チェルノボーグから戻って、五日が過ぎた。
医療班からはようやく軽い仕事の許可が出たが、右肩の傷が完全に塞がったわけではない。今朝も訓練場へ顔を出したところ、見本を見せようとする前に担当者から止められてしまった。結局、予定していた新人の指導は口頭での説明だけになり、午後にはすることがなくなった。
「……休み方が下手ね、セラスティア」
資料を抱えて訓練区画を出ると、隣を歩いていたテレジアが楽しそうに笑った。
「休んでるだろ。剣だって振ってないし、今日は走ってもないぞ」
「ええ。でも、何度も時計を見ていたでしょう?次の用事がないと、落ち着かないみたいだったわ」
「そういうわけじゃないんだけどな……」
否定しかけて、今日の予定を頭の中で探している自分に気づく。ケルシーに提出する書類は朝のうちに終わらせたし、医療区画へ行くのは夕方だ。少し早いが食堂で何か飲んでから部屋へ戻ろうか、と考えていた時だった。
「……相変わらず暇そうね」
聞き覚えのある声に足を止めた。廊下の先、窓際の壁に寄りかかっていたのはWだった。白銀の髪も、こちらを見る時の人を試すような目つきも、最後に会った時から変わっていない。ただ、服の下にはまだ包帯があるらしく、身体を起こす際に一瞬だけ脇腹を庇った。
「W?もう歩き回って大丈夫なのか?」
「あんたと顔を合わせるたびに、それ聞かれる気がするんだけど。そんなにあたしが病室に閉じ込められてる方が嬉しい?」
「いや、チェルノボーグじゃ結構ひどい怪我だったからさ」
「残念でした。あたしはそう簡単にくたばらないのよ」
そう言うわりに、Wは壁から大きく離れようとはしない。ケルシーと何やら話をつけて、当面はロドスに出入りしていると聞いていたが、詳しい事情までは知らなかった。正式な隊員として戻ってきたわけではなく、医療区画の外でも立ち入れる場所には制限があるらしい。
「……何よ。まだ何か言いたそうな顔してるわね」
「ちゃんと治療受けろよ。ケルシー、怒ると怖いぞ」
「知ってるわよ。嫌ってほどね」
Wは鼻を鳴らした。それから俺の抱えている資料を一瞥し、周囲を見回す。近くを通る隊員がいなくなるのを待っていたようにも見えた。
「ねえ。ちょっと付き合いなさいよ」
「どこに?」
「ここじゃ人が通るでしょ。少し話があるの」
いつもの調子ではあったが、妙に歯切れが悪かった。隣を見ると、テレジアもWを見つめている。彼女は俺と目が合うと、小さく頷いた。俺は資料を脇へ抱え直し、Wの後について歩き始めた。
◇
案内されたのは、訓練区画の端にある小さな休憩スペースだった。
壁の半分が大きな窓になっていて、遠くを進む荒野とロドスの外装が見える。長椅子と飲料の自動販売機が置かれているものの、今は誰も使っていない。訓練の合間に立ち寄るには少し遠いせいか、普段から人影の少ない場所だった。
「へえ、こんなところ知ってたんだな」
「歩いてたら見つけただけよ。……そんなに意外?」
「お前、休憩するより訓練場に爆薬を仕掛ける方が好きそうだから」
「へえ。よく覚えてるじゃない。次はあんたの椅子の下にでも仕掛けてあげようかしら」
「それは勘弁してくれ」
反射的に答えると、Wは少しだけ口元を上げた。昔ならこのまま散々からかわれただろうが、今日はそれ以上何も言わない。長椅子の前まで来ると、彼女は窓に背を向けて立ち止まった。俺も少し離れて足を止める。テレジアは何かを察したのか、窓際へ移動して外を眺めていた。Wには見えていないはずだが、二人きりで話せるように気を遣ってくれたのかもしれない。
「あのさ、W。話って――」
「ちょっと黙っててくれる?」
思わず口を閉じた。Wは俺を見ていたが、すぐに視線を逸らし、包帯の巻かれた脇腹へ手を当てた。痛むのかと思って声をかけかけたものの、さっき止められたばかりなので、そのまま待つことにした。
「……チェルノボーグで、あんたと話したでしょ」
「ああ。覚えてるよ」
「殿下が死んだ日のこと。あたしが、今なら理由を言えるのかって聞いた時よ」
Wは言葉を選ぶように一度口を閉じた。その名前を聞いただけで、胸の奥に古い痛みが戻ってくる。けれど、以前のように何も言えなくなるほどではなかった。
「……あの時、あんたは、話すって言ったわよね」
「うん。聞いてくれるなら、ちゃんと話すつもりだった」
「そう。でもあたしは、今さらそんなこと聞いてどうしろって言うのよ、って……また逃げた」
最後の言葉は、ほとんど吐き捨てるようだった。Wは俺の返事を待たずに続ける。
「で、あんたが出ていったあと、聞こえたのよ。隣の部屋から、あんたの声が」
「……隣の部屋?」
「通信機を直してた場所。壁一枚しか隔ててないんだから、声くらい聞こえるに決まってるでしょ」
思い出した。整備室でWを休ませている間、俺は隣の区画で通信機の修理をしていた。あの時は、テレジアと二年前の出来事について話していたはずだ。隣の部屋まで声が届いているとは、考えもしなかった。
「……ああ。そうだったのか」
「驚くならもっと驚きなさいよ。こっちは聞きたくもない昔話を聞かされたんだから」
「悪い。聞こえてるとは思わなくて」
「だから、そうやってすぐ謝るのをやめなさいっての」
Wは苛立たしそうに髪をかき上げた。その手がいつもよりゆっくり動くのを見て、まだ怪我が響いているのだと分かった。
「……民間人を助けに行ってたんでしょ。ドクターに命じられて。思っていたより人数が多くて、途中で異変に気づいても、取り残された連中を置いて帰れなかった」
「ああ。そうだよ」
「あんたが戻った頃には、もう殿下は……」
そこで言葉が途切れた。Wは唇を噛み、窓の外を向いた。肩が小さく上下するのを見て、何かを言う前に少し時間が必要なのだと分かった。俺も黙って待つ。彼女が聞いたことを今さら隠す気はなかったし、あの日のことは、俺も一度ちゃんと話したかった。
「……ねえ。あの時、あんたに聞いたわよね。何でいなかったのか、理由があるなら言えって」
「聞かれたな」
「あたし、あんたが殿下を見捨てて逃げたんだと思ってたわけじゃないのよ。……たぶん、何かあったんだろうってことくらいは、分かってた」
Wはそこで苦しそうに笑った。
「でも、あたしが戻った時には殿下はもういなかった。あんたはずっと殿下のそばにいたはずなのに、最後にはいなかった。そのことが腹立たしくて、理由を聞いたって何も変わらないのも分かってたのに……あんたにぶつけたの」
「……うん」
「あたしよりずっと近くにいたあんたなら、何とかできたんじゃないかって。そう思えば、怒る相手ができるでしょ」
その言葉を聞いて、二年前の廊下を思い出した。Wに胸ぐらを掴まれ、殴られた時、痛みよりも、彼女の泣きそうな顔が頭から離れなかった。どう答えればいいか分からなくて、結局、謝ることしかできなかった。
「……あたし、ひどいこと言ったわよね」
「……ああ」
「殴ったし、最低だって言った。あんたが何をしてたか知りもしないで」
Wがこちらを向いた。いつもの挑発するような笑みはなく、真っ直ぐに俺を見ている。
「……悪かったわ。ごめん」
思っていなかった言葉に、返事が少し遅れた。Wが謝るところを見たことがないわけじゃない。ただ、少なくとも俺に向かって、こんなふうに言葉を選びながら謝ったことはなかった。言った本人も落ち着かないのか、視線を少しだけ下げている。
「……ありがとう、W」
「何よ、それ。謝られたら普通、許すとか許さないとか、何かあるでしょ」
「そうだな。……でも、あの日のことをなかったことにはできないし、お前が言ったことも全部覚えてるよ。俺も、理由を聞いてほしいって言われたのに、何も話さなかったから」
「だからって殴っていい理由にはならないでしょ」
「うん。それはそうだと思う」
Wは拍子抜けしたような顔をした。俺が何か言い返してくると思っていたのだろうか。彼女が椅子へ腰を下ろすのを見て、俺も隣ではなく、少し間を空けた位置に座った。
「……あの時は、俺も自分がどうすればよかったのか分からなかったんだ。救助した人たちは生きてる。それはよかったと思う。だけど、テレジアが死んだことだけは、どれだけ考えても受け入れられなかった」
Wは黙って聞いていた。
「お前に責められた時、正直、少しほっとしたところもあった。俺が悪いって言われたら、そうなんだと思えたから。でも、お前は理由を聞こうとしてくれてたんだよな。そこまで考えられなくて、悪かった」
「……また謝る」
「これは謝らせてくれよ」
俺がそう言うと、Wは鼻で笑った。ようやくいつもの顔が少し戻ってきた気がした。
「……じゃあ、おあいこってことにする?」
「いや、お前の方が一発多いだろ。あの時、殴られたの俺だし」
Wは目を丸くした。それから信じられないものを見るように俺を見て、やがて小さく吹き出した。
「……あはっ。そういうこと、今になって言う?」
「今なら言えるかなって」
「だったら今ここで一発返せば?あたしだって何も言わないわよ」
「怪我人を殴ったらケルシーに怒られるだろ。今でも手加減できるか分からないし」
「そこはできるって言いなさいよ」
笑い声が途切れたあとも、気まずさは完全には消えなかった。けれど、二年前の話をしているのに、こうして冗談を返せることが少し不思議だった。Wも同じことを考えていたのか、こちらを一度見てから、長椅子の端へ寄りかかった。
◇
「……もう一つ、聞いてもいい?」
窓の外を見ていたWが、しばらくして口を開いた。
「何だ?」
「ドクターのことよ」
その名前が出た途端、Wの顔から笑みが消えた。彼女は膝の上で組んでいた手をほどき、指先で椅子の縁を軽く叩いている。昔から、ドクターの話になるとWの態度が変わることは知っていた。チェルノボーグでも、二人がまともに言葉を交わしているところを見た覚えはない。
「あんた、ドクターのこと恨んでないの?」
Wの声は静かだったが、その問いには冗談の入り込む余地がなかった。
「……恨んだことはあるよ」
Wの指が止まった。
「ドクターがあの日、俺に救助の任務を出したのは本当だ。今でも時々考えるよ。あの命令がなかったら、俺はテレジアのそばにいられたかもしれないって」
「……だったら」
「でも、あの人たちを置いてくればよかったとは、今は思えないんだ。聞いてた人数よりずっと多くて、途中で戻ろうと思った時にも、まだ瓦礫の下に人が残ってた」
あの日、担架を引く隊員の背中を押しながら、何度も船の方角を振り返った。通信が途切れた時には嫌な予感がしたし、すぐにでも戻りたかった。それでも、目の前の人たちが助けを求めているのに、知らないふりはできなかった。Wは何も言わなかった。
「もちろん、テレジアに生きててほしかったよ。今だって、あの日に戻れたらって考える。でも、あの人たちが死ねばよかったとも言えない。どっちかを選んで、もう片方がどうでもよかったことにするなんて、俺にはできないんだよ」
「……あんたって、本当に損な性格してるわね。もっと誰かを恨んでた方が、よっぽど楽でしょうに」
「……そうかもしれないな」
自分でも、昔はそうしようとしたことがあった。テレジアが死んだ理由を誰か一人に押しつければ、少しは納得できるのかもしれない。けれど、誰を責めたところで、俺がいなかった時間をやり直せるわけではなかった。
「それに、今のドクターは二年前のことを覚えてないだろ。話してても、昔のあの人とは違うところが多いんだ」
「記憶喪失だから何だってのよ。覚えてなければ済む話じゃないでしょ」
「うん。俺も、忘れたから全部なかったことになるとは思ってない。ただ、チェルノボーグでドクターが何をしたかは見てきたからさ」
Wがこちらへ顔を向ける。俺は、アーミヤのために動き続けていたドクターの姿を思い出していた。
「今のあの人は、アーミヤやみんなを助けようとしてる。俺も同じ任務に出て、助けられたことがあった。だから、今のドクターとは、一緒に仕事を続けたいと思ってるよ」
「……許したってこと?」
「そこまで簡単じゃないよ。俺自身、あの日の全部を知ってるわけじゃないし、今でも嫌な気持ちになることはある。それでも、今目の前にいる人が何をしてるかまで、見なかったことにはしたくないんだ」
Wは椅子から少し身体を起こした。脇腹を庇うように片手を添え、しばらく俺を睨んでいたが、やがて窓へ顔を向けた。
「……あたしは、そんなふうには考えられないわ」
俺は黙って頷いた。
「あいつが何をしたか、あたしは忘れない。今のあいつがどれだけ殊勝な顔してようが、そんなもので済ませる気はないから」
「……そうだな。お前がそう思う理由もあるんだろう」
「あるわよ。あんたが思ってるより、ずっとね」
その声を聞いて、これ以上踏み込むのはやめた。Wがドクターについて何を知っているのか、俺には分からない。彼女が話したくないことまで、今日ここで聞き出す必要はなかった。
「……なあ、W。俺とドクターのことは、同じように考えなくていいからな」
Wが怪訝そうに眉を寄せた。
「俺が今のドクターと一緒に仕事をしてるからって、お前までそうしろとは思わないよ。もし何か言いたいことがあるなら、俺は聞くけどさ」
「……何それ。あんた、あたしの相談相手にでもなるつもり?」
「嫌ならやめるよ」
「そうやってすぐ引くところも、気に入らないのよ」
Wは呆れたように息を吐いた。返事を探しているうちに、彼女は椅子の背へ身体を預け、今度は自分から話題を変えた。
「……そういえば、あんた、まだロドスにいるのね」
「そりゃ、所属してるからな」
「そういう意味じゃないわよ。殿下がいなくなったあとも、ずっとここにいる理由があるのかって聞いてるの」
意外な質問だった。以前の俺なら、何と答えただろう。テレジアがいたから、彼女が大切にしていた場所だからと、そんな理由ばかり挙げていた気がする。今もその気持ちはあるけれど、ケルシーに話したばかりの言葉を思い出すと、自然と別の答えが浮かんだ。
「あるよ。アーミヤもロスモンティスもいるし、仕事で頼ってくれる人も増えた。今は俺が、ここにいたいと思ってるんだ」
Wは少し驚いたような顔をした。
「……へえ。あんたからそんな答えが返ってくるとは思わなかったわ」
「昔の俺、そんなに頼りなかった?」
「頼りないっていうか、殿下が右って言ったら理由も聞かずに右へ行きそうだったじゃない」
「……否定できないな」
「でしょ?」
Wは笑った。今度はからかうためだけではない笑い方に見えたが、本人に言えば怒られそうだったので黙っておいた。
◇
気づけば、窓の外の光が少し傾いていた。
夕方の診察までにはまだ余裕があるが、Wも長く座っていると脇腹が痛むのだろう。身体の向きを変えるたびに顔をしかめるので、そろそろ切り上げようかと声をかけた。
「……話は終わりか?」
「何よ。あたしといるのがそんなにつまらない?」
「いや、怪我が痛そうだったから。長居させるのも悪いと思ってさ」
「……あんたね。人のことより自分の肩を心配しなさいよ。さっきから資料抱えてる腕、何回持ち替えたと思ってるの」
言われて、自分でも無意識に右肩を庇っていたことに気づく。資料を左手へ移すと、Wは満足げに鼻を鳴らした。
「そういえば、訓練はもうしてるの?」
「まだ見てるだけ。医療班に止められてるんだ」
「ふうん。じゃあ、あたしが勝つのはもう少し先ね」
「ああ。次はちゃんと勝つつもりなんだな」
「何よその言い方!前だってあたしが勝ちかけてたでしょ!」
「そうだったか?」
「……覚えてなさいよ。次は訓練用の爆薬なんかじゃ済まさないから」
「それ、もう模擬戦じゃないだろ」
Wの口元が吊り上がった。バベルの訓練場で見たのと同じ、少し意地の悪い笑顔だった。あの日はテレジアやアーミヤたちも見に来ていて、終わったあとには皆で写真を撮った。随分昔のことのように思えるけれど、こうして話していると、不思議と細かなところまで思い出せる。
「……なあ、W」
「今度は何?」
「また話せて、よかったよ」
何気なく口にしたつもりだった。Wはすぐには返事をしなかった。こちらを見ていた目が一度だけ大きくなり、それから急に顔を背ける。今さら何を言っているんだと怒られるかと思ったが、聞こえてきたのは短い舌打ちだけだった。
「……あんた、そういうこと平気で言うわけ?」
「何が?」
「……もういい。聞いたあたしが馬鹿だった」
Wは立ち上がった。脇腹を押さえているのに、俺が腕を貸そうとしても追い払うように手を振る。しばらくその場に立っていたが、やがて何かを思い出したように振り返った。
「……ねえ。あの時の写真、まだ持ってる?」
「写真?」
「バベルの時、訓練のあとに撮ったやつよ。……あんたが勝ったからって、みんなで騒いでた時の」
「ああ。部屋に置いてあるよ。……どうした?」
「別に。捨ててないなら、それでいいわ」
「見たいなら今度持ってくるけど」
「いらないわよ。あたしだって持ってるもの」
そう言って、Wは勝ち誇ったように笑った。二年前のことを話し始めた時とはずいぶん違う顔だった。
「じゃ、あたしは戻るわ。ケルシーの奴に見つかって、また説教食らうのも面倒だし」
「ああ。ちゃんと診察受けろよ」
「分かってるっての。……あんたもね、セラスティア」
名前を呼ばれて顔を上げた時には、Wはすでに背を向けていた。
廊下の曲がり角まで歩いていくのを見送り、俺もようやく立ち上がった。胸の奥には、長い間引っかかっていたものが少しだけほどけたような感覚があった。全部が元に戻ったわけではないし、あの日の言葉を忘れたわけでもない。けれど、こうしてまたWと話せるようになったことが、素直に嬉しかった。
「……あの子、自分の言葉でちゃんと謝れたのね」
近くでテレジアの声がした。振り向くと、窓際にいた彼女がこちらへ歩いてくる。Wがいる間、ほとんど口を開かなかったのは、俺たちの会話を邪魔しないためだったのだろう。少しだけ目元を和らげたその顔を見て、俺も頷いた。
「ああ。ずっと、気になってたからさ」
「二人とも、あの日から前へ進んでいるのね」
「……どうだろう。でも、話せてよかったよ。あいつも、あんなふうに謝るとは思わなかったし」
「ふふ。あの子は昔から、素直になるのが少し苦手だったもの」
「少し、か?」
テレジアは楽しそうに笑った。その表情につられて、俺も笑う。廊下へ出ると、遠くから夕方の案内放送が聞こえてきた。もうすぐ医療区画へ向かわなければならない。
「……なあ、テレジア。今日は何か読みたい本ある?」
「あら。昨日の本はもう読み終わったの?」
「終わった。せっかくだし、帰ったら次のを選ぼうと思ってさ」
「そうね。だったら、前から気になっていた本を見てみたいわ」
「分かった。医療区画に寄ったら、書庫へ行こうか」
いつものように二人で廊下を歩き出した。
◇
廊下を曲がってから、あたしは足を緩めた。
人の少ない通路を選んだつもりだったが、向こうから医療オペレーターが歩いてきたので、思わず背筋を伸ばす。呼び止められるかと思ったものの、相手は軽く会釈しただけで通り過ぎていった。あたしがここにいることまで、いちいち報告されてたまるか。
「……ったく」
吐き捨てた声が思ったより小さく響いた。
セラスティアが民間人を助けていたと知った時から、一度は話をしなければならないと思っていた。殿下の死を受け入れたわけじゃないし、ドクターに対する考えが変わったわけでもない。ただ、あいつを殴った事実だけは、どう考えても自分の方が間違っていた。そのことを伝えられたのだから、今日の用事は終わったはずだった。
それなのに、最後の言葉が耳から離れなかった。
『また話せて、よかったよ』
あいつは本当に、そういうことを何でもないように言う。昔もそうだった。訓練で散々あたしの罠を潰しておいて、また勝負しようと嬉しそうに笑っていた。馬鹿みたいに人がよくて、妙なところで遠慮がなくて、こちらが何を考えているのかなんて少しも分かっていない顔をする。
「……ほんっと、腹立つ」
そう呟きながら、脇腹に添えていた手を離した。先ほど顔を背けたのは、傷が痛んだからではなかった。分かっているのに、それが何なのか考えるのも癪だった。あいつに対して今さら何かを感じたところで、面倒が増えるだけだというのに。
あの時、あいつが誰に向かって殿下の名前を呼んでいたのか。それもまだ、聞けていない。
少し先の窓に、自分の顔が映っていた。さっきまでより、幾分ましな顔をしている。それを見て舌打ちすると、今度こそ医療区画へ向かった。