翌朝。
目を覚ました俺は、身体を起こして軽く肩を回した。
痛むところはない。
昨日はテレジアに随分心配されたが、本当に怪我ひとつしていなかった。あの程度で怪我をしていたら、昔の俺に笑われそうだ。
ベッドから降りたところで、扉が叩かれた。
「セラスティア、起きているか?」
「起きてる」
返事をして扉を開けると、そこに立っていたのはバベルの兵士だった。
「ケルシー先生がお呼びだ。時間がある時に執務室へ来てほしいと」
「ケルシーが?」
思い当たるのは昨日の任務くらいだ。
帰還した時にも、あいつは『少し、認識を改める必要がありそうだ』なんて妙なことを言っていた。
結局、何の認識なのかは教えてもらっていない。
「分かった。ありがとう」
兵士と別れ、身支度を済ませて部屋を出る。
廊下ではすでに多くの人間が行き交っていた。ここへ来たばかりの頃は知らない顔ばかりだったが、最近では向こうから声をかけられることも増えている。
「おはようございます、セラスティアさん。昨日はお疲れさまでした」
「おはよう。……もう昨日の話、広まってるのか?」
「そりゃ広まりますよ」
兵士は笑いながら去っていった。
昨日のあれに、そこまで話題になるようなことがあっただろうか。
首を傾げながらケルシーの執務室まで歩き、扉を軽く叩く。
「入れ」
「失礼するぞ」
扉を開けると、机に向かっていたケルシーが顔を上げた。
そして、その向かい側にはもう一人。
「おはよう、セラスティア」
「……テレジア?」
「あら。私がいてはいけないの?」
「そういう意味じゃないけど」
てっきりケルシーと二人で話すものだと思っていた。
テレジアは俺の反応が面白かったのか、口元に小さな笑みを浮かべている。
「座れ、セラスティア」
「ああ」
言われるまま椅子に座る。
正面にケルシー。隣にテレジア。
なんだこの状況。
「それで、昨日の話か?」
「それも含まれている。まずは任務についてだ」
ケルシーが机の上で手を組む。
「護衛部隊から報告を受けた。敵の接近を最初に察知し、護衛対象を守りながら戦線を維持したのがお前だ。住民に重傷者はなく、こちらの被害も軽傷者が数名で済んでいる」
「大げさだな。見えたから対処しただけだぞ」
「矢を二度迎撃したことも含めてか?」
「飛んできたんだから落とすだろ」
ケルシーが黙った。
隣から小さな笑い声が聞こえる。
「何だよ」
「いいえ。あなたらしいと思っただけよ」
テレジアは楽しそうに微笑んでいる。
ケルシーはそんな俺たちを一瞥すると、小さく息を吐いた。
「お前にとっては普通なのだろう。だが、バベルの人間にとってはそうではない」
「そうなのか?」
「そうだ」
即答された。
そこまで言われると、俺の方がおかしいみたいじゃないか。
「昨日の働きだけで判断したわけではない。これまでのお前の行動についても確認した。戦闘経験、状況判断、護衛能力。そのいずれも高水準だ。戦力として、単なる同行者のまま扱い続ける理由はない」
「人を戦力扱いするなよ」
「戦力評価の話をしている」
「分かってるけどさ」
思わず苦笑する。
ケルシーらしいと言えば、ケルシーらしい。
「そこで本題だ」
ケルシーの目がまっすぐ俺へ向けられた。
「セラスティア。正式にバベルへ加入する気はないか?」
「……俺が?」
「他に誰がいる」
思わず隣を見る。
テレジアは何も言わなかった。
ただ、静かに俺を見ている。
「いや、でも俺はもうここにいるだろ」
「滞在しているだけだ。現在のお前は、あくまでテレジアと行動を共にしている協力者に近い。指揮系統にも正式には組み込まれていない」
言われてみれば、昨日もそうだった。
テレジアが任務へ行くから、俺もついていった。
それだけだ。
「正式に所属すれば、お前個人に任務を依頼できる。護衛だけではなく、偵察や戦闘任務を任せることも可能になる」
「なるほどな」
話は分かった。
けれど、俺にとって重要なのはそこではない。
「入ったら、俺がテレジアについていくのは何か変わるのか?」
「今まで通りで構わない。ただし、お前自身に別の任務を任せる可能性はある」
「テレジアの護衛が必要なら?」
「状況によるが、お前を優先的に配置することもできる」
「なら、別にいいぞ」
ケルシーが僅かに眉を動かした。
「……それで決めるのか?」
「他に何があるんだ?」
「お前自身がバベルへ所属する話をしている」
「だから、俺が入るって決めただろ?」
「……そうか」
何か言いたそうな顔をされたが、ケルシーはそれ以上続けなかった。
隣のテレジアも黙っている。
二人して何なんだ。
「では、加入の意思があるものとして話を進める。ただし、必要事項の説明が残っている」
「まだあるのか?」
「当然だ」
そこからが長かった。
指揮系統に任務の手順、単独行動や情報の取り扱い。それから負傷した場合の報告義務。
最後に、勝手に任務内容を変更してはいけないこと。
なぜかそこだけは、俺を見ながら念を押された。
「理解したか?」
「だいたい」
「だいたいでは困る」
「じゃあ理解した」
「今の間は何だ」
「気のせいだ」
ケルシーの目が細くなる。
助けを求めて横を見ると、テレジアは助けてくれそうにない。それどころか、楽しそうにこちらを見ていた。
「テレジア」
「頑張って、セラスティア」
「他人事だと思って」
「大切なことよ?」
「分かってるけどさ」
結局、説明はそれからもしばらく続いた。
ようやく解放された頃には、朝食の時間をかなり過ぎていた。
「疲れた……」
執務室を出た俺は、廊下の壁にもたれる。
「昨日戦った時より疲れてない?」
隣に出てきたテレジアが笑った。
「戦ってる方がまだ気楽だったかもしれない」
「ケルシーに聞かれたら、もう一度説明されるわよ」
「やめてくれ」
「ふふ」
テレジアが俺の隣に並び、そのまま二人で歩き出す。
しばらくは何も言わなかった。
けれど、少し歩いたところでテレジアの足がわずかに遅くなる。
「セラスティア」
「ん?」
「一つだけ、聞いてもいい?」
声の調子が少し違った。
さっきまでの笑みは残っているのに、俺を見る目は真剣だった。
「あなたは、自分でバベルにいたいと思ったの?」
「自分で?」
「ええ。私がここにいるからではなくて、あなた自身が」
言われて、少し考える。
けれど答えはすぐに出た。
「お前がここにいるから、俺もいる。それじゃ駄目なのか?」
テレジアはすぐには答えなかった。
困らせるようなことを言った覚えはない。
俺にとっては、昔から当たり前のことだった。
テレジアが進むなら、その隣を歩く。
危険な場所へ行くなら、俺も行く。
それでいい。
それ以外の理由なんて、考えたこともなかった。
「駄目ではないわ」
やがてテレジアが口を開いた。
「あなたが私と一緒にいてくれることは嬉しいもの。ずっと昔から、そう思っているわ」
「なら――」
「でもね」
穏やかな声だった。
それでも、その一言に遮られて俺は口を閉じる。
「いつか、私がいるからではなくて、あなた自身が『ここにいたい』と思える場所になったら……私はもっと嬉しい」
「……難しいこと言うなよ」
「そうかしら?」
「そうだよ」
俺には違いがよく分からなかった。
テレジアがいる。
だから俺もここにいる。
俺にとって、その二つはほとんど同じことだった。
「なら、今はそれでいいわ」
テレジアはそれ以上何も言わず、いつもの柔らかな笑みに戻った。
「おめでとう、セラスティア」
「何が?」
「今日から正式に仲間でしょう?」
「ああ、そういうことか」
正式に。
そう言われても、あまり実感はなかった。
昨日までと何かが大きく変わったわけでもない。目の前にはいつもの廊下があって、隣には昔から見慣れたテレジアがいる。
「じゃあ、改めてよろしくな」
「ええ。こちらこそ」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
その時だった。
「あ」
「どうしたの?」
昨日のことを思い出した。
「……訓練」
「ええ」
「今日だったよな?」
「昨日、あなた自身が『明日はちゃんと見る』と言っていたわね」
テレジアはにこやかに笑っている。
嫌な予感がした。
「今から行けば――」
「もう始まっている頃かしら」
「……」
「セラスティア?」
「行ってくる!」
走り出す。
後ろからテレジアの笑い声が聞こえた。
「廊下は走らない方がいいわよ」
「今だけ許してくれ!」
返事をしながら角を曲がる。
正式にバベルへ入った最初の日。
何かが大きく変わったような実感は、まだなかった。
テレジアがいる。
だから俺もここにいる。
それを自分で選んだ生き方だと、俺は疑いもしなかった。