夏雪草が帰る場所   作:Bestmeever

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第8話 少しだけ寂しい

テレジアに呼ばれたのは、朝食を終えて少し経った頃だった。

 

別に珍しいことじゃない。

 

昔から、テレジアに呼ばれれば俺は行く。それが当たり前だったし、理由を聞こうと思ったこともほとんどない。

 

だから今日も、いつものように彼女の部屋へ向かった。

 

「来たよ、テレジア」

 

「ありがとう、セラスティア。急に呼んでしまってごめんなさい」

 

机に向かっていたテレジアが、書類から顔を上げる。

 

その横には、まだいくつかの束が積まれていた。

 

昨日も会議が長引いていたはずなのに、朝からこれか。

 

「別にいいけど。何かあった?」

 

「大したことではないの。ただ、少し手伝ってほしいことがあって」

 

テレジアが示したのは、机の端にまとめられた書類だった。

 

いくつかの部署へ届けるものらしい。

 

俺は文字の並んだ紙束を眺め、それからテレジアを見る。

 

「これを運べばいい?」

 

「ええ。それと、もし時間があれば――」

 

そこでテレジアの言葉が止まった。

 

俺も同じタイミングで、部屋に掛けられていた時計を見る。

 

まだ余裕はある。

 

ただ、思っていたより時間が経っていた。

 

「……悪い、テレジア」

 

「どうしたの?」

 

「書類は運べるけど、その後は無理かもしれない」

 

口にしてから、自分でも少し妙な感じがした。

 

テレジアの頼みを断ったことがないわけじゃない。

 

けれど、急ぎの用事でもないのに、別の予定を理由にすることはあまりなかった気がする。

 

テレジアも少し意外だったらしい。

 

目を瞬かせたあと、すぐにいつもの柔らかな表情へ戻った。

 

「何か予定があるの?」

 

「昨日行った部屋、覚えてるだろ。アスカロンと本を運んだところ」

 

「ああ、あの子たちのところね」

 

「机が一つ壊れかけてたんだよ。次に直すって言っちゃったから」

 

正確には、アスカロンが勝手に次の仕事として追加したのだが。

 

それでも否定しなかったのは俺だ。

 

それに、昨日ポケットへ入れられていた絵のことも覚えている。

 

『またきてね』

 

あんなものまで渡されて、行かないのも寝覚めが悪い。

 

「そう」

 

テレジアが微笑んだ。

 

「なら、そちらへ行ってあげて」

 

「いいの?」

 

「もちろんよ。私の方は急ぎではないもの」

 

そう言ってから、テレジアは少しだけ楽しそうに目を細めた。

 

「それに、約束したのでしょう?」

 

「まあ……アスカロンに勝手に決められた部分もあるんだけどな」

 

「でも、あなたは嫌だとは言わなかった」

 

昨日も似たようなことを言われた気がする。

 

どうしてこう、俺の周りには余計なところまで見ている奴が多いんだ。

 

「分かったよ。書類だけ届けて、そのまま行ってくる」

 

「ええ」

 

紙束を抱えて扉へ向かう。

 

そのまま取っ手へ手を掛けたところで、後ろから声がした。

 

「セラスティア」

 

「ん?」

 

振り返る。

 

テレジアはいつも通り笑っていた。

 

「いってらっしゃい」

 

一瞬だけ、その言葉に引っかかった。

 

別に任務へ行くわけでもない。

 

少し手伝いをしてくるだけだ。

 

けれど、テレジアがそう言うなら返す言葉は決まっている。

 

「行ってきます」

 

扉を閉める。

 

その向こうにテレジアを残して、俺は廊下を歩き始めた。

 

◇

 

扉が閉じたあとも、テレジアはしばらくそちらを見ていた。

 

やがて小さく息を吐き、机の上へ視線を戻す。

 

頼もうとしていたのは、本当に大したことではなかった。

 

書類を届けてもらったあと、少し休憩に付き合ってもらおうと思っていただけ。

 

最近は会議や仕事が続いていて、二人でゆっくり話す時間が少なかったから、ちょうどいいと思った。

 

ただ、それだけ。

 

「……ふふ」

 

小さな笑いが漏れる。

 

おかしな話だった。

 

ずっと願っていたことのはずなのに。

 

セラスティアが、自分以外の誰かと約束をする。

 

自分が頼まなくても誰かを手伝い、自分がいない場所にも足を運ぶ。

 

『私がいるから』だけではなく。

 

いつか彼自身が、ここにいたいと思えるようになってほしい。

 

そう願っていた。

 

そして今、その願いは少しずつ叶っている。

 

昨日訪れたあの部屋には、彼がまた来ることを楽しみにしている子供たちがいる。

 

そしてセラスティア自身も、その約束を守るためにここを出ていった。

 

嬉しくないはずがない。

 

「……なのに」

 

机の上の書類を一枚取る。

 

文字を追おうとして――やめた。

 

さっきまで向かいにいた人がいなくなっただけなのに、部屋が少し広く感じる。

 

「少しだけ、寂しいなんて」

 

誰に聞かせるでもなく呟いた。

 

我ながら勝手だと思う。

 

自分だけを見ていてほしいわけではない。

 

自分がいなければ何も選べない人でいてほしいわけでもない。

 

セラスティアには、セラスティア自身の人生を歩いてほしい。

 

それは今でも変わらない。

 

それなのに、自分以外の約束を優先して部屋を出ていく彼を見送ったとき、胸の奥にほんの少しだけ寂しさが残った。

 

テレジアは自分の胸元へ手を添える。

 

理由が分からないわけではなかった。

 

むしろ、ずっと前から知っている。

 

幼い頃から、あまりにも長い時間を一緒に過ごしてきた。

 

そばにいるのが当たり前になっていた。

 

セラスティアが自分を必要としていることに罪悪感を抱きながら、その事実に安心していた自分もいる。

 

「私も、人のことを言えないわね」

 

今度は少し困ったように笑った。

 

彼には自分の人生を持ってほしい。

 

けれど、その人生の中に自分がいなくても構わないとは、どうしても思えない。

 

いつか彼が、自分で行き先を選べるようになったとき。

 

そのときにも。

 

自分の隣を選んでくれたら――。

 

そこまで考えて、テレジアは目を伏せた。

 

「……欲張りかしら」

 

答える人はいない。

 

それでも、その表情はどこか穏やかだった。

 

◇

 

机の修理は、思っていたより時間がかかった。

 

脚の一本がかなり傷んでいて、適当に補強するだけではまたすぐ駄目になりそうだったからだ。

 

結局、使えそうな木材を探すところから始めることになった。

 

「まだ?」

 

「まだ」

 

すぐ横から聞こえた声に答える。

 

「あとどれくらい?」

 

「もう少し」

 

「さっきもそう言った」

 

「直してる最中に話しかけるから遅くなるんだよ」

 

子供が不満そうに頬を膨らませた。

 

少し離れたところでは、アスカロンが本を整理している。

 

手伝えと言いたいところだが、昨日の棚に続いて今日は机だ。

 

このままだと、そのうちこの部屋の修繕係にされそうな気がする。

 

「セラスティア」

 

今度はアスカロン。

 

「何?」

 

「椅子も一つぐらついてる」

 

「増やすな」

 

「危ない」

 

「……後で見る」

 

アスカロンが小さく頷いた。

 

その顔が妙に満足そうに見える。

 

やっぱり増やされている気がする。

 

「お兄ちゃん、次も来る?」

 

机の反対側から顔を覗かせた子供に、俺は手を止めた。

 

昨日も似たようなことを聞かれた。

 

「まだ今日も帰ってないだろ」

 

「でも椅子もあるよ」

 

「今日直す」

 

「じゃあ次は?」

 

「なんで次の仕事を探すんだよ」

 

子供たちが笑う。

 

アスカロンまで、わずかに口元を緩めていた。

 

俺はため息をつき、再び机へ向き直った。

 

悪い気はしない。

 

それが少しだけ困る。

 

しばらくして修理を終えると、子供たちは直った机を囲み始めた。

 

俺としては、ただ壊れていたものを直しただけだ。

 

それなのに、何がそんなに嬉しいのか分からない。

 

「セラスティア」

 

アスカロンが隣へ来る。

 

「どうした?」

 

「テレジア様のところに行かなくてよかったの?」

 

「先に行ってきたよ」

 

「そうじゃなくて」

 

アスカロンは少し考えてから続けた。

 

「いつもなら、もっと長くいるから」

 

「今日はこっちに来るって約束してただろ」

 

そう答えると、アスカロンが俺を見上げた。

 

何も言わない。

 

ただ、ほんの少しだけ嬉しそうだった。

 

「何だよ」

 

「別に」

 

「そうか」

 

追及するほどのことでもない。

 

俺は道具を片付ける。

 

そろそろ戻った方がいいだろう。

 

テレジアの仕事も終わっている頃かもしれない。

 

「じゃあ、帰る」

 

「あ」

 

子供たちから声が上がる。

 

嫌な予感がした。

 

「また来てね!」

 

一人が言えば、他の子供たちまで同じように声を上げる。

 

昨日より人数が増えている。

 

俺はしばらく黙ってから、アスカロンを見た。

 

助ける気はないらしい。

 

むしろこちらをじっと見ている。

 

「……分かったよ。また来る」

 

歓声が上がった。

 

たったそれだけの約束なのに、大げさな奴らだ。

 

けれど、部屋を出る直前に一度だけ振り返る。

 

直した机。

 

並べ直された本。

 

手を振る子供たち。

 

その隣に立つアスカロン。

 

また来る。

 

昨日は成り行きで口にした言葉だった。

 

今日は少しだけ違った。

 

◇

 

テレジアの部屋へ戻る頃には、すっかり夕方になっていた。

 

扉を叩く。

 

「どうぞ」

 

中へ入ると、朝とほとんど変わらない場所にテレジアが座っていた。

 

ただし、書類の山はかなり小さくなっている。

 

「ただいま」

 

何気なくそう言った。

 

テレジアが顔を上げる。

 

一瞬だけ目を丸くして、それから柔らかく笑った。

 

「おかえりなさい、セラスティア」

 

その声を聞いて、妙に安心する。

 

俺はテレジアの向かいへ座った。

 

「机、直してきた」

 

「そう。ちゃんと約束を守ったのね」

 

「椅子まで追加された」

 

「あら」

 

「しかもまた来いってさ」

 

「人気者ね」

 

「修理係としてな」

 

テレジアがくすくす笑う。

 

俺は机に頬杖をついた。

 

「疲れた」

 

「お疲れさま」

 

朝と同じ部屋。

 

いつものテレジア。

 

それなのに、今日は朝より少しだけここへ帰ってきたという感じがした。

 

理由は分からない。

 

ただ、外に行く場所が増えたからといって、ここへ戻りたくなくなるわけじゃないらしい。

 

「テレジア」

 

「なあに?」

 

「明日は何かある?」

 

問いかけると、テレジアは一度瞬きをした。

 

それから、朝よりもずっと嬉しそうに笑った。

 

「ええ。少しだけ、付き合ってもらえる?」

 

「分かった」

 

今度は予定を確認する必要もない。

 

明日はまだ何も約束していないから。

 

テレジアの笑顔を見ながら、俺はそんなことを考えていた。

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