翌日。
朝からテレジアのところへ顔を出そうと思っていたのだが、部屋へ向かう途中で予定が狂った。
本人がいなかった。
近くにいたバベルの構成員に聞けば、朝から会議に呼ばれているらしい。いつ終わるかも分からないと言われ、仕方なく引き返す。
急ぎの用事があったわけでもない。
顔を見て、何か仕事があるなら手伝おうと思っていただけだ。
「さて、どうするかな」
予定がなくなった。
アスカロンでも探すかと思ったところで、廊下の向こうから妙なものが近づいてくる。
大きな木箱だった。
正確には、木箱の下から二本の足が生えて歩いている。
見覚えのある靴だった。
「……何してるんだ?」
木箱が止まった。
少し横へ傾き、その陰からアスカロンが顔を出す。
「運んでる」
「それは見れば分かるよ」
どうやら箱が大きすぎて、前がまともに見えていないらしい。
よくそれでここまで来たものだ。
「何が入ってるんだ?」
「本」
「本?」
アスカロンが箱を一度床へ置く。
思っていたより重かったのか、少しだけ息を吐いてから蓋を叩いた。
「テレジアが持っていくって言ってた。でも会議になったから、私が代わりに持っていく」
「あいつが?」
「子供たちのところ」
それで何となく分かった。
バベルの拠点には、戦える人間だけがいるわけではない。
戦火から逃れてきた者や、行き場を失った者も少なくない。その中には当然、子供もいる。
テレジアが時間を見つけては、そういう場所へ顔を出していることも知っていた。
「一人でこれ持っていくの?」
「持てる」
「前見えてなかっただろ」
「見えてた」
「箱しか見えてなかったよ」
アスカロンが少しむっとした顔をする。
持てるかどうかの問題ではない。
このまま歩かせたら、そのうち誰かにぶつかる。
「反対側持つよ」
「一人で大丈夫だ」
「俺が暇なんだよ」
そう言って箱の片側を持ち上げる。
アスカロンはまだ何か言いたそうだったが、結局もう片方を持った。
二人なら大した重さではない。
「どこ?」
「こっち」
案内されるまま歩き出した。
◇
連れてこられたのは、拠点の端にある小さな部屋だった。
扉を開けると、十人ほどの子供がいる。
机に向かっている子もいれば、床に座って話している子もいた。俺たちが木箱を抱えて入ってくると、一斉に視線が集まる。
「本だ!」
誰かが声を上げた。
それをきっかけに、何人かがこちらへ駆け寄ってくる。
「ちょっと待て。まだ置いてないから」
箱の周りへ集まろうとする子供たちを避けながら、部屋の隅へ運ぶ。
そこには本棚らしいものが置かれていた。
ただし。
「……これに入れるの?」
棚板が一枚、完全に外れている。
下の段も妙に傾いていた。
アスカロンも横から覗き込む。
「昨日までは壊れてなかった」
「じゃあ今日壊れたんだろうな」
近くにいた女性が申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。朝、動かそうとした時に外れてしまって……後で誰かに修理をお願いしようと思っていたんです」
本を持ってきたはいいが、これでは置く場所がない。
床へ積んでおくこともできるだろう。
でも、子供がこれだけいるところで高く積むのは危ない。
棚の前にしゃがみ込む。
外れた板を見る限り、壊れたというより留め具が外れただけらしい。
「工具ある?」
女性が少し驚いた顔をした。
「ありますけど……直せるんですか?」
「多分」
昔は何でも自分たちでやるしかなかった。
武器だけ扱えても腹は膨れないし、雨風を凌ぐ場所も作れない。
壊れたものを直すくらいなら、別に珍しいことでもなかった。
簡単な工具を借り、棚を壁から離す。
「アスカロン、そっち押さえて」
「分かった」
外れた棚板を戻し、緩んでいる箇所を締め直す。
予想より木そのものが傷んでいた。
応急処置ならこれで十分だろうが、そのうち交換した方がいい。
作業している途中から、やけに背中へ視線を感じていた。
振り返る。
子供たちが並んで見ている。
「……何?」
誰も答えない。
代わりに、一番前にいた小さな男の子が俺の手元を見る。
「お兄ちゃん、大工さん?」
「違う」
「じゃあ何の人?」
少し考える。
自分でも何の人と言えばいいのか分からない。
「……剣を使う人?」
「なんで疑問形なんだ」
横でアスカロンが笑った。
「セラスティアは強いぞ」
「余計なこと言わなくていいよ」
「すごく強い」
今度は別の子供まで近づいてくる。
さっきまで棚を見ていたはずなのに、いつの間にか俺の話になっていた。
「剣見せて!」
「駄目」
「ちょっとだけ!」
「駄目だって。危ないから」
腰の剣へ手を伸ばそうとする小さな手を避ける。
一人を止めると、今度は別のところから質問が飛んでくる。
アスカロンは助けるどころか面白そうに眺めていた。
「見てないで手伝ってくれよ」
「どうやって?」
「俺が聞きたい」
結局、棚を直し終えるまでずっと囲まれたままだった。
◇
修理が終わった棚へ本を並べる。
箱の中身は物語の本や、文字を覚えるためのものがほとんどだった。
本を渡すと、子供たちが自分たちで棚へ並べていく。
順番は随分適当だ。
大きい本の横に小さい本を押し込み、その隙間へ別の一冊を無理やり入れている。
「それ、そのうちまた棚壊すぞ」
言うと、何人かが手を止めた。
少し相談してから、今度は大きさを揃え始める。
素直で助かる。
「こっち?」
一人の女の子が本を持ってくる。
「それは……そこかな」
適当に場所を指す。
俺が棚の整理を担当することになるとは思わなかった。
横を見ると、アスカロンは床へ座り込み、別の子供と何かをしている。
紙を切っているらしい。
「何作ってるの?」
「花」
短く答えたのはアスカロンではなく、その隣の女の子だった。
色のついた紙を花の形に切って、棚へ飾るつもりらしい。
アスカロンの手元を見る。
随分歪な花だった。
「……それ花?」
「花だ」
「そうか」
「何だその顔」
「別に」
どう見ても花には見えない。
でも本人は真剣なので、何も言わないことにした。
本を並べ終える頃には、ただの古い棚が随分賑やかになっていた。
紙で作った花や、子供たちが描いた絵があちこちに貼られている。
修理した時より不安定になっていないか少し心配になったが、そこは大丈夫そうだ。
「終わった!」
誰かがそう言うと、子供たちが一斉に棚から離れる。
俺も少し下がって全体を見る。
悪くない。
少なくとも、最初よりはずっと本棚らしくなった。
「セラスティア」
アスカロンがこちらへ来る。
手にはさっき作っていた紙の花を持っていた。
「余った」
「俺にどうしろって?」
「やる」
差し出される。
いらない、と言おうとしてやめた。
一応受け取る。
近くで見ると、やっぱり何の花なのかは分からなかった。
「……ありがと」
「うん」
満足したらしい。
それだけでアスカロンは子供たちのところへ戻っていった。
本当に何だったんだろう。
◇
「ずいぶん楽しそうね」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
入口にテレジアが立っていた。
どうやら会議が終わったらしい。
「遅かったな」
「ごめんなさい。思っていたより長引いてしまって」
部屋の中を見回す。
新しく届いた本。
紙の飾りだらけになった本棚。
その周囲で騒いでいる子供たち。
そして床には、工具と木屑が少し残っている。
テレジアが俺を見る。
「本を運んでもらうだけのつもりだったのだけれど」
「棚が壊れてたんだよ」
「それで直してくれたの?」
「このままだと本を置けなかったからな」
俺にとってはそれだけの話だった。
でもテレジアは少し意外そうにしている。
「何?」
「あなた、こういうこともできたのね」
「昔は何でも自分でやってただろ」
「そうだったわね。でも、最近は剣を振っているところばかり見ていたから、少し忘れていたわ」
失礼な話だ。
俺だって一日中剣を振っているわけではない。
「テレジア!」
子供たちが彼女に気づく。
あっという間に囲まれた。
さっきの俺と同じだ。
ただ、テレジアの方は慣れているらしく、一人一人の話を聞いている。
新しい本のこと。
自分が作った飾りのこと。
棚をセラスティアが直したこと。
最後の話だけは別に報告しなくてもいい。
そんなことを思いながら工具を片付けていると、服の裾を引かれた。
さっき大工なのかと聞いてきた男の子だった。
「どうした?」
「もう帰るの?」
「テレジアも来たしな」
元々、俺は箱を運ぶのを手伝っただけだ。
これ以上いる理由もない。
そう思っていたのだが、男の子は少し残念そうな顔をした。
「また来る?」
予想していなかった言葉に、少しだけ返事が遅れた。
俺がここへ?
何をしに来るのか。
本を読むわけでもない。
子供の相手が得意なわけでもない。
今日だって、たまたまアスカロンに付き合ってきただけだ。
「棚が壊れたら?」
そう返すと、男の子が首を横に振った。
「壊れなくても」
「……そう」
今度は何と答えればいいのか分からない。
困っていると、横からアスカロンが口を挟んだ。
「また来る」
「おい」
「来るだろ?」
勝手に決められた。
男の子まで期待した顔でこちらを見る。
逃げ道がなくなっていく。
「……分かったよ。また時間があったらな」
「約束?」
「そこまで大げさなものじゃ――」
言い終わる前に、小さな手を差し出された。
仕方なく握る。
「約束」
男の子は満足そうに笑った。
横を見る。
アスカロンもなぜか同じような顔をしている。
「お前まで何で嬉しそうなんだよ」
「次も一緒に来る」
「もう次の予定になってるの?」
「約束したから」
また勝手に一つ増えた。
◇
部屋を出る頃には、外が少し暗くなり始めていた。
来た時には二人だったが、帰りはテレジアも一緒だ。
アスカロンは少し前を歩いている。
手には、子供からもらったらしい紙の飾りを持っていた。
「次は机も直した方がいい」
突然そんなことを言う。
「机?」
「一つ揺れてた」
「よく見てたな」
「次に直す」
また次の話だ。
俺が答える前に、アスカロンはこちらを振り返った。
「セラスティアが」
「俺?」
「直せるだろ」
「まあ、直せると思うけど」
「じゃあ決まり」
何も決めていない。
そう言おうとしたところで、隣から小さな笑い声が聞こえた。
テレジアだ。
「何笑ってるんだ?」
「あなた、本当に忙しくなったわね」
「勝手に予定を増やされてるだけだよ」
「でも、断らないでしょう?」
言われて、少し考える。
別に嫌ではない。
机一つ直すくらいなら時間もかからないだろう。
アスカロンに無理やり連れていかれる前に、自分から行った方が楽かもしれない。
「……まあ」
答えると、テレジアがまた笑った。
「昔のあなたなら、私がいないところへ自分から何度も顔を出そうとはしなかったかもしれないわね」
その言葉に、足が少しだけ遅くなる。
また、テレシスの問いが頭の中を掠めた。
でも今回は、前ほど居心地の悪いものではなかった。
「別に、そんな大したことじゃないよ」
「ええ。きっと、そういうものなのだと思うわ」
テレジアはそれ以上何も言わなかった。
少し前を歩くアスカロンが、早く来いと言うようにこちらを振り返っている。
その向こうには、いつもの廊下が続いていた。
◇
夜。
部屋へ戻って服を脱ごうとした時、ポケットから何かが落ちた。
紙だった。
拾い上げる。
子供が描いたらしい、簡単な絵。
大きな本棚。
その前に何人かの子供がいて、端には剣を持った人物と、その隣に小さな人物が描かれている。
多分、俺とアスカロンだ。
裏返す。
歪んだ文字で、一言だけ書いてあった。
『またきてね』
「……いつ入れたんだ?」
まったく気づかなかった。
少し眺めてから、机の端へ置く。
捨てる気にはならなかった。
明日はいつも通り、テレジアのところへ顔を出すつもりだ。
アスカロンにも、たぶんどこかで捕まる。
そのうち、今日の部屋にもまた行くことになるのだろう。
予定が一つ増えた。
ただそれだけのことなのに。
不思議と、悪い気はしなかった。