正式にバベルへ加わってから、何日かが経った。
何か大きく変わるのかと思っていたが、俺の生活はそれほど変わっていない。
テレジアのそばにいて、必要なら任務へ出る。
戻ればアスカロンの訓練に付き合う。
時々ケルシーに呼び出されて、話の半分も理解できないまま長い説明を聞く。
違うところがあるとすれば――。
「セラスティア、ちょうどよかった。これを倉庫まで頼めないか?」
廊下を歩いていた俺は、バベルの兵士に呼び止められた。
当然のように箱を差し出される。
中身は医療品らしい。
「なんで俺が?」
「手が空いているだろう?」
「俺、正式に入ったばっかりなんだけど」
「だから頼んでいる」
「新人って普通、もう少し優しく扱われない?」
「今も十分優しく頼んでいるつもりだが」
「そういう意味じゃないんだよな……」
断る理由もないので、結局受け取った。
最近、こういうことが増えた。
以前なら俺に用がある人間など、ほとんどテレジアくらいだった。
今は違う。
荷物を運んでくれ。
訓練を見てほしい。
任務の相談がある。
ケルシーが呼んでいる。
テレジアはどこだ。
最後のだけは前からだった気もする。
箱を抱え直し、倉庫へ向かう。
途中ですれ違う人間からも自然に声をかけられる。
名前を覚えられるのは早かった。
俺が何か特別なことをしたというより、以前から「テレジアの隣にいる奴」として知られていたらしい。
「セラスティア!」
聞き慣れた声が廊下に響く。
振り返ると、アスカロンがこちらへ走ってきた。
「走ると危ないぞ」
「今日、訓練!」
「分かってるよ。この荷物を倉庫に置いたら行くから」
アスカロンは俺ではなく、腕に抱えた箱を疑うように見る。
「忘れない?」
「前に一回忘れただけだろ」
「一回じゃない」
「……今日は忘れないって」
それでもしばらく疑うように俺を見ていたが、最後には納得したらしい。
「じゃあ待ってる!」
来た時と同じ勢いで走っていく。
「だから走るなって!」
「分かった!」
絶対分かっていない。
小さく息を吐いたところで、すぐ後ろから低い声が聞こえた。
「随分と懐かれたものだな」
「うわっ」
振り返る。
「……テレシスか。急に後ろから声かけるなよ」
「お前が気づかなかっただけだ」
テレシスは俺の文句を無視して、アスカロンが消えた廊下の先を見る。
「訓練か」
「ああ。最近よく付き合わされてる」
「付き合わされている、か」
妙なところを拾われた。
「本人がやりたがるんだから仕方ないだろ」
「そうか」
短く答えたあと、何故か俺をじっと見る。
この兄妹は時々こういうところが似ている。
何を考えているか分からないまま、こちらを見る。
「何?」
「少し時間はあるか」
「これを倉庫へ置いてからなら」
「ならば来い。話がある」
嫌な予感がした。
「俺、何かした?」
「心当たりがあるのか?」
「ないけど」
「なら問題ない」
そう言ってさっさと歩き始める。
相変わらず説明が足りない。
「……兄妹だなぁ」
「何か言ったか?」
「何も」
聞こえてるじゃないか。
◇
荷物を倉庫へ届けたあと、テレシスについていく。
連れてこられたのは、普段あまり使われていない部屋だった。
机と椅子があるだけ。
特に変わったものはない。
テレシスは椅子にも座らず、腕を組んでこちらを見る。
「バベルに正式に加わったそうだな」
「今さらその話?」
「確認だ。理由を聞いておきたい」
「理由?」
「お前がバベルへ加わった理由だ」
何を聞かれているのか分からない。
そんなものは最初から決まっている。
「テレジアがいるから」
答える。
考える必要すらなかった。
だが、テレシスはすぐに何も言わなかった。
「……やはりか」
「何だよ」
「では聞くが、テレジアがバベルを離れると言えば、お前はどうする?」
「俺も行く」
「戦いをやめ、別の場所で生きると言えば?」
「一緒に行くよ」
「お前自身に別の役目があったとしてもか」
「必要なら終わらせてから追いかける」
何を当たり前のことばかり聞いているんだ。
そう思っていると、テレシスはさらに続けた。
「彼女がお前についてくるなと言った場合は?」
「理由を聞く」
「それでも来るなと言われれば?」
「……さっきから何が言いたいんだ?」
少し苛立ってきた。
テレシスはそこで初めて質問を止めた。
しばらく黙ったあと、静かに言う。
「テレジア以外に、お前がここにいる理由は何だ」
思ってもいなかった問いだった。
「そんなもの、必要なのか?」
「必要かどうかは聞いていない。あるのか、と聞いている」
答えようとして、言葉が止まる。
バベルへ入ったのはテレジアがいるからだ。
任務へ出るのも、ここで暮らしているのも、全部その延長だと思っていた。
「……ないな」
「そうか」
「だから何だよ。わざわざ呼び出して、それを確認したかったのか?」
「ならば聞き方を変えよう」
テレシスの目が、まっすぐ俺へ向けられる。
「お前は、自分が何をしたいのか考えたことがあるか?」
今度は答えられる。
「テレジアのそばにいたい」
「それはテレジアとの関係の話だ。彼女と関係のないところで、お前自身が望むものは?」
また言葉が止まった。
何だ、この質問。
「戦うことが好きなのか」
「別に」
「バベルの理念そのものに、お前自身が共感しているのか」
「テレジアがやろうとしていることは応援してるよ」
「お前自身は?」
「同じようなもんだろ」
「違う」
短く言い切られ、眉を寄せる。
テレシスの表情は変わらない。
「テレジアが望むから、お前も望む。テレジアが進むから、お前も進む。お前は長い間、それを当然のこととしてきた」
「悪いのか?」
「悪いとは言っていない」
「じゃあ何なんだよ」
「危ういと言っている」
思わず言葉に詰まる。
少し腹が立った。
「俺の何が危うい?」
「お前自身が、どこにもいない」
「……俺は俺だろ」
「ならば答えられるはずだ」
テレシスが一歩近づく。
「テレジアの隣に立つこと以外に、お前が望むものは何だ?」
答えられない。
別に、何もないからだ。
テレジアがいる。
それでいい。
俺が自分の名前を嫌っていた頃も。
戦場を歩いていた頃も。
今こうしてバベルにいるのも。
ずっとテレジアが隣にいた。
「それの何が悪いんだ」
「だから、悪いとは言っていない。彼女の隣に立つことがお前自身の意思なら、それでいい。だが、誰か一人の存在だけに自分のすべてを預けることと、自分でその人の隣を選ぶことは同じではない」
分からない。
同じにしか思えない。
「俺がそれでいいって言ってるんだから、いいだろ」
「お前だけの話ならな」
「どういう意味だ?」
テレシスは少しだけ間を置いた。
「テレジアはどう思う?」
返事が止まった。
「……あいつだって、俺がいる方がいいだろ」
「そうだろうな」
「なら――」
「だからこそだ」
テレシスの声が僅かに低くなる。
「あいつがお前を大切に思っているからこそ、お前が自分のためだけに生きることを、心から喜べると思うのか?」
答えられなかった。
テレジアの顔が頭に浮かぶ。
嬉しそうに笑う顔。
困ったように笑う顔。
そして最近。
俺が「お前がいるから」と言った時に、時々見せる表情。
嬉しそうなのに。
どこか寂しそうな。
「兄さん」
扉の方から声がした。
振り返る。
テレジアが立っていた。
「そのくらいにして」
「聞いていたのか」
「途中からね」
こちらへ歩いてくる。
「セラスティア、ごめんなさい。兄さんは少し言い方が――」
「別にいいよ」
そう答えた声が、自分でも分かるくらい少し固かった。
怒っているわけではない。
ただ、今はテレジアの顔を見ると、さっきの問いまで一緒に浮かんでくる。
「アスカロンとの約束もあるし、俺は行く」
「セラスティア」
「また後でな」
軽く手を上げ、部屋を出る。
扉が閉じる直前。
「……兄さん」
テレジアの声が聞こえた。
けれど、その先までは聞かなかった。
◇
セラスティアが出ていった扉を見ながら、私は兄さんへ視線を向けた。
「随分と厳しいことを言うのね」
「必要なことだ」
「今すぐでなくてもよかったでしょう?」
「では、いつならいい?」
返す言葉がなかった。
兄さんはそんな私を見て、小さく息を吐く。
「あいつだけの問題ではない」
「分かっているわ」
「本当に?」
少しだけ声が強くなる。
「……兄さん」
「テレジア。お前はあいつに、自分のためだけに生きてほしいのか?」
「そんなこと、思っていないわ」
今度は迷わず答えられた。
それだけは違う。
セラスティアには、セラスティア自身の人生を生きてほしい。
私が行きたいところではなく、彼自身が行きたい場所へ。
私が望むものではなく、彼自身が望むものを。
それはずっと思っている。
「なら問題はない」
「……そう簡単ではないのよ」
思わず零れた。
兄さんがこちらを見る。
私は少し迷ってから、言葉を続けた。
「私は、あの人に自分の人生を生きてほしい。私のためだけに何かを選んでほしいなんて、思っていないわ」
「だが?」
兄さんは、こういう時に逃がしてくれない。
私は僅かに俯いた。
「……それでも、あの人が私の隣にいてくれることを、嬉しいと思ってしまうの」
昔からずっと。
隣を見れば彼がいた。
何も言わなくても、当然のようにそこにいてくれた。
もし、いつか彼が自分の道を見つけたら。
その道が私とは違う方向へ続いていたら。
私はきっと笑って送り出さなければならない。
それが、彼のためなのだから。
でも。
「……離れてほしくないとも、思ってしまうわ」
兄さんは何も言わなかった。
否定もしない。
責めもしない。
ただ、静かに私を見ている。
「ずるいわね、私」
「そうかもしれんな」
思わず顔を上げる。
「そこは否定してくれてもいいのよ?」
「嘘を言う必要はない」
「もう……」
苦笑が漏れる。
でも、その通りだった。
セラスティアだけではない。
私もきっと、彼に甘えている。
あの人が何も言わず隣にいてくれることに。
離れないでいてくれることに。
「だからこそ、覚えておけ」
「何を?」
「あいつがお前の隣にいることと、あいつの人生がお前だけのものであることは違う」
「……ええ」
分かっている。
そう思っていた。
けれど、本当に分かっていたのだろうか。
閉じられた扉を見る。
もう、その向こうに彼の姿はない。
「難しいわね」
「ああ」
珍しく、兄さんはすぐに同意した。
◇
部屋を出てからも、テレシスの言葉が頭に残っていた。
――テレジア以外に、お前がここにいる理由は何だ。
「……知らねえよ」
誰に言うでもなく呟く。
そんなこと、今まで考えたこともなかった。
俺がここにいるのはテレジアがいるからだ。
あいつが進むなら俺も進む。
昔からそうだった。
それで困ったことなんて――。
「セラスティア!」
突然名前を呼ばれ、顔を上げる。
アスカロンがこちらへ走ってきた。
「遅い!」
「……あ」
そういえば。
「忘れてた?」
「忘れてない。ちょっと話が長くなっただけだ」
完全に忘れていたわけではない。
かなり危なかっただけだ。
アスカロンは疑わしそうに俺を見る。
だが、すぐ俺の腕を掴んだ。
「じゃあ早く!今日はちゃんと当てるから!」
「昨日も聞いたぞ、それ」
「今日は服じゃなくてちゃんと!」
「それは当てなくていい。怪我するだろ」
「セラスティアなら大丈夫!」
「そういう問題じゃないって」
さっきまで頭の中を占めていたものが、少しだけ薄れる。
アスカロンに引っ張られるまま、訓練場へ向かう。
途中でもう一度だけ、テレシスの言葉が浮かんだ。
テレジア以外に。
俺がここにいる理由。
そんなもの、本当に必要なのだろうか。
俺はテレジアがいるからここにいる。
それで十分だ。
「セラスティア、早く!」
「分かったって。今行くから」
先を走るアスカロンを追いかける。
この時の俺は、まだ気づいていなかった。
その問いへの答えの一つが。
今まさに俺の名前を呼びながら、目の前を走っていることに。