中継点を離れてから、戦闘の音は徐々に近づいていた。
最初は遠くから聞こえる爆発音だけだったが、通路を進むにつれて銃声や金属が砕ける音も混じるようになった。通信には各小隊からの報告が続いており、敵の抵抗が予想以上に激しいことが伝わってくる。
『セラスティア、聞こえるか?』
「聞こえてる。そっちはどうだ?」
『中継経路の確保は完了した。こちらは後続部隊の支援に回る。お前には、先行部隊から護衛と負傷者の搬送支援を頼みたいと連絡が来ている』
壁際に立ち止まり、端末に送られてきた地図を確認する。指定された合流地点は、ここから二つほど区画を越えた場所にあった。
「了解。俺が確保した通路は、そのまま使ってくれて構わない」
『ああ、助かる。先行部隊の方が人手を必要としているらしい』
「分かった。合流する」
通信を切り、端末をしまった。
「……ずいぶん激しい戦闘になっているみたいね」
テレジアが通路の先を見ていた。隔壁の向こうから地響きが伝わり、頭上の照明が小さく揺れている。
「相手はレユニオンの主力だろうからな。そう簡単には通してくれないさ」
さっきまでの整備通路とは違い、この先ではいつ敵と遭遇してもおかしくない。腰の剣を確かめ、ふと来た道を振り返る。Wのことが気掛かりだったが、彼女を追いかけて持ち場を離れるわけにはいかなかった。
「気になるのでしょう?」
テレジアが俺の視線を追って言った。
「……今は無理だよ。向こうにも、こっちにも、やることがある」
「ええ。だから今は前を見ましょう。怪我をしているのだから、無理はしないでね」
俺は足を速めた。
◇
合流地点に近づくと、通路の奥から数人のオペレーターが現れた。二人で担架を運び、その後ろを別の隊員が警戒しながら歩いている。担架に横たわった男は意識こそあるものの、片脚を負傷しているらしく、血の滲んだ包帯が見えた。
「セラスティアさん!」
先頭の隊員が俺に気づいた。
「ちょうどよかった。先の区画で交戦していたんですが、敵の砲撃で通路の一部が崩れまして……」
「俺が確保した経路なら、まだ使えるはずだ。そこまで案内するよ。敵は追ってきてるか?」
「今のところは。ただ、向こうの部隊はまだ戦っています」
担架を運ぶ隊員の一人が、何度か足元を確かめている。負傷者を落とさないように慎重に進んでいるのだろうが、ここで時間を掛けるのは危険だった。俺は担架の片側を引き受け、もう一人には後方の警戒を頼んだ。
「少し揺れるかもしれないけど、我慢してくれ」
「……すみません、セラスティアさん」
担架の男が申し訳なさそうに言う。
「謝ることないって。ちゃんと生きて戻れば、それで十分だよ」
担架を持ち上げると、男はようやく身体の力を抜いた。
途中まで同行して、後続の医療班へ引き渡す。幸い、俺が確保した通路は問題なく使用できた。負傷者を送り届けたことを報告すると、先行部隊から新しい位置情報が送られてくる。
「……随分と奥まで進んでるな」
端末の地図を見ながら呟くと、テレジアが、担架が運ばれていった通路を眺めたまま言った。
「さっきの人、助かるといいわね」
「脚の傷以外は大丈夫そうだったし、医療班に任せれば何とかなると思う。……俺は、道を見つけておいただけだけどな」
「その道がなければ、あの人はもっと遅れていたわ」
返す言葉を探したが、見つからなかった。フロストノヴァを助けられなかったことは、まだ覚えている。けれど、今日救えた人がいることまで忘れる必要はないのだろう。
「……じゃあ、次に行こうか」
テレジアは頷き、俺の隣へ並んだ。
◇
先行部隊と合流した時には、すでに周囲の敵はほとんど制圧されていた。建物の外壁には大きな亀裂が走り、地面には砕けた金属片が散乱している。遠くには巨大な剣のようなものが突き刺さっており、その近くでロスモンティスが周囲を警戒していた。
「セラスティアさん!」
アーミヤがこちらに気づき、駆け寄ってきた。
「合流できてよかったです。後方の経路はどうなっていますか?」
「問題ない。負傷者も何人か通したし、少なくとも俺が見てきた場所は使える状態だ。こっちは随分派手にやったみたいだな」
「敵の通信と指揮系統を分断しているところです。遊撃隊の連携が予想以上に強くて、普通に戦っていたら被害が大きくなるとドクターが判断しました」
アーミヤの視線の先では、隊員たちが破壊された設備を確認している。正面からぶつかり続けるより、相手の動きを制限した方がいい。けれど、そのためにここまで大掛かりな攻撃が必要だったのなら、敵の練度は相当なものだろう。
「セラスティア」
聞き慣れた声に振り返ると、ケルシーとドクターが近づいてくるところだった。
「合流したか。後方の状況は報告で確認している」
「今のところ問題ないよ。そっちから支援の要請があったって聞いたんだけど」
「ああ。こちらの負傷者が増えている。お前にはドクターの周辺警護と、必要に応じた退路の確保を頼む」
ケルシーは端末を操作し、周辺の配置を表示した。
「相手はウルサスで長年戦い続けてきた精鋭だ。武装も統率も、これまで我々が戦ってきたレユニオンとは違う。個人で突出せず、指示された役割に徹しろ」
「了解。ドクターのそばにいればいいんだな」
「まずはそれでいい」
ドクターへ目を向けると、彼もこちらを見ていた。
「……今回もよろしく頼むよ」
「ああ。後ろは任せてくれ」
昔なら、この人にそう言われるのは当たり前だった。今は少し違う。ただ、一緒に戦うことに抵抗はなかった。
◇
「アーミヤ、あの建物の奥にまだ敵がいる」
ロスモンティスが声を掛けてきた。彼女が指差した先には、半壊した建物がある。窓の奥から武装した兵士たちの姿が見え、こちらの動きを窺っているようだった。
「分かりました。ロスモンティスさん、まずはほかの皆さんと連携して――」
アーミヤが指示を出しかけた、その時だった。建物の奥で、何かが動いた。最初は、壁が崩れたのかと思った。だが、違う。巨大な影が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
ロスモンティスの周囲に浮かんでいた金属の剣が、影へ向かって動いた。次の瞬間、激しい衝撃音が響く。巨大な剣が、止まった。それを受け止めていたのは、鎧に覆われた片腕だった。
「……嘘だろ」
思わず声が漏れる。あれほどの質量があるものを、正面から受け止めたというのか。しかも、相手はほとんど動いていない。
「ロスモンティス、退がれ」
ケルシーの声が響いた。表情が、先ほどまでとは明らかに変わっている。
「先生、あの人は……」
「いいから下がるんだ。お前一人で相手をするな」
ロスモンティスは不満そうにしたものの、すぐに剣を引いた。
巨大な影が、ゆっくりと前へ出る。全身を覆う重厚な鎧に、大きな盾と長柄の武器。兜の奥から聞こえる、ひどく掠れた呼吸音。そこに立っているだけで、周囲の空気が重くなったように感じた。
「……ボジョカスティ」
テレジアが呟いた。聞き覚えのある名前だった。かつてカズデルを離れ、ウルサスの戦場で名を上げたウェンディゴ。テレジアのもとへ届いた報告でも幾度か名前を目にしていたが、俺自身が直接会ったことはない。
「……パトリオットか」
俺の声に、テレジアが小さく頷いた。
「ええ。彼がここにいるなんて……」
彼女は目の前の巨人を見つめている。その表情を見て、俺はそれ以上何も聞かなかった。
◇
「久しぶりだな、ボジョカスティ」
ケルシーが前へ出た。パトリオットは彼女を見つめ、しばらく動かなかった。やがて、その口から掠れた声が漏れる。
「……ケルシー、士爵」
巨人は背後に控える兵士たちへ短く命じた。盾兵と遊撃隊が進軍を止め、武器を構えたまま配置につく。こちらへ向けられた盾も槍も、一つとして下ろされていなかった。ケルシーも部隊へ待機を指示する。
「まさか、君とこのような場所で再会するとはな」
「私も……同じだ」
パトリオットは、ケルシーの顔を見つめていた。
「随分と、年月が流れた。だが、貴方は……変わらぬように、見える」
「外見だけで判断するものではない。君も、昔のままではないだろう」
「……ああ」
巨人の喉から、苦しげな音が漏れた。
「私も……多くを、失った」
二人の会話を聞いているうちに、テレジアが俺の隣へ近づいてきた。
「……彼も、ずいぶん年を取ったのね」
その声には、かつての戦士を懐かしむような響きがあった。俺は周囲に聞こえないよう、声を落とす。
「昔から知ってたのか?」
「ええ。彼が一族とカズデルを離れた時のことも覚えているわ。その後も、戦い続けているという話は届いていたもの」
「……名前を出した時、お前、少し顔が違ったから」
「そう見えた?」
テレジアは小さく笑って、パトリオットへ視線を戻した。俺も目の前の巨人を見上げた。
◇
交渉は、すぐには進まなかった。中枢区画が龍門へ向かっていることも、それがウルサスと龍門の戦争を引き起こしかねないことも、パトリオットは理解していた。タルラの行動に異変があることさえ、気づいているようだった。それでも、ロドスを通すつもりはないと言う。
「……タルラが、誤った道を、進んでいるとしよう」
パトリオットの声が、ゆっくりと響く。
「ならば……彼女を信じた、感染者たちは、どうなる?」
アーミヤは何も言わず、続きを待った。
「共に戦い、同じ旗を掲げ……明日を夢見た、者たちだ。その者たちに、今さら指導者が、敵だったと……告げろというのか」
巨人の背後では、遊撃隊の兵士たちが黙って立っている。彼らも感染者だった。ウルサスで迫害され、それでも生きるために戦ってきた者たちなのだろう。
「私たちは、レユニオンを壊すために来たわけではありません」
アーミヤが答えた。
「このまま中枢区画が進めば、多くの人が死んでしまいます。その中には、感染者の方たちだっているはずです!」
「……分かっている」
「だったら、私たちと一緒にタルラさんを止めてください。あなたほどの人が力を貸してくだされば、救える人も増えるはずです」
パトリオットは、長い間黙っていた。やがて、その視線がドクターとアーミヤへ向けられる。
「……諸君から、娘の死の……気配がする」
アーミヤの肩が、僅かに動いた。
「フロストノヴァさんは……」
「エレーナの、ことは知っている」
巨人が遮った。その声に、先ほどまでとは違う重みがあった。
「娘は……自ら戦いを、選んだ。私が……その選択を、否定することはない」
ケルシーが口を開く。
「ならば、君は娘の仇を討つために戦うのか?」
パトリオットは首を横に振った。
「……違う、士爵」
一度、大きく息を吸う。
「私は……生きている者のために、戦う。死した娘の、ためではない」
その答えを聞いて、アーミヤが僅かに表情を緩めた。けれど、パトリオットの次の言葉は、彼女を再び立ち止まらせた。
「……だが、私は諸君を、許したわけではない」
巨人が一歩を踏み出す。
「エレーナは……まだ若かった。あの子は、諸君に何を、見たのだ。何を信じて……命を、費やした」
「フロストノヴァさんは、最後まで自分の意思で戦いました!」
アーミヤが声を上げる。
「私たちを確かめるために、あの人は自分のすべてを懸けたんです。あの戦いを、何の意味もなかったことにはしないでください!」
パトリオットの兜が、僅かに下がった。
「……君に、何が分かる」
その声に、怒りが滲んでいた。
「娘の身体は、とうに限界だった。もし……健康な身体であったなら、戦いの結果も……違ったかもしれぬ」
アーミヤは言葉を詰まらせた。俺も、フロストノヴァとの戦いを思い出していた。源石に侵された身体。それでも、自分の意思で立ち続けたフロストノヴァ。あの人は、最後まで諦めなかった。けれど、娘を失った父親に向かって、その死には意味があったと言うのは、あまりにも残酷なことなのかもしれない。
「……俺たちは、あの人を助けられなかった」
自分でも気づかないうちに、言葉が出ていた。パトリオットの兜が、こちらへ向く。
「セラスティアさん……」
アーミヤが俺を見た。
「俺もフロストノヴァと戦ったんだ。あの人がどんな覚悟で戦っていたのか、全部分かるとは言えない。でも、あの人を生かして帰れなかったことは、今でも残ってる」
言いながら、巨人を見上げた。
「だから、あんたに怒るなとは言えない。ただ……」
「……セラスティア、か」
思いがけず名前を呼ばれ、言葉が止まった。パトリオットは俺を見下ろしていた。
「その名は……聞いたことが、ある」
意外だった。こちらは昔から名前を知っていたが、あの男の耳にまで自分の名が届いていたとは思っていなかった。
「……そうだったのか」
何を聞いていたのか尋ねようとしたが、パトリオットはそれ以上話すつもりがないらしい。巨人はゆっくりと首を横に振り、アーミヤたちへ向き直った。
「……もうよい」
巨大な盾が、僅かに持ち上がる。
「私は……戦う。それだけだ」
その声を聞いて、ケルシーが一歩前へ出た。
「ボジョカスティ。君にはまだ生きる道がある。ここで死ぬ必要はない」
「必要……か」
パトリオットは、低く息を吐いた。
「私が、ここで退けば……レユニオンは、どうなる。感染者同士が殺し合い、また多くの者が……理不尽に、死ぬだろう」
「君が戦い続けたところで、それを防げるとは限らない」
「分かっている」
その答えは、驚くほど静かだった。
「だが……私は、進む」
パトリオットは背後の遊撃隊へ目を向けた。
「諸君は、ここに残れ」
盾兵の一人が前へ出ようとする。
「大尉、しかし……!」
「私の戦いに……付き合う必要は、ない。命を、無駄にするな」
兵士は何か言いかけたが、結局、配置へ戻った。その手は、最後まで武器を握りしめていた。
「……始めよう」
パトリオットの声が響く。
「諸君が、先へ進むというのなら……私を、越えてみせろ」
ケルシーが指示を飛ばした。
「全員、戦闘配置につけ!彼を通常の重装兵と考えるな!」
俺はドクターの前へ移動した。アーミヤも後退し、ロスモンティスの周囲に巨大な剣が浮かび上がる。その向こうで、パトリオットが一歩を踏み出した。
地面が震えた。
◇
最初の一撃で、戦いの規模が違うことを思い知らされた。パトリオットが武器を振るうと、その軌道にあった障害物がまとめて砕け散った。直撃すれば、重装備のオペレーターでもただでは済まない。
「右へ避けろ!」
俺はドクターの肩を引き、迫ってきた破片を剣で弾いた。背後で金属が床へ突き刺さり、破砕音が響く。まともに受け止めるのは危険だった。武器の間合いも長く、巨体の割に動きが鈍いわけでもない。こちらの位置を正確に捉えてくる。
「セラスティア、前へ出すぎるな!」
ケルシーの指示が飛んだ。
「分かってる!ドクターはこの位置でいいのか?」
「そこを維持しろ。Mon3trが正面を引き受ける!」
巨大な影が、パトリオットへ向かって突進した。Mon3trの爪が鎧へ食い込み、金属が悲鳴を上げる。けれど、パトリオットは止まらなかった。片腕でその攻撃を受け止め、逆にMon3trを押し返していく。
「……あれを押し返すのか」
隣でテレジアが息を呑んだ。Mon3trが正面から力負けするところなど、そう何度も見たことがない。
「セラスティア!」
声に反応して振り向く。右側の通路では、遊撃隊の兵士たちが守備線を広げていた。パトリオットの命令で進軍は止めているが、槍の穂先はドクターたちの側面へ向いている。こちらの動きを牽制し、近づく者を迎え撃つつもりなのだろう。
「ドクター、ここを動くな!」
返事を待たずに踏み込んだ。最初の兵士が槍を突き出してくる。剣の腹で軌道を逸らし、踏み込んだ足を払う。倒れた相手を越えて二人目が迫ってきたところで、俺は柄を打ちつけ、武器を弾き飛ばした。だが、敵は退かない。盾兵が前へ出て、倒れた仲間を庇うように構えた。
「……いい連携だな」
思わず声が出た。こちらの戦力差を理解していても、仲間を置き去りにはしない。あの巨人の部下らしかった。
「武器を下ろせ!これ以上やり合っても、互いに損害が増えるだけだ!」
呼びかけても、盾兵は構えを解かなかった。その背後では、負傷した兵士が仲間に引きずられて後退している。俺はそれを追わず、ドクターの前へ戻った。ここで敵を深追いする必要はない。相手が仲間を逃がそうとしているのなら、俺まで追撃に加わる理由はなかった。
◇
戦闘は長引いた。ロスモンティスの巨大な剣がパトリオットの進路を塞ぎ、Mon3trが側面から攻撃を加える。その間にも狙撃手たちが鎧を撃ち続けていたが、巨人の歩みは止まらなかった。しかも、壊れた鎧の隙間から覗く身体は、普通の生物とは思えない状態になっている。傷ついた場所を源石の結晶が覆い、失われた組織を補うように広がっていた。
「……あの身体、もう」
テレジアが言葉を失っていた。俺にも分かる。鉱石病の侵蝕が、あまりにも進みすぎている。本来なら、立っていることすら難しいはずだった。それなのにパトリオットは、今も戦っている。
「全員、後退!近づきすぎるな!」
ケルシーが指示を飛ばす。前方でパトリオットの周囲に黒い光が広がり、床の源石が不気味に輝き始めた。嫌な感覚がした。サルカズの古い巫術に似ている。俺が知っている術式とは違うが、あれが危険なものであることは分かった。
「ドクター、下がるぞ!」
その肩へ手を掛け、近くの遮蔽物まで移動する。遅れて黒い光が通路を走り、さっきまで俺たちがいた場所を呑み込んだ。床が砕け、周囲の設備が一斉に軋む。
「……っ!」
包帯の巻かれた腕に痛みが走った。俺が顔を歪めたのを見て、ドクターが何か言いかける。
「大丈夫。まだ動けるよ。それより、アーミヤたちが心配だ」
正面を見る。ロスモンティスが巨大な剣を振るい、パトリオットの盾へ何度も叩きつけていた。一撃ごとに金属が歪み、ひび割れが広がっていく。
「……アーミヤ!もう少し、何とかする!」
ロスモンティスが叫んだ。その声に応えるように、アーミヤの周囲に黒いアーツが集まり始めた。
◇
戦闘の合間に、テレジアが呟いた。
「……あの人、ずっと戦い続けてきたのね」
彼女はパトリオットから視線を外さなかった。
「ウルサスに渡ってからも、随分長いんだろうな」
「……ええ」
その言葉を聞き、俺はもう一度巨人を見た。仲間のために戦い、失った人々のために歩き続けてきた男。以前から戦歴を耳にしていたとはいえ、実際に戦う姿を見ると、話に聞いていた以上のものを感じる。
周囲の戦闘音に紛れるように、声を落とした。
「……なあ、テレジア」
「なあに?」
「俺も、ああなってたのかな」
口にしてから、妙なことを聞いたと思った。テレジアはすぐには答えなかった。
「……どうして、そう思うの?」
「分からない。でも、あの人を見てるとさ。何かを背負って、ずっと戦い続けることしかできなくなった人に見えるんだ」
パトリオットが再び一歩を進める。その身体はもう、限界のはずだった。それなのに、止まろうとしない。
「……俺も、お前が死んだあと、何をしたらいいか分からなかったから」
テレジアの顔を見る。彼女は俺を見つめていた。
「……そうね」
少し間を置いて、彼女が答える。
「でも、あなたは今、ここにいるでしょう?今日も誰かを助けていたわ。あの人がどういう道を歩いてきたとしても、あなたまで同じ道を選ぶ必要はないのよ」
何か返そうとして、結局、言葉にならなかった。パトリオットへ目を戻す。目の前にいるのは、長い年月を戦ってきた一人の戦士だ。その生き方を、俺が簡単に理解できるとは思わなかった。
◇
「……パトリオットさん」
アーミヤが前へ出た。
「もう十分です。あなたは、これ以上戦わなくても……」
「……十分、だと?」
巨人の声が響く。
「私は……まだ、何も成し遂げて、いない」
「そんなことありません!」
アーミヤの声が震えた。
「あなたは、たくさんの人を守ってきました。今ここで戦い続けなくても、あなたがしてきたことまでなくなるわけじゃありません!」
パトリオットは、アーミヤを見下ろした。
「……少女よ」
その声には、静かな怒りがあった。
「君に……私が背負うものの、重さが分かるか」
アーミヤは、胸元を押さえた。
「……分かります。全部ではありません。でも、あなたの中にあるものが……」
言葉を続けようとして、彼女の顔が苦痛に歪む。
「アーミヤ!」
俺が駆け寄ろうとすると、ケルシーに制された。
「待て、セラスティア。今、無理に近づくな」
「でも、アーミヤが……!」
「彼女はボジョカスティの感情に触れている。下手に干渉すれば、かえって危険だ」
俺は足を止めた。アーミヤは苦しそうに息をしている。それでも、パトリオットから目を逸らそうとはしなかった。
「……ヘレン」
巨人が、誰かの名前を呼んだ。
「……守れなかった。約束も……果たせなかった」
その声が誰に向けられたものなのか、俺には分からない。けれど、パトリオットは自分の言葉を噛みしめるように、しばらく俯いていた。
「……生きている限り、悔いは……消えぬ」
やがて巨人の兜が動き、ロスモンティスへと向けられた。
「フェリーンの、子供よ。貴公にも……悔いが、あるのだろう」
「……私の、悔い?」
問い返したロスモンティスは、浮かべていた剣をその場に留めたまま、パトリオットを見つめていた。
「……それを、背負って生きろ。この大地で、失われた者たちの……悲しみも、過ちも。残された者が、背負わねば……ならぬ」
ロスモンティスは答えなかった。彼女が何を思い出しているのかまでは分からなかったが、その表情を見て、俺も口を挟むことはできなかった。
「……グロワズル」
パトリオットが、もう一人の名前を呼んだ。俺はその名前を知らなかった。けれど、アーミヤの顔を見れば、彼女が何かを感じ取っていることは分かった。
「そんな……」
彼女の声が震える。
「奥さんも……息子さんも……」
パトリオットは答えなかった。
「こんなに……こんなにたくさんの後悔を、一人で抱えていたんですか……?」
アーミヤの目から涙が落ちた。パトリオットは、ゆっくりと顔を上げた。
「……私が、背負うべきものだ」
それから、ケルシーへ視線を向ける。
「士爵……私は時々、考える」
ケルシーは何も言わなかった。
「何故……殿下のような方でさえ、命を落とすのか」
その言葉を聞いた瞬間、息が止まった。殿下。誰のことを言っているのか、分かってしまった。
「……テレジア」
思わず呟く。隣にいる彼女も、パトリオットを見つめていた。巨人は言葉を続ける。
「今も……あの方の死は、謎のままだ。だが私は……知っている」
ケルシーの表情が僅かに変わった。
「殿下は……最後まで、運命から逃げなかった。どのような時でも……笑って、立ち向かった」
テレジアが目を伏せた。その表情を見て、俺は何も言えなくなった。パトリオットは、彼女がどんな最期を迎えたのか知らないのだろう。それでも、テレジアがどんな人間だったのかは覚えているのだと思う。彼女が笑っていたことを。どれほど困難な状況でも、人々の未来を諦めなかったことを。
「……エレーナ」
今度は、娘の名前が呼ばれた。
「私は……父親として、あの子に何をしてやれたのだろう。もっと……してやれることが、あったはずだ」
フロストノヴァが最後まで戦い続けていた姿を思い出す。彼女がこの言葉を聞いたら、何と答えただろう。俺には分からなかったが、あの戦いで彼女が父親を大切に思っていたことだけは覚えていた。
「……それ故に、私は……歩みを止めることが、できぬ」
巨人が一歩を踏み出す。
「私が退けば……死者たちの戦いが、意味を失う」
「……ボジョカスティ」
ケルシーが名前を呼んだ。
「君の戦いが何を残したのかは、君が死んだあとも消えはしない」
「……それを、決めるのは……私ではない」
その言葉を最後に、パトリオットはアーミヤへ向き直った。傷んだ盾と槍を手に、なお前へ進もうとしている。俺は隣のテレジアを見た。彼女は、まだ目を伏せている。
「……テレジア」
声を掛けると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「大丈夫よ、セラスティア」
そう答える声は、いつもと変わらなかった。けれど、その目は少しだけ寂しそうだった。
「……今は、あの人を見ていてあげましょう」
俺は頷き、再び正面へ向き直った。
◇
やがて、巨大な盾が砕けた。続いて武器の柄が折れ、金属片が地面へ転がった。ロスモンティスの攻撃を受けたパトリオットは、それでも膝をつかなかった。
「……フェリーンの娘。見事だ。私の装備を……ここまで砕くとは」
「……まだ、動けるのか」
自分でも信じられなかった。周囲にはMon3trの攻撃によって砕けた鎧が散らばり、パトリオットの身体からは血が流れ続けている。あれほど傷ついて、なぜ立っていられる。彼はもう限界を迎えているはずで、そのことは本人が一番よく分かっているはずだった。
パトリオットの身体が、大きく揺れた。ロスモンティスの剣によって鎧が破壊され、Mon3trの攻撃が巨人の胸元を貫いていた。それでも、パトリオットは歩みを止めなかった。
「……あと、十歩」
掠れた声が響く。アーミヤとの距離を、数えるように。
「もう、これ以上は動けないはずです!」
アーミヤが声を上げる。
「パトリオットさん、あなたの身体はもう限界なんです!」
「……ならば、止めてみせろ」
その言葉に、アーミヤが顔を上げた。彼女の周囲に集まっていた黒いアーツが、一点へ収束していく。俺には、何が起こるのか分からなかった。ただ、アーミヤが何かを決意したことだけは伝わってきた。
「……この一撃に、あなたから感じたものを込めます」
その声は、震えていなかった。
「あなたが歩いてきた道も、抱えてきた後悔も……全部」
黒い光が、放たれた。巨人の胸元を貫く。パトリオットの身体が、大きく揺れた。それでも、膝をつかない。
「……見事だ」
声が響いた。
「ようやく……私も、止まれるのか」
アーミヤは何も言わなかった。ただ、涙を流しながら、パトリオットを見つめていた。
◇
戦闘が終わったことを、誰もすぐには理解できなかった。パトリオットはまだ立っている。けれど、先ほどまで感じていた圧迫感は、もうほとんど残っていなかった。ケルシーが、慎重に近づいていく。
「……ボジョカスティ」
巨人が、ゆっくりと顔を上げた。
「……士爵」
その声は、今にも消えてしまいそうだった。
「諸君の……勝ちだ」
ケルシーは何も言わなかった。パトリオットが、腰元から小さな金属製の鍵を取り出す。
「……これを」
ケルシーが受け取った。
「中枢区画の制御に必要なものか?」
パトリオットは頷いた。
「ブリッジへ、向かうなら……持っていけ」
アーミヤが息を呑む。
「パトリオットさん……最初から、私たちに渡すつもりだったんですか?」
「……違う」
巨人が、ゆっくりと首を横に振った。
「私は、諸君を……殺すつもりだった」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
「だが、諸君は……勝った。それが、結果だ」
ケルシーは受け取った鍵を握り、静かに頷いた。
「……分かった。確かに受け取った」
パトリオットの視線が、背後の遊撃隊へ向く。彼らはまだ武器を持っていた。それでも、誰も前へ出てこない。盾兵の一人が、何かを叫ぼうとしている。パトリオットは、僅かに首を横に振った。
「……大尉!」
男の声が響いた。だが、巨人はそれ以上何も言わなかった。
◇
しばらくして、パトリオットがケルシーへ向き直った。
「……士爵」
ケルシーは彼を見上げた。
「何だ、ボジョカスティ」
「……私の、最期を……見届けて、ほしい」
ケルシーの表情が変わった。
「……君は、私にそれを頼むのか」
「貴方が……適任だ」
短い沈黙があった。やがて、ケルシーは頷いた。
「……分かった」
その声は、いつもより少し低かった。パトリオットはそれから、俺の方へ兜を向けた。
「……セラスティア。貴公にも……見届けて、ほしい」
「俺にも?」
「士爵に、儀式を託す。貴公には……同胞として、その最期を、見届けてもらいたい」
彼とは今日初めて言葉を交わしたばかりだった。俺のことをどこまで知っているのかも分からない。それでも、わざわざ名を呼んでくれた相手に、軽々しい返事はしたくなかった。
「……分かった。最後まで見届けるよ」
パトリオットは小さく頷き、ケルシーへ顔を戻した。
ケルシーが口にしたのは、古いサルカズの言葉だった。俺も、すべてを理解できたわけではない。けれど、それが一人の戦士を見送るための言葉であることは分かった。パトリオットが生きてきた年月。失ったもの。守ってきたもの。そのすべてを、彼の一族の血脈へ送り返すための言葉。
ケルシーは、最後まで言い終えた。パトリオットは、静かに顔を上げた。
「……感謝する、士爵」
「君は、こうしたものを好まなかったはずだが」
「……私も、老いた」
その返答を聞いて、ケルシーは目を伏せた。俺はケルシーの少し後ろに立ち、パトリオットを見ていた。あれほど長く戦い続けてきた男が、今はただ、死を迎えようとしている。その光景を前に、俺には何もできなかった。
「大尉……」
盾兵の声が響いた。背後に控えていた兵士たちは、誰一人として武器を下ろしていない。パトリオットは彼らの方へ顔を向けると、弱々しくもはっきりと声を発した。
「……最後の、命令だ」
兵士たちの間に緊張が走る。
「戦え。そして……生きて、歩き続けろ。お前たちの道は……お前たち自身で、切り拓け。歩みを止めていては……新たな道は、生まれぬ」
言葉が途切れ、重い呼吸音が漏れた。それでもパトリオットは、最後の力を振り絞るように言葉を続けた。
「私の死が、何を変えるのか……答えは、お前たちが……見つけるのだ」
盾兵はそれ以上何も言えず、ただ武器を握り直していた。俺はその姿を見ながら、パトリオットが自分の死後のことまで部下に託そうとしているのだと感じた。
◇
「……ヘレン」
パトリオットが呟いた。
「……グロワズル……エレーナ……」
先ほどもパトリオットが口にしていた、彼の家族の名前だった。その声は、少しずつ穏やかになっていく。
「……ようやく、帰れるのか」
アーミヤが、僅かに顔を上げた。彼女の周囲に、淡い光が広がる。最初は何が起きているのか分からなかった。ただ、アーミヤが何かを呟き、パトリオットの気配が変わったことだけは分かった。
「……違う」
巨人の声が響く。
「……これは、幻だ」
俺は反射的に剣へ手を伸ばした。パトリオットが、ゆっくりと顔を上げる。
「……誰だ」
その視線が、アーミヤへ向いた。
「誰が……私に、幻を見せた」
アーミヤの顔が強張った。
「……なるほど」
巨人が呟いた。
「君が……継承者、だったのか」
ケルシーの表情が変わった。
「ボジョカスティ……?」
「殿下には……後継者が、いた」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。俺は隣のテレジアを見た。彼女も、アーミヤを見つめている。
「……テレジア?」
呼びかけても、彼女はすぐには答えなかった。パトリオットは、さらに言葉を続ける。
「……魔王」
その声に、アーミヤが僅かに身体を震わせた。俺は何も言えなかった。魔王。サルカズにとって、その言葉が何を意味するのかは知っている。けれど、なぜ今、パトリオットがアーミヤをそう呼ぶのか。その理由までは分からなかった。
「……魔王の、手によって……私は、死ぬ」
パトリオットが呟いた。
「……やはり、運命には……逆らえぬのか」
俺には彼が何を思い出したのか分からない。ただ、今の声には、先ほどまで感じなかった戸惑いが混じっているように聞こえた。
アーミヤは俯き、唇を噛んだ。
「……ごめんなさい。あなたが……あまりにも多くのものを失っていたから。最後くらいは、少しでも安らかでいてほしかったんです」
パトリオットは、しばらく彼女を見つめていた。
「……私の、最期を」
その声には、怒りがあった。
「他人が……決めるな」
アーミヤは何も言えなかった。
「……私の歩いた道は、私のものだ」
その言葉が、重く響いた。
「悲劇であろうと……愚かであろうと……それが、私の人生だ」
俺は剣から手を離した。アーミヤはただ、涙を流している。彼女は、あの人を慰めようとしたのだろう。けれど、パトリオットはそれを受け入れなかった。それが彼の選択だった。
パトリオットはアーミヤを見下ろしたまま、途切れがちな息の合間に言葉を続けた。
「……私は、長い年月をかけて……運命に、抗ってきた。だが、結局は……勝てなかった」
彼は一度言葉を切り、アーミヤへ向けていた兜を僅かに傾けた。
「お前は……違うのかもしれぬ。殿下の後を継ぐというなら……この先に待つものを、乗り越えられるのか?」
アーミヤはすぐには答えなかった。パトリオットの声を聞きながら、胸元で握っていた手をゆっくりと開く。
「……私一人では、できないと思います」
一瞬、彼女の視線がケルシーとドクターの方へ動いた。
「でも、私には一緒に歩いてくれる人たちがいます。私が迷った時に支えてくれる仲間がいるんです。だから、どんなに難しくても、諦めずに進みたいです」
その言葉を聞いて、パトリオットはしばらく黙っていた。俺も二人の間に口を挟まず、アーミヤの背中を見つめていた。
「……そうか。ならば、お前たちが……覆すのかもしれぬ。タルラの暴走も、この先の……運命も」
あれほど頑なに道を譲らなかった男が、今はアーミヤたちの進む先に、自分には見つけられなかった可能性を認めているようだった。だが、その声がふいに途切れた。
「……待て。これは……」
「……セラスティア」
テレジアが、俺の名前を呼んだ。その声は、少しだけ硬かった。
「今は、ケルシーの指示を聞いて」
言われて顔を上げる。ケルシーが何かを考え込んでいた。その表情は、普段の彼女からは想像できないほど険しい。視線がふと崩れた外壁の向こうへ向く。つられて目をやると、薄暗い空に白いものが舞っていた。
「……まずい」
小さな声だった。
「これは……!」
次の瞬間、ケルシーが叫んだ。
「全オペレーターに告ぐ!ボジョカスティの言葉を信じるな!」
その声が、周囲へ響き渡った。
◇
突然、空気が重くなったように感じた。ケルシーの警告を聞いた周囲の隊員たちが、互いに顔を見合わせている。俺も思わず胸元へ手を伸ばしたが、押し花の入ったケースはいつもと変わらずそこにあった。
「……何が起きるんだ?」
「セラスティア、あの人の声を聞いて」
テレジアに促され、俺はパトリオットへ目を向けた。巨人はアーミヤから視線を外さず、ゆっくりと口を開いた。その掠れた声が、周囲のざわめきを押しのけるように響いていく。
滅び去った数多の都市。大地を埋め尽くす源石。そして黒い冠を戴き、無数の魂を記憶に変えて人々を従わせる王。パトリオットは、そんな未来を告げる言葉を一つずつ口にしていた。
「……何だよ、それ」
聞こえた言葉の意味を考えようとしたが、どうして今アーミヤに向けてそんなことを語るのか、俺には分からなかった。ただ、ケルシーがあれほど強く警告した理由が、この言葉にあるのだということだけは伝わってくる。パトリオット自身も、自分が口にした言葉を受け入れられないようだった。
「……ありえぬ」
巨人が呟いた。
「だが……私は、知っている」
ケルシーが、必死に呼びかける。
「ボジョカスティ!それは確かな未来ではない!君は自分の生涯を懸けて、運命に抗い続けてきたのだろう!」
パトリオットは答えなかった。その視線は、アーミヤへ向いている。
「……幼き、魔王」
巨人の声が、低く響いた。
「お前は……この大地を、滅ぼすのか」
アーミヤは、何も言わなかった。
「……ならば」
パトリオットの身体が、僅かに動いた。
「お前を……生かしては、おけぬ」
俺は息を呑んだ。
「――アーミヤ!」
◇
身体が動いたのは、考えるより先だった。アーミヤはパトリオットのすぐ前にいる。一方、俺は負傷者を下げた位置から、彼女たちの様子を見ていた。距離がある。しかも途中には、崩れた瓦礫が散乱している。
足を踏み出す。二歩目で瓦礫を越えた。その瞬間、腕の傷が痛んだ。
「……っ!」
構わず進もうとする。けれど、アーミヤは動かなかった。逃げようともせず、パトリオットを見上げている。
「アーミヤ、避けろ!」
声が届いたのかは分からない。彼女は、ただ巨人を見つめていた。その眼差しを見て、俺は一瞬だけ足を緩めた。怖くないはずがない。目の前には、自分の頭を握り潰そうとしている巨人がいる。それでも、アーミヤは目を逸らさなかった。
ロスモンティスの巨大な剣が動き、Mon3trの放った光がパトリオットへ届く。鎧が砕け、巨人の身体を貫いた。それでも、腕は止まらない。俺は再び駆け出した。間に合うかどうかなど、考えている余裕はなかった。
だが――
パトリオットの腕が、止まった。
アーミヤの頭へ届く寸前だった。巨人は、その姿勢のまま動かなくなった。俺も足を止めた。
「……え?」
誰かが声を漏らした。アーミヤはまだ、パトリオットを見上げている。巨人の兜から、何かが落ちた。血なのか、それとも別のものなのか。俺の位置からは分からなかった。ただ、パトリオットはもう動かなかった。
しばらくして、ケルシーがゆっくりと近づいた。俺もアーミヤのそばへ駆け寄る。
「アーミヤ、怪我は?」
彼女はすぐには答えなかった。目の前の巨人から、視線を離せずにいる。
「……アーミヤ」
もう一度声を掛けると、ようやくこちらを向いた。
「……大丈夫です、セラスティアさん」
そう答える声は、震えていた。俺は彼女の肩へ手を添えた。アーミヤはそのまま、しばらく動かなかった。
◇
パトリオットが死んだと分かったあとも、誰もすぐには口を開かなかった。あれほど激しかった戦闘が終わり、今は中枢区画の駆動音だけが聞こえている。ふと、頬に冷たいものが触れた。さっき見えた雪が、崩れた外壁の向こうから静かに舞い込んでくる。
巨人は最後まで倒れなかった。身体中を傷つけられ、鎧を砕かれ、それでも一歩も退こうとしなかった男。その姿を、俺はしばらく見つめていた。
「……パトリオットさん」
アーミヤが小さく名前を呼んだ。返事はない。ロスモンティスも、巨大な剣を下ろしたまま立っている。
「……アーミヤ」
テレジアが彼女のそばへ来た。声は届かない。けれど、テレジアは何か言いたそうにアーミヤを見つめていた。俺はその隣へ立った。
「……お前、さっき何があったか分かるか?」
小さな声で尋ねる。テレジアは首を横に振った。
「すべては分からないわ。でも、最後にあの人が動きを止めた理由は、単に力尽きたからだけではないのかもしれないわね」
「……どういうことだ?」
「彼は、アーミヤを見ていたでしょう?」
そう言って、テレジアはパトリオットへ目を向けた。俺もそちらを見る。最後のウェンディゴ。何百年もの間、戦い続けてきた男。あの人が最後に何を考えたのか、俺には分からない。けれど、アーミヤを見つめたまま動きを止めたことだけは確かだった。
「……そうかもしれないな」
それ以上、答えを出そうとは思わなかった。
◇
「……アーミヤ」
ケルシーが彼女へ声を掛けた。
「少し、こちらへ来てくれ」
アーミヤは顔を上げた。
「……はい」
彼女が歩き出そうとした時だった。
「大尉……!」
遊撃隊の盾兵が、パトリオットへ向かって駆け寄ってきた。その背後にも、数人の兵士が続いている。男は巨人の足元で立ち止まり、何度も名前を呼んだ。返事はなかった。
その光景を見ているうちに、俺は二年前の自分を思い出していた。帰ってきた時には、もうテレジアは動かなかった。何度名前を呼んでも、返事はなかった。あの時の俺も、今の彼と同じような顔をしていたのだろうか。
盾兵の一人が、こちらへ顔を向けた。その目には、明らかな怒りがあった。
「……ロドス」
低い声だった。
「お前たちが……!」
男が武器を握り直す。俺も、無意識に剣へ手を伸ばしていた。だが、ケルシーが片手を上げて制した。
「今は、互いに動くな」
盾兵は、ケルシーを睨みつけた。
「……大尉は、もう」
言葉が途切れる。そのまま、男はパトリオットへ向き直った。俺は剣から手を離した。この場で彼らが何を選ぶのか、まだ分からない。けれど、今ここで俺たちが武器を抜けば、さらに多くの血が流れることだけは分かっていた。
◇
少し離れた場所へ移動すると、アーミヤが深く息を吐いた。
「……セラスティアさん」
「どうした?」
「さっき、私が動かなかった時……助けに来ようとしてくれましたよね」
「ああ。間に合わなかったけどな」
「……でも、私は」
彼女は少し考えていた。
「……あの人が最後に何を選ぶのか、見届けたかったんです」
俺は黙って聞いた。
「怖かったです。あのまま殺されるかもしれないって、分かっていました。それでも……あの人から、目を逸らしたくありませんでした」
アーミヤはパトリオットの方角を見た。
「たくさんの人を失って、それでも戦い続けてきた人でした。私には、あの人の苦しみを全部理解することなんてできません。でも、最後まで見ていたかったんです」
「……そうか」
俺は少し考えてから、口を開いた。
「正直、心臓に悪かったよ。お前が動かなかった時、どうしようかと思った」
アーミヤは申し訳なさそうに目を伏せた。
「……すみません」
「謝らなくていい。ただ、次に同じようなことがあったら、せめて俺にも分かるようにしてくれ。助けに行くべきかどうか、迷っちまうからさ」
アーミヤは顔を上げた。少し困ったように笑う。
「……それは、難しいかもしれません」
「だろうな」
「でも、セラスティアさんが助けようとしてくれたことは、ちゃんと分かっています。ありがとうございます」
その言葉に、俺は頷いた。
「……どういたしまして」
アーミヤは、もう一度パトリオットの方角を見た。そこでは、まだ盾兵たちが巨人のそばを離れずにいる。
「……あの人たちとも、話さなければいけません。パトリオットさんがいなくなっても、あの人たちの戦いは終わっていませんから」
その声は、まだ少し震えていた。けれど、アーミヤは目を逸らさなかった。
◇
部隊が次の行動を決めるまで、少しだけ時間があった。俺は通路の端で装備を確認しながら、パトリオットが立ち尽くしている場所を見ていた。遠くでは、遊撃隊の兵士たちが仲間の身体を運んでいる。
剣の刃を確かめ、鞘へ戻す。
「なあ、テレジア。もし、あの人がもう少し早く戦うのをやめてたら、違う未来もあったのかな」
テレジアはすぐには答えず、遊撃隊の方へ目を向けていた。
「……それは分からないわ」
やがて彼女が言った。
「でも、あの人が守ろうとしていたものまで、なくなったわけではないと思う」
その言葉を聞いて、俺はパトリオットの部下たちを見た。彼らは今も、生きている。何を考え、これからどこへ向かうのかは分からない。けれど、あの人は最後まで、彼らを無駄死にさせまいとしていた。
「……そうだといいな」
テレジアは何も言わず、俺の隣に立っていた。
◇
『各小隊、現状の配置を維持。負傷者の搬送を優先し、次の指示があるまで待機せよ』
通信機から指示が流れた。俺は装備を整え、立ち上がった。アーミヤたちは、パトリオットの部下たちと向き合っている。まだ、すべてが終わったわけではない。中枢区画は龍門へ向かって動き続けている。そして、あの巨人が残したものをこれからどうするのか、それを決めるのは、今も生きている俺たちだった。
「……セラスティア」
歩き出そうとしたところで、テレジアが声を掛けてきた。
「ん?」
「さっきのアーミヤ、本当に立派だったわね」
その言葉に、前方にいる小さな背中を見る。あの巨人を前にしても、最後まで目を逸らさなかった少女。俺が知っているアーミヤは、誰かが怪我をすると自分のことのように心配して、悲しいことがあれば一緒に泣く子だった。今も、そこは変わっていない。ただ、そんな彼女が大勢の命を預かり、自分で選んで前へ進んでいる。
「……ああ。立派になったよ、本当に」
テレジアが、嬉しそうに微笑んだ。
「ええ」
その笑顔を見て、俺も少しだけ笑った。ふと、崩れた外壁の向こうへ目を向ける。雪は今もゆっくりと舞い落ちていた。
「……雪、まだ降ってるな」
「ええ。綺麗ね」
テレジアも空を見上げた。
「……昔、夏雪草を見つけた時にも、雪の話をしたよな」
「覚えていてくれたのね。……懐かしいわ」
戦いの間じゅう響いていた轟音はもう聞こえず、俺たちはしばらく、静かに降る雪を眺めていた。遠くには、今もパトリオットのそばを離れない盾兵たちの姿がある。前方では、アーミヤが盾兵たちへ何かを話しかけようとしている。俺はその様子を見守りながら、静かに歩き出した。背後には、最後まで歩みを止めなかった戦士がいる。その姿を、俺はきっと忘れないだろう。