テレジアに呼ばれたのは、朝食を終えて少し経った頃だった。
別に珍しいことじゃない。
昔から、テレジアに呼ばれれば俺は行く。それが当たり前だったし、理由を聞こうと思ったこともほとんどない。
だから今日も、いつものように彼女の部屋へ向かった。
「来たよ、テレジア」
「ありがとう、セラスティア。急に呼んでしまってごめんなさい」
机に向かっていたテレジアが、書類から顔を上げる。
その横には、まだいくつかの束が積まれていた。
昨日も会議が長引いていたはずなのに、朝からこれか。
「別にいいけど。何かあった?」
「大したことではないの。ただ、少し手伝ってほしいことがあって」
テレジアが示したのは、机の端にまとめられた書類だった。
いくつかの部署へ届けるものらしい。
俺は文字の並んだ紙束を眺め、それからテレジアを見る。
「これを運べばいい?」
「ええ。それと、もし時間があれば――」
そこでテレジアの言葉が止まった。
俺も同じタイミングで、部屋に掛けられていた時計を見る。
まだ余裕はある。
ただ、思っていたより時間が経っていた。
「……悪い、テレジア」
「どうしたの?」
「書類は運べるけど、その後は無理かもしれない」
口にしてから、自分でも少し妙な感じがした。
テレジアの頼みを断ったことがないわけじゃない。
けれど、急ぎの用事でもないのに、別の予定を理由にすることはあまりなかった気がする。
テレジアも少し意外だったらしい。
目を瞬かせたあと、すぐにいつもの柔らかな表情へ戻った。
「何か予定があるの?」
「昨日行った部屋、覚えてるだろ。アスカロンと本を運んだところ」
「ああ、あの子たちのところね」
「机が一つ壊れかけてたんだよ。次に直すって言っちゃったから」
正確には、アスカロンが勝手に次の仕事として追加したのだが。
それでも否定しなかったのは俺だ。
それに、昨日ポケットへ入れられていた絵のことも覚えている。
『またきてね』
あんなものまで渡されて、行かないのも寝覚めが悪い。
「そう」
テレジアが微笑んだ。
「なら、そちらへ行ってあげて」
「いいの?」
「もちろんよ。私の方は急ぎではないもの」
そう言ってから、テレジアは少しだけ楽しそうに目を細めた。
「それに、約束したのでしょう?」
「まあ……アスカロンに勝手に決められた部分もあるんだけどな」
「でも、あなたは嫌だとは言わなかった」
昨日も似たようなことを言われた気がする。
どうしてこう、俺の周りには余計なところまで見ている奴が多いんだ。
「分かったよ。書類だけ届けて、そのまま行ってくる」
「ええ」
紙束を抱えて扉へ向かう。
そのまま取っ手へ手を掛けたところで、後ろから声がした。
「セラスティア」
「ん?」
振り返る。
テレジアはいつも通り笑っていた。
「いってらっしゃい」
一瞬だけ、その言葉に引っかかった。
別に任務へ行くわけでもない。
少し手伝いをしてくるだけだ。
けれど、テレジアがそう言うなら返す言葉は決まっている。
「行ってきます」
扉を閉める。
その向こうにテレジアを残して、俺は廊下を歩き始めた。
◇
扉が閉じたあとも、テレジアはしばらくそちらを見ていた。
やがて小さく息を吐き、机の上へ視線を戻す。
頼もうとしていたのは、本当に大したことではなかった。
書類を届けてもらったあと、少し休憩に付き合ってもらおうと思っていただけ。
最近は会議や仕事が続いていて、二人でゆっくり話す時間が少なかったから、ちょうどいいと思った。
ただ、それだけ。
「……ふふ」
小さな笑いが漏れる。
おかしな話だった。
ずっと願っていたことのはずなのに。
セラスティアが、自分以外の誰かと約束をする。
自分が頼まなくても誰かを手伝い、自分がいない場所にも足を運ぶ。
『私がいるから』だけではなく。
いつか彼自身が、ここにいたいと思えるようになってほしい。
そう願っていた。
そして今、その願いは少しずつ叶っている。
昨日訪れたあの部屋には、彼がまた来ることを楽しみにしている子供たちがいる。
そしてセラスティア自身も、その約束を守るためにここを出ていった。
嬉しくないはずがない。
「……なのに」
机の上の書類を一枚取る。
文字を追おうとして――やめた。
さっきまで向かいにいた人がいなくなっただけなのに、部屋が少し広く感じる。
「少しだけ、寂しいなんて」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
我ながら勝手だと思う。
自分だけを見ていてほしいわけではない。
自分がいなければ何も選べない人でいてほしいわけでもない。
セラスティアには、セラスティア自身の人生を歩いてほしい。
それは今でも変わらない。
それなのに、自分以外の約束を優先して部屋を出ていく彼を見送ったとき、胸の奥にほんの少しだけ寂しさが残った。
テレジアは自分の胸元へ手を添える。
理由が分からないわけではなかった。
むしろ、ずっと前から知っている。
幼い頃から、あまりにも長い時間を一緒に過ごしてきた。
そばにいるのが当たり前になっていた。
セラスティアが自分を必要としていることに罪悪感を抱きながら、その事実に安心していた自分もいる。
「私も、人のことを言えないわね」
今度は少し困ったように笑った。
彼には自分の人生を持ってほしい。
けれど、その人生の中に自分がいなくても構わないとは、どうしても思えない。
いつか彼が、自分で行き先を選べるようになったとき。
そのときにも。
自分の隣を選んでくれたら――。
そこまで考えて、テレジアは目を伏せた。
「……欲張りかしら」
答える人はいない。
それでも、その表情はどこか穏やかだった。
◇
机の修理は、思っていたより時間がかかった。
脚の一本がかなり傷んでいて、適当に補強するだけではまたすぐ駄目になりそうだったからだ。
結局、使えそうな木材を探すところから始めることになった。
「まだ?」
「まだ」
すぐ横から聞こえた声に答える。
「あとどれくらい?」
「もう少し」
「さっきもそう言った」
「直してる最中に話しかけるから遅くなるんだよ」
子供が不満そうに頬を膨らませた。
少し離れたところでは、アスカロンが本を整理している。
手伝えと言いたいところだが、昨日の棚に続いて今日は机だ。
このままだと、そのうちこの部屋の修繕係にされそうな気がする。
「セラスティア」
今度はアスカロン。
「何?」
「椅子も一つぐらついてる」
「増やすな」
「危ない」
「……後で見る」
アスカロンが小さく頷いた。
その顔が妙に満足そうに見える。
やっぱり増やされている気がする。
「お兄ちゃん、次も来る?」
机の反対側から顔を覗かせた子供に、俺は手を止めた。
昨日も似たようなことを聞かれた。
「まだ今日も帰ってないだろ」
「でも椅子もあるよ」
「今日直す」
「じゃあ次は?」
「なんで次の仕事を探すんだよ」
子供たちが笑う。
アスカロンまで、わずかに口元を緩めていた。
俺はため息をつき、再び机へ向き直った。
悪い気はしない。
それが少しだけ困る。
しばらくして修理を終えると、子供たちは直った机を囲み始めた。
俺としては、ただ壊れていたものを直しただけだ。
それなのに、何がそんなに嬉しいのか分からない。
「セラスティア」
アスカロンが隣へ来る。
「どうした?」
「テレジア様のところに行かなくてよかったの?」
「先に行ってきたよ」
「そうじゃなくて」
アスカロンは少し考えてから続けた。
「いつもなら、もっと長くいるから」
「今日はこっちに来るって約束してただろ」
そう答えると、アスカロンが俺を見上げた。
何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ嬉しそうだった。
「何だよ」
「別に」
「そうか」
追及するほどのことでもない。
俺は道具を片付ける。
そろそろ戻った方がいいだろう。
テレジアの仕事も終わっている頃かもしれない。
「じゃあ、帰る」
「あ」
子供たちから声が上がる。
嫌な予感がした。
「また来てね!」
一人が言えば、他の子供たちまで同じように声を上げる。
昨日より人数が増えている。
俺はしばらく黙ってから、アスカロンを見た。
助ける気はないらしい。
むしろこちらをじっと見ている。
「……分かったよ。また来る」
歓声が上がった。
たったそれだけの約束なのに、大げさな奴らだ。
けれど、部屋を出る直前に一度だけ振り返る。
直した机。
並べ直された本。
手を振る子供たち。
その隣に立つアスカロン。
また来る。
昨日は成り行きで口にした言葉だった。
今日は少しだけ違った。
◇
テレジアの部屋へ戻る頃には、すっかり夕方になっていた。
扉を叩く。
「どうぞ」
中へ入ると、朝とほとんど変わらない場所にテレジアが座っていた。
ただし、書類の山はかなり小さくなっている。
「ただいま」
何気なくそう言った。
テレジアが顔を上げる。
一瞬だけ目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「おかえりなさい、セラスティア」
その声を聞いて、妙に安心する。
俺はテレジアの向かいへ座った。
「机、直してきた」
「そう。ちゃんと約束を守ったのね」
「椅子まで追加された」
「あら」
「しかもまた来いってさ」
「人気者ね」
「修理係としてな」
テレジアがくすくす笑う。
俺は机に頬杖をついた。
「疲れた」
「お疲れさま」
朝と同じ部屋。
いつものテレジア。
それなのに、今日は朝より少しだけここへ帰ってきたという感じがした。
理由は分からない。
ただ、外に行く場所が増えたからといって、ここへ戻りたくなくなるわけじゃないらしい。
「テレジア」
「なあに?」
「明日は何かある?」
問いかけると、テレジアは一度瞬きをした。
それから、朝よりもずっと嬉しそうに笑った。
「ええ。少しだけ、付き合ってもらえる?」
「分かった」
今度は予定を確認する必要もない。
明日はまだ何も約束していないから。
テレジアの笑顔を見ながら、俺はそんなことを考えていた。