訓練場へ着いた時には、当然のように訓練は始まっていた。
「遅い!」
そして、到着した瞬間に怒られた。
肩で息をしながら、訓練場の中央を見る。
アスカロンは訓練用の武器を握り、不満を隠そうともせずこちらを睨んでいた。その周囲にはいくつもの標的が並び、ほとんどに攻撃した跡が残っている。
どうやら俺が来るまで、一人でずっと続けていたらしい。
「悪かった。ケルシーの話が思ったより長くて」
「昨日も来なかった!」
「それも悪かったって」
「昨日と今日で二回」
「数えなくていいだろ……」
アスカロンは頬を膨らませる。
「ちゃんと来るって言ったのに」
「だから来ただろ。遅れたけど」
「遅刻は遅刻」
「……はい」
こういうところだけ妙に厳しい。
しかも昨日のことまで忘れてくれる気配がない。
「次は忘れないで」
「忘れないよ」
たぶん。
そう思った瞬間、アスカロンの目が細くなる。
「今、また忘れそうって思った?」
「思ってない」
「嘘」
即答だった。
本当に勘がいい。
しばらく俺を睨んでいたアスカロンは、やがて何かを決めたように武器を構えた。
「じゃあ、その代わり今日は戦って」
嫌な予感がする。
「俺、昨日も戦ってきたんだけど」
「知ってる。でも昨日の分もあるから、今日は見るだけじゃ駄目」
「訓練って借金みたいに貯まるのか?」
「貯まる!」
初めて聞いた。
だが、本人がそう言い張るのなら仕方ない。
近くに置いてあった訓練用の剣を手に取る。
「分かった。ただし、熱くなりすぎるなよ。怪我するような攻撃もなし。それと――」
「分かってるから早く!」
「……本当に分かってる?」
「早く!」
元気だな。
俺が剣を構えると、アスカロンの表情が変わった。
さっきまでの子供らしい顔が消える。
視線が俺の剣、足、肩へ動く。
切り替えは速い。
「いつでもいいぞ」
「……うん」
次の瞬間、アスカロンの姿が消えた。
正確には、消えたように見えた。
気配を薄くしながら俺の視界から外れ、足音もほとんど残さず位置を変える。
前に見た時より上手くなっている。
俺はその場から動かない。
右。
違う。
後ろでもない。
ほんの僅かに、空気が揺れる。
「そこだろ」
振り向きながら剣を上げる。
訓練用の武器同士がぶつかり、乾いた音が響いた。
「むぅ……!」
「惜しかったな。前より気配が薄くなってる」
褒めたつもりだったのだが、アスカロンは納得していない。
「なんで分かったの!?」
「勘」
「またそれ!」
「本当にそれしか言いようがないんだよ」
アスカロンが不満そうに飛び退く。
「テレシスも同じこと言う!ちゃんと教えて!」
「教えられるなら教えてるよ」
本当に感覚でしかない。
殺気。
空気の流れ。
小さな音。
相手の目線。
長く戦っているうちに、そういったものを一つずつ考えなくても身体が拾うようになった。
全部まとめて「勘」と言うしかない。
「じゃあ、もう一回!」
「休まないのか?」
「今度は当てる!」
もうこちらの話を聞いていない。
仕方なく剣を構え直した。
今度は正面。
アスカロンが一気に距離を詰め、下から武器を振り上げる。
受ける。
すぐ横薙ぎへ切り替える。
それも止める。
小さな身体を生かし、俺の周囲を回りながら次々と攻撃してくる。
悪くない。
ただ、一つだけ気になった。
「踏み込みすぎ」
「え?」
半歩避け、その足を引っかける。
勢いを止められなかったアスカロンの身体が前へ傾く。
転ぶ寸前で腕を掴んだ。
「ほら。相手に避けられたら今みたいになる」
「でも、踏み込まないと届かない」
「届かなくてもいいんだよ。一回で決めなきゃいけない理由なんてない。危ないと思ったら一度離れろ。生きてれば、次がある」
アスカロンを立たせる。
少女はすぐには武器を構えず、少し考えていた。
「テレシスは、もっと前に出ろって言った」
「それも間違ってない」
「でもセラスティアは離れろって言った」
「戦ってる相手も状況も毎回違うからな。いつでも同じ答えになる方がおかしいんだ」
ますます難しそうな顔になる。
まあ、子供に言うには少し分かりづらいか。
「テレシスは、多分『勝つための戦い方』を教えてるんだろ」
「セラスティアは?」
少し考える。
俺が教えられるものなんて、それほど立派なものではない。
長く戦って、生き残って。
気がつけば覚えていただけだ。
「俺は……死なないやり方かな」
「勝つのと違うの?」
「似てるけど、同じじゃない」
勝たなければならない時もある。
逃げた方がいい時もある。
誰かを守るなら、自分が勝つことより、そいつを生かす方を優先しなければならないこともある。
「戦ってると、予定通りにならないことなんていくらでもある。一つのやり方だけ覚えない方がいいよ」
アスカロンは俺の言葉をしばらく考えたあと、強く頷いた。
「じゃあ両方覚える!」
「それが一番だな」
迷いがない。
こういうところは素直だ。
「じゃあ、もう一回!」
「少しくらい休ませてくれない?」
「昨日休んだ!」
「昨日は任務だったんだけど……」
「早く!」
結局、それから何度付き合わされたか分からない。
正面。
右。
背後。
姿を隠してからの奇襲。
繰り返すたびに動きが少しずつ変わっていく。
さっき教えたことも、すぐに試している。
飲み込みはかなり速い。
「もう一回!」
「まだやるのか?元気すぎるだろ」
「セラスティアがおじさんなだけ」
「誰がおじさんだ」
「セラスティア」
「……よし。次は少し本気でやるか」
「大人げない!」
そう言いながら笑っている。
俺もつられて笑った。
「来い」
「今度こそ!」
アスカロンが正面から走ってくる。
そう見えた瞬間、進行方向が横へ流れた。
一度俺の視界へ自分から入り、そこから死角へ回り込む。
さっきまでとは違う。
俺が剣を下げるより僅かに早く、アスカロンの武器が動いた。
避けた。
――つもりだった。
布が擦れる。
見ると、服の端に小さな切れ目が入っている。
アスカロンも止まり、自分の武器と俺の服を交互に見た。
「……当たった?」
「服だけな」
一瞬。
アスカロンの顔が一気に明るくなる。
「当たった!」
「だから服だけだって」
「当たったのは当たった!」
「はいはい」
「やった!一本!」
「一本ではない」
「一本!」
「掠っただけ」
「一本!」
無理だ。
これ以上何を言っても聞きそうにない。
俺は笑いながらアスカロンの頭に手を置いた。
「まあ、でも強くなったな」
「……!」
分かりやすいくらい表情が明るくなる。
何度か頭を撫でる。
「ただし、まだ俺の勝ち」
「次はちゃんと当てる!」
「頑張れ」
「次は避けないで!」
「それじゃ訓練にならないだろ」
「じゃあ避けても当てる!」
「それでこそだ」
頭から手を離そうとすると、アスカロンが少しだけこちらを見上げた。
何か言いたそうだ。
視線が俺の手へ向いている。
なるほど。
「もう少し撫でる?」
「……別に」
「じゃあ終わり」
「待って!」
「どっちだよ」
思わず笑う。
もう一度頭へ手を置くと、今度は何も言わなかった。
「随分と楽しそうね」
聞き慣れた声に振り返る。
訓練場の入口に、テレジアが立っていた。
「いつからいた?」
「さて。いつからかしら」
「またそれか」
アスカロンはそんな俺たちを無視して、嬉しそうにテレジアのところへ駆けていった。
「テレジア!見てた!?当てた!」
「ええ。ちゃんと見ていたわ。すごいわね、アスカロン」
「服だけだぞ」
「当てた!」
「……もういいよ」
二対一だ。
完全に俺の負けだった。
アスカロンはそのまま、まだ練習すると言って標的の方へ走っていく。
俺とテレジアは並んでその姿を眺めた。
「……元気だな」
「ええ。あなたとの訓練を、本当に楽しみにしているのよ」
「そうなのか?」
「気づいていなかったの?」
「訓練そのものが好きなんだと思ってた」
テレジアは、呆れたような、それでもどこか楽しそうな笑みを浮かべる。
「あなたはもう少し、人の気持ちを考えてみてもいいかもしれないわね」
「なんで俺が怒られてるんだよ」
「怒ってはいないわ。それに、いい師匠だと思っているのよ?」
「俺は師匠じゃないって。ちゃんと教えてるのはテレシスだろ」
「兄さんとは違うものを、あなたから教わっているのかもしれないわ」
違うもの。
何だろう。
自分では分からない。
「本人が楽しそうなら、それでいいけど」
「ええ。それでいいと思うわ」
◇
訓練場を離れ、テレジアと廊下を歩く。
しばらくしてから、テレジアが思い出したようにこちらを見る。
「そういえば、正式にバベルへ入って最初の日だったわね。どうだった?」
どう、と言われても困る。
朝からケルシーに長い説明をされた。
アスカロンとの約束を忘れかけて走った。
着いたら怒られ、その後はずっと訓練に付き合わされた。
「いつも通りじゃないか?」
「そう?」
「ああ。まあ……アスカロンの訓練を見るのも、別に嫌いじゃないし」
本当に何気なく言っただけだった。
けれど、テレジアが足を止める。
「どうした?」
「……いいえ」
俺を見て、少しだけ嬉しそうに笑った。
「そう。それならよかったわ」
「何が?」
「それは秘密」
「またかよ」
結局、理由は教えてくれなかった。
俺もそれ以上は聞かなかった。
バベルへ入った理由なんて、今でも変わらない。
テレジアがいるから、俺もいる。
それだけだ。
ただ。
明日もアスカロンとの訓練があることを。
それを少し楽しみにしている自分がいることを。
この時の俺はまだ、「ここにいる理由」の一つに数えてすらいなかった。