飛行ユニットの窓から、止まったチェルノボーグの中枢区画が見えた。
雪に覆われた外壁は、遠ざかるにつれて一つの巨大な塊に見えてくる。あれほど響いていた駆動音は、もう聞こえない。代わりに機体の振動と、負傷者の様子を確かめる医療オペレーターの声が、狭い機内に満ちていた。
俺は通路側の座席に腰を下ろし、包帯の巻かれた腕を膝の上に置いた。少し動かすだけでも肩が痛む。さっきまで資材を運べていたのが不思議なくらいだった。
「……帰れるんだな」
口にしてから、窓の向こうへ視線を戻した。すぐ隣には、いつものようにテレジアが座っている。座席に重なるように腰掛けた彼女は、負傷者の間を行き来する医療班を見つめていた。
「ええ。みんな、よく頑張ったわね」
「帰ったらアーミヤの顔を見て、それからしばらく寝たいよ」
「その前に怪我の手当てでしょう?さっきからずっと腕を庇っているじゃない」
「……分かったよ。ちゃんと医療区画に寄るって」
テレジアが満足そうに笑う。俺が目を逸らすと、通路の向こうにいた医療オペレーターと目が合った。相手は包帯を指差し、戻ってから改めて診察を受けるよう念を押してくる。頷いて返事をしたところで、少し離れた座席から物音がした。
チェルノボーグの整備区画で救助したレユニオンの兵士だった。片脚を固定され、医療班から渡された毛布を肩まで引き上げている。俺と目が合うと一瞬だけ顔を強張らせたが、今度は何も言わず、視線を窓へ向けた。無理に声をかける気にはならなかった。助けられたからといって、俺たちを信用できるようになるわけではないだろう。それでも、彼がこうして治療を受けていることに、少しだけ安心した。
「……あの人、もう刃は向けてこないな」
小さく呟くと、テレジアも兵士の方を見た。
「ええ。助けた甲斐があったわね」
機体がゆっくりと旋回する。窓の外から街が消え、雲の切れ間に荒野が広がった。座席の背にもたれると、張り詰めていたものが緩んだのか、急に瞼が重くなる。次に目を開けた時には、ロドスの着艦案内が流れていた。
◇
帰還した隊員たちで、医療区画は慌ただしくなっていた。
廊下には担架が並び、あちこちで名前を呼ぶ声がする。処置を終えた隊員が別の隊員に肩を貸し、無事に戻ってきた者同士が短く言葉を交わしていた。誰もが疲れ切っているはずなのに、知った顔を見つけるたびに表情を緩めている。
俺も受付で名前を告げると、すぐに診察室へ通された。
「……また増やしたのか」
腕の包帯を外したケルシーが、開口一番そう言った。
「増やしたって言うほどじゃないだろ。肩を少しぶつけただけだよ」
「肩だけではないな。手首と脇腹にも新しい傷がある。医療班からの報告には、戦闘後も負傷者の搬送を手伝っていたと書かれているが?」
「人手が足りなかったんだ。担架を通すのに邪魔なものもあったし」
「状況は理解している。だが、お前まで搬送される側になれば、仕事が増えるだけだ」
言い返そうとして、やめた。今日だけで、俺より重い怪我をした人を何人も見てきた。ケルシーの言い分はもっともだ。
彼女は傷の状態を確かめると、手際よく処置を進めた。いつものように無駄のない動きだったが、手元には疲れが見える。アーミヤの治療を終えたばかりだというのに、休む暇もないらしい。
「……アーミヤは?」
「意識はある。今は安静にさせている。ドクターもそばについているから、心配するな」
「そっか。よかった」
「会いたいなら、診察が済んでからにしろ。ただし長居はさせない」
「分かったよ。……ケルシーも、少しは休めよ」
「その言葉は、まず自分に向けることだな」
即座に返された。テレジアが隣で笑っているので、助けを求めるのは諦めるしかなかった。
処置を終えると、ケルシーは端末に何かを書き込んだ。任務中の経過観察と、数日間の激しい訓練を含む活動制限。俺が画面を覗き込むと、彼女は端末を伏せた。
「不服か?」
「いや、別に。何日くらい休めばいいのかなって」
「珍しいことを聞くな。ようやく休む気になったのか」
「そこまで言うか?」
「これまでの行動を振り返れば妥当な評価だ。今夜は食事を取って休め。作戦の報告は明日以降で構わない」
「ああ。……ありがとう」
立ち上がりかけると、ケルシーがもう一度俺を呼んだ。
「セラスティア」
「ん?」
「……無事に帰ってきてくれて、よかった」
思いがけない言葉だった。目を瞬かせると、ケルシーはすでに次の端末へ目を向けている。返事を待つつもりはないらしい。
「……俺も、帰ってこられてよかったよ」
そう答えてから、診察室を出た。
◇
アーミヤの病室へ向かう途中、廊下の角でロスモンティスに会った。
彼女はまだ戦闘服のままで、髪にも薄く汚れが残っている。手には医療区画で渡されたらしい小さな紙袋を持っていた。俺を見つけると、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「セラスティア。怪我、診てもらった?」
「ああ。しばらくは大人しくしてろってさ。お前は?」
「私は大丈夫。……アーミヤのところに行くの?少しだけ会えたけど、疲れてるから、すぐ休ませてあげてって言われた」
「じゃあ、俺も顔を見るだけにしておこうかな」
ロスモンティスは手元の紙袋を持ち直した。中には個包装の菓子が入っているようだったが、彼女はそれを開こうとしない。
「……みんな、帰ってきたね」
「ああ」
「でも、帰ってこなかった人もいる」
その声は静かだった。俺が何か答える前に、彼女は少し離れた窓へ目を向けた。外では飛行ユニットが何度も行き来し、まだ帰還作業が続いている。
「アーミヤは、帰ってくるって約束してくれたの。私も、みんなで帰りたかった。だけど、全員は無理だった」
「……そうだな」
「セラスティアも、そうだった?」
「うん。助けられなかった人はいたよ」
ロスモンティスは俯いた。俺も窓の外を見た。チェルノボーグで最後に見たあの盾兵たちは、今頃どうしているだろう。パトリオットが遺した言葉を胸に、それぞれの場所へ向かっているのかもしれない。
「……でも、今日一緒に帰れた人もいる。お前が通路を守ってくれたから、無事に運べた人だっていたんだ」
「それは、セラスティアも同じでしょ」
「まあな。だから、二人ともケルシーに怒られない程度には休もうぜ」
ロスモンティスは少し考えてから、小さく頷いた。
「うん。……今度、また一緒にご飯食べようね。アーミヤも呼んで」
「いいな。アーミヤも喜ぶだろうな」
「セラスティアが誘ったらいいのに」
「それもそうか」
そう答えると、ロスモンティスが少し笑った。彼女は紙袋から菓子を一つ取り出して俺に差し出す。どうやら、一人で食べるつもりはなかったらしい。
礼を言って受け取ると、ロスモンティスは病室とは反対の方へ歩いていった。途中で知り合いの隊員に呼び止められ、足を止めて何か話し始める。その様子を見て、俺はようやく菓子をポケットへしまった。
「……優しい子ね」
テレジアも、離れていく背中を見送っていた。
「ああ。あいつが笑ってくれて、少し安心したよ」
◇
病室の扉を叩くと、中からドクターの声がした。
入ってみると、アーミヤはベッドに身体を起こし、膝に薄い毛布を掛けていた。まだ顔色はよくなかったが、こちらを見るなりほっとしたように笑った。ドクターはベッド脇の椅子に座り、机に置かれた端末を操作している。
「セラスティアさん。お帰りなさい」
「ただいま。……そっちも、無事でよかった」
「はい。ドクターもケルシー先生も、ずっとそばにいてくれました」
アーミヤはそう言って微笑んだ。無理に元気な顔を作っているわけではなさそうだったが、声にはまだ疲労が滲んでいる。俺は用意されていた椅子へ腰を下ろした。
「何か欲しいものがあったら言ってくれよ。俺にできることなら持ってくるから」
「ふふ。ありがとうございます。でも、セラスティアさんも怪我をしているでしょう?」
腕の包帯を見られてしまった。ドクターもこちらを向く。
「医療班に、休むように言われなかったか?」
「言われたよ。二人に顔を見せたら、ちゃんと休むつもりだったんだ」
「それなら、私たちはもう安心ですね」
アーミヤは少しだけいたずらっぽく笑った。そんな顔ができるのなら、今は大丈夫そうだ。俺も笑い返し、ドクターへ視線を向けた。
「……ドクターもお疲れさま。今回はあんたが戻ってきてくれて、助かったよ」
「自分だけでできたことじゃない。セラスティアも、みんなも、それぞれの場所で動いてくれたからだ」
ドクターの返事を聞きながら、チェルノボーグで通った道を思い出した。パトリオットの前に立ったアーミヤ、司令塔へ向かった者たち、負傷者を運ぶ医療班。あの時、俺には俺の仕事があった。誰か一人がすべてを引き受ける必要はなかったのだろう。
「……また、みんなで帰ってこられるといいな」
俺が呟くと、アーミヤは少しだけ目を伏せた。
「はい。……そのために、私たちにできることを続けたいです」
それから少しだけ、帰還した隊員たちの話をした。アーミヤはロスモンティスが無事だったと聞いて安心し、ドクターはまだ確認の済んでいない報告があると教えてくれた。タルラのことも、これから対処しなければならない問題も残っている。けれど、今のアーミヤにそれ以上の話をさせるつもりはなかった。
病室を出ようとした時、背後から名前を呼ばれた。
「セラスティアさん。身体がよくなったら、またみんなでご飯を食べませんか?ロスモンティスさんも誘って」
「……あいつも同じこと言ってたよ。じゃあ、俺が声をかけておく」
「ふふ、約束ですよ」
アーミヤは嬉しそうに笑った。ドクターも軽く手を上げて見送ってくれる。俺は二人にもう一度挨拶して、静かに扉を閉めた。
廊下へ出たところで、テレジアが口を開いた。
「アーミヤ、少し元気が出たみたいね」
「ああ。これで安心して寝られそうだ」
「ふふ。その前に食事でしょう?」
「……忘れてた」
彼女に笑われた。
◇
それから二日ほど、俺はケルシーの指示どおり部屋と医療区画を行き来して過ごした。
傷の状態は悪くなかったが、無理をすれば治りが遅くなると念を押されている。結局、普段の訓練も任務も休みになった。最初は手持ち無沙汰だったものの、眠っている時間が思っていたより長く、身体の方は休息を必要としていたらしい。
三日目の昼、ようやく外出しても構わないと言われた俺は、食堂へ向かう途中で一枚の掲示に足を止めた。
帰還した部隊の安否確認と、今後の医療支援についての連絡だった。任務を終えた者、治療を続けている者、それから、帰還できなかった者たちの情報が分けられている。掲示は暫定的なもので、状況が確認でき次第更新すると記されていた。並んだ名前を眺めていると、チェルノボーグの冷たい空気を思い出した。
俺の隣に、テレジアが並ぶ。
「……見ていく?」
「ああ。少しだけ」
掲示板の前を通る隊員たちも、時折足を止めて名前を確かめていた。静かに目を伏せる者もいれば、連れに短く話しかけてから歩き出す者もいる。俺も知っている名前をいくつか見つけ、その一つひとつを確かめた。
全員が戻ってくることはできなかった。
その事実は、何日眠っても変わらない。それでも、廊下を行き交う人たちの声はいつもどおりに聞こえている。隣のテレジアも、黙って俺が読み終わるのを待ってくれていた。
「……行こうか」
「ええ」
掲示板を離れて少し歩くと、知り合いのオペレーターに呼び止められた。
「セラスティアさん、よかった。医療区画にいないって聞いたから、もう動けるのかと思って」
「ああ、歩くくらいはな。何か用事か?」
「次の訓練で、新しく入った隊員の指導をお願いできないかって話があって。急ぎじゃないんですけど、復帰の目処が立ったら教えてほしいんです」
「俺でいいのか?」
「むしろ、セラスティアさんにお願いしたいんですよ。前に見てもらった隊員たちも、また教わりたいって言ってましたし」
言われて、少し驚いた。確かにこれまでも訓練を手伝うことはあったが、わざわざ希望を出してくれるとは思わなかった。
「……そっか。じゃあ、ケルシーの許可が出たらやるよ。俺でよければ」
「ありがとうございます!それじゃ、担当の人にも伝えておきますね」
隊員は軽く頭を下げ、足早に去っていった。その背中を見送っていると、テレジアが嬉しそうにこちらを見ていた。
「頼りにされているのね」
「……みたいだな。俺が教えたこと、ちゃんと役に立ってたのか」
「ふふ。そういうところ、昔から変わらないわね」
「何が?」
「自分のことになると、少し鈍いところかしら」
「それ、褒めてないだろ」
笑いながら食堂へ向かう。途中ですれ違った隊員に声をかけられ、作戦の報告書について尋ねられた。さらに食堂へ入れば、見覚えのある顔が手を上げ、空いている席を示してくれた。
俺はそこでようやく、ここで過ごした二年間を思い返していた。
最初の頃は、目の前の仕事をこなすだけで精一杯だった。誰に何を言われても、返す言葉を探すのに時間がかかったこともある。少しずつ顔を覚え、名前で呼び合う相手が増えて、いつの間にか仕事のない日にも誰かと話すようになっていた。そのどれも、テレジアに命じられて始めたことではなかった。
「……セラスティア?」
「いや。何でもない」
目の前に運ばれてきた食事を受け取り、席へ向かう。空いた椅子に腰を下ろすと、向かいの隊員がチェルノボーグでの出来事を聞いてきた。俺が話し始めると、いつの間にか別の隊員まで会話に加わってくる。テレジアは少し離れた場所で、そんな俺たちを穏やかに眺めていた。
◇
夕方、部屋へ戻る前にケルシーの執務室へ寄った。
復帰時期の確認と、作戦後の報告について相談しておきたかったからだ。扉を叩くと、聞き慣れた声が入室を許した。机の向こうでケルシーが端末から顔を上げ、俺の腕へ視線を移す。
「……医療班から許可が出たのか」
「軽い仕事ならな。訓練の方は、もう少し先になりそうだけど」
「それで構わない。今回の作戦については、まだ整理しなければならない事項が多い。焦って現場へ戻る必要はない」
「分かってる。……それで、復帰したら新人の訓練を少し手伝おうと思ってるんだ。今日頼まれてさ」
ケルシーは机の端末へ目を落とした。何かを確認してから、こちらへ向き直る。
「報告は来ている。お前が了承したのであれば、担当者と調整する。ただし、負傷が完治するまで実技は控えろ」
「はいはい。見本を見せるくらいなら――」
「控えろと言ったはずだ」
「……口で説明するよ」
隣でテレジアが笑っている。ケルシーは一度だけ眉を寄せたが、すぐに端末へ視線を戻した。
「今回の作戦では、負傷者の搬送経路を確保する仕事を任せた。お前にとっては、前線で敵を倒す方が馴染みのある役割だったはずだが、どうだった?」
「大変だったよ。道が塞がれば先を探さなきゃいけないし、どこまで運べるかも医療班と相談しないと分からない。俺一人じゃ、ほとんど何もできなかった」
「ほとんど、か」
「でも、面白かった。……いや、ああいう状況で面白いっていうのは変か。自分が見つけた道を誰かが使って、その先で人が助かるのを見るのは、悪くなかったよ」
ケルシーは黙って聞いていた。俺も少し考えてから言葉を続ける。
「今までは、何かあったら俺が前に出ればいいって思うことが多かったんだ。でも、あそこでは役割が違った。ロスモンティスも医療班も、それぞれ自分の仕事をしてたから、俺も任された場所を守れたんだと思う」
「……そうか」
「だからさ。これからも、ああいう仕事があるなら俺に回してくれないか。戦う仕事が嫌になったわけじゃないけど、ほかにもできることを増やしたいんだ」
ケルシーの手が、端末の上で止まった。
「お前が自分から担当業務の希望を出すとはな」
「そんなに珍しいか?」
「以前のお前なら、私が与えた任務を引き受けるだけだっただろう。もっと以前なら、まずテレジアの予定を尋ねていた」
言われて、昔のことを思い出した。バベルに正式に加わるかと聞かれた時、俺はテレジアについていけるのかを最初に確かめた。彼女のそばにいられるなら、それ以外のことは大して気にならなかったのだ。あの時、ケルシーが少し呆れた顔をしていた理由を、今なら理解できる気がする。
「……そうだったな」
「今は違うのか?」
ケルシーが尋ねる。急かす様子はなかった。俺は隣に立つテレジアを見た。彼女もこちらを見ていたが、何も言わず、俺が答えるのを待っている。
「……うん。今は、俺がここにいたいんだ」
声にすると、思っていたより素直に言えた。
「アーミヤもロスモンティスもいるし、アスカロンだっている。ほかにも、いつの間にか知り合いがずいぶん増えた。俺にできる仕事があるなら続けたいし、みんなが帰ってくる場所を守る側でいたい」
ケルシーは静かに聞いていた。テレジアの方から、何かを言う気配はない。
「テレジアのことは、今だって大切だよ。それは変わらない。でも、俺がロドスにいたい理由は、それだけじゃなくなったんだと思う」
そこまで話して、少し照れくさくなった。ケルシーはしばらく俺を見ていたが、やがて端末を閉じた。
「……分かった。お前の希望は、今後の配置を考える際に参考にする」
「ああ。頼むよ」
「それと、ここにいたいのなら、今後はもう少し自分の身体を大切にしろ。戻ってきたい場所があるなら、戻ってこられるように行動することだ」
「……耳が痛いな」
「痛いだけで済ませるな。実行してくれ」
「分かったって」
ケルシーは小さく息を吐いた。少しだけ笑ったようにも見えたが、本人に聞けば否定されるだろう。
「では、今日はもう戻れ。明日も診察の予定があるはずだ」
「了解。……ケルシー」
「何だ」
「これからもよろしくな」
彼女は少しだけ目を細めた。
「……ああ。こちらこそ、セラスティア」
その返事を聞いてから、俺は執務室をあとにした。
◇
部屋へ戻ると、机の上には読みかけの本が置いてあった。
出撃前に途中まで読んで、そのままにしていたものだ。机の端には古い写真と、小さな保護ケースに収めた夏雪草の押し花が並んでいる。俺は上着を脱ぎ、椅子に腰を下ろしてから、ケースを手に取った。
「……ずっと持っていてくれているのね」
テレジアが机の向こうから覗き込む。
「そりゃそうだろ。今さら手放す理由もないし」
「ふふ。そうね」
俺がケースを元の場所へ戻すと、彼女は窓際へ移動した。夕暮れの光がその輪郭を淡く照らしている。生きていた頃のように窓枠へ手を置こうとして、触れられないことを思い出したのか、そっと腕を下ろした。
「……セラスティア」
「ん?」
「さっきの話、嬉しかったわ」
何のことか、聞かなくても分かった。
「……変なこと言ってなかったか?」
「いいえ。あなたが自分で考えて、自分の言葉で話してくれたのでしょう?それが嬉しかったの」
「そっか」
テレジアは窓の外を見ていたが、やがてこちらへ向き直った。
「バベルに入る時のことを思い出していたの。あなたの返事を聞いて、ケルシーったら困った顔をしていたでしょう?」
「あれ、そんな顔してたか?……いや、そうだった気もするな」
テレジアは懐かしそうに笑った。
「でも、あなたが私の隣にいてくれたことは、本当に嬉しかったのよ。あの頃も、今も」
「……そっか。ありがとう」
彼女は俺の隣へ来て、椅子の背もたれに手を添えるような仕草をした。触れられないことには、もう二人とも慣れている。それでも、隣に誰かがいてくれるのはありがたかった。
「……なあ、テレジア」
「なあに?」
「お前は、今日どうだった?」
「今日?」
「俺の話ばっかり聞いてたからさ。お前も、何かしたいことがあったら言ってくれよ」
少し驚いたように、テレジアが瞬きをした。それから机の上に置かれた本を見つめる。
「……だったら、あの本の続きを一緒に読みたいわ。あなた、出撃前に途中で眠ってしまったでしょう?」
「あれ、見てたのか?」
「ええ。面白いところだったのに、ページを開いたままだったもの」
「……確かに、あそこからどうなるか気になってたんだよな」
本を手に取り、栞の挟まったページを開いた。テレジアが覗き込みやすいよう、少しだけ机の端へ寄せる。
「じゃあ、今日はここから読むか。俺が寝落ちしたら起こしてくれよ」
「ふふ。今度は最後まで読めるといいわね」
「努力はするよ」
テレジアが笑い、俺もつられて笑った。
窓の外では、ロドスがいつものように進んでいる。明日になれば新しい仕事があるし、まだ治りきっていない傷も診てもらわなければならない。チェルノボーグで失った人たちのことも、これから先、忘れるつもりはなかった。ただ、今夜は少しだけ休もうと思う。帰ってきた場所には、俺を待ってくれる人たちがいる。俺の方から会いに行きたい人たちもいて、頼まれた仕事をまた引き受けたいと思っている。今日、ケルシーに話したことは、用意した答えじゃなかった。
「……セラスティア、次のページをめくってくれる?」
「ああ、悪い。ちょっと考え事してた」
「ふふ。何を考えていたの?」
「……ここに帰ってこられて、よかったなって」
テレジアはしばらく俺を見つめ、それから嬉しそうに微笑んだ。
「……ええ。おかえりなさい、セラスティア」
「ただいま、テレジア」
俺はページをめくった。彼女が続きを読み始めるのを待ってから、俺も並んだ文字へ目を落とす。
明日も、ここで生きていこうと思った。