フロストノヴァとの戦いから一夜が明け、龍門の後処理に追われているうちに、もう夕方になろうとしていた。朝から負傷者の搬送や補給物資の確認、各部隊からの報告が絶えない。治療を受けたあとも仕事に追われ、医療室でようやく短い仮眠を取ったところで、今度は作戦室への招集が掛かった。
「休む暇もないな」
包帯の巻かれた腕を動かしてみる。痛みはまだ残っているものの、剣を握れないほどではなかった。
「あなた、さっきも同じことを言っていたわよ」
テレジアが隣から覗き込んでくる。
「実際、休めてないからな」
「それはそうだけれど、だからといって無理をしていい理由にはならないでしょう?」
「分かってる。今日はもう戦わないよ」
そう答えると、テレジアは少し疑わしそうな顔をした。信用されていないらしい。もっとも、さっきまでの俺を見ていれば、そうなるのも仕方がない。
作戦室へ向かう途中、窓の外に龍門の街並みが見えた。日が沈みかけ、街には少しずつ明かりが灯り始めている。レユニオンとの戦いで傷ついた街にはまだ爪痕が残っており、道路のあちこちでは復旧作業が続いていた。
その光景を眺めていると、昨日の戦いで見たフロストノヴァの姿が頭をよぎった。最後まで戦い抜いた、白い髪の女性。彼女がロドスに加わりたいと願ったことは、今朝アーミヤから聞いている。生きていてくれたらどんな話ができただろうと考えても、答えは出なかった。
「……行こうか」
隣のテレジアへ声を掛ける。彼女は俺の顔を見て、小さく頷いた。
◇
作戦室には、すでにケルシーとアーミヤ、それからドクターが集まっていた。全員、疲れが顔に出ている。とりわけアーミヤは、今朝会った時より表情が硬かった。何かあったのかと尋ねる前に、ケルシーが卓上の端末を操作する。
「セラスティア、座れ。今回の話は、お前にも聞いておいてもらう必要がある」
「分かった」
椅子に腰を下ろすと、目の前に龍門とその周辺地域の地図が表示された。ウルサス領の方角から、赤い線が龍門へ向かって伸びている。
「チェルノボーグ?」
思わず名前が出た。
「正確には、チェルノボーグの中枢区画だ」
ケルシーが画面を拡大する。
「レユニオンが都市の一部を稼働させた。現在、龍門へ向かって移動している」
「……都市ごと?」
「ああ。今日の午後、最初に事態を確認した時点では、龍門への到達までおよそ三十六時間と推定された。その後も観測を続け、つい先ほど、ウェイとの協議の場で残り三十二時間という予測を伝えている」
ケルシーの指が地図の上を滑る。
「今も時間は減り続けている。状況を悠長に見守っていられる段階ではない」
龍門を襲ったレユニオンは退き始めていると聞いていた。それが今度は、都市の一部を動かして攻めてくるというのか。
「龍門の防衛設備では止められないのか?」
「物理的な衝突だけが問題なら、対処する手段はある」
ケルシーは別の情報を表示した。
「中枢区画は現在もウルサスの識別コードを発信し続けている。このまま龍門が武力で破壊すれば、ウルサスの領土を攻撃したという事実が残る」
「……戦争の口実になるってことか」
「その可能性がある」
俺は地図へ目を戻した。あの赤い線が龍門に届く前に、攻撃とは別の止め方を見つけなければならない。
「ケルシー先生」
アーミヤが口を開く。
「龍門との協定は、すでに破棄を申し入れました。それでも、今回の危機については私たちにできることがあると思います」
「分かっている。龍門との協定の今後と、差し迫った危機への対処は別の問題だ」
アーミヤは頷いたものの、何か言いにくそうに視線を落とした。
「それと、セラスティアさん。チェンさんのことなんですが……」
「チェン?」
「はい。チェンさんは、龍門を離れる覚悟で中枢区画へ向かうと決めました」
俺は思わず顔を上げた。
「……一人でか?」
「そうです」
アーミヤの表情は硬いままだった。
「ウェイ長官は反対しました。でも、チェンさんは自分が行くべきだと考えているようです。龍門の感染者たちに起きたことも、チェンさんにとっては簡単に受け入れられるものではありませんでした」
チェンの顔が頭に浮かんだ。龍門近衛局の警官として、あいつがどれだけ街のために働いてきたかは知っている。そのチェンが、自分の居場所を捨てる覚悟で動こうとしている。
「……そうか」
俺は地図へ視線を戻した。
「それで、チェンを追うつもりなのか?」
「今の段階で、私たちの行動を決めたわけではありません」
アーミヤはそう答え、ケルシーを見た。
「ですが、チェンさんの判断を無視することもできません」
「チェンの行動と我々の対応は、分けて考える必要がある」
ケルシーが言った。
「彼女が何を目的としているのかは把握している。だが、それだけを理由にロドスが突入するわけにはいかない」
「……だよな」
ドクターも地図へ身を乗り出した。
「内部から停止させる方法はないのか?」
「その可能性もある。だが、どのような方法で止められるのか、今は判断できない」
ケルシーは中枢区画を示す表示へ指を伸ばした。
「中枢区画の内部状況、レユニオンの残存戦力、制御設備。今はそれらの情報を揃えることが先決だ。今夜中にも方針を固めなければならないが、焦って誤った判断を下せば、その代償はロドスだけでは済まない」
「……なるほど」
俺は地図を眺めた。中枢区画が龍門へ向かっているのなら、放置するわけにはいかない。とはいえ、何も知らずに飛び込んで解決できるような問題でもなさそうだった。
「必要になったら俺も使ってくれ。こういう時に動ける人間は、多い方がいいだろ」
ケルシーがこちらを見る。
「戦闘能力だけで判断するつもりはない。そもそも、現時点で突入を決定したわけではない」
「分かってるよ。必要になった時の話だ」
「ならば、今は治療を優先しろ」
ケルシーらしい返事に、口元が緩む。
「そこは変わらないな」
「お前が負傷した状態で戻ってきたことも変わらない」
返す言葉がなかった。隣では、テレジアが口元に手を当てている。どうやら笑っているらしい。アーミヤも、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「セラスティアさん、今度はちゃんと休んでくださいね」
「はいはい」
「返事だけでは困ります」
「……分かった。ちゃんと休む」
ようやく納得してもらえたらしい。ドクターは俺たちのやり取りを聞きながら、静かに地図へ目を戻していた。
◇
会議が終わったあと、ケルシーから少し残るように言われた。アーミヤとドクターは次の打ち合わせへ向かい、作戦室の扉が閉まる。
「何か追加の仕事?」
「仕事の話もあるが、その前に確認しておきたいことがある」
ケルシーは手元の端末を操作しながら、俺の腕へ目を向けた。
「フロストノヴァとの交戦後、仮眠は取れたのか?」
「さっき、医療室で少しだけ。長くは寝てないけどな」
「頭痛や視界の異常は?」
「特にない」
「意識が途切れた記憶は?」
「戦闘中に吹き飛ばされはしたけど、意識はあった。医療班にも説明したよ」
ケルシーは頷き、いくつかの項目を記録した。こうして細かく確認されるのは久しぶりだ。テレジアが見えることも、声が聞こえることも、ケルシーには分からなかったから、あの頃は同じような質問を何度も受けた。
「……懐かしいな」
つい口にすると、ケルシーが顔を上げた。
「何がだ?」
「こうやって色々聞かれるの。前はしょっちゅうだっただろ」
「必要な確認だった」
「分かってるよ」
ケルシーはしばらく俺を見ていた。
「以前と比べれば、お前の状態は安定している。任務中の判断にも大きな問題は認められない」
「そりゃよかった」
「ただし、それで説明できていないことまで解決したわけではない」
その言葉の意味は分かった。
テレジアのことだ。
俺が隣へ目を向けると、彼女もケルシーを見ていた。
「……彼女、今もいるのか?」
ケルシーが尋ねた。
「ああ。そこにいる」
「そうか」
昔なら、もう少し別の反応が返ってきただろう。それが今では、俺の答えを聞いてから少し考えるだけになっていた。
「テレジアは何か言っているか?」
「さっきから、ケルシーがちゃんと俺を休ませようとしてるって感心してる」
「……それは、ずいぶんと皮肉な評価だな」
「皮肉じゃないわよ」
テレジアが笑い声を漏らし、俺はそちらへ目を向けた。
「本気だってさ」
ケルシーは溜め息をついた。
「そういうことにしておこう」
◇
その時、作戦室の扉が開いた。入ってきたのはアスカロンだった。
「ケルシー、頼まれていた資料だ」
手にした端末をケルシーへ渡す。
「中枢区画に関する情報はまだ断片的だ。こちらでも引き続き調べる」
「ああ。助かる」
ケルシーは資料へ目を通し始めた。アスカロンの視線が、俺の包帯へ向く。
「……怪我をしたのか」
「ちょっとな。フロストノヴァっていう、随分強い相手と戦ってきた」
「報告は読んだ」
「だったら知ってるだろ」
「報告には、お前がどこまで無理をしたのか書かれていない」
相変わらずだった。
「ちゃんと帰ってきたよ」
「それは見れば分かる」
アスカロンは短く答えた。あの頃と同じように、俺たちの間には少しだけ距離があった。仕事の話なら問題ない。互いに必要なことを伝え、頼まれれば動くこともできる。
ただ、それ以外の話になると、何を言えばいいのか分からなくなる。
「……大丈夫だよ。これでも気をつけてたんだ」
つい口にした。アスカロンの目が僅かに細くなる。
「私はお前に、無理をするなと言った」
「覚えてるよ。次はもう少し気をつける」
アスカロンは小さく頷いた。それ以上は何も言わなかったが、以前よりは少し話しやすくなった気がした。隣でテレジアが、そんなアスカロンをじっと見ている。
「アスカロンも、少し疲れているわね」
言われて改めて見る。確かに、顔色があまり良くない。
「お前も休んだ方がいいんじゃないか?」
「私は問題ない」
「いや、顔に出てるぞ」
「……お前に言われたくはない」
思わず笑った。
「それ、昨日もブレイズに言われたよ」
アスカロンは呆れたように俺を見た。その横でテレジアが小さく笑う。
「昔から変わらないわね、二人とも」
「……まあな」
返事をした瞬間、アスカロンの目が動いた。
「セラスティア」
「ん?」
「今、誰と話していた?」
しまった、と思った。ケルシーと話している時は、ある程度気をつけている。けれどアスカロンが相手だと、昔の感覚に戻ってしまったらしい。
「……テレジアと」
その名前を口にすると、アスカロンは動きを止めた。ケルシーも端末から顔を上げる。沈黙が続いた。やがて、アスカロンが口を開く。
「……殿下と?」
「ああ」
「どういう意味だ」
俺は隣へ目を向けた。テレジアは、静かにアスカロンを見ていた。
「二年前から、テレジアが見えるんだ。声も聞こえる。ずっと、俺のそばにいる」
アスカロンは何も言わず、俺を見つめていた。
「ケルシーには話してある。アーミヤも最近知った」
「……私は聞いていない」
「言ってなかったからな」
「なぜだ」
すぐには答えられなかった。隠そうと決めていたわけではないが、言ったところで信じてもらえるとも思えなかった。何より、テレジアの死について、俺たちはあの日以来ほとんど話してこなかった。
「……どう話せばいいのか、分からなかったんだよ」
アスカロンは黙っている。俺も続けた。
「見えるのは俺だけだし、触れられない。何か証拠があるわけでもない。それなのに、テレジアがここにいるなんて言われても困るだろ」
俺の話を聞き終えると、アスカロンは少し間を置き、いつもより低い声で言った。
「……ならば、確認させてもらう」
彼女はケルシーを見た。
「少し時間をもらう」
ケルシーは頷いた。
「構わない。ただし、セラスティアの証言を事実だと確定したわけではない。それは理解しているな」
「分かっている」
アスカロンは俺へ向き直った。
「セラスティア。殿下は、今ここにいるのか?」
「ああ」
「私の姿も見えているのか?」
「見えてるよ」
アスカロンはしばらく考え込んだ。隣のテレジアも口を挟まず、その様子を見守っていた。
◇
「一つ、聞きたいことがある」
アスカロンが口を開いた。
「何だ?」
「昔、殿下と二人きりで話したことがある」
その言葉で、テレジアの表情が僅かに変わった。
「セラスティア、お前はその場にいなかった。誰にも話していないことだ」
「……分かった」
「殿下に尋ねてくれ」
アスカロンは一度だけ視線を落とした。
「私が、任務で手を汚した夜に、何を言ったのか」
昔の話だった。それがいつのことかも分からない。アスカロンがテレジアと二人で話す機会は何度もあったはずだし、そのすべてを俺が知っているわけでもない。テレジアを見る。
彼女はアスカロンを見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……覚えているわ」
やがて、そう答えた。
「あなた、あの子が何を言ったか覚えてる?」
「知らないよ」
「そうね。あの時、あなたは別の任務に出ていたもの」
テレジアは少しだけ目を伏せた。
「あの子は、私に聞いたの。自分は人を傷つけることしかできないのではないかって。これからもずっと、誰かの命令に従って生きていくしかないのかって」
俺は黙って聞いていた。そんなことを、アスカロンが考えていたのか。昔から、あいつは強かった。
自分の役割を理解していて、誰かに頼まれれば迷わず動く。少なくとも、俺にはそう見えていた。
「……それで?」
テレジアは続けた。
「私は、あの子に聞き返したわ。もし明日、何も命じられなかったら、あなたは何をしたいのって」
俺はその言葉を聞き、アスカロンへ向き直った。
「……テレジアは、明日何も命じられなかったら何をしたいのか、って聞き返したそうだ」
アスカロンが顔を上げた。
「……そのあと、私は何と答えた?」
再びテレジアを見る。彼女は少し寂しそうに笑った。
「何も思いつかないって。あの子、本当に困った顔をしていたのよ」
「……何も、思いつかないって答えたらしい」
それを聞いたアスカロンは、目を伏せた。ケルシーも黙っている。
「……続けてくれ」
アスカロンが言った。
「殿下は、その時何と言った?」
テレジアはすぐには答えなかった。やがて、アスカロンへ向けて、穏やかな声で話し始める。
「だったら、何もせずに過ごす日があってもいいのよ。誰かに命じられなければ生きられないなんて、そんなことはないんだから」
俺はテレジアの言葉を、できるだけそのままアスカロンに伝えた。話し終えたあとも、アスカロンはしばらく動かなかった。
「……そうか」
ようやく口を開く。それから、ケルシーへ顔を向けた。
「その会話を知っている者は、私と殿下だけだ」
「セラスティアが当時、不在だったことも確かか?」
「ああ。あいつは別の任務に出ていた」
ケルシーは考え込む。
「……偶然、言い当てた可能性は否定できない」
「分かっている」
「また、本人が記憶していないだけで、過去に何らかの形で話を聞いていた可能性もある」
「それも分かっている」
アスカロンの声は落ち着いていた。
「だが、私には確かめる意味があった」
ケルシーはそれ以上、何も言わなかった。アスカロンが俺へ向き直る。
「セラスティア」
「何?」
「殿下は……今、どこにいる?」
俺は隣を示した。
「そこ。俺の左側だ」
アスカロンの視線が動く。テレジアは少しだけ位置を変え、アスカロンの正面に立った。
「……今は、お前の前」
そう伝える。アスカロンは、何もない空間を見つめた。
長い沈黙が続く。
「……殿下」
アスカロンが小さく呼びかけた。テレジアの表情が変わる。
「アスカロン」
その声は、俺にしか聞こえなかった。俺は何も言わなかった。ただ、二人のそばに立っていた。
◇
「……ケルシー」
しばらくして、アスカロンが口を開いた。
「私は、まだ何を信じればいいのか分からない」
「それでいい」
ケルシーが答える。
「今ここで結論を出す必要はない。私にも確認できないことが多すぎる」
「……ああ」
「ただ、これまでとは違う証言が得られた。それは記録しておくべきだろう」
ケルシーは俺を見る。
「セラスティア。確認したい。お前が見ているテレジアは、昔のことを覚えているのか?」
「ああ。俺の知らないことも、色々覚えてるみたいだ」
「ならば今後も、お前の知らない過去の出来事について証言を得られる可能性はあるな」
「そうかもな」
「それと、押し花についても改めて確認したい」
胸元へ目を落とす。薄い保護ケースの中に、夏雪草の押し花が入っている。二年以上、ずっと持ち続けてきたものだ。
「これ?」
「ああ。お前は以前から、それがテレジアの存在と何らかの関係を持っていると考えていたな」
「うん。確証はないけど」
「無理に調べるつもりはない。お前の同意が得られるなら、過去の検査結果と照合したい」
ケースを手に取る。中の押し花は、今も変わらない。
「……分かった。ただ、傷つけるようなことはしないでくれよ」
「当然だ。破壊を伴う検査など考えていない」
ケルシーはそう答えた。テレジアが俺の手元を見つめている。
「……大事にしてくれているのね」
「今さら?」
「ふふ。そうね」
少しだけ笑った。その様子を見ていたアスカロンが、静かに口を開いた。
「本当に……話しているんだな」
「ああ」
「私には、何も見えない」
「……分かってる」
アスカロンは自分の手を見つめ、それから何もない空間へ視線を戻した。
「私には、まだ確かめられないことばかりだ」
そう言って、少し間を置く。
「だが……もし本当に殿下がそこにいるのなら」
俺は続きを待った。
「……無事で、よかった」
テレジアが目を伏せた。
「アスカロン……」
小さな声だった。そのまま彼女は手を伸ばしかけた。けれど、途中で止める。触れられないことを、誰よりも分かっているのだろう。
俺はその様子を見ていた。何か伝えるべきか迷ったが、テレジア自身が首を振った。今は、それでいいらしい。
◇
ケルシーとの話が終わり、作戦室を出たところで、アスカロンに呼び止められた。
「セラスティア」
「どうした?」
「少し歩こう」
珍しい誘いだった。俺は頷き、彼女の隣へ並ぶ。しばらく、互いに何も話さなかった。任務中なら気にならない沈黙も、今日は少しだけ重く感じる。
「……二年前のことだ」
アスカロンが口を開いた。
「覚えているか」
「ああ」
何の話か、すぐに分かった。
テレジアが死んだ日。
あの亡骸を前に、俺たちは少しだけ話した。アスカロンは、自分も守れなかったと言った。俺は、アスカロンは最初から船にいなかったのだと返した。
「……あの時、お前は私を庇おうとした」
アスカロンが言った。
「そうだったか?」
「そうだろう」
少し考えた。
「……たぶんな」
「あの場にいなかったのは事実だ。だが、それで私が何も感じずに済むわけではない」
アスカロンの視線は前へ向いたままだった。
「私はあの日、殿下を守れなかった。それは今でも変わらない」
俺は何も言わずに聞いていた。
「お前が私を責めなかったことには感謝している。だが、あの時の私は、お前に許してほしかったわけでもない」
「……うん」
「ただ、同じ人を失ったお前と話したかったんだと思う」
その言葉を聞いて、ようやくあの時のことが分かった。俺は自分が責められていると思い込み、アスカロンも責められるべきではないと返した。あいつが本当は何を話したかったのか、聞こうともしなかった。
「……悪かった」
口から出たのは、それだった。アスカロンがこちらを見る。
「何がだ」
「お前がどう思ってたか、ちゃんと聞かなかった」
彼女はしばらく俺を見ていた。やがて、目を伏せる。
「……私も、お前に何も聞かなかった」
それ以上、言葉は続かなかった。あの頃は何を話せばいいのか分からなかったが、今は聞いてみたいことがある。ただ、全部を一度に口にできるほど簡単な話でもなかった。
「……なあ、アスカロン」
「何だ」
「お前、今もちゃんと休めてないだろ」
「……急に何の話だ」
「テレジアに言われたこと、覚えてるんだろ?」
アスカロンは顔をしかめた。
「それを今持ち出すのか」
「いや、だってさ。何も命じられなかったら何をしたいか分からないって、昔のお前だろ」
「……今も大して変わらん」
「だったら、少しは休めよ」
アスカロンは溜め息をついた。
「今はチェルノボーグの件がある。そんな暇はない」
「終わったあとでいいだろ」
「……考えておく」
「絶対考えないやつだ、それ」
冗談めかして返すと、アスカロンもほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。
◇
分岐路まで来たところで、アスカロンが足を止めた。
「私は一度、S\.W\.E\.E\.P\.へ戻る」
「ああ」
「チェルノボーグ中枢区画について、引き続き情報を集める必要がある。レユニオンの残存部隊がどう動いているかも、確認しなければならない」
「何か分かったら教えてくれ」
「必要な情報は共有する」
いつもの仕事の話だった。それでも、今は少し気が楽だった。アスカロンが背を向けようとしたところで、もう一度名前を呼ぶ。
「アスカロン」
「……何だ」
「さっきのこと、信じてくれる?」
聞いてから、少しだけ後悔した。別に、信じてもらえなければ駄目なわけじゃない。ケルシーだって、まだ確証がないと言っている。アスカロンはしばらく俺を見つめていた。
「……分からん」
正直な答えだった。
「だが、お前が嘘をついているとは思っていない」
それだけ言って、彼女は続けた。
「私が知っているのは、お前が二年間ここで生きてきたということだ。任務に出て、帰ってきて、ロドスのために働いている。それは誰にも否定できない」
少し間が空く。
「そして、殿下がそこにいるというのなら……私も、いつか自分で確かめたい」
気づくと、張りつめていた肩の力が抜けていた。
「……ありがとう」
「礼を言う必要はない」
アスカロンは一度だけ頷いた。そして、背を向ける。
「セラスティア」
また呼ばれた。
「ん?」
「……無理はするな」
思わず笑ってしまった。
「それ、前にも言われたよ」
「ならば、今度こそ守れ」
「ああ。お前もな」
アスカロンは答えなかったが、今度は小さく頷いたのが見えた。そのまま通路の奥へ消えていく。俺はしばらく背中を見送り、ようやく歩き出した。隣には、テレジアがいる。
「……よかったわね」
彼女が言った。
「ああ」
「アスカロン、少し安心したみたい」
「そうかな」
「ええ」
テレジアは穏やかに笑った。
「それに、あなたも」
否定はできなかった。次に会った時は、もう少し気負わずに話せるかもしれない。
◇
部屋へ戻ると、通信端末に新しい情報が届いていた。S\.W\.E\.E\.P\.が集めている、チェルノボーグ中枢区画に関する暫定的な情報だった。
画面には、レユニオンの主要人物と、これまで確認された部隊の記録が並んでいた。タルラ、パトリオット、そしてレユニオンに加わっていたサルカズ傭兵部隊。中枢区画で現在どの部隊が動いているのかは不明だが、傭兵部隊の指揮官として過去の記録に残る名前を見つけ、指が止まった。
「……W」
思わず声に出す。該当する記録を開いてみる。サルカズ傭兵部隊の指揮官。かつてレユニオンに協力していた人物の一人。
ただし、現在の所在は確認できていない。中枢区画にいるのか、すでに別の場所へ移動したのか。それさえ分からないようだった。
「……相変わらず、どこにいるか分からない奴だな」
小さく呟く。バベルの頃を思い出した。テレジアが生きていた時から、あいつは随分と騒がしかった。気に入らないことがあれば遠慮なく口にするし、こちらの顔色を窺って言葉を選ぶような奴でもなかった。
最後に会った時のことは、あまり思い出したくなかった。テレジアが死んだあと、Wが俺に向けた言葉も。
「……Wがいるの?」
テレジアが画面を覗き込む。
「レユニオンにいたことは確認されてる。でも、今どこにいるのかは分かってないらしい」
「そう……」
彼女は少し考え込んだ。
「会うことになるかもしれないわね」
「かもな」
「あいつ、まだ怒ってるだろうな」
「……そうね」
テレジアは否定しなかった。
「でも、話すことはできるでしょう?」
「ああ」
端末を閉じる。今はまだ、会えるかどうかも分からない。もし会うことになったら、テレジアの隣にいた頃のことも、彼女を失った日のことも、今の俺がどうしてここにいるのかも、自分の言葉で話そうと思った。
「……さて」
椅子へ腰を下ろす。
「少し休むか」
テレジアが目を丸くした。
「珍しいわね」
「何が?」
「あなたから休むと言うなんて」
「さっきケルシーにもアスカロンにも言われたからな。そろそろ守らないと怒られる」
「ふふ、それはそうね」
笑いながら、テレジアが隣へ座る。すぐ近くにいるのに、今も触れることはできない。
ケルシーにもアスカロンにも、俺が見ているテレジアのことはまだ説明できない。俺にだって分からないことばかりだ。今日、アスカロンは何も見えないはずの場所に向かって「殿下」と呼びかけた。
「……なあ、テレジア」
「なあに?」
「いつか、みんなにも見えるようになるといいな」
彼女は少し驚いたように俺を見て、穏やかに微笑んだ。
「……ええ」
俺は目を閉じた。外では、次の戦いに向けて人々が動き始めている。俺もすぐに立ち上がることになるだろうが、今だけは少し休もうと思った。