中継点の扉を開けると、焦げた配線の臭いがした。
照明の半分が消えた部屋には、壁一面に古い制御盤が並んでいる。俺は端末を接続し、さっき確保した側路の情報を中継班へ送った。外壁沿いの作業用デッキは一部が崩落しているものの、内側の整備通路なら通れる。ケルシーに言われた仕事は、ひとまず形になりそうだった。
『経路情報を受信した。セラスティア、こちらから二班を向かわせる』
「了解。負傷者用の担架も通せる幅はある。ただ、南側の隔壁は開閉装置が壊れてる。今は俺が手動で開けておくから、通過する時に連絡してくれ」
『助かる。司令塔方面はまだ交戦中だ。合流する部隊がいるなら、そちらへ案内してほしい』
通信が切れたあと、俺は制御盤の上に残っていた埃を払った。端末には複数の経路が表示されているが、使えるものと使えないものを現場で確認しなければ、負傷者を危険な場所へ誘導してしまう。
「思ったより面倒な仕事になったな」
「面倒な役を引き受けるのは、昔からね」
隣に立つテレジアが、接続した端末を覗き込んだ。画面の文字が彼女に読めるのか分からないが、指で示した先には先ほど俺が確認した通路がある。
「引き受けたっていうか、押し付けられた感じだけどな。ケルシーに任されたからには、途中で使えなくなったなんて報告したくない」
「ふふ。あの人に叱られるのが怖いの?」
「怖いというか……説教の理由なら、もう十分にあるんだよ」
包帯の巻かれた腕を持ち上げてみせると、テレジアは呆れたように笑った。その表情を見て、俺もつられて口元を緩める。ここへ来てからずっと緊張していたせいか、こんな会話をするだけでも、少し肩の力が抜けた。
次の通路へ移ろうとしたところで、外の方から慌ただしく人が動く気配が伝わってきた。
◇
司令塔の外周に出ると、戦いの跡がさらにひどくなっていた。
砕けた遮蔽物の向こうで、ロドスの前衛オペレーターと遊撃隊の盾兵が負傷者を運んでいる。その少し先には、巨大な剣を浮かべたロスモンティスがいた。敵影を見つけたのかと思って足を速めたが、彼女の視線は司令塔へ続く扉に向けられていた。
「……アーミヤは?」
声をかけると、ロスモンティスが振り返った。
「もう行った。中には、アーミヤの小隊だけ」
「お前は一緒じゃないのか?」
「……行きたかった。でも、ここに残るように言われたの」
彼女は口を結び、遠くの負傷者へ視線を移した。あの扉の向こうにいるタルラが、Aceたちの命を奪った相手だということを、俺も知っている。ロスモンティスが自分の手で確かめたいと思う気持ちは、分からなくもなかった。
「アーミヤは、私にみんなを生きて帰らせてほしいって。自分が危なくなっても、助けに来ちゃ駄目だって言った」
「……そうか」
「嫌だって言ったよ。だって、アーミヤは友だちだから。でも、あの子は帰ってくるって約束した。だから私も、ちゃんと仕事をしないといけないの」
話しながら、ロスモンティスは目の前の剣をゆっくり下ろした。遠くで医療班を呼ぶ声が上がると、彼女はそちらへ顔を向ける。迷うような仕草が一瞬あったものの、すぐに剣を動かし、倒れた資材を持ち上げて担架の通り道を作った。
「……偉いな、お前」
「褒めなくていい。セラスティアも、怪我してるのに動いてる」
「それを言われると弱いな」
ロスモンティスは少しだけ笑ったが、すぐ真剣な顔に戻った。俺の背後で盾兵が部下に指示を飛ばしている。遊撃隊もロドスも、さっきまで互いに武器を向けていたことを忘れたわけではない。それでも今は、同じ通路で負傷者を運んでいた。
「セラスティア。こっちの通路、まだ使える?」
「俺が確認した範囲ならな。これから奥も見てくる。戻れない人がいたら連れてくるよ」
「分かった。私たちはここを守る」
俺が頷くと、近くの盾兵が声をかけてきた。
「ロドスのサルカズ。南の整備区画に取り残された者がいるという報告が入った。こちらからも人を出したいが、前線を離せる人数が少ない」
「場所は?」
盾兵が示した端末には、俺が先ほど開けておいた隔壁よりも、さらに奥にある区画が表示されていた。赤く点滅しているのは火災警報だ。そこは中継班が通る予定の道と隣り合っている。
「俺が行く。医療班には、こっちで待機してもらえるか?」
「一人で向かう気か?」
「中の様子を見てくるだけだよ。必要ならすぐ呼ぶ。あんたたちは入口を押さえてくれた方が助かる」
盾兵は俺の包帯を一度見たが、それ以上は引き止めなかった。代わりに小型の信号灯を渡してくる。電波が届かない場所では、これを使って合図を送れということらしい。
「……大尉は、最後まで俺たちを生かそうとした。これ以上、くだらない死者を増やすわけにはいかん」
「同感だよ」
俺は信号灯を受け取り、再び整備通路へ向かった。
◇
南側の区画は、入った途端に空気が変わった。
壁の向こうから低い振動が伝わり、天井を走る配管が細かく揺れている。遠くで何かが燃えているのか、換気口から熱い風が断続的に吹き込んできた。司令塔で戦っているアーミヤたちのことが気になったが、こちらの通信はまだ繋がっている。
「……聞こえるか?こちらセラスティア。南側整備区画に入った」
『こちら中継班。位置を確認した。まだ退避者の人数は分からない。慎重に進んでくれ』
「了解。奥は電波が切れるかもしれない。その時は信号灯を使う」
少し先の曲がり角で、床に血の跡が見つかった。点々と続くそれを追うと、壊れた扉の向こうから誰かの声が聞こえてくる。
「……誰か!誰かいないのか!」
俺は扉の隙間から中を覗いた。倒れた棚の下に一人の兵士が挟まれ、片脚を動かせなくなっている。身につけていたのはレユニオンの制服だった。すぐそばには使いかけの弾倉と、折れた銃が転がっている。
「動けるか?」
「……ロドスか!?」
若い男は顔を強張らせ、手の届く場所に落ちていたナイフを掴もうとした。俺が近づくと、痛みに顔を歪めながらも刃を向けてくる。
「近寄るな!どうせ俺たちを殺しに来たんだろ!」
「そのつもりなら、こんなところまで探しに来ないよ。棚を退かすから、少しだけじっとしててくれ」
「ふざけるな。お前たちが大尉を……!」
言葉の途中で男が咳き込んだ。背後の換気口から黒い煙が流れ込み、床近くへ広がっている。扉の奥では警報が鳴りっぱなしで、このまま言い争っていれば二人とも煙に巻かれる。
「パトリオットのことは知ってる。俺もあの場にいた」
そう答えると、男の手から力が抜けた。ナイフはまだこちらへ向けたままだが、震える指で握り直すことすら難しそうだった。
「……じゃあ、どうして助ける」
「お前がここで死ななきゃいけない理由にはならないからだよ。今は、そういう話をしてる場合じゃない」
棚を持ち上げようとしたが、すぐに腕の傷が疼いた。無理に力を入れれば、せっかく塞がりかけた傷口まで開いてしまう。俺は一度手を離し、棚の下に伸びた固定具を確かめた。
「セラスティア、あそこを見て」
テレジアが示した壁際に、古い昇降装置があった。作業用の滑車らしく、天井の梁から太い鎖が垂れている。幸い駆動部はまだ生きていたので、俺は棚の脚に鎖を回し、手動の巻き上げ器を操作した。
鈍い音とともに棚が傾き、男の脚にかかっていた重みが少しだけ軽くなった。
「……今だ。身体をこっちへ」
「ぐっ……!」
男が床を這い、棚の下から抜け出す。脚はひどく腫れていたが、出血は思ったほど多くない。俺は応急処置用の布を取り出し、痛む脚を動かさないように固定した。
「歩くのは無理そうだな。担架を呼ぶ。待っててくれ」
「……お前、ひとりで俺を運べないのか」
「運べなくはない。でも、途中でお前を落としたら困るだろ。ちゃんと運ぶ方法があるなら、そっちを使いたい」
男は返事をしなかった。ただ、俺が通信機に手を伸ばしても、もうナイフは握り直さなかった。
通信を試すと、予想どおり雑音しか返ってこない。代わりに信号灯を点け、通路の入口へ向けて光を送った。さっきの盾兵が受け取ってくれれば、担架を持った隊員が来るはずだ。
だが、その直後に床が大きく揺れた。壁の向こうから熱風が吹きつけ、天井の金属板が一枚落ちる。扉の手前にあった配管が破れ、白い蒸気が噴き出した。奥の火災警報が、これまでより速い間隔で鳴り始める。
「……まずいな」
「おい、冗談だろ!ここで死ぬのかよ!」
「死なせないよ。今、通れる場所を探す」
扉の反対側へ回ろうとしたところで、テレジアが俺の前に立った。もちろん彼女に通路を塞ぐことはできない。それでも、こちらを見つめる目が真剣だったので、思わず足を止めた。
「セラスティア。あなたまで倒れてしまったら、この人はどうなるの?」
「……分かってる」
「それなら、助けを待つことも考えて。あなたが全部を一人でしなくてもいいのよ」
俺は周囲を見回した。さっき巻き上げた棚を支えている鎖はまだ使える。部屋の隅には作業員用の運搬台車が置かれており、壊れた車輪を外せば、床を滑らせて動かせそうだった。
「……よし。まずは入口まで運ぶ。そこから先は来てくれた仲間に任せよう」
「ええ。その方がいいと思うわ」
テレジアが少し安心したように微笑んだ。俺は男へ向き直り、台車を引き寄せる。
「悪いけど、もう少しだけ頑張ってくれ。横になれたら、俺が押していく」
「……勝手にしろ」
男は顔を背けたが、差し出した腕は素直に取った。
◇
壊れた扉を抜ける頃には、換気口から流れ込む熱がさらに強くなっていた。
男を乗せた台車はがたがたと音を立て、少しの段差でも止まってしまう。俺は傷のない方の腕で押し、もう片方は必要な時だけ添えた。無理に力を込めれば早く進めるだろうが、今は途中で動けなくなる方が怖かった。
入口の方から、複数の足音が聞こえてきた。
「セラスティア!」
ロドスの医療オペレーターが先頭に立ち、その後ろには遊撃隊の盾兵が二人続いていた。信号灯を見て来てくれたらしい。俺が台車を止めると、一人がすぐに男の脚を確認し、もう一人が担架を広げた。
「レユニオンの兵士だ。脚を挟まれてた。煙も吸ってるから、先に診てやってくれ」
「了解。あなたも診察を受けて。包帯から血が滲んでる」
「俺はまだ動けるよ」
「その台詞、何度目か分かってます?」
医療オペレーターに睨まれ、俺は思わず口を閉じた。テレジアが隣で口元を押さえているのが見える。笑いたいなら笑ってくれてもいいのに、と言おうとしたが、どう考えても今は俺の分が悪かった。
担架へ移された男は、俺を見上げていた。
「……なあ」
「どうした?」
「大尉は……本当に、死んだのか」
「……ああ」
男は目を伏せた。歯を食いしばるような表情をしていたが、それ以上何も聞かなかった。担架が持ち上がり、医療班が離れようとした時、小さな声が聞こえた。
「……助けられたことと、お前たちを許すのは別だからな」
「分かってる。それでも、治療は受けてくれよ」
男の返事はなかったが、担架から降りようとはしなかった。
◇
その頃、司令塔へ続く外周通路では、Wがロドスと遊撃隊の一団に行く手を塞がれていた。
周囲にはサルカズ傭兵たちの遺体が残されている。Wはそれを見て一瞬だけ足を止めたが、一団にいたGuardが彼女の姿に気づくと、たちまち周囲から銃口が向けられた。かつてロドスに所属していた彼は、今では遊撃隊と行動を共にしている。
「W……!Scoutを殺したのは、お前だろう!」
Guardの怒声に、ロスモンティスの巨大な剣が浮き上がった。彼女はWを見据えたまま、武器を捨てるよう命じる。Wは痛む脇腹を押さえ、うんざりしたように片手を上げた。
「殺したことは否定しないわ。でも、あいつが命を懸けたのは、あんたたちを逃がすためよ。あたしと戦う芝居を打ってまで、仲間を生かそうとしたの。……Scoutの死を、あんたが一番軽く扱ってどうするのよ」
「そんな話、信じられると思う?」
「ならケルシーに確認しなさい。今はあいつと利害が一致してる。録音だってあるわよ。それより、あたしには時間がないの。タルラを止めないと、生き残ってる連中まで死ぬ」
ロスモンティスはすぐには剣を下ろさなかった。Guardも、しばらく拳を握りしめていたが、やがてScoutが自分たちを逃がした時のことを思い出したのか、低い声で通してやれと告げた。
「……この人を信じていいの?」
「今だけは。Scoutが守った命を、ここで無駄にしたくない」
ロスモンティスが剣を退けると、盾兵たちも渋々道を空けた。Wは礼も言わず、その間を抜けていく。階段へ向かう背中に、ロスモンティスの視線がしばらく残っていた。
◇
石棺の間では、ようやく耳を刺すような警報が止んでいた。
変異した感染者との戦いを終え、作業員たちは汚染された区画の処理を進めている。巨大な装置の表面からはまだ熱が立ち上っていたが、内部に満ちていた低い駆動音は、すでに聞こえなくなっていた。
「供給は断った。これで石棺が中枢区画へ新たなエネルギーを送り込むことはない」
ケルシーは端末の表示を確かめ、傍らのドクターへ顔を向けた。
「ただし、都市の機関にはまだ蓄積されたエネルギーがある。龍門への衝突を防ぐには、司令塔で緊急制動装置を起動しなければならない。そこはアーミヤたちに任せるしかないな」
ドクターが頷くと、ケルシーは作業員に撤収準備を命じた。石棺の前には、さきほどまで人だったものが残した痕跡がある。メフィストがこの装置に求めたものが何だったとしても、もはや元に戻せないものがあることだけは明らかだった。
皆が移動を始めても、ドクターは石棺の前から動かなかった。
「……君を二年余り前にここへ運び込んだのは、私だ」
いつの間にかケルシーが戻っていた。ドクターが振り返ると、彼女は装置を見たまま話を続ける。
「君はここで命を繋いだ。記憶を失った今の君は、私が知っている過去の君とは違うのかもしれない。それでも、私には伝えておかなければならないことがある。アーミヤは望んでいないだろうがな」
ケルシーはそこで言葉を切った。これから告げる事実が、ドクターだけでなく自分自身にも向けた刃であるかのように、長い沈黙が落ちる。
「テレジアは二年余り前に死んだ。……君が、彼女を殺したんだ」
ドクターは答えられなかった。思い出せない時間に、自分が何を選んだのか。目の前のケルシーがなぜその事実を抱えてきたのか。問いかけたいことはいくらでもあったが、彼女は慰めも許しも与えようとはしなかった。
「私は今も怒っている。いつか君が過去を思い出しても、この感情が消えるとは思わない。だが、今の君がここに残ると選んだことまで、なかったことにはしない」
ケルシーはドクターの顔を見た。その視線には、先ほど口にした怒りと同じくらい、容易には譲れないものがあった。
「……私は、アーミヤと君の二人を守ると約束した。君が自分の過去を知る前でも、知った後でも、それは変わらない。君の命が尽きるまで守り抜くことが、私の責務だ」
憎しみを抱いていることと、守るべき相手を見捨てないことは、彼女の中で矛盾なく並んでいるわけではないのだろう。ドクターはその重さを受け止めるように、黙って頷いた。ケルシーもそれ以上は語らず、端末の表示へ目を戻す。
その時、意識の奥に見覚えのない光景が浮かんだ。耳をつんざく警報、誰かと走った廊下、身体を横たえた冷たい装置。そして、離れたくないと訴えるような女の声。振り返ろうとした途端に景色は途切れ、声の主が誰なのかも確かめられなかった。
「……ドクター。何か、思い出したのか?」
ケルシーの問いに、ドクターはすぐには答えられなかった。残っているのは胸を締めつける感覚だけで、言葉にしようとすると断片は遠のいてしまう。
遠くで撤収を促す声がした。ケルシーはそれに短く応じ、出口へ向かう。ドクターはもう一度だけ石棺を見つめてから、彼女の後を追った。
◇
盾兵たちが退路へ向かったところで、端末から通信が入った。
『こちら中継班。セラスティア、応答してくれ。動力制御エリアから連絡だ』
「聞こえてる。何かあったのか?」
『ケルシー先生たちが中枢区画へのエネルギー供給を止めた。ただし、都市の駆動機関にはまだ残ったエネルギーがある。衝突を避けるには、上層の制動装置を作動させなければならない』
「……じゃあ、まだ止まってないんだな」
『ああ。アーミヤたちが司令塔へ向かっている。こちらは引き続き外周と退路の確保だ。特に南側は火災が広がっている。避難経路を維持してくれ』
「了解。救助した一名は医療班に引き渡した。残りの通路も確認する」
通信を切ると、テレジアが俺を見た。
「アーミヤたちも、頑張っているのね」
「ああ。俺たちがここを守ってれば、帰ってくる時に困らないはずだ」
その時、司令塔の方角から重い衝撃が伝わってきた。床に置かれた工具が跳ね、壁の継ぎ目に細い亀裂が走る。遠くの窓の向こうでは、薄暗い空に赤い光が広がっていた。あれがタルラのアーツなのか、俺には確かめようがない。ただ、あの中にアーミヤがいると思うと、無意識に扉へ足が向きかけた。
「……行きたい?」
テレジアが隣で尋ねた。
「そりゃ、心配だよ。アーミヤもロスモンティスも、みんな怪我してるしな」
「ええ」
「でも、今俺が行ったところで、役に立てるかどうか分からない。あいつらが帰ってくる道まで空けたままにするわけにはいかないし……ここは、俺に任された場所だから」
テレジアは少しだけ目を細めた。
「……そうね。だったら、ここでできることを続けましょう」
「うん。まずは、あの隔壁を何とかしないとな」
俺は端末を握り直し、医療班が通っていった方向へ歩き出した。
◇
司令塔の中では、アーミヤとチェンがタルラに向き合っていた。
炎に焼かれた床には剣の跡が刻まれ、壁の装飾は熱で歪んでいる。チェンは血の滲む腕で赤霄を握り、アーミヤは黒い剣を手に立っていた。二人とも立っているのがやっとだったが、目の前の白髪のドラコからも、先ほどまでの余裕は失われつつあった。
「……まったく、しつこい者たちだ」
タルラの口から聞こえたのは、年若い女性の声には似合わない、ひどく冷えた言葉だった。かつてコシチェイと呼ばれた存在が、今は彼女の口で話している。チェンが姉の名を呼んでも、相手はからかうように微笑むばかりだ。二人が知るタルラの過去も、感染者たちが信じた志も、今ここで話している者にとっては、人を操るための材料にすぎないらしい。
「お前が何者かはもう分かった。姉さんの姿を使って、これ以上好きにはさせない」
「姿を使っている、か。随分と都合のいい考え方だな、妹よ。彼女が何も望まなければ、私はここまで来られたと思うか?」
チェンの眉が動いた。だが、言い返すより早く、アーミヤが一歩進み出る。
「タルラさんが間違ったことをしたのなら、その責任は消えません。でも、あなたは彼女の苦しみを利用して、間違い続けるように仕向けてきた。タルラさんがもう一度何を選ぶかまで、あなたに決めさせるつもりはありません」
黒い剣がかすかに震えた。アーミヤは赤霄を通じてチェンから流れ込んだ感情を知っている。遠く離れた二人が、同じ少女を救おうとしてここに立っていることも。だから、目の前の相手がタルラのすべてを知っているかのように振る舞っても、その言葉を受け入れることはできなかった。
白髪のドラコが、ゆっくりと自分の剣を持ち上げた。
「では、彼女が自分の命を終わらせたいと願ったなら?お前たちはそれすら取り上げるのか?」
刃がその首元へ近づく。チェンは反射的に駆け寄ろうとしたが、熱に足を止められた。炎はまだ彼女たちを取り囲んでいる。相手を殺せば終わる戦いではないからこそ、あの剣を振り下ろさせるわけにはいかなかった。
「……タルラ!」
チェンが叫んだ。憎しみも、裏切られた怒りも消えてはいない。それでも、姉が今ここで自分を殺してしまえば、二人がもう一度言葉を交わす機会さえ失われる。
「哀れなことだ。あれほどの犠牲を払って、感染者たちは何を得た?あの老いた戦士も、雪原の娘も、皆ただ道を敷くために倒れたにすぎん」
コシチェイは口元を歪めた。チェンの怒りを楽しんでいるのか、それとも内側にいるタルラへ聞かせているのか。いずれにしても、亡くなった人々の名前さえ、彼にとっては他人を傷つける道具でしかなかった。
「私が知っているお前は、人が苦しんでいるのを見過ごせるやつじゃなかった。道を間違えたのなら、そのことも含めて自分の口で話せ。こんな奴の言葉で、お前の人生を終わらせるな!」
アーミヤも剣を下ろさなかった。
「生きている人にしか、引き受けられないことがあります。失った人たちのことも、犯してしまった過ちも、タルラさん自身のものです。あなたがその全部を放り出したいとは、私には思えません」
アーミヤはもう一歩踏み出した。
「フロストノヴァさんも、ファウストさんも、パトリオットさんも……あなたを信じて戦った人たちを思い出してください。あの人たちは、誰かの踏み台になるために生きていたんじゃありません。タルラさん、あなたもそれを知っているはずです!」
炎が激しく揺れた。白髪のドラコの指が小さく震え、首元へ近づいていた刃が止まる。相手はなおも何かを囁いていたが、その声を押し返すように、苦しげな呼吸が聞こえ始めた。
「……みんなを、失った」
かすれた声だった。タルラはうつむいたまま、握った剣を見つめている。雪原でともに歩いたアリーナ、エレーナ、サーシャ、アレックス。そしてボジョカスティ。顔を思い浮かべるたびに、彼らの信頼を踏みにじった自分自身の行いが胸を刺した。
だが、コシチェイの言葉に対しては、別の感情が湧き上がってくる。彼らを犠牲にした自分が許されないことと、彼らの生き方をあの男が嘲っていいことは、決して同じではなかった。
「……私がしたことは、消えない。あいつを追い出せたとしても、それで許されるわけじゃない」
「ええ」
アーミヤは否定しなかった。チェンも、すぐに姉へ手を差し伸べようとはしない。ただ、二人とも彼女から目を逸らさずにいた。
「それでも、私は……もう、あいつの言いなりにはならない」
タルラの声に、はっきりと怒りが宿った。
「お前が私を憎むのは構わない。私自身、許せないことをしてきた。だが、あの人たちまで侮辱するな。彼らは、お前が語るような使い捨ての駒じゃない」
握っていた剣が、首元から少しずつ離れる。
「私が彼らを裏切ったことも、失った命も、私が背負う。お前のせいにして逃げるつもりはない。けれど、これから何をするかまで、お前に選ばせはしない。私はお前のような黒蛇にはならない」
その言葉が響いた途端、炎の勢いが目に見えて弱まった。タルラの身体を借りていた何者かがなおも抵抗したが、やがて剣を握る指から力が抜け、彼女はその場に片膝をついた。何もかも解決したわけではない。ただ一つ、彼女の意思を他人に渡さないという選択だけが、そこに残った。
コシチェイの冷たい笑いが、最後に一度だけタルラの唇から漏れた。どこか別の場所で、また自分と同じものが現れるとでも言いたげだったが、タルラはもうその声に応じなかった。今ここで退けたとしても、あの存在が世界から消えたと決まったわけではない。
チェンは長い息を吐き、なおも剣を構えたまま姉の顔を見つめた。
「……戻ってきたんだな、タルラ」
タルラは答えなかった。けれど、もうチェンを他人の言葉で嘲ることはなかった。
その直後、司令塔の入口から別の声が飛び込んできた。
「ちょっと、いつまでそこで話してるつもり?街を止める方が先でしょ!」
Wだった。
傷の痛みを堪えるように歩きながらも、彼女は制御盤へ真っすぐ向かってくる。アーミヤが警戒すると、Wは眉をひそめた。互いに信用できる相手だと思っていないことは、どちらの顔にも表れていた。
「パトリオットの爺さんが残した鍵、持ってるんでしょ。それを寄越しなさい。ここを止めないと、あたしたち全員まとめてお陀仏よ」
「……Wさん。あなたを信じるわけにはいきません。ロドスの人たちを傷つけたことも、忘れていませんから」
「なら心を覗けば?あたしだって普段ならそんな真似、絶対に許さないけどね。今なら特別よ」
Wは苛立たしげに片手を上げた。チェンも警戒を解かない。Wがこれまで何をしてきたかを思えば、簡単に鍵を渡せるはずもなかった。
「私たちに信用してほしいのなら、もう一つ、あなたの言葉で理由を教えてください」
アーミヤが静かに告げた。Wは何か皮肉を返しかけたが、そこで口を閉じる。目の前の少女を見ているうちに、遠い昔に聞いた優しい声が、ふいに胸の奥へ蘇った。
「……この大地が、いつか静かに眠れるように」
アーミヤの目が見開かれた。Wは視線を外し、いつもの笑みを浮かべようとしたものの、うまくいかなかった。
「別に、あんたに許してもらいたいわけじゃない。殿下が願ったことを、まだ全部諦めたくないだけ。だから今だけ、あたしにも生き残ってる奴らのために、何かさせてちょうだい」
アーミヤは黒い剣を下ろした。刃は輪郭を揺らがせ、細かな灰となって風に散っていく。ケルシーから預かっていた箱へ目を落とし、やがてそれをWへ差し出した。
「……分かりました。今回だけ、あなたを信じます。お願いします、Wさん」
「……ありがと」
Wは小さく返し、箱を開く。そこに納められていた鍵を制御盤へ押し当てた途端、無情な警告音が響いた。
『警告。権限不足。この鍵は起動時にのみ使用可能』
「……は?どういうことよ。これじゃ止められないじゃない!」
アーミヤが青ざめた。パトリオットが命懸けで託した鍵でさえ、都市の制動装置には通用しない。Wが制御盤を調べ直しても、答えは変わらなかった。
「……ミーシャ。嘘でしょ、こんな……」
その時、それまで黙っていたタルラが声を上げた。
「鍵は、私が持っている」
チェンとアーミヤが振り向く。タルラは懐から取り出した別の鍵を、Wへ放った。Wは片手で受け止め、半信半疑のまま制御盤へ向き直る。
「それ、本当に使えるんでしょうね?」
「制動室にあったものだ。解除の言葉を知っていれば、誰にでも扱える。……役に立たないあの鍵は、遊撃隊を追い払い、龍門近衛局を欺くための嘘だった。私は、スカルシュレッダーやパトリオットが寄せた信頼まで利用した」
タルラの声には疲労が滲んでいた。スカルシュレッダーもパトリオットも、彼女を信じたからこそ、あの鍵が切り札になると思っていた。その信頼を利用したのはタルラ自身だった。
「解除の言葉なら知ってるわ。……アーミヤ、どこかに掴まってなさい。どれだけ揺れるか分からないから」
Wが鍵を押し当て、ウルサス語で短い言葉を告げる。タルラが小さく頷くと、制御盤の表示が切り替わった。
重い装置が作動し、都市の奥深くから、これまでとは違う轟音が響き始めた。
◇
最初に気づいたのは、床の揺れ方が変わったことだった。
それまで一定の間隔で響いていた駆動音が途切れ、今度は身体を前へ押し出すような衝撃が続いた。俺は手近な配管を掴んだが、次の揺れで足元が滑り、肩を壁にぶつける。
「……っ、何だ!?」
『全部隊、姿勢を低く!中枢区画の制動装置が作動した!』
通信の声と同時に、天井の警告灯が一斉に赤く点滅した。どこかで金属が擦れる長い音が聞こえ、周囲の設備が悲鳴を上げる。都市そのものが、無理やり足を止めようとしているようだった。
「セラスティア、足元!」
テレジアの声に反応し、俺は転がってきた工具箱を避けた。揺れはまだ続いている。俺は扉の近くにいた医療オペレーターへ声をかけ、担架を通路の壁際へ寄せるよう手伝った。
「頭を守って!揺れが収まるまで、そのままで!」
誰かが叫び、あちこちから返事が上がる。さっき救助した男も、担架の上で必死に縁を掴んでいた。隣の盾兵が自分の身体を支えにし、落ちてくる資材から彼を庇っている。
長く感じた揺れが、少しずつ小さくなった。駆動音はもう聞こえない。代わりに、折れた配管から漏れる空気の音と、人々の荒い息遣いが通路を満たしていた。
『……こちら司令塔外周。チェルノボーグ中枢区画の停止を確認!龍門への衝突は回避された!』
通信が途切れる前に、何人もの歓声が重なった。俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。止まったのか、と口にしようとしたが、うまく声が出ない。ようやく壁から手を離した時には、指先がすっかり冷えていた。
「……終わった、のか?」
「少なくとも、街は止まったみたいね」
テレジアが静かに答えた。彼女もほっとした様子だったが、視線は通路の奥に残る負傷者たちへ向けられている。
俺は通信機を取り直した。
「こちらセラスティア。南側の退避経路は維持できてる。負傷者の搬送を再開していいか?」
『了解。まずは医療班を動かしてくれ。司令塔方面からも負傷者が出ている。上層への通路を確保してほしい』
「分かった。そっちが落ち着いたら合流する」
安堵する間もなく、俺たちは動き始めた。
◇
制動の衝撃が収まった司令塔では、誰もすぐには口を開かなかった。
Wは制御盤から鍵を外し、タルラを一瞥する。少し前まで、この女を殺すつもりでいた。その感情が消えたわけではない。だが今は、街を止めたという事実の方が先にあった。
「……そういえば、あんた。よくその鍵を残してたわね。壊しておけば、誰にも止められなかったでしょうに」
タルラは答えなかった。黒蛇の支配が退いてから片膝をついたまま、自分の手を見つめている。その指先が震えていることに気づいたチェンが、ゆっくりと歩み寄った。
「壊せなかったんだろう。あの蛇に何を吹き込まれても、最後の最後まで捨てられなかったものがあった。お前が昔、感染者のために歩こうとした気持ちだ」
「……そんなものが残っていたとして、何になる。私はあの人たちの信頼を裏切った。鍵を一つ取っておいた程度で、帳消しになるはずがない」
「帳消しにしろなんて言っていない。だが、まだ別の道があると分かっていたからこそ、お前は鍵を壊せなかったんじゃないのか」
チェンが差し出した手を、タルラはしばらく見つめていた。白髪の奥に覗く顔は疲れ果てていて、目の前にいるのが幼い頃に知っていた姉なのかさえ、チェンにはすぐに確信できなかった。それでも、これ以上うずくまっている姿を見ていたくはなかった。
「立て、タルラ。お前が守ろうとしていた人々は、まだこの大地で生きている。連中が何度その道を塞いだとしても、お前がやろうとしたことまで無意味になったわけじゃないだろう」
「……私に、まだ歩けと言うのか。あれだけの人を死なせた私に」
「そうだ。過去には戻れないし、失われた命も返ってこない。だからこそ、ここで死んで終わりにするな。お前自身のしたことから、逃げないでくれ」
タルラは一度目を閉じた。アリーナの顔を思い浮かべるたび、胸を締めつける後悔は消えない。パトリオットもフロストノヴァも、今はもう自分を叱ってはくれない。けれど、彼らの名を覚えている自分まで消えてしまえば、その思いを誰が受け止めるのだろう。
「……私は、もう償えないかもしれない。それでも生きる。死ぬことで、すべてを終わらせたことにはしたくない」
チェンが頷くと、タルラは差し出された手をしばらく見つめ、やがて自分の膝に手をついた。ふらつきながらも、自分の足でゆっくり立ち上がる。姉の姿を前にしても、チェンは安堵した表情を見せるだけでは済ませなかった。
「それなら、まずお前を逮捕する。何もなかったことにして連れ帰るつもりはない」
「……誰が私を裁く?ウルサスか、それとも龍門か。あの人たちの苦しみを顧みなかった者たちに、その資格があるのか」
「今は、十分に公正な裁きを受けられる場所がないのかもしれない。だからといって、誰にも裁けないままでいいとは思わない。感染者でも、そうでなくても、同じように裁ける場所を作らなければならない。それが私の仕事だ」
タルラはしばらく妹の顔を見つめ、それから、かすかに口元を緩めた。
「……随分と立派なことを言うようになったな、フェイゼ。昔、学校で殴られて帰った時も、お前はひどく怒っていたな」
「お前が友だちを庇って殴られたんだろう。心配するに決まってる」
「そうだったな。……あの頃は、お前がこんなところまで追いかけてくるとは思わなかった」
短いやり取りの間に、二人の表情が少しだけ昔に戻った。だが、タルラの手に残る傷も、倒れていった人々のことも、何一つ消えたわけではない。チェンは妹として姉を見つめたまま、赤霄を握る手だけは緩めなかった。
「礼なら、私だけに言うな。ここまで来てお前を呼び戻したのは、アーミヤたちだ」
「……ああ。分かっている」
傍らで聞いていたアーミヤは、何も言わずに二人を見守っていた。Wはそんな三人の様子を眺め、何か茶化そうとしたものの、結局は肩を竦めるだけにした。
「……Wさん。一つ聞いてもいいですか」
アーミヤの声に、Wが肩越しに振り返った。
「どうして、制動装置の解除の言葉を知っていたんですか?」
「……アレックスよ。スカルシュレッダー。あいつの父親が、死ぬ前に教えていたの」
Wは制御盤の表示を見つめ、指先で焦げた縁をなぞった。
「ミーシャをさらったのも、チェルノボーグを止めるためだった。あの時は、それが必要だと思ってた。でも最初から、あたしたちは踊らされてたのね。パトリオットの爺さんも、フロストノヴァも、みんな」
言い終えてから、Wは唇を噛んだ。かつて選んだ手段の結果が、今になって別の形で目の前に現れている。
「……ミーシャは、死ななくてよかった。あたしは間違えたわ。だからって、許してなんて言わないけど」
「許せることではありません。ミーシャさんは、もう戻ってこないんですから」
アーミヤの声は震えていたが、目は逸らさなかった。
「誰かを救うためだったとしても、別の人の命を勝手に犠牲にしていいことにはなりません。二度と同じことはさせません」
Wはアーミヤの警告に何も言い返さなかった。
その時、背後で鈍い音がした。チェンが振り返ると、タルラが床に崩れ落ちていた。激しい戦闘と都市停止の衝撃に耐えてきた身体は、もう限界だったのだろう。チェンが駆け寄って呼吸を確かめると、胸はかすかに上下していた。
「……あら。あの龍女も、とうとう限界みたいね」
Wは倒れたタルラからアーミヤへ視線を戻し、いつもの皮肉っぽい笑みを作る。
「……あんた、ちょっと似てるわね。あの人に」
「え……?」
返事を待たず、Wは階段の方へ歩き出した。傷を庇う足取りは遅かったが、追いかける声に振り向くことはなかった。
入れ替わるように、別の通路からドクターとケルシーが姿を現した。
「アーミヤ!」
ドクターの声を聞いたアーミヤが、ほっとしたように顔を上げる。何か言おうとして、一歩踏み出したところで膝が折れた。ケルシーがすぐに駆け寄り、その身体を支えた。
「ドクター、こちらへ。手を貸してくれ」
ケルシーは続けた。
「……これから私が行う処置については、決して口外しないでほしい」
ケルシーはドクターからわずかな血液を採り、携帯した器具で処理すると、青く変わった液体をアーミヤへ投与した。呼吸が落ち着き、やがて少女の瞼が動く。
「……テレジア、さん……?」
「私だ、アーミヤ。今は無理に話すな」
ケルシーが低く声をかけると、アーミヤはゆっくり目を閉じ、もう一度開いた。ドクターが傍にいるのを見て、ようやく張り詰めていたものがほどけたように泣き始めた。
アーミヤを落ち着かせたあと、ケルシーはチェンへ視線を向けた。チェンは倒れたタルラのそばに膝をつき、意識が戻らない姉の様子を確かめていた。
「チェン、タルラの監視は引き続き頼む。間もなく迎えの飛行ユニットが来る。彼女はロドスで身柄を預かる」
「……本気なのか?姉さんがしたことを考えれば、そう簡単に連れ帰れる相手ではないだろう」
「承知している。だが、この事件でロドスは龍門とウルサスの双方にとって、都合の悪い事実を知りすぎた。今後、どちらかが我々を排除しようとしても不思議ではない」
ケルシーは端末に映った航路を示した。龍門に戻っても、荒野へ出ても、ロドスが一方的に安全を保証されるわけではない。ドクターも黙って画面を見つめている。
「タルラは、今回の事件について多くを知る重要な証人だ。彼女の身柄がこちらにある限り、龍門もウルサスも、軽々しくロドスへ手を出せない。どちらかが動けば、もう一方はタルラを奪おうとしていると疑うことになるからな」
「……つまり、両方を牽制するために姉さんを連れていくのか」
「そうだ。危険な判断だが、何もしなければ我々には身を守る手段がほとんどない。彼女の罪を曖昧にするつもりも、私情で裁くつもりもない。今は生かしたまま保護し、利用されない場所へ移す必要がある」
チェンは口を結んだ。姉の命を守ることと、ロドスが生き延びるための計算が同じ決断の中にある。すぐに納得したわけではなかったが、アーミヤの傍らで待つドクターを見て、最後には小さく頷いた。
◇
司令塔の外へ戻った頃には、雪はほとんど止んでいた。
外周の足場では、遊撃隊の盾兵とロドスの隊員たちが互いの肩を叩き合っている。誰かが声を上げると、別の場所でも歓声が返った。巨大な剣を下ろしたロスモンティスも、盾兵に囲まれて何か話しているらしい。
俺は少し離れたところから、その様子を見ていた。
「アーミヤは?」
近くの隊員へ尋ねると、司令塔を指差してくれた。
「タルラを確保したそうです。チェンさんも一緒にいたと聞いてます。ただ、アーミヤさんは相当消耗しているらしくて……今、ケルシー先生が診ているそうです」
「……そうか。無事ならいいんだけど」
「すぐに搬送が始まるはずです。こちらは退路の確保を続けます」
俺は頷き、担架を通すために積み上げられた資材を脇へ寄せた。遠くで飛行ユニットの音が近づいてくる。ケルシーが用意していた迎えだろう。司令塔の方角を見上げても、ここからでは中の様子までは分からなかった。
「……心配ね」
隣に並んだテレジアが呟いた。
「ああ。でも、ケルシーがついてる。ドクターもいるはずだし、俺たちは通り道を空けておこう」
「ええ」
しばらくして、司令塔から運ばれてきた隊員が、アーミヤは意識を取り戻したと教えてくれた。俺はようやく胸の奥の力を抜く。早く顔を見に行きたい気持ちはあったが、まだ搬送を待つ負傷者が何人もいた。
最初の飛行ユニットが司令塔から離れると、それを見上げていた盾兵が声を荒らげた。
「待て。あの機体は何を運んでいる?まさか、タルラではあるまいな」
ロドスの隊員が返事に困っていると、ロスモンティスが前へ出た。
「……タルラだよ。ロドスが連れていくの」
一瞬、辺りの空気が凍りついた。つい先ほどまで歓声を上げていた盾兵たちの表情が変わり、何人かが武器に手をかける。
「我々に黙って連れ去ったというのか!あいつは大尉を、仲間たちを死へ追いやった張本人だ。我々の手で裁かなければならん!」
「……ううん。それはだめだよ」
ロスモンティスは退かなかった。彼女の背後には、まだ搬送を待つ人々がいる。俺は割って入ろうとしたが、彼女がまっすぐ盾兵を見ているのを見て足を止めた。
「おじさんたちは、あの人に仕返しがしたいんでしょ。だったら、本当に正しく裁けるの?私たちにだって、勝手に裁く権利があるわけじゃない。でも、今ここで殺させることだけはできないよ」
「では、ロドスがあいつを好きにするというのか!お前たちだけが正しいと、なぜ言い切れる!」
「……私が信じてるから。ロドスが間違ったことをしようとしたら、私が止める。タルラを、他の誰かに好き勝手使わせたりもしない」
ロスモンティスは言葉を選びながら、最後まで盾兵から目を逸らさなかった。
「それでも信じられないなら、私が責任を取る。だから、今はアーミヤたちを帰してあげて。みんな、もう十分に戦ったんだよ」
長い沈黙のあと、盾兵が槍を下ろした。
「……大尉の死を忘れたわけではない。タルラも、お前たちも、これから先を見届けさせてもらうぞ。もしロドスがあいつを利用して、感染者を再び苦しめるようなことがあれば……その時は容赦せん」
「うん。そんなこと、私も許さない」
「……わかった。お前の言葉を、今だけは信じよう。小猫、お前は自分の信じる道に責任を持つのだな」
ロスモンティスが頷くと、盾兵は仲間たちへ武器を収めるよう命じた。緊張が解けたあとも、互いが失ったものまで消えたわけではない。それでも、その場で新たな戦いが始まることはなかった。
俺は少し離れたところからロスモンティスを見ていた。さっきアーミヤと交わした約束を、今度は自分の言葉で守っている。俺が何か言わなくても、彼女には彼女の答えがあるのだと思った。
担架が通り過ぎるたびに、俺は壁際へ身を寄せた。その中にはロドスの隊員もいれば、レユニオンの制服を着た兵士もいる。さっき救助した男の姿も見えたが、今度はこちらへ刃を向けてくることはなかった。
「……なあ、テレジア」
「なあに?」
「今日、助けられなかった人もたくさんいるんだよな。パトリオットも、フロストノヴァも……ここへ来るまでに死んだ人たちだって」
テレジアは黙って頷いた。
「街が止まって、皆が喜んでるのは嬉しいよ。でも、あの人たちがいなくなったことまで、これで終わったと思いたくはないんだ」
テレジアは俺の顔を見つめた。しばらくして、彼女は通路を行き交う人々へ視線を戻す。
「忘れないでいることと、今日を喜ぶことは、きっと一緒にできるわ。今、生きて帰れる人たちがいるのだもの」
「……そうだな」
俺は頷いた。少し前まで、そんな言葉を聞けば、また自分が何をすべきか答えをもらおうとしていたかもしれない。今はただ、テレジアがそう考えていることを聞けて嬉しかった。
「俺、ここへ来てよかったと思うよ。怖くなかったわけじゃないし、何回かは本気で帰れないかと思ったけど」
「その話は、帰ってから詳しく聞かせてもらおうかしら」
「……ケルシーにも同じこと言われそうだな」
「ふふ。だったら、私の方から先に聞いておくわね」
彼女の笑顔に、俺も笑い返した。そこへ医療班から声がかかり、俺はまた資材を退かす作業に戻る。今はまだ、休むには少し早かった。
最後の担架が通り過ぎた頃、司令塔の外壁に夕暮れの光が差し込んできた。
雪に濡れた足場の先には、止まったままの巨大な都市が広がっている。あれほど恐ろしかった駆動音が消えても、壊れたものや失った命は元には戻らない。それでも、龍門へ向かって進んでいたはずの鉄の塊は、今ここで確かに止まっていた。
「……帰ろうか」
俺が言うと、テレジアは小さく頷いた。
「ええ。みんなのところへ」
まずはアーミヤの顔を見て、それから怪我を診てもらおう。ロスモンティスにも無事を伝えたいし、ドクターとケルシーにも報告が残っている。やることを思い浮かべながら、俺は最後にもう一度だけ司令塔を見上げた。
ここまで来る間に、何度も誰かの命を見送ってきた。これから先も、選ばなければならないことはあるのだろう。
けれど今は、生きて帰る人たちと一緒に、帰る道を歩きたかった。