を待っていたかのようにアーミヤを見返した。

 

「感じたか、アーミヤ。私たちが失ってきたものを」

 

アーミヤは答えられなかった。

 

「お前たちの理想は立派だ。だが、それだけでこの大地を変えられると思っているのか?」

 

周囲の氷が軋み始める。

 

「私たちが生きてきた場所に、そんな優しさはなかった」

 

「……フロストノヴァさん」

 

「お前の中にも怒りはあるはずだ。ならば、それをどうする?」

 

アーミヤは唇を噛んだ。泣きそうな顔だったが、それでも目を逸らそうとはしなかった。

 

「後方の隊員は下がって!」

 

ブレイズの声が響いた。

 

「アーミヤ、他の小隊を撤退させて!ここに残ってたら巻き込まれる!」

 

アーミヤは頷き、通信端末へ手を伸ばした。付近の小隊へ後退命令が伝えられ、通路の向こうで慌ただしく足音が響き始める。

 

ガヴィルたち医療班も含め、戦闘に参加しない者は一度下がることになった。

 

「アーミヤ、俺は残る。前が押されたら援護に入るし、退路の確保もできる」

 

撤退していく隊員たちを見送りながら声を掛けると、アーミヤはすぐに頷いた。

 

「分かりました。セラスティアさんには、ドクターの護衛と退路の確保をお願いします。フロストノヴァさんのアーツがどこまで広がるか分かりませんから、必要になったら前衛の援護にも入ってください」

 

「了解。ドクターは俺が見ておくよ。アーミヤも何かあったら遠慮なく呼んでくれ」

 

「はい。お願いします」

 

アーミヤはそこで一度、俺の足元へ目を向けた。床にはすでに薄い霜が広がり始めており、隊員たちが去った通路まで冷気が流れ込んでいる。

 

「ただ、あの冷気は普通ではありません。セラスティアさんも十分に気をつけてくださいね」

 

「分かってる。アーミヤも無茶するなよ」

 

そこへブレイズが割って入った。

 

「よし、じゃあ前は私が引き受ける!セラスティア、後ろは頼んだよ!」

 

「ああ。ブレイズも無茶するなよ」

 

「それ、あんたに言われたくないんだけど!」

 

そう言いながら、ブレイズはチェーンソーを肩に担ぎ直した。軽口を叩く余裕はあるようだが、その視線はフロストノヴァから一度も外れていない。

 

グレースロートも残った。ブレイズが本人へ確認し、彼女も自分の意思で頷いている。

 

ドクターにも退くようアーミヤが求めたが、返ってきた答えは短かった。

 

「最後まで見届けたい」

 

アーミヤはしばらくドクターを見つめていたが、やがて頷いた。

 

「……分かりました。でも、危険になったら必ず私たちの指示に従ってくださいね」

 

ドクターが頷いたのを確かめ、俺は彼の少し前へ立った。ここなら前方の様子も見えるし、氷がこちらへ伸びてきても対応できる。

 

テレジアはドクターをじっと見ていた。昔の彼ならどうしたか、今の彼は何を考えているのか。彼女の胸に浮かんだものまでは、俺には分からない。ただ、ドクターがここに残ると決めたことだけは分かった。

 

◇

 

「始めるよ!」

 

最初に動いたのはブレイズだった。

 

チェーンソーが唸りを上げ、周囲の空気が熱を帯びる。床を覆っていた氷が蒸気を上げ、次の瞬間にはブレイズがフロストノヴァの目前へ迫っていた。迎え撃ったのは氷の刃だった。金属のぶつかる音が響く。

 

「っ、重い……!」

 

ブレイズへ伸びる別の氷柱が見えた。ドクターの位置を一度確かめ、前へ踏み込む。剣を振り抜くと、刃が氷柱へ食い込み、その先端が砕け散った。だが、飛び散った氷片が地面へ落ちるより先に、新しい結晶が生まれ始めていた。

 

「再生するのかよ!」

 

「そこを退いて、セラスティア!」

 

ブレイズに言われ、反射的に身を引く。熱を帯びた一撃が氷柱を砕いたが、フロストノヴァは動じない。俺たちの攻撃を見て、ただ静かに次の手を選んでいる。

 

「剣を使うのか」

 

フロストノヴァの目が俺へ向いた。

 

「古い戦い方だな」

 

「そっちも随分古風だろ。わざわざ正面から相手してくれるんだから」

 

「……ふん」

 

僅かに口元が動いた。笑ったのかもしれない。

 

その直後、足元が凍った。

 

「うおっ!」

 

後ろへ跳ぶ。さっきまで立っていた場所から鋭い氷が突き出し、天井へ届くほど伸びた。避けるのが少し遅ければ、足を貫かれていた。

 

「セラスティアさん!」

 

アーミヤが呼ぶ。

 

「無事だ!」

 

答えながらドクターのそばへ戻る。

 

前方ではブレイズがフロストノヴァを抑え、グレースロートは別のクロスボウを手に、離れた位置から狙撃している。だが、放たれた矢の何本かは途中で凍りついていた。俺の剣も、すでに刃の一部が白くなっている。長引けばまずいのは、誰の目にも明らかだった。

 

「……強いな」

 

思わず漏れた。

 

テレジアが俺の後ろへ回る。

 

「それだけじゃないわ。周りの温度が下がり続けている」

 

「ああ」

 

今は動けるが、このままでは身体が先に動かなくなる。フロストノヴァを倒すより先に、俺たちの方が凍りつくかもしれない。

 

ブレイズが何度目かの突撃を仕掛けたところで、冷気の流れが大きく変わった。

 

「アーミヤ、下がって!」

 

ブレイズが叫ぶ。

 

その声とほとんど同時に、アーミヤの指先が凍りついた。

 

「……っ!」

 

彼女が両手を見下ろす。

 

十個の指輪。そのすべてを覆うように、薄い氷が張りついていた。力を込めようとすると、氷が軋むどころかさらに強く締まり、アーミヤの顔が苦痛に歪む。

 

「十個とも……!」

 

「考えることは同じだな、アーミヤ」

 

フロストノヴァが言った。

 

「指輪を外せば、もっと大きな力を使えるのだろう?」

 

アーミヤの表情が変わる。

 

「お前がそれを選ぶ前に、封じさせてもらった」

 

ブレイズが熱を集中させ、指輪を覆う氷へ手を伸ばした。だが、溶けない。周囲の床からは水蒸気が上がっているのに、指輪の氷だけが頑として残り続けていた。

 

「……駄目だ。これ、普通の氷じゃない!」

 

「ブレイズさん、離れてください!」

 

アーミヤが声を上げる。

 

「無理に解こうとしたら、かえって危険です!」

 

俺も近づこうとしたが、フロストノヴァの視線がこちらへ向いた。それだけで足元の氷が伸びる。剣を振り下ろして砕くものの、アーミヤのところへ辿り着く前に、別の氷柱が行く手を塞いだ。

 

「セラスティア、ドクターをお願い!」

 

ブレイズの声が飛ぶ。

 

「分かった!」

 

ドクターの周囲へ戻り、戦況を確かめる。アーミヤは凍りついた手を見つめたまま、何かを考えていた。指輪を解放できなくても、戦う方法を探していた。止めるべきかと声を掛けかけたところで、テレジアがアーミヤを見た。彼女は何も言わない。俺も口を閉じて、代わりにアーミヤの近くへ飛んできた氷片を剣で払った。

 

考えるのはアーミヤだ。今の俺ができることは、そのための時間を作ることだった。

 

ブレイズが前方で足を止めた。チェーンソーの刃を覆っていた熱が、白い冷気に押し返されている。グレースロートもクロスボウを構えたままだが、引き金に掛けた指が思うように動かないらしい。

 

「ドクター!」

 

ブレイズが振り返る。

 

「これ以上は無理!何か方法ないの!?」

 

ドクターはフロストノヴァの動きを見ていた。一度、俺たちの位置を確かめる。

 

「……耐えるしかない」

 

ブレイズが目を見開いた。

 

「耐えるって、どこまで!?」

 

「あの冷気を破れない以上、正面から押し切ることはできない」

 

ドクターの声は落ち着いていた。

 

グレースロートがフロストノヴァを見る。

 

「……そういうことね」

 

凍りついたクロスボウを握り直した。

 

「彼女の身体はもう限界に近い。こちらが持ちこたえれば、いずれアーツを維持できなくなる」

 

「ちょっと待って!」

 

ブレイズが声を荒らげる。

 

「それじゃ、あいつが死んじゃうでしょ!」

 

誰もすぐには答えなかった。俺もドクターを見る。確かに、このままではフロストノヴァが先に倒れる。それは勝利と呼べるのか。

 

「他の方法は?」

 

尋ねると、ドクターは首を横に振った。

 

「今の力を正面から破る手段はない。退路を確保しながら耐える。それが、私たちに残された方法だ」

 

「でも!」

 

ブレイズはまだ納得していない。

 

「助けられるかもしれないのに、死ぬまで待てっていうの!?」

 

ドクターは静かに答えた。

 

「彼女が選んだ戦いでもある」

 

その言葉で、ブレイズが黙る。

 

「こちらも生き残らなければならない」

 

ドクターが俺たちを見る。

 

「無理に仕留めようとしなくていい。冷気を防ぎ、互いの位置を見失うな」

 

ブレイズは歯を食いしばっていたが、しばらくして頷いた。

 

「……分かった。でも、あいつが倒れたら絶対に助けるからね」

 

「ああ」

 

俺も剣を握り直した。俺たちが生き残らなければ、フロストノヴァを助ける機会さえ失ってしまう。

 

「……それで、お前たちの答えは?」

 

フロストノヴァの声が聞こえた。

 

冷気の向こうに立つ彼女は、もう呼吸すら苦しそうだった。それでも足を止めず、俺たちを見据えている。

 

「この世界を変えると言ったな、アーミヤ。だが、そのために何をする?お前たちは、何のために戦い続ける?」

 

アーミヤが顔を上げる。フロストノヴァから流れ込む感情は、まだ途絶えていないらしい。彼女は時折顔を歪めながら、それでも目の前の相手を見続けていた。

 

「フロストノヴァさん……」

 

一度、息を整える。

 

「あなたが背負ってきた怒りも、失った人たちへの思いも、私には全部を理解することはできません」

 

フロストノヴァの目が細くなる。

 

「ならば、どうする?」

 

「……それでも、なかったことにはしたくないんです」

 

アーミヤは正直に答えた。

 

「あなたの感情が流れ込んできたからといって、私があなたのすべてを知ったことにはなりません。でも、その痛みを感じたことまで忘れたくありません」

 

頬を伝う涙に気づいたのか、彼女は一度だけ目元を拭った。フロストノヴァはそれを見ていた。

 

「お前は、それでも戦うのか」

 

アーミヤはドクターを見る。彼は黙って頷いた。答えを教えるわけではなく、ただ、彼女が決めるのを待っていた。

 

「……はい」

 

アーミヤが顔を上げる。

 

「フロストノヴァさん。私は、あなたと戦います」

 

声が震えていない。

 

「できることなら、戦わずに済ませたかったです。今でも、あなたにロドスへ来てほしいと思っています」

 

一度、息を吸う。

 

「でも、あなたがここで戦うと決めたのなら、私たちも最後まで戦います。あなたを拒絶するためではなく、私たち自身が信じるものを守るために」

 

フロストノヴァはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

 

「……それでいい」

 

彼女がドクターを見る。

 

「お前たちの理想がどれほどのものか、私に見せてみろ」

 

アーミヤも、真っ直ぐ彼女を見返した。

 

「感染者は、誰か一人に従わなければ生きていけないわけではありません。私たちが戦うのは、一人の指導者のためではなく、同じ信念を持っているからです」

 

その言葉を聞いたフロストノヴァの表情が、僅かに変わった。

 

「……そうか」

 

彼女が問い掛ける。

 

「ならば、誰のために戦う?」

 

アーミヤは答えた。

 

「すべての人のためです」

 

フロストノヴァは、しばらく彼女を見つめたあと、静かに頷いた。

 

「……いい答えだ」

 

足元から冷気が広がる。

 

「私に勝て。そうすれば約束を守ろう。お前たちのやり方で、感染者の敵と戦ってやる」

 

「フロストノヴァ!」

 

ブレイズが叫ぶ。

 

「それじゃ、あんたが――!」

 

「分かっている」

 

遮る声は、驚くほど静かだった。

 

「だからこそ、私はここにいる」

 

そこからの戦いは、ほとんど持久戦だった。

 

ブレイズが前へ出て氷を砕き、グレースロートが僅かな隙間を狙う。アーミヤは指輪を解放できないまま、残された力でドクターの指示に合わせて動いていた。俺はドクターの周囲へ伸びる氷柱を払い、ときおり前へ踏み込んでブレイズたちが動ける場所を確保した。フロストノヴァを直接押し切るのは難しい。攻撃の軌道を逸らすことならできるが、少しずつ追い詰められていく。

 

踏み込んだ足が凍り、剣を握る指先の感覚が薄れていた。呼吸を整えようにも吸い込む空気が冷たすぎて、胸の奥が痛む。

 

フロストノヴァは、まだ立っている。あれほど身体が壊れているのに。

 

「……どうして」

 

隣でテレジアが呟いた。俺にも分からなかった。なぜそこまでして戦うのか、何のために自分の命を削るのか。けれど、さっき見たスノーデビル小隊の姿が重なった。あいつらも最後まで退かなかった。この人も同じなのかもしれない。

 

◇

 

次に訪れた冷気は、それまでとは比べものにならなかった。

 

グレースロートの矢が凍りつき、ブレイズが作り出した熱の流れさえ押し返される。俺は剣を握り直した。腕は重く、足の感覚もほとんど残っていない。それでも前へ出ようとした。

 

「セラスティア!」

 

テレジアの声が響く。その瞬間、地面から伸びた氷が俺の足を捕らえた。

 

「しまっ――」

 

剣を振り下ろして一本は折ったが、砕けた氷の向こうから、さらに太い氷柱が伸びてくる。身を捩って避けたところへ、横から冷気が叩きつけられた。視界が揺れる。次に床へ倒れ込んだ時には、剣が手から離れていた。

 

少し離れた場所で、ブレイズが叫んでいる。グレースロートもまだ立っていて、アーミヤが掌に集めたアーツが黒い光を放つ。それでも、フロストノヴァは進む。

 

一歩。

 

また一歩。

 

ブレイズが正面から食い止めようとし、グレースロートも矢を放った。その二人を、巨大な氷の槍が襲う。

 

「ブレイズさん!」

 

アーミヤの声が響いた。伸びた氷は、アーミヤの足元まで一瞬で届き、倒れる音が重なる。

 

俺も立ち上がろうとしたが、身体が言うことを聞かなかった。凍りついた足を引き抜こうとしても力が入らず、手を伸ばした先にある剣へ指先が届かない。

 

フロストノヴァが近づいてくる。

 

止めなければ。

 

そう思った。

 

なのに、身体が動かない。

 

「……くそっ」

 

無理に身を起こそうとした、その時だった。フロストノヴァの足が止まる。咳き込む音。大きく揺れた身体を支えようとしたのか、彼女は片手を壁へ伸ばした。けれど、指先は壁に届かなかった。

 

「……ここまで、か」

 

フロストノヴァの膝が折れ、その身体がゆっくりと床へ崩れ落ちる。俺たちの誰かが最後の一撃を与えたわけじゃない。彼女自身が、最後まで力を使い続けた結果だった。

 

◇

 

冷気が少しずつ薄れていく。最初に耳へ届いたのは、小さく何かが割れる音だった。フロストノヴァが胸元へ手を伸ばしている。その指先には、砕けた小さな品があった。

 

「……砕けた、か」

 

消え入りそうな声だった。

 

「……あの石頭が、どこぞの巫からもらってきたものなんだがな」

 

フロストノヴァは破片を見つめながら、苦しそうに笑った。

 

「これがあれば、まだ命を繋ぎ止められると言っていたのに……一度の戦いにも耐えられないとはな」

 

彼女は自嘲するように息を吐き、砕けた品を掌の中で転がした。

 

石頭とは、誰のことだろう。その呼び方からして、随分と親しい相手なのかもしれない。少なくとも、彼女の命を繋ぐために何かを探してきた人物がいたのだろう。あれだけ多くの仲間に慕われていた人だ。その身を案じる者がいても、何も不思議ではなかった。

 

フロストノヴァはしばらく破片を見つめていたが、やがて力の抜けた手を床へ下ろした。

 

そこへ、ブレイズが身を起こす。

 

「……アーミヤ!」

 

「げほっ……ブレイズさん……!」

 

二人とも生きている。グレースロートも倒れていたが、意識はあった。俺は凍りついていた足を何とか引き抜き、落ちた剣を拾った。握り直そうとしても指がうまく動かず、諦めて鞘へ戻す。その間にも、アーミヤがフロストノヴァへ駆け寄ろうとしていた。

 

「フロストノヴァさん!」

 

ブレイズも続こうとしたが、身体が言うことを聞かないらしい。

 

「……くっ」

 

「ブレイズさん!」

 

「私は大丈夫!それより、あの白ウサギを見てあげて!」

 

アーミヤが頷き、フロストノヴァのそばへ駆け寄る。俺も歩み寄った。

 

「……やるな、ロドス」

 

消え入りそうな声だった。

 

「お前たちの……勝ちだ」

 

フロストノヴァは横たわったまま、天井を見上げている。

 

「私の兄弟姉妹は……何も残せなかった。私も、何も……」

 

「そんなことありません!」

 

アーミヤが言った。

 

「あなたたちが助けた人は、ちゃんと生きています!」

 

今日、避難所へ送り届けた親子を思い出した。あの二人だけじゃない。フロストノヴァたちが通した道から、大勢の感染者が逃げていった。何も残せなかったなんて、そんなことはない。

 

ドクターも彼女へ言葉を掛けていた。スノーデビル小隊が彼女についていったのは、彼女自身が信じていたものがあったからだと。

 

フロストノヴァは目を伏せる。

 

「……いいから、行け」

 

アーミヤが顔を上げる。

 

「ここにいる時間があるなら……まだ助けられる奴を、助けろ」

 

黒い雨合羽の部隊、メフィスト、行き場を失った感染者たち。この戦いが終わっても、助けを必要としている人間はいくらでもいる。それをフロストノヴァ自身が分かっていた。

 

「ドクター……」

 

アーミヤが振り返る。

 

ドクターはフロストノヴァのそばに膝をついたまま、短く答えた。

 

「私は残る」

 

それ以上、何も言わなかった。

 

アーミヤは唇を噛み、やがて頷いた。

 

「……分かりました」

 

声が震えていた。

 

「ドクター、フロストノヴァさんに……私の言葉を伝えてください」

 

ドクターは頷いた。アーミヤが立ち上がり、俺も一度だけフロストノヴァを見る。

 

「……セラスティアさん」

 

アーミヤに呼ばれた。

 

「他の人たちの救護をお願いできますか?」

 

「ああ。任せて」

 

俺はその場を離れた。フロストノヴァを助けるために、できることはないのか。今でもそう思っている。けれど、医療班を呼ぶための通信も、負傷者を安全な場所へ運ぶことも、まだ俺にできる。そしてドクターは、彼女のそばに残ると決めた。俺までそこに居座る理由はなかった。

 

◇

 

アーミヤは、通路を抜けたところで通信端末を取り出していた。龍門の感染者たちが置かれている状況を確かめるため、ウェイとの面会を求めるという。すでに何人もの隊員が別の場所へ向かっており、彼女も急がなければならないらしい。

 

「セラスティアさん、私は龍門の方へ行ってきます」

 

「分かった。気をつけてな」

 

「……はい。セラスティアさんも、怪我を診てもらってくださいね」

 

「ああ。救護が一段落したら行くよ」

 

アーミヤは一度だけ通路の奥を振り返り、やがて近衛局の隊員が待つ方向へ歩き出した。その背中を見送りながら、俺は救護班のところへ向かう。ブレイズとグレースロートは少し離れた場所で休ませてもらっているらしい。二人とも意識はあると聞いていたので、ひとまずは他の負傷者を優先することにした。

 

搬送用の担架を受け取り、医療オペレーターと一緒に通路を往復する。氷が消えた場所にも、戦いの跡は残っていた。壁は割れ、床は砕け、足元には黒い結晶が散らばっている。さっきまで誰かが命を懸けて戦っていた場所なのに、今はもう、救護班が行き来する音しか聞こえない。

 

「……セラスティア」

 

テレジアが隣へ来た。

 

「無理をしていない?」

 

「少し足が痛むくらいだよ。まだ動ける」

 

「そう。なら、せめて足元には気をつけてね」

 

言われて視線を落とすと、すぐ前に大きな瓦礫が転がっていた。

 

「……危なかった」

 

「もう」

 

テレジアが困ったように笑う。俺も小さく笑い返し、瓦礫を脇へ退けた。

 

次の負傷者を運び終え、担架を戻そうとした時、通路の向こうから足音が聞こえた。ドクターだった。その腕には、フロストノヴァが抱えられていた。彼女の顔は穏やかで、さっきまであれほど強い冷気を放っていた身体が、今はもう周囲を凍らせていない。俺は思わず足を止めた。ドクターもこちらに気づいたようだったが、何も言わなかった。その沈黙だけで十分だった。

 

「……そうか」

 

小さく呟く。フロストノヴァは、もう戻ってこない。ドクターの腕の中で眠るように目を閉じている彼女を見て、ようやくその事実が胸の奥へ落ちてきた。代わりに運ぼうかと声を掛けかけたが、やめた。ドクターは彼女を抱え直し、ゆっくりと歩き出す。俺はその背中を見送った。

 

その先で、近衛局の隊員が声を掛けている。

 

「ロドスの方ですね!レユニオンの指揮官はどうなりました?メフィストは捕らえたんですか?」

 

ドクターは足を止めた。隊員は返事を待っている。

 

「何か報告をいただけないと、こちらも困るんですが……」

 

ドクターは答えなかった。やがて、隊員がその腕の中にいる女性へ目を向ける。

 

「……その感染者は?」

 

ドクターが、僅かに顔を上げた。

 

「感染者が一人、亡くなった」

 

それだけだった。隊員が何かを言いかけたが、ドクターはもう振り返らなかった。フロストノヴァを抱えたまま、ロドスの待機地点へ向かって歩いていく。俺はしばらくその背中を見ていた。テレジアも隣で黙っている。やがて、ドクターの姿が見えなくなったところで、彼女が小さく息を吐いた。

 

「……優しい人ね」

 

「うん」

 

俺もそう思った。フロストノヴァがどんな最期を迎えたのか、俺たちには分からない。それでも、ドクターが彼女を一人で置いてこなかったことだけは分かった。

 

◇

 

救護班の待機場所へ戻ると、ブレイズとグレースロートが話している声が聞こえた。二人ともまだ移動できず、壁際に腰を下ろしている。ブレイズの顔色は良くなかった。外から見える怪我はそれほど多くないものの、服の内側から血が滲み、呼吸にも疲労が滲んでいる。

 

「……あの白ウサギ、本当にとんでもない奴だったわね」

 

ブレイズが天井を見上げていた。

 

「こっちが何人掛かりでも歯が立たなかった。あいつの身体が先に限界を迎えなかったら、私たち全員、氷漬けになってたかもしれない」

 

グレースロートは何も言わなかった。

 

「それなのにさ、あいつは最後まで戦い抜いたんだよね。仲間を失って、身体もあんな状態だったのに」

 

ブレイズの声が少し低くなる。

 

「……助けられたかもしれないのにな」

 

グレースロートが視線を上げた。

 

「でも、私たちは生き残ったわ」

 

「うん。それは分かってる」

 

ブレイズは頷いたが、すぐには続けなかった。

 

「あいつが死んだことまで、勝ってよかったって片づける気にはなれないんだよね」

 

いつもの勢いがない。俺は二人の会話を邪魔しないよう、少し離れた場所へ腰を下ろした。

 

ブレイズがグレースロートを見た。

 

「ところで、アーミヤは?」

 

「龍門の責任者に会いに行ったみたい」

 

「そっか。あの子も、色々やることあるもんね」

 

ブレイズは少しだけ笑った。それから、グレースロートへ手を伸ばす。

 

「ねえ、悪いんだけど肩貸してくれない?」

 

「……立てないの?」

 

「立てると思ったんだけどね」

 

ブレイズは壁へ手をついて身体を起こそうとしたが、すぐに膝が折れかける。俺が立ち上がるより先に、グレースロートが腕を伸ばしていた。

 

「ちょっと、無理しないで」

 

「……思ったより血を使っちゃったみたい。あと、寒い」

 

「それで、まだ一人で歩こうとしてたの?」

 

グレースロートが眉を寄せる。

 

「エリートオペレーターにも色々あるんだってば」

 

ブレイズは苦笑した。

 

そこで、グレースロートがふと口を開く。

 

「……私がロドスを辞めると思ってたんでしょ」

 

ブレイズの表情が変わった。

 

「違うの?」

 

「今は、そう思ってない」

 

グレースロートは静かに答えた。

 

「今回の戦いで、感染者の苦しみを少しは分かったつもり。私が今まで見ようとしていなかったものも、たくさんあった」

 

ブレイズはすぐには答えなかった。

 

「だから、これからもロドスにいる。自分にもできることがあると思ったから」

 

二人の間に、少しだけ沈黙が落ちる。

 

「ねえ、グレースロート」

 

ブレイズが言った。

 

「私が感染者で、あんたが感染者じゃない。それって、死ぬ時まで何かの違いになると思う?」

 

グレースロートは答えを探すように視線を落とした。

 

「……ならないと思う」

 

「そういうこと」

 

ブレイズは小さく息を吐いた。

 

「私もあんたも、死んだらただの死体なんだよ。感染者かどうかなんて、そんなところまで持っていけるものじゃないでしょ」

 

その言葉を聞いて、俺はフロストノヴァのことを思い出した。ドクターの腕の中にいた彼女は、レユニオンの指揮官には見えなかった。一人の、亡くなった女性だった。

 

「感染者が苦しんでるのは事実だし、だからこそ変えなきゃいけないこともある。でも、可哀想だから助けてほしいんじゃない。私たちだって、普通に生きてる人間なんだから」

 

ブレイズはグレースロートへ目を向けた。

 

「白ウサギだってそうでしょ。最後まであんなに強かった。あいつを感染者だからって理由だけで見るのは、何か違うと思わない?」

 

グレースロートが頷く。

 

「……そうね」

 

「それなら、いいんじゃない?」

 

ブレイズはそう言って、また壁へ背中を預けた。

 

グレースロートが彼女の隣へしゃがむ。

 

「ブレイズ」

 

「何?」

 

「私はこれからもロドスにいる。それはもう決めたわ」

 

「うん」

 

「だから、あなたもちゃんと戻ってきて。こんなところで無茶して倒れられたら困るもの」

 

ブレイズが少しだけ目を見開き、やがて笑い出した。

 

「ははっ!あんた、随分言うようになったじゃない!」

 

「……何かおかしい?」

 

「いや、いいと思うよ。すごく」

 

笑った拍子に傷が痛んだのか、ブレイズは顔をしかめた。グレースロートが呆れたように息を吐く。

 

「だから無理しないでって言ってるのに」

 

「はいはい。悪いけど、今度こそ肩貸してくれる?」

 

グレースロートは返事の代わりに、彼女の腕を自分の肩へ回した。俺も反対側へ近づく。

 

「俺も手伝うよ」

 

「セラスティアも怪我してるでしょ」

 

「少なくとも、今は立ってる」

 

「……それもそうか」

 

ブレイズが苦笑した。

 

二人で身体を支え、ゆっくり歩き出す。少し移動しただけで、ブレイズの呼吸が荒くなった。想像していた以上に消耗しているらしい。

 

「医療班は呼んである。無理せず行こう」

 

「助かる。ガヴィルが来る前に少しでもまともな格好になっておきたいし」

 

「それなら、もっと早く医療班を待っていればよかったんじゃない?」

 

グレースロートが言う。

 

「分かってないなぁ。エリートオペレーターには面子があるの!」

 

「命より大事な面子なんてないと思うけど」

 

「そこまで言わなくてもよくない!?」

 

二人のやり取りに、思わず笑ってしまった。先ほどまでとは、少し雰囲気が違う。グレースロートが自分の意思でここに残ると決めたことが、俺には嬉しかった。

 

◇

 

医療班へブレイズを引き渡したあとも、救護の仕事は続いた。負傷者を運び、使える物資を集め、移動できない者が残っていないか確認する。フロストノヴァとの戦いが終わっても、龍門の各所ではまだ混乱が続いていた。その合間に、俺は何度もドクターの背中を思い出していた。

 

「……気になる?」

 

テレジアが隣を歩いている。

 

「ああ」

 

「そうね」

 

「連れて帰れなかったんだな、結局」

 

テレジアはすぐには答えなかった。俺も返事を求めていたわけじゃない。

 

「今まで、何人も見てきたよ。感染者も、そうじゃない奴も。助けられた人間より、助けられなかった人間の方をよく覚えてる」

 

担架を畳みながら話す。

 

「昔は、全部自分の力が足りないせいだと思ってた」

 

言いながら、テレジアを見る。

 

「今も、そう思いかけた」

 

彼女は黙って聞いていた。

 

「あの時もっと早く動けてたらとか、俺が最後まで立ってればとか。考え始めたら、たぶんいくらでも出てくる」

 

「ええ」

 

折り畳もうとした担架の留め具がうまく噛み合わず、手元でもたついた。凍傷の残る指先が言うことを聞かない。

 

「……悔しいな。助けたいと思った相手が、目の前で死んだんだ」

 

フロストノヴァは自分でこの場所へ来て、戦うと決めた。そのことは分かっている。それでも、あの時もう一歩動けていたらという考えは、簡単には消えてくれなかった。

 

テレジアがこちらを見る。

 

「セラスティア。悲しい?」

 

答えるのに迷わなかった。

 

「うん」

 

「そう」

 

テレジアは静かに頷いた。彼女がそれ以上を尋ねなかったので、俺も続きを口にしなかった。担架の留め具を、今度は落ち着いて閉じた。

 

◇

 

救護を終えた頃には、すでに日付が変わっていた。治療を受けたあと、俺はロドスの待機区画で休んでいた。

 

フロストノヴァの遺体は、感染者として適切な処置を受けるため、ドクターがロドスへ運んだと聞いている。アーミヤも龍門側との話し合いを終えたらしい。ただ、詳しい事情まではまだ聞いていなかった。

 

窓の外を眺めていると、扉が控えめに叩かれた。

 

「セラスティアさん、今よろしいですか?」

 

アーミヤだった。

 

「もちろん。どうした?」

 

扉を開けると、彼女は少し疲れた顔で立っていた。その手には、書類が何枚か握られている。

 

「ドクターと、少しお話をしてきました」

 

「……フロストノヴァのこと?」

 

「はい」

 

アーミヤが頷く。

 

「フロストノヴァさんは、最後にロドスへ入りたいと言ってくれたそうです」

 

俺は顔を上げた。

 

「……本当に?」

 

「はい。ドクターが教えてくださいました」

 

アーミヤは手元の書類を見つめ、少しだけ笑った。

 

「これからは自分も私たちのそばにいるって。私が一人ではないことを、伝えてほしいって……」

 

声が震えていた。

 

「私たちを、信じてくれたんです」

 

俺は何も言えなかった。

 

「……そうか」

 

ようやく、それだけ答えた。

 

アーミヤは目元を拭った。

 

「ドクターも、フロストノヴァさんのことを忘れないと思います」

 

「ああ」

 

俺も、忘れられそうにない。

 

アーミヤが窓の外へ視線を向ける。

 

「龍門では、まだ確かめなければならないことがたくさんあります。感染者の人たちがどうなったのか、私もちゃんと向き合わないといけません」

 

「うん」

 

「フロストノヴァさんが最後に望んでくれたことも、無駄にしたくないですから」

 

その言葉を聞いて、俺はアーミヤを見た。顔には疲れが残っていた。それでも手にした書類を離そうとはせず、もう次にやるべきことを考えているようだった。

 

「……アーミヤ」

 

「はい?」

 

「何か手伝えることがあったら言ってくれよ。俺も、できることはやるから」

 

アーミヤは少し驚いたように目を見開き、それから微笑んだ。

 

「ありがとうございます、セラスティアさん」

 

その笑顔を見て、少しだけ胸が軽くなった。

 

◇

 

アーミヤが戻ったあと、俺は再び椅子へ腰を下ろした。テレジアが窓際に立っていて、しばらく外を眺めていたが、やがてこちらへ振り返った。

 

「……セラスティア」

 

「ん?」

 

「フロストノヴァのこと、考えていたの?」

 

「ああ。昨日まで、名前しか知らなかったのにさ。会ったのも、ほんの少しだった」

 

それなのに、頭から離れなかった。彼女の顔、黒い結晶、最後まで退かなかった姿、ドクターの腕の中にいた時の穏やかな表情が、次々に浮かんでくる。

 

テレジアは椅子の横へ来て、静かに俺を見ている。

 

「セラスティアは、あの人をどう思った?」

 

しばらく考えた。レユニオンの幹部、感染者、スノーデビル小隊の指揮官、ドクターたちと戦った相手。どれも間違ってはいない。でも、全部を並べても、フロストノヴァという人間を言い表せる気がしなかった。

 

「……強い人だった」

 

最初に出てきたのは、それだった。

 

「あと、優しい人だったと思う」

 

テレジアが微笑む。

 

「ええ」

 

「ただ、もう少し自分のことも考えてほしかったな」

 

「……そうね」

 

その返事は、少しだけ寂しそうだった。昔の俺が同じようなことをしたら、テレジアはきっと怒っただろう。実際、何度も怒られた。そのたびに、俺は彼女を守りたかっただけだと答えた。今なら少し分かる。守られる側が、どれほど怖い思いをするのか。残される側が、何を背負うのか。昨日のスノーデビル小隊も、フロストノヴァも、みんな誰かを守ろうとしていた。

 

「……なあ、テレジア」

 

「なあに?」

 

「俺さ、あの人を助けたかったよ」

 

「ええ」

 

「でも、助けられなかったからって、俺まで何かを失わなきゃいけないわけじゃないんだよな」

 

テレジアは少しだけ目を見開き、それから俺の包帯が巻かれた腕を見た。何かを言いかけた唇が、穏やかな笑みに変わる。

 

「……そうね」

 

昔のように、これからどうすればいいかを教えてくれるわけじゃない。その代わり、俺が自分で考えたことを、最後まで聞いてくれた。

 

アーミヤの言葉を思い出す。フロストノヴァは、最後に自分でロドスを選んだ。結果として、その選択の先を生きることはできなかった。それでも、彼女が自分で選んだという事実まで、失われたわけじゃない。

 

「……今日もやることあるしな」

 

「ええ。たくさんあるでしょうね」

 

「まずは怪我を治すか」

 

「ええ。そうしてくれると、私も安心するわ」

 

椅子へ深く座り直す。包帯を巻かれた腕が痛んだが、耐えられないほどではなかった。

 

窓の外では、龍門の空が少しずつ明るくなっていた。フロストノヴァが見たかったものが、この先にあるのかは分からない。ただ、彼女が逃がした人たちは生きている。ドクターも、アーミヤも、まだ歩いている。俺も、これからきっとまた誰かを助けようとする。

 

あの人の死を忘れずに。自分の命まで置いていくことはしないで。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。