雪は、まだ降っていた。
崩れた外壁から入り込む風に乗って、白い粒が通路の床に散っていく。足元の血や砕けた金属に触れるとすぐに消えてしまうが、空の向こうでは次々と新しい雪が舞っていた。
俺は歩きかけた足を止め、アーミヤたちの方へ振り返った。パトリオットの前に集まった盾兵は、誰もその場を離れようとしない。先ほど武器を握り直した男が、もう一度アーミヤへ視線を向けていた。
「……そこを退け、コータスの娘」
抑えた声だったが、怒りは隠しきれていなかった。男が握る槍の穂先は下がっている。それでも、一歩踏み込めば戦いが再開してしまいそうな空気があった。
「大尉の遺したものを、我々は守らねばならん。そのために、ここで何が起きたのかを知る必要がある」
「分かっています。皆さんにとって、パトリオットさんがどれほど大切な方だったのかも……」
アーミヤは男の目を見て答えた。彼女の声には疲労が滲んでいる。だが、近くで見ていた俺には、無理に平静を装っているようには思えなかった。
「分かっているだと?」
男は大尉の方へ振り返った。鎧を失い、身体を源石の結晶に覆われてもなお立ち続ける姿を見上げ、そのまましばらく口を閉ざした。
「……大尉は、お前たちを通すつもりなどなかった」
「はい」
「なのに、お前は生きている。大尉が最後に何を考えたのか、お前には分かるのか?」
アーミヤが答える前に、ロスモンティスが一歩進み出た。彼女の周囲には、戦闘で使った巨大な剣が浮かんでいる。けれど、その刃を盾兵へ向ける様子はなかった。
「もう、戦わないで。あのおじいさんは、あなたたちに生きてほしかったんだと思う。最後に、そう言ってたでしょ」
「聞いていたとも」
盾兵は即座に答えた。
「俺たちは命令を忘れたわけではない。だからこそ、この先をどうするか考えねばならんのだ。大尉を倒した相手の言葉を、そのまま信じろと言われてもな」
ロスモンティスは唇を結んだ。彼女が何か言い返そうとしたところで、アーミヤがそっと腕を伸ばし、前へ出るのを止めた。
「パトリオットさんが、私を殺そうとしたのは本当です。それでも最後には……手を止めてくれました」
「あの預言を聞いただろう。お前の未来が何をもたらすか、大尉は知ったのだ」
「未来の私が何をするのか、今の私にも分かりません。だから、皆さんに信じてほしいとお願いすることもできません。でも、私はこれからも、目の前にいる人たちを守るために行動したいんです」
声を荒らげることなく、アーミヤはそう告げた。自分がどう見られているのか、彼女も理解しているのだろう。盾兵はしばらく黙っていたが、やがてドクターへ視線を移した。
「……エレーナは、お前たちに何かを遺したそうだな」
ドクターが懐から小さな包みを取り出すと、盾兵の目がそこで止まった。何が入っているのか、俺の位置からは見えなかったが、男はその包みを知っているらしい。
「これは、フロストノヴァが私に託してくれたものだ。私たちは敵として戦った。でも最後に、彼女はロドスの一員になりたいと言ってくれた。その意思を、私は受け入れた」
ドクターは包みを握り潰さないように持ったまま、言葉を続けた。
「彼女が何を願っていたのか、私が全部を代わりに語ることはできない。ただ、彼女が自分で選んだことまで、なかったことにはしたくないんだ」
「……あいつが、そんなものを渡したのか」
先ほどまでの怒りとは別のものが、男の声に混じった。仲間の一人が何か言いかけたが、彼は手で制した。
「分かった。エレーナが自分で選んだことなら、俺たちも考えねばならん」
けれど、それでロドスを許したわけではないらしい。男はアーミヤへ向き直り、槍を床へ突き立てた。
「俺たちは大尉のためだけに戦ってきたのではない。ウルサスで見捨てられた者も、感染者も、理不尽に命を奪われる者も、守るために盾を掲げてきた。大尉がいなくなった今、その誓いを誰に預けるかは俺たちが決める」
「……はい」
「レユニオンの名に従うことは、もうない。大尉が守ろうとした者たちの盾になる。たとえ相手がタルラであろうと、今ここにいるお前たちであろうとな」
男はアーミヤの顔を見据えた。
「もしもお前が、いつか守るべき人間を踏みにじる側に立つのなら、その時は俺たちが止める。大尉の最後の命令を、そういう意味で受け取る。預言については、今は我々の胸に留めておく。だが、お前がこれからどんな道を選ぶのか、見届けさせてもらうぞ」
アーミヤはすぐには答えなかった。隣にいたドクターへほんの一度視線を向け、それから男へ向き直った。
「……皆さんが、これからも誰かを守るために戦うのなら、私たちはその道を邪魔したくありません。私たちも、自分たちの選んだ道を進みます」
「ならば、まずは部隊を立て直す。ブリッジには、まだ俺たちが止めなければならない相手がいる。各隊にも伝えねばならん」
男は小さく息を吐いた。合意したというよりも、これ以上ここで争うつもりはないのだろう。仲間たちへ振り向き、負傷者を集めるよう短く命じた。
俺はその様子を少し離れた場所から見守っていた。ドクターの前に立っていた足を、ようやく元の位置へ戻す。気づかないうちに、剣の柄を握る手に力が入っていた。
「……よかったわね」
隣のテレジアが、盾兵たちを眺めていた。
「まだ、何も片づいてないけどな」
「ええ。でも、今ここで戦わずに済んだでしょう。あの人たちには、まだやらなければならないことがあるのね」
盾兵の一人が、パトリオットの方へ深く頭を下げた。ほかの兵士たちもそれに続き、やがて一人、また一人と持ち場へ戻っていく。その中の一人が、ふと空を見上げた。
「……エレーナが、大尉を迎えに来たのかもしれんな」
白い雪が、彼の差し出した手に落ちた。握り込むこともせず、そのまま溶けるのを見つめている。誰もその言葉を否定しなかった。
俺はパトリオットの背中へ目を向けた。フロストノヴァと同じように、あの人も最後まで自分の戦いを選んだ。雪が二人のために降っているのかなんて、俺には分からない。それでも、あの盾兵がそう思った理由は、少し分かる気がした。テレジアは何も言わずに空を見上げている。その横顔を見て、俺ももう一度、降り続く雪へ視線を戻した。
◇
盾兵たちが立ち去ったあとも、アーミヤはしばらくパトリオットの前から動かなかった。
俺たちの方へ戻ってきた彼女に、ケルシーが水筒を差し出した。アーミヤは礼を言って受け取り、一口だけ飲む。ロスモンティスも近くに腰を下ろしていたが、あれほど激しく戦った後だというのに、まだ眠る様子はなかった。
「アーミヤ、まずはあの預言について話しておこう」
ケルシーが静かに口を開いた。俺はパトリオットが最後に発した言葉を思い出す。あれが何を意味しているのか、今も分からないままだった。
「サルカズの一部の部族では、源石に蓄積された生体記憶が、長い年月を経て受け継がれることがある。断片的な情報が意識に浮かび上がり、預言として語られるのだ。しかし、そこに示されたものが、必ず訪れる未来だという証拠はない」
「……だったら、どうしてパトリオットはあれほど動揺したんだ?」
「彼自身は、あの預言が現実になると信じていたのだろう。だが、預言を信じた者が自分の選択を変え、結果としてそれを現実にしてしまうこともある。だからこそ危険なのだ」
アーミヤはしばらく黙っていたが、両手で水筒を包み直してから顔を上げた。
「ケルシー先生。私、あの人が最後に何を考えていたのか、お話ししたいです」
「……ああ。ボジョカスティの最後の行動についてだな。君は、彼の考えに触れたのだろう」
「はい。私、パトリオットさんの記憶を見ました。ほんの一部分だけじゃありません。あの人がこれまで生きてきた時間を、ずっと……」
言葉を探しているのが分かったが、誰も先を急がせなかった。
「カズデルを離れたことも、ウルサスで戦い続けていたことも、息子さんを失ったことも……あの人は何度も自分の選んだ道を振り返っていました。でも、戻ることはできなくて。そのたびに、守りたいものが増えていったんです」
パトリオットが口にした名前を思い出した。ヘレン、グロワズル、そしてエレーナ。俺が知っているのは、ほんのわずかな言葉だけだ。アーミヤが見た年月は、きっとそれとは比べものにならない。
「君が見たものを、すべて説明する必要はない」
ケルシーの言葉に、アーミヤは小さく首を横に振った。
「でも、先生。あの人は最後に、昔のことを思い出していたんです」
「……昔のこと?」
口を挟んだ俺へ、アーミヤが目を向けた。
「フロストノヴァさんが、まだ若かった頃のことです。パトリオットさんは、タルラさんがいつか危険な存在になるかもしれないと考えていたそうです。でも、フロストノヴァさんは止めたんです。これから何をするか分からないからといって、今のその人を殺していい理由にはならない、未来に何が起こるかなんて誰にも決められない、今を生きている人たちが選んでいくんだって」
テレジアが隣で目を伏せた。俺も、先ほどパトリオットがアーミヤへ伸ばした腕を思い出す。あの時、彼が何を考えていたのかは分からなかったが、そこに娘の言葉があったのなら、最後の一歩を踏みとどまった理由も少しは理解できる。
「パトリオットさんは、その約束を覚えていました。私を殺せたはずなのに、そうしなかった。あの人が最後に何を選んだのか、全部を言葉にすることは難しいです。でも……娘さんとの約束を、忘れていなかったんだと思います」
誰かの声を借りなければ生きられないと思っていた頃の自分が、ふと頭をよぎった。今のアーミヤは、あの老戦士から受け取ったものを、自分の言葉で語ろうとしている。
「……あの人も、最後に自分で選んだんだな」
「はい。……それから、最後にあの人から問いかけられたんです。『我が王よ……貴方はどこへ向かう?』と」
アーミヤはしばらくパトリオットを見つめていた。俺には聞こえなかった言葉だったが、彼女がその問いを受け止め、答えを探そうとしていることは伝わってきた。ケルシーも口を挟まず、その続きを待っていた。
「だから私も、この戦いを終わらせたいんです。パトリオットさんやフロストノヴァさんが何を守ろうとしていたのか、全部を理解できなくても……この先にいる人たちを、これ以上失いたくありません」
ロスモンティスが顔を上げ、アーミヤのそばに寄った。彼女は何も言わずにアーミヤの袖を引き、二人で同じ方向を見つめていた。
「……行きましょう」
少しして、アーミヤが口を開いた。
「ここで立ち止まっていたら、パトリオットさんたちが守ろうとした人たちも危なくなってしまいます」
◇
中枢区画の各所では、パトリオットの死が伝わり始めていた。
通路に設置された端末には、レユニオンの通信が断片的に入り込んでくる。タルラが裏切ったという声もあれば、パトリオットこそ裏切り者だったと叫ぶ声もあった。中には交戦を止め、負傷者を運び始めた部隊もあるらしい。
ケルシーはそれらの報告を確認しながら、小隊長たちへ指示を送っていた。
「混乱に乗じて戦闘を拡大させるな。遊撃隊のうち、協力する意思のある部隊とは連絡を取れ。民間人や負傷者を保護し、通路の安全を確保することを優先する」
俺の端末にも、新しい経路が表示された。さっきまで敵の占領区域だった場所に、通行可能を示す印が少しずつ増えている。それでも、どの部隊がこちらへ銃を向けてくるか分からない以上、気を抜くことはできなかった。
「ロスモンティス。これが、君の望んでいた復讐の形なのか?」
ケルシーが端末から目を上げて尋ねた。ロスモンティスはすぐには答えず、負傷者を運ぶ隊員たちへ目を向けた。遠くでは、まだ断続的な銃声が響いている。
「……違う。こんなの、私が欲しかったものじゃない」
「ならば、君が知りたいのは誰を罰すべきか、それとも、この戦いが始まった理由なのか?」
ロスモンティスは少し考えてから、ケルシーを見上げた。
「……原因を知りたい。この戦いが、どうして始まったのか」
ケルシーは頷いたが、それ以上答えを与えようとはしなかった。俺も二人の間に口を挟まず、端末の地図へ視線を戻した。
「セラスティア、お前には引き続き連絡経路の維持を頼む」
ケルシーがこちらを見た。
「この先、部隊は二手に分かれる。私はドクターとともに下層の動力制御エリアへ向かい、アーミヤとロスモンティスは司令塔を目指す。お前は両方の連絡に使える側路を押さえてくれ」
「了解。必要なら、そっちへ合流すればいいんだな」
「ああ。ただし、独断でどちらかの隊へ飛び込むな。負傷したまま前衛を続けられるほど、今のお前に余裕はないはずだ」
包帯の巻かれた腕に視線が向いた。さっきの戦闘で傷口が少し疼いていたのを、見逃されていなかったらしい。
「……バレてたか。今度はちゃんと道を守るよ」
「そうしてくれ」
ケルシーが端末を閉じ、ドクターへ目を向ける。アーミヤは二人を見送りながら、何か言いたそうにしていた。
「ドクター。離れていても、私たちは同じ目標のために戦っています。だから、必ず無事で戻ってきてください」
ドクターが頷くと、アーミヤも笑顔を返した。無理に明るく振る舞っているわけではないのだろう。彼女の声を聞いて、ここまで来たんだから全員で帰りたいという気持ちが、俺の中でも強くなった。
「セラスティアさんも、気をつけてくださいね」
「そっちこそ。ロスモンティスも、無茶するなよ」
「……それ、セラスティアにも言える」
思いがけず言い返され、俺は苦笑した。ロスモンティスは真面目な顔をしたまま、アーミヤの後ろへ並ぶ。彼女たちと別れ、俺は側路の入口へ向かった。
テレジアも隣についてくる。途中の曲がり角で一度だけ振り返ると、アーミヤたちの姿はもう見えなくなっていた。
「さあ、私たちも自分の仕事をしましょう」
「ああ。アーミヤに任せてもらったんだからな」
俺は端末で側路の位置を確かめ、次の隔壁を開いた。
◇
中枢区画、動力制御エリア。
Wは、壁を伝って歩いていた。傷口に当てた止血材はすでに血で汚れ、息を吸うたびに脇腹が痛む。さっきセラスティアに見つかった時よりは歩けるようになったが、それでも一度足を止めると、再び動き出すのに時間が掛かった。道中で見つけたレユニオンの補給箱から、爆薬と起爆装置だけは補充してあった。
「……ほんっと、最悪」
自分がどこまで降りてきたのかも分からない。上へ戻れそうな通路を探していたところで、聞き覚えのある声が耳に入った。振り向くと、通路の先にケルシーが立っていた。そのそばにはフードを被った人影がいる。Wは目を細め、それが誰なのか分かった瞬間、腹の痛みを忘れかけた。
「……へえ。こんなところで会うなんてね」
ケルシーがWの負傷を見て、わずかに眉を寄せる。
「傷が深いな。何があった、W?」
「いろいろよ。それより、あんたがここにいるってことは……待って。あの爺さんはどうしたの?」
ケルシーは一瞬だけ黙り、それから短く答えた。
「ボジョカスティは死んだ」
「……は?」
Wは思わず言葉を失った。あの老戦士が降伏する姿など想像できないし、ロドスに道を譲るとも思えない。だからこそ、ケルシーたちがここまで進んでいる事実に嫌な予感はしていた。
「……そう。あの人まで死んだのね」
「残念そうだな」
「悪い?レユニオンの中じゃ、あの爺さんの理想だけは気に入ってたのよ。あんな頑固者が、最後まで折れなかったっていうなら……まあ、そういうことなんでしょうね」
一度息を吐いてから、Wはケルシーの隣に立つ人影へ目を戻した。フードに隠れた顔を見るほど、腹の傷とは別のところが熱くなっていく。
「それで?あんたは随分おかしな相手と一緒にいるじゃない」
Wの視線は、ドクターから離れなかった。
「あんたは知ってるはずでしょ。殿下が死んだ時、何が起きたのか。議長室に入って、殿下の居場所を知っていたのはそいつだった。……なのに、平気な顔で一緒に歩いてるわけ?」
「今のドクターは記憶を失っている。そして、ロドスの作戦に必要な人物だ」
「記憶がない?だから何よ。殿下が死んだ日に、そいつが何をしたのかも分かってないのに、あたしが許せると思う?……あんたはその記憶喪失を、本気で信じてるわけ?」
あの整備通路で、偶然聞いてしまったセラスティアの話が一瞬だけ頭をよぎった。あいつが何を抱えていたのか、まだ答えの出ないことばかりだ。だが、目の前の二人がかつての事件と無関係だと思う気には到底なれない。
「先に片づけるべき相手がいることくらいは分かってるわ。タルラは放っておけないし、あたしの部下も取り戻さなきゃならない。でも、ドクターの件を忘れたわけじゃないから」
「その点は承知している。今は共通の目的を優先するだけだ」
「……へえ。じゃあ話が早いじゃない。最初はタルラ。次はテレシス。そして三番目が……あんたの隣にいるドクターよ」
ケルシーの落ち着いた声が、かえって腹立たしかった。彼女はドクターを庇うように立ちはしないが、その場から退かせる気もないらしい。
「チェルノボーグでお前が交わした取引に、助けられた者もいる。だが、あの一件でロドスは十三人を失った。それをなかったことにはできない」
「……ああ、そう。今ここでその勘定を始める気?」
「今は互いの目的が一致している。それだけだ。お前にはブリッジへ向かってもらう」
Wがさらに何か言い返そうとしたところで、Mon3trがケルシーの背後に現れた。
「……ちょっと。何をするつもり?」
「お前の挑発に付き合う時間はない。Mon3tr、あのエアダクトから隔壁、外壁までまとめて破壊しろ。Wも一緒にな」
「はあ!?あんた、今のあたしに――!」
言い終わる前に凄まじい衝撃が通路を貫いた。エアダクトが潰れ、隔壁の奥から外壁まで次々と裂けていく。爆風に巻き込まれたWは、飛び散る壁材と一緒に、ブリッジへ続く区画の外壁側へ投げ出された。
「この……覚えてなさいよ、クソババア!」
舞い上がった粉塵の向こうには、降り続く雪が見えた。Wは崩れ落ちる廃材の山に身体をぶつけながら、外壁に沿って延びる作業用デッキの方へ落ちていった。
◇
端末に示された側路は、予想していたより入り組んでいた。
送電用の配管が天井を走り、床には作業員が使っていたらしい工具が散らばっている。途中で通信を試すと、動力制御エリアとの回線は雑音が多いものの、まだ接続できた。この側路はさらにブリッジ方面の外壁沿いへ伸びている。通路の途中を押さえておけば、どちらの小隊も必要な時に迂回できるはずだった。
「この先を確認したら、戻って報告しよう」
「ええ。ただ、少し騒がしいわね」
テレジアの言葉を聞いて足を止めた。どこかで激しい破裂音が響いたかと思うと、頭上の換気口から砂埃が降ってきた。外壁側の隔壁が軋み、その向こうで大量の廃材が崩れる音がする。
「……今の、何だ?」
剣を抜き、隔壁の隙間から外壁に沿う作業用デッキを覗く。雪の降り込む足場で人影が動いていた。瓦礫に手をついて立ち上がろうとしているその人物を見て、思わず目を見開く。
「……W?」
「……っ、誰よ……」
顔を上げたWと目が合った。驚いた様子を見せたのも一瞬で、彼女は額についた埃を乱暴に払う。
「……またあんた?今日はよく会うわね」
「それはこっちの台詞だよ。何で外壁側から出てくるんだ」
「ケルシーに聞きなさいよ。あの女、負傷者に対する扱いがなってないの」
そう言って身体を起こそうとしたWの膝が折れた。俺が外壁側の足場へ出ると、彼女は反射的に腕を上げたが、こちらが手を伸ばす前に隔壁へ寄りかかって動きを止める。
「今度は何もしないよ。そんな顔するなって」
「別に。あんたの顔を見ると、また面倒なことになりそうだと思っただけ」
「十分ひどい言い方だな、それ」
冗談めかして返したものの、Wの顔色はよくなかった。さっき整備通路で見た止血材も、もう取り替えた方がよさそうだ。それを指摘しようとしたところで、奥の通路から足音が聞こえた。
「……動くな!」
複数の兵士が角から姿を現した。レユニオンの装備を身につけているが、見覚えのある遊撃隊の盾とは違う。先頭の男がこちらを見つけ、銃口を上げる。
「ロドスのオペレーターだ!それに、あのサルカズは……!」
Wが舌打ちした。
「やっぱり今日は最悪。あいつら、こっちにまで来てるわけ?」
「知り合いか?」
「今は違うわね。少なくとも、あいつらがあたしを助けに来たとは思わない方がいい」
銃声が響き、俺はWの前へ出た。剣で弾いた弾が壁を削り、細かな破片が飛び散る。相手は五人ほど。通路の幅を考えれば、一度に向かって来られる人数は限られるが、Wを連れて正面から突破するには狭すぎた。
「俺が前を押さえる。お前は奥の通路へ――」
「待って。後ろにも来てる」
Wが顎で指した先から、別の足音が聞こえた。俺たちが挟まれつつあると気づいた時には、向こうの兵士もすでに銃を構えていた。
「……どうする?」
「そのまま立ってなさい。あんた、前は止められるんでしょ?」
Wは懐から小さな起爆装置を取り出した。指先が震えているのに気づいたが、操作そのものは迷いがなかった。通路の壁際には、古い保守用の扉がある。その向こうを確認してから、Wが足元へ小さな爆薬を滑らせた。
「あの扉までなら抜けられる。後ろの奴らが踏み込んだら、まとめて足止めするわ。前はあんたに任せるから」
一瞬、言葉が出なかった。Wはすでに後方の敵へ視線を移していて、俺がどう答えるのか確かめようともしない。その背中の向こうでは、兵士たちが距離を詰めてきている。
「……了解。任せろ」
俺は前へ向き直った。
最初に飛び込んできた兵士の槍を弾き、踏み込む足に合わせて柄を打ちつける。二人目が横から銃を向けたところで、肩を捻って射線を外し、その腕を剣の腹で押さえた。包帯の下に痛みが走ったが、ここで下がるわけにはいかない。
背後で小さな金属音がした。Wが装置を操作しているらしい。俺は振り返らず、前の二人が扉に近づかないよう押し返した。
「セラスティア、少し右!」
テレジアの声に反応し、身体をずらす。弾丸が頬の横を抜け、そのまま壁へ突き刺さった。間を置かず相手の銃を蹴り上げると、兵士は態勢を崩して後ろへ下がった。
「W、そっちは!」
「もうちょっと。今、踏み込ませてるところ!」
狭い通路の向こうで、Wが一歩横へ退いた。追ってきた兵士が床へ足を置いた瞬間、乾いた爆発音が響く。天井の配管が外れ、白い蒸気が一気に噴き出した。
「……っ、何だ!?」
敵の視界が塞がれた。Wは蒸気の向こうへさらに小さな爆薬を放り、退路の入口を指差した。
「今よ、そっちに寄せて!」
俺は目の前の兵士の槍を横へ払い、足元の破片を蹴りつけた。相手が怯んだ隙に、扉へ背を向けないまま後退する。Wの方は見る必要がなかった。彼女が後ろを押さえていると分かっていたからだ。
「……行ける!」
「こっちもよ。走れるなら、さっさと走りなさい!」
二人で保守用の扉を抜けた直後、Wが内側の留め具を蹴り倒した。扉は途中で引っ掛かり、敵が追いかけてくるまでには少し時間が掛かるはずだった。俺はその間に端末で位置情報を送り、後続の部隊へ注意を促した。
『こちら中継班。敵影を確認したのか?』
「複数名と交戦。側路の一部を閉鎖した。こちらの進路は確保してあるから、後続は別経路を使ってくれ」
『了解。負傷者は?』
「……一名いる。本人が報告を嫌がるだろうけどな」
「聞こえてるわよ」
通信を切ったところで、Wから睨まれた。思わず笑うと、彼女はあからさまに嫌そうな顔をする。
「何がおかしいのよ」
「いや。バベルの頃の訓練でも、お前に背中を向けるのは怖かったなと思ってさ」
「……よく覚えてるじゃない」
「あの時は俺が勝ったんだから、覚えてるよ」
Wは鼻で笑った。言い返してくるかと思ったが、そうはならなかった。壁に肩を預け、息を整えながら、自分の手元に残った装置を確かめている。
「……さっき、一度も俺の方を見なかったな」
「は?」
「背中を任せてくれただろ。ああいうの、前はあんまりなかった気がして」
Wは答えず、使い切った起爆装置を懐へしまった。
「前に何があったか、よく覚えてるんでしょ?だったら今さら聞かないでよ」
その言い方は相変わらず刺々しい。けれど、さっきの戦闘で彼女が一度もこちらを振り返らなかったことは確かだった。
「……そうだな。助かったよ、W」
「礼なら要らない。あたしも自分が助かりたかっただけ」
Wは壁から離れようとして、一度だけ顔をしかめた。支えようか迷ったが、彼女は自分で立ち直す。ここで無理に腕を貸せば、また怒鳴られそうだった。
「その怪我で、どこへ行くつもりだ?」
「決まってるでしょ。まだやることがあるの。タルラにも、ケルシーにも……聞きたいことが山ほどあるんだから」
まだ他にも言いたいことを抱えているのは、彼女の表情から何となく分かった。俺はもう一度、彼女の傷口へ視線を落とした。
「せめて止血材だけでも取り替えろよ。さっきより血が出てる」
「……あんた、ほんとそればっかりね」
「目の前で倒れられたら困るんだよ」
Wはしばらくこちらを見ていた。何か言おうとして、やめたようにも見えた。結局、俺が差し出した新しい止血材だけを受け取り、適当に片手を上げる。
「じゃ、せいぜい死なないことね。あたしの知らないところで勝手に死なれたら、後味悪いし」
「そっちこそ。もう爆発で吹き飛ばされるなよ」
「……あんたにだけは言われたくないわ」
最後にそれだけ言い残し、Wは奥の階段へ姿を消した。足取りは決して軽くなかったが、呼び止めても戻るつもりはないのだろう。
◇
Wの姿が見えなくなった頃、テレジアが口を開いた。
「あの訓練の頃は、あの子が仕掛けて、あなたが避けて、という関係だったでしょう。今日は、同じ方向を向いていたわね」
「……ああ。さっきは俺も、少し驚いた」
テレジアは小さく笑った。俺が腕の傷を確かめる間、彼女はWが消えた階段へ視線を向けていた。
「……あの子にも、まだ話せないことがあるのでしょうね」
「そうだろうな」
あの整備通路で別れた時、Wは肝心なことを何も話さなかった。今日だって、二年前のことを持ち出せば、またあの顔をするかもしれない。すべてを話す機会が来るのかどうかも、今は分からなかった。それでも、さっきの戦闘では互いに背中を預けられた。あれがどんな意味を持つのか、今の俺にはまだ判断できない。
「……まあ、次に会った時も、ちゃんと生きててくれればいいよ」
「ええ。あなたもね」
「俺は大丈夫だって」
テレジアが何も言わずに包帯の方を見たので、俺は言い訳するのを諦めた。まずは自分の仕事を終わらせないと、帰ってからケルシーに何を言われるか分からない。
端末を開き、さっき送った位置情報を確認する。閉鎖した側路の代わりに使える通路が、地図の少し先に残っていた。必要な場所を確保して後続へ引き継げば、俺も次の部隊へ合流できる。
「……行くか」
「ええ。まだ終わっていないものね」
俺は頷き、雪の舞い込む通路を進んだ。
中枢区画は、今も龍門へ向かって動いている。パトリオットが最期まで守ろうとしたものも、Wがこれから向かう場所も、俺にはまだ見えていない。それでも、今いる場所から進む道だけは、自分で選ぶことができた。
俺たちは次の中継点へ向かった。