翌朝、ロドス本艦はすでに龍門を離れていた。
目を覚ました時には、窓の外に見慣れた街並みはなく、どこまでも荒野が広がっていた。昨夜、ケルシーたちが慌ただしく動いていた理由も、今なら分かる。チェルノボーグの中枢区画が龍門へ近づくまで、残された時間は少ない。結局、俺も作戦に参加することになった。
「一日も休めなかったな」
装備を確認しながら呟くと、隣にいたテレジアが困ったように笑った。
「昨日は休むと言っていたのに、もう出発するのね」
「一応、ちゃんと寝たよ。それに今回は俺が頼み込んだわけじゃない。正式な招集だ」
「ええ、分かっているわ。でも、まだ怪我が治ったわけではないでしょう?」
包帯の巻かれた腕へ目を落とす。昨日の治療で痛みはだいぶ引いたが、無理に動かせば傷口が開くかもしれない。医療班からも、次の戦闘では負担を掛けすぎないようにと言われていた。
「前みたいに無理やり突破するつもりはないよ。今回は後方の経路確保が仕事だし」
「それなら、少しは安心できるわね」
「少しだけかよ」
「だって、あなたですもの」
言い返せなかった。
◇
今回の作戦は、正面から敵を打ち破るものではなかった。
チェルノボーグ中枢区画へ向かうため、ロドスは五個小隊を編成した。それぞれが別の役割を持ち、砂嵐に紛れて中枢区画へ接近する。俺は特殊工作小隊の一員として、侵入後の連絡経路と撤退路を確保することになっていた。目的は敵の殲滅ではない。中枢区画の航行を止めるため、必要な場所へ辿り着くことだ。
「セラスティアさん」
装備を整えていると、アーミヤが声を掛けてきた。
「今回の作戦では、各小隊の連携がとても重要になります。単独で敵を追いかけたり、持ち場を離れたりしないようにしてください」
「分かってる。ドクターからも説明を受けたよ」
「お願いします。セラスティアさんが経路を確保してくださるなら、他の皆さんも安心して進めますから」
そう言って、アーミヤは少し微笑んだ。以前なら、こういう時は俺の体調を確かめる言葉が先に来たかもしれない。今も心配していないわけじゃないだろう。それでも、アーミヤは俺の仕事を理解したうえで任せてくれている。
「任せてくれ。アーミヤたちも気をつけてな」
「はい。皆さんで、必ず帰りましょう」
俺は頷いた。彼女がドクターのところへ戻っていくのを見送ってから、剣を腰へ差す。
「……変わったわね」
テレジアが呟いた。
「アーミヤが?」
「ええ。あの子、ずいぶん頼もしくなったでしょう?」
「そうだな」
小さかった頃のアーミヤを思い出す。俺たちの後ろをついて歩き、疲れると手を繋いでほしがった子供が、今では大勢の命を預かる立場にいる。立派になったものだ。
「……そのうち、俺の方が色々教えてもらうことになりそうだな」
「もう教えてもらっているんじゃないかしら?」
テレジアの言葉に、思わず笑ってしまった。確かに、その通りだった。
◇
中枢区画への接近は、想像していた以上に大掛かりな作戦だった。
砂嵐の中を、数台の車両が速度を合わせて走っている。ロドスが用意した戦術送風機によって巻き上げられた砂塵は、進行方向にそびえる移動都市の巨大な底部を覆い隠していた。
俺は車両の荷台で登攀用の装備を確認し、ワイヤーの留め具を引っ張った。
「……これであそこまで登るのか」
見上げると、砂嵐の向こうに巨大な構造物が見える。中枢区画は今も動き続けている。地面から登ろうとしても、高さと移動速度の問題がある。だからこそ、こちらも車両で並走しながら取り付く必要があった。
「随分と大胆な方法ね」
テレジアが隣で言った。
「ああ。俺も最初に説明された時は驚いたよ。もう少し穏やかな入り方があると思ってた」
「ふふ。あなたがそんなことを言うなんて」
「俺だって毎回無茶したいわけじゃないからな」
そう答えたところで、通信機から指示が入った。
『各車両、現在の速度を維持。登攀ツールの射出準備に入れ』
荷台にいた隊員たちが一斉に動き出す。砂塵の向こうで、先行車両から射出されたワイヤーが中枢区画の下層へ伸びていく。固定を確認した隊員が次々と登り始め、俺たちの車両も、やがて射出可能な距離へ入った。
「固定確認!」
隊員の声が飛ぶ。
金属製の爪が上方の構造物へ食い込み、ワイヤーが張られた。俺は装備を確認してから留め具を繋ぎ、先行する隊員の後を追う。身体が持ち上がると、足元の車両が急速に遠ざかった。下から吹き上げる砂が頬を叩く。見下ろした地面は、すでにかなり遠い。
「……こりゃ、落ちたら痛いじゃ済まないな」
「下を見ている余裕があるなら、上を見た方がいいんじゃないかしら?」
テレジアが傍らに浮かぶようにして言った。
「分かってるよ」
上方へ視線を戻した、その時だった。通信機に緊迫した声が響く。
『中枢区画の速度が上がっている!各員、登攀を急げ!』
ワイヤーが大きく揺れた。並走している車両との距離が開き始めている。砂嵐による隠蔽範囲から外れれば、敵の監視設備に発見される可能性があった。俺は壁面へ足を掛け、登攀速度を上げた。
「……急いだ方がよさそうだな」
「ええ。でも、怪我をしていることを忘れないでね」
「ああ!」
腕に力を込める。痛みはあったが、動けないほどではない。先行した隊員がメンテナンス口へ取り付き、内部の安全を確認している。その後ろから身体を引き上げ、ようやく金属製の足場へ足をついた。振り返ると、最後の隊員が登り終えたところだった。全員の登攀が確認され、車両が離脱を始める。砂嵐の中へ遠ざかっていく車両を見送ってから、俺は息を吐いた。
「……何とか入れたな」
「ええ。お疲れさま」
「まだ始まってもいないけどな」
そう答えて、部隊の後に続く。中枢区画の底部から内部へ入ると、砂嵐の音が遠ざかり、代わりに機械の駆動音が耳へ届いた。かつてレユニオンが占拠した都市の一部、チェルノボーグ中枢区画。その内部へ、とうとう足を踏み入れた。
◇
侵入後、俺たちは予定された経路に沿って移動していた。
下層の工業区画には古い設備が並び、通路は何度も分岐している。正面の部隊が進む間に通信中継点を確保し、必要なら撤退時の通路として使えるようにしておくのが俺たちの役目だ。
「セラスティア、そっちの通路は?」
通信機から声が聞こえる。
「今のところ敵影はない。設備の状態を見てくる」
『了解。こちらは先に中継点を確保する。確認が済んだら合流してくれ。無理はするな』
「分かった」
通信を切り、周囲を見渡す。配管の間を風が抜け、どこかで金属が軋んでいる。足元には古い工具や資材が散らばり、ずいぶん長い間、整備されていないことが分かった。
「……ここ、使えるかな」
壁際に非常用の通路を見つけた。地図には載っているものの、途中で崩れている可能性がある。通れるようなら、別の小隊が移動する際にも役立つはずだ。扉へ手を掛けると、錆びついていたが、少し力を込めると動いた。
その時、奥で何かが落ちる音がした。
「……誰かいるのか?」
返事はない。ただ、金属を引きずるような音が続いている。武器を構え、慎重に進む。通路を進むと、上方へ伸びる古い整備用の縦穴が見えた。途中の足場がいくつも折れ曲がり、落ちた金属片が床へ散乱している。
「……何があったんだ、ここ」
見上げると、縦穴は暗く、上の方がどうなっているのかまでは見えなかった。ただ、壁面の数か所には何かが強くぶつかったような跡があり、手すりの一部も根元から外れている。その下に、黒ずんだ染みが残っていた。屈んで確かめる。血だった。それも、まだ乾ききっていない。
「……誰かが落ちてきたのか?」
「かなりの高さがありそうね」
テレジアも縦穴を見上げている。
床には血のついた手形が残り、そこから通路の奥へ向かって、途切れ途切れに血痕が続いていた。上方から何かが落下し、途中の足場を壊したようにも見える。だが、実際に何が起きたのか、ここからでは分からなかった。少なくとも、誰かがひどい怪我を負ったまま、この通路を進んだことは確かだろう。俺は剣を握り直し、血の跡を辿った。曲がり角を抜けると、通路の奥に人影が見えた。壁にもたれかかるように座っている。黒い服に、特徴のある角。顔を覆う赤い髪にも見覚えがあった。
「……W?」
思わず名前が出た。その人影が、ゆっくりと顔を上げた。
◇
「……は?」
聞き慣れた声だった。ただし、以前よりずっと掠れている。Wは俺を見るなり、ひどく嫌そうな顔をした。
「何で……あんたがここにいるのよ」
「それはこっちの台詞だよ。W、お前……」
近づこうとして、足を止める。ひどい怪我だった。服のあちこちが焦げ、片腕は血で汚れている。肩から背中にかけて大きく布が裂けており、呼吸をするたびに顔が歪んでいた。傍らには壊れた装備と、使用済みの爆薬の残骸が転がっている。
「……何があった?」
「見れば分かるでしょ。ちょっと派手に失敗したの」
Wは笑おうとしたが、途中で咳き込んだ。
「げほっ……く、そ……」
口元を押さえたまま、しばらく俯いている。俺が近づこうとすると、空いている手で制された。
「……あーあ、最悪。よりによって……こんな奴に見つかるなんて」
以前と変わらない調子だった。けれど、バベルの訓練場で会った時には、もっと余裕があったはずだ。今のWは、言葉を続けることさえ苦しそうだった。
「立てるか?」
「何?あたしを捕まえるつもり?」
「そんなこと言ってないだろ。怪我してるんだから、まずは動けるか聞いてるんだよ」
「……相変わらずね」
Wが目を細めた。
「そういうところ、本当に変わってない」
何を指しているのかは分かった。胸の奥が少し重くなるが、今は別のことを優先しなければならない。
「近くに使えそうな部屋があった。そこまで行こう。手当てできるものもある」
「嫌よ」
「W」
「聞こえなかった?嫌だって言ってるの」
彼女は俺を睨みつけた。
「ロドスに助けてもらうくらいなら、ここで……っ!」
立ち上がろうとした途端、Wの身体が大きく傾いた。咄嗟に腕を伸ばして支える。
「おい、大丈夫か?」
「……っ、触らないでって言ってんでしょ……!」
「今のは言われてないぞ。それより、無理に立つなよ」
「うるさい……!」
睨みつけてくるものの、俺の腕を振り払う余裕はないらしい。Wはしばらく肩で息をしていた。ようやく呼吸が落ち着いたところで、小さく舌打ちする。
「……今回だけよ」
「分かった」
「あと、調子に乗らないこと」
「はいはい」
「その返事、ほんっと腹立つのよね……!」
そう言いながらも、Wは俺の肩へ腕を回した。支えて立ち上がらせると、彼女の身体からほとんど力が抜けていることが分かった。無理に歩かせれば、傷口が開くかもしれない。
「……肩、貸すから。ゆっくり行こう」
「言われなくても……分かってるわよ」
Wは足を踏み出したが、二歩目で止まった。
「……っ!」
「W?」
「……ちょっと、待ちなさい」
唇を噛み、何度か息を整える。俺は急かさず、彼女が動けるようになるまで待った。
◇
近くの整備室まで移動する途中、通信機が鳴った。
『セラスティア、状況は?』
仲間からだった。Wは俺の肩へ腕を回したまま、顔を上げる。俺は空いている手で胸元の送受話器を取った。
「こちらセラスティア。負傷者を一名発見した。現在、安全な場所へ移動中だ」
『負傷者?所属は確認できているか?』
「確認できてる。名前は――」
突然、耳元で短い雑音が走った。
「……ん?」
通信が途切れた。送受話器を見下ろすと、本体へ伸びていたコードが途中から綺麗に切断されていた。そのすぐ横で、Wが小さなナイフを握っている。
「……おい」
「何よ」
「何してるんだよ」
「見れば分かるでしょ」
Wはナイフをしまい、俺を見上げた。
「あたしの居場所を報告されたくないから、切ったの」
「いや、今は作戦中なんだけど!?それに、その通信機は俺の私物じゃないぞ!」
「だったら後で弁償すれば?」
「そういう問題じゃないだろ……!」
Wは鼻で笑おうとした。だが、次の瞬間、脇腹を押さえて顔を歪めた。
「……っ、ぐ……!」
肩に回された腕から力が抜ける。俺が慌てて支え直すと、彼女は壁へ手をつき、しばらく動けなくなった。
「……だから、無理するなって」
「……あんたが、うるさいからでしょ……」
「通信機を壊したのはお前だろ」
「……そうね。悪かったわね」
全然悪いと思っていない顔だった。俺は切れたコードを見つめ、溜め息をつく。予備の通信機は持っていない。連絡を取り直すには、中継点の設備を使うか、交換用のコードを探す必要があった。
「……とにかく、まずは安全な場所まで行こう」
「ふん」
「でも、後でちゃんと報告するからな」
Wの目が細くなった。
「……ほんっと、融通利かないわね」
「当たり前だろ。敵の指揮官だった奴と接触して、黙ってるわけにはいかないんだから」
「そう。じゃあ、通信機を直すまでにあたしがいなくなってればいいわけね」
「……それはそれで困るんだけど」
Wは口元だけで笑った。
「頑張って探しなさいよ」
「その身体でどこへ行くつもりだよ……」
返事はなかった。代わりに、Wは俺の肩を借りながら、ゆっくりと足を動かした。
◇
使われていない整備室へ辿り着く頃には、Wの呼吸はさらに荒くなっていた。
部屋の奥には古い作業台と椅子があり、壁の一部が仕切りになっている。奥には別の保守通路へ繋がる小さな点検口も見えた。Wを椅子へ座らせると、彼女は深く息を吐いた。
「……あー、痛った……」
「医療班を呼ぼうか?」
「やめて」
今度は即答だった。
「そんなことしたら、あたしがここにいるってバレるでしょ」
「もう俺にはバレてるぞ」
「そういう話じゃないの」
Wは額へ手を当てた。
「あんた、本当に……変わってないわね」
途中で言葉が途切れる。しばらくして、ようやく呼吸を整えた。俺は救急用品を開き、手の届く場所へ置いた。無理に治療しようとすれば、かえって警戒されるだろう。
「少なくとも止血はしてくれよ。傷口を塞がないと、動けるようになったとしても危ないぞ」
「……分かってるわよ」
「それと、ここから先にはロドスの部隊がいる。移動するなら気をつけた方がいい」
「へえ。敵にそんな情報を教えていいわけ?」
「お前が今から戦いに来るとは思えないしな」
Wは鼻で笑った。
「……随分な言い方」
「実際、その身体で戦えるのか?」
「試してみる?」
彼女の指が腰へ伸びる。だが、そこに爆薬はなかった。一瞬だけ沈黙が落ちる。
「……今のは見なかったことにして」
「分かった」
そう答えると、Wはますます嫌そうな顔をした。
「本当に腹立つ」
俺は肩を竦めた。そういえば、バベルの訓練場でも似たようなことがあった。あの時のWは俺の実力を確かめるつもりで模擬戦を挑んできて、途中から何度も腹を立てていたっけ。
「……あの時の訓練、覚えてるか?」
そう尋ねると、Wが眉を上げた。
「忘れるわけないでしょ。あんた、あたしの罠を途中から全部避け始めたじゃない」
「ああ。最初は思いっきり引っかかったけどな」
目の前に転がってきた偽物の爆弾と、その横から襲ってきた本命の爆発を思い出す。あの時はまんまと視線を誘導されて、肩口を焦がされてしまった。
「一回仕掛けを見ただけで、次から違う動き方をするんだもの。あれ、結構腹が立ったのよ」
「全部分かったわけじゃないよ。ただ、同じ場所を通らなければいいと思っただけだ」
「それが腹立つって……っ!」
Wは言葉を止め、脇腹へ手を当てた。眉間に深い皺が寄る。
「……くそ。あんたと話してると、傷に響くのよ」
「だったら話すのは後にしよう。少し休んだ方がいい」
「……そういう意味じゃない」
椅子の背へ身体を預け、何度か深呼吸する。その様子を見ながら、俺も近くの壁へ寄りかかった。しばらくして、Wがこちらを見る。
「……次にやったら、絶対あたしが勝つわよ」
「前もそう言ってたな」
「うるさい。今度はあんな簡単に見破られるような罠、使わないから」
「楽しみにしてるよ」
「ほんっと、そういうところが嫌い……」
言い終えると、Wは小さく息を吐いた。あの日の勝負は、最終的に俺が勝った。そのあとWは負けを認めながらも、次こそは勝つと息巻いていた。勝負のあと、みんなで写真を撮ったことも覚えている。テレジアが真ん中にいて、アーミヤやドクター、ケルシー、アスカロンも一緒に並んだ写真だ。あの時は、こんな日が来るなんて考えもしなかった。
「……あの時は、俺の勝ちだったな」
「分かってるわよ。何度も言わせないで」
Wは少しだけ顔を背けた。
「……次は負けないから」
「うん。また勝負しよう」
その言葉に、Wの表情が僅かに変わった。何か言いたそうに口を開き、俺を見つめる。
「……それなのに」
そこで言葉が途切れた。続きを待ってみたが、Wは視線を逸らしてしまった。
◇
「……ねえ」
しばらくして、Wが口を開いた。
「殿下が死んだ日、覚えてる?」
胸の奥が冷えた。
「……忘れるわけないだろ」
「そう」
Wは椅子の背へ身体を預けた。
「じゃあ、あたしが何を言ったかも?」
「ああ」
忘れられない。胸ぐらを掴まれたことも、殴られたことも、あの時Wが泣きそうな顔をしていたことも。
「……何でいなかったのよって、聞いたわよね」
「聞かれた」
「理由があるなら言えって、あたし言ったわよね」
「ああ」
Wは俺を見つめた。
「今なら、言える?」
返事をする前に、あの日のことを思い出した。瓦礫の下にいた子供たち、救助班の声、途切れた通信、それから、戻った時にはもう動かなかったテレジア。当時の俺は、何を言えばいいのか分からなかった。助けを求めていた人たちがいて、テレジアも俺を送り出してくれた。全部、本当だった。それでも、その言葉を口にしてしまえば、彼女の死から自分だけ逃れようとしているように思えた。
「……あの時は、何を言っても言い訳にしかならないと思ってた」
Wは黙っていた。
「俺があそこにいなかった理由はある。でも、それを聞いたところで、お前が納得できるとは思わなかった」
「……それで?」
「だから、言わなかった」
Wの顔が歪んだ。
「……馬鹿じゃないの」
小さな声だった。
「それ、あたしが納得するかどうかを、あんたが勝手に決めたってことでしょ」
返す言葉がなかった。Wは続けた。
「あたしは、理由があるなら言えって言ったのよ。怒ってたし、殴ったし……それでも、何か聞きたかったの」
「……うん」
「なのに、あんたは黙ったままだった。『逃げてない』とは言ったくせに、何をしてたのかは教えてくれなかったじゃない!」
声を荒らげた途端、Wが激しく咳き込んだ。
「げほっ!……っ、ぐ……!」
脇腹を押さえ、椅子から滑り落ちそうになる。俺は慌てて近づいた。
「W、落ち着け。無理に喋るな」
「……っ、誰の……せいだと……!」
「悪い。俺が悪かったから、今は休んでくれ」
手を伸ばすと、Wが顔を背けた。そのまま何度か息を整え、ようやく背もたれへ身体を預ける。俺も隣へしゃがみ込んだ。
「……あの頃の俺は、たぶん責められたかったんだと思う」
Wがこちらを見る。
「誰かに怒られれば、何で助けられなかったのか分かる気がした。俺が悪かったってことにできれば、少なくとも理由が一つ見つかるだろ」
「……それで?」
「でも、そんなことをしてもテレジアは戻ってこなかった」
Wは何も言わなかった。俺は彼女の目を見た。
「今は、あの時みたいに黙っていたくない。お前が聞きたいなら、ちゃんと話すよ」
Wはしばらく俺を見つめていたが、やがて顔を背けた。
「……今さら、ね」
声にはまだ怒りがあった。
「今さらそんなこと言われても、あたしは……どうすればいいのよ」
答えは出なかった。俺にも分からない。Wはもう一度身体を起こそうとしたが、途中で諦めたらしい。椅子の背へ寄りかかり、目を閉じた。
「……もういい」
「W」
「今は、あんたの顔……見たくない」
その言葉を聞いて、足が止まった。二年前と同じだった。けれど、あの時と違って、Wは俺を責める言葉を続けなかった。
「……分かった」
俺は頷いた。
「手当てだけはしてくれよ。俺も通信を直して、持ち場に戻らないといけないから」
「……勝手にすれば」
俺は救急用品を彼女の手元へ寄せた。それから、整備室を出た。
◇
隣の保守区画には、予備の配線や古い通信設備が残されていた。
切られたコードを手に、使えそうな交換部品を探す。携帯無線機の本体自体は壊れていないので、送受話器への接続さえ直せば通信できるはずだった。
「……まったく、あいつは」
思わず溜め息が出る。
「あの訓練の時も、随分振り回されたな」
「そうね。でも、あの子らしいと言えば、あの子らしいわ」
テレジアが隣で笑った。
「笑い事じゃないんだけどな。任務中に通信機を壊されるとは思わなかったよ」
「ふふ。でも、久しぶりに会えてよかったでしょう?」
予備のコードを探していた手が止まった。
「……うん」
正直に答える。
「怪我は心配だけど、顔を見られたのは嬉しかったよ」
テレジアは穏やかに頷いた。
「ええ。私も、あの子が生きていてくれて嬉しいわ」
少し間を置いて、彼女が俺を見る。
「……でも、セラスティア。あの子と話して、辛くなかった?」
探していたコードを見つけ、作業台へ置く。
「……まあ、少しはな」
「そうでしょうね」
「W、まだ怒ってたよ。二年前のこと」
「ええ」
「今なら話せると思ったんだけどな。いざ聞かれると、やっぱり何から話せばいいのか分からなかった」
テレジアはしばらく黙っていた。俺も、手元のコードを見つめたまま考える。
「……なあ、テレジア」
「なあに?」
「あの日のこと、今でもたまに思い出すんだ」
「……ええ」
「ドクターに頼まれて、民間人を助けに行った時のこと。最初はすぐ終わると思ってたんだよ。人数も聞いてたし、救助班も一緒だったから」
言葉にすると、あの時の光景が少しずつ蘇ってきた。瓦礫、火の手が上がる建物、助けを求める声。
「でも、行ってみたら聞いてた人数よりずっと多くてさ。最初の人たちを逃がしたあとにも、まだ取り残されてる人が見つかった」
テレジアは黙って聞いていた。
「途中で船の方がおかしいって気づいたんだ。戻らなきゃいけないと思った。でも、その時もまだ、瓦礫の下に人がいた」
あの時の自分が何を考えていたのか、今なら少しは分かる。戻れば、テレジアのそばにいられる。けれど、その場を離れれば、助けられない人たちがいる。
「……あそこで俺が帰ってたら、たぶん何人も死んでた」
声が少しだけ重くなった。
「分かってたんだ。だから、戻れなかった」
テレジアが静かに頷く。
「……あなたは、最後まで救助を続けたのよね」
「ああ。全員を逃がしてから戻った。でも、その時にはもう……」
続きは言えなかった。言う必要もなかった。テレジアは、あの時のことを知っている。
「……セラスティア」
彼女が名前を呼んだ。
「あなたは、あの日助けた人たちのことを後悔しているの?」
少し考えた。二年前なら、どう答えただろう。あの頃の俺は、そんなことを聞かれても、まともに考えられなかったと思う。
「……今は、後悔してないよ」
顔を上げる。
「助けた人たちが生きてることまで、間違いだったとは思いたくない」
「ええ」
「でも、あの時は違ったんだ。お前を失ったことしか考えられなくて、助けた人たちが生きてることも、俺が無事に帰ってきたことも、全部どうでもよくなってた」
テレジアは何も言わなかった。俺は小さく息を吐く。
「Wが怒るのも分かるんだ。あいつにとっても、お前は大切な人だったから」
「そうね」
話しているうちに、あの日のWの顔が浮かんだ。怒っていて、泣きそうで、それでも、俺が何か言うのを待っていた。
「……今になって思うんだ。あいつも、俺の話を聞きたかったのかなって」
「ええ。きっと、そうだったと思うわ」
テレジアの声は穏やかだった。
「だから今度は、ちゃんと話してあげて」
「……うん」
俺は頷いた。
「あいつが聞いてくれるかは分からないけどな」
「それでも、あなたの言葉で話すことには意味があるわ」
「そうだな、テレジア」
手元に置いていた交換用のコードを取り上げる。
「……よし。まずは、こいつを直さないとな」
テレジアが少し笑った。
「そうね。Wにも、ちゃんと手当てをしてもらわないと」
「ああ。あいつ、俺の話は聞かないだろうけど」
「ふふ。あの訓練の日も、ずいぶん言い合っていたものね」
俺も笑い、作業を再開した。
◇
少し前、隣の整備室では、Wが椅子の背にもたれていた。
セラスティアが置いていった止血材は使ったが、脇腹の痛みは引かない。立ち上がろうにも、少し力を入れるだけで傷が疼いた。あいつに今さら理由を尋ねて、あんな返事をされるとは思っていなかった。何も聞きたくないと言ったのは自分なのに、胸の奥が落ち着かなかった。
「……最悪」
目を閉じたところで、隣の保守区画から声が聞こえてきた。仕切りの通風口を通して、セラスティアの話し声が届いている。相手の声は聞こえず、通信機を直しているはずのあいつが誰に話しているのか、Wには分からなかった。
やがて、ドクターに頼まれて民間人の救助へ向かったのだと聞こえた。殿下が死んだ日、あいつが何をしていたのか。二年前、問い詰めても答えなかったことだった。Wは息を詰め、通風口へ耳を向ける。
「途中で船の方がおかしいって気づいたんだ。戻らなきゃいけないと思った。でも、その時もまだ、瓦礫の下に人がいた」
Wの指が椅子の肘掛けを掴んだ。あいつは異変に気づいていた。戻らなかったのは、帰り道を失ったからでも、自分だけ逃げたからでもなかった。
「……あそこで俺が帰ってたら、たぶん何人も死んでた」
Wは通風口を睨み、低く呟いた。
「……何よ、それ」
思わず声が漏れた。あの日、廊下で胸ぐらを掴んだ時、あいつは『逃げてない』とだけ言った。その意味を、今になって聞かされるなんて。Wは唇を噛み、身体を起こしかけたが、脇腹の痛みに顔を歪めて背もたれへ戻った。
理由を話さなかったことへの怒りは、まだ残っている。聞かせてくれればよかったのに、と今さら思うのも癪だった。けれど少なくとも、あの男が殿下を見捨てて逃げたのではなかった。それだけは、もう聞かなかったことにはできない。
向こうからは、その後もセラスティアの声が聞こえた。助けた人たちの命を、今は間違いだったと思いたくないらしい。それなのに、殿下を失った直後は、自分が生きて戻ったことさえどうでもよくなっていたという。話の途中には何度も間があり、誰かの返事を待っているようだった。
Wは、あの日のセラスティアを思い出していた。廊下の薄暗い明かりの下で、胸ぐらを掴んでも殴っても、あいつは抵抗しなかった。何を聞いても謝るばかりで、こちらの顔をまともに見ようともしない。訓練場ではあんなに簡単にこちらの攻撃を見抜いた男が、腕を上げて身を守ろうとさえしなかった。あの時は、それが腹立たしくて余計に拳を振るった。
「……こいつ」
思い出した顔は、訓練場で自分の罠を見破って笑っていた時とはまるで違っていた。
「壊れてたんだ……」
声に出した途端、喉が詰まった。だからといって、すぐに許せるわけではない。殿下が死んだことも、あいつが最期にそばにいなかったことも変わらない。ただ、あの時のあいつに何をぶつけていたのか、Wにはもう以前と同じようには考えられなかった。
その時、仕切りの向こうから、はっきりと名前が聞こえた。
「そうだな、テレジア」
Wは息を止めた。殿下の名前だった。通信機を切ったのは自分だし、あいつがまだ修理を終えていないことも分かっている。それなのに、セラスティアは時折言葉を止め、誰かの返事を待つようにしていた。通風口からは、相手の声は一度も聞こえない。まさか、あいつは――。
「……馬鹿」
それ以上は考えたくなかった。確かめようにも身体は動かず、向こうからは工具を動かす音が聞こえ始めている。Wは目を閉じた。今さら何と声を掛ければいいのか、分からなかった。
隣からは、配線をいじるような物音が続いていた。Wは椅子の肘掛けを握り、もう一度立ち上がろうとした。通信機が直るまでに、ここを出なければならない。セラスティアは戻ってきて、自分の居場所をロドスへ報告するだろう。あいつと話す気にはまだなれないし、捕まるつもりもなかった。
整備室の奥には、作業員用の狭い点検口がある。あそこなら主要経路から外れられるはずだが、どこへ続くかは分からない。そもそも、今いる場所さえ曖昧だった。
タルラを道連れにするつもりで、自分の身体に仕込んだ爆薬を起爆した。覚えているのは、目の前にいたあいつの姿と、身体を叩きつけられる衝撃、それから落ちていく感覚だけだった。目を覚ましてからも何度か意識が途切れ、手すりや配管を頼りにここまで歩いてきた。セラスティアに話した「失敗」は、嘘ではない。ただ、何があったかを説明するつもりがなかっただけだ。
「……まったく、どこまで飛ばされたのよ……」
傷口を押さえ、作業台に手をついて身体を起こす。数歩進んでは壁にもたれ、そのたびに呼吸を整えた。腹の奥からせり上がってくる痛みに耐えきれず、一度は膝をついた。それでもここで横になれば、次に立てるかどうか分からない。作業台の縁を掴んで起き上がり、ようやく点検口へ辿り着く。錆びついた蓋を押し開くと、中は暗く、どこへ続いているのかも見えなかった。
振り返ると、仕切りの向こうで誰かが動く気配がした。今なら戻って、聞いたことを問い質すこともできる。だがWは、手元の止血材を押さえ直した。
「……本当に、馬鹿なんだから」
小さく吐き捨て、点検口の奥へ身体を滑り込ませた。
◇
通信機の修理を終えた俺は、整備室へ戻った。Wの様子が気になったからだ。まだ動けないかもしれない。せめて、追加で必要なものがあれば置いていこうと思っていた。
「……W?」
扉を開ける。返事はなかった。椅子の上には、俺が置いていった救急用品が残っている。だが、中身は減っていた。包帯と止血材がいくつか使われている。それを見て、少しだけ安心した。
「……いなくなったか」
テレジアが隣へ来た。
「無理をしていないといいけれど」
「ああ」
部屋を見渡す。壁に手をつきながら移動したらしく、ところどころに血の跡が残っている。その先には、開いたままの点検口があった。
「……こっちから出たのか」
覗き込むと、狭い通路が奥へ続いていた。あの身体でここを進むのは、かなり辛いはずだ。追いかけようかと思った。けれど、今の俺には任務がある。ここで持ち場を離れれば、ほかの隊員に迷惑を掛けることになる。それに、Wは自分の意思でここを出ていった。無理に追いかけたところで、話してくれるとは思えなかった。
「……仕方ないな」
通信機を取り出す。修理したばかりの送受話器を操作すると、今度は問題なく接続された。
『こちら特殊工作小隊。セラスティア、応答できるか?先ほど通信が途切れたが、何があった?』
「こちらセラスティア。通信機を破損したため、一時的に連絡不能になっていた。今は復旧している」
『了解。先ほど負傷者を発見したと言っていたな。身元は確認できたか?』
俺は一度、点検口へ目を向けた。
「ああ。レユニオンに所属していたサルカズ傭兵、Wだ」
通信の向こうが僅かにざわついた。
『……W?本人で間違いないのか?』
「間違いない。直接話した。重傷を負っていて、まともに歩けない状態だった」
『現在位置は?』
「整備室から別の保守通路へ移動した。今は所在不明だ。俺が発見した場所と、移動した方向を送る」
端末を操作し、位置情報を送信する。少しして、通信機から短い雑音が聞こえた。
『……位置情報は受信した。ただ、こちらから上位の指揮系統へ繋ぐ回線が不安定になっている。報告は送るが、すぐに届くかは分からない』
「了解。こっちの記録にも残しておく」
『頼む。こちらでも接触情報を保持する。セラスティアは予定の経路確認を続行してくれ。Wを単独で追跡する必要はない』
「分かった。それと、通信機を壊したのはWだ。報告されるのを嫌がって、送受話器のコードを切られた」
短い沈黙があった。
『……なるほど。詳しい経緯は帰還後に報告してくれ』
「了解」
通信を切る。Wとの接触については、ひとまず所属小隊への報告を済ませた。ほかの部隊や指揮所にいつ伝わるかは分からないが、今は決められた任務を優先するしかない。俺は小さく息を吐いた。
「……怒られるかな、これ」
テレジアが困ったように笑った。
「どうかしら。でも、ちゃんと報告できたのでしょう?」
「ああ」
「なら、まずは今の仕事を終わらせましょう」
「そうだな」
もう一度、点検口へ目を向ける。Wの姿は見えなかった。けれど、あいつならきっと生き延びる。そう思いたかった。
◇
整備室を出て、予定されていた中継点へ向かう。
「……また会えるかな」
歩きながら呟くと、テレジアが俺を見た。
「どうかしら。でも、あの子はしぶとい子でしょう?」
「それはそうだな」
思わず笑った。あの模擬戦でも、最後まで勝負を諦めなかった奴だ。もちろん、今回の怪我はあんな訓練とは比べものにならない。
「……今度会えたら、もう少しちゃんと話したいな」
「ええ」
テレジアは穏やかに頷いた。
「きっと、あの子にも話したいことがあると思うわ」
「そうかな」
「そうよ」
言い切る声には、妙な確信があった。俺にはWが何を考えているのかも、あの時の怒りが今もどれほど残っているのかも分からない。けれど、今度会った時には、あの日のことを最初から話そうと思う。
◇
中継点へ辿り着き、設備が使えることを確かめたところで、通信機が鳴った。
『セラスティア、そちらの経路はどうだ?』
「問題ない。中継点は使える状態にしてある」
『了解。各小隊が次の区画へ移動を始めている。そちらも合流してくれ』
「分かった。今から向かう」
通信を切り、装備を確認する。まだ戦いは終わっていない。チェルノボーグの中枢区画は、今も龍門へ向かって動き続けている。ここで立ち止まっているわけにはいかなかった。
「……行こう、テレジア」
「ええ」
彼女が隣へ並ぶ。先ほどまでいた整備室の方角を、一度だけ振り返った。Wがどこへ向かったのかは分からず、今の俺には追いかけることもできない。剣を腰へ戻し、通路を歩き出す。遠くからは、戦闘の音が聞こえ始めていた。
次の相手が誰なのか、まだ、その時の俺は知らなかった。