沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
ルイス・ミラーとの命を削るような模擬戦から一夜明けた朝。
公式補佐官室のベッドで目を覚ましたバーニー・ジョーンズは、まず何よりも先に、自身の異常な索敵能力をフル稼働させて窓の外の気配を探った。王都の屋根瓦の隙間、街灯の影、路地裏の暗がり――昨日までそこかしこに張り付いていた、あのプロの隠密魔術師たちの不気味な気配が、文字通り綺麗さっぱりと消失している。
(……本当に引き上げやがった。あの腹黒眼鏡と腹黒お姉さんのことだから、何だかんだ理由をつけて監視を継続すると思ってたが……。そこだけは律儀に約束を守るんだな)
朝から四面楚歌の包囲網を体感しなくて済むというだけで、ここ数日の間で慢性化していた胃のキリキリとした痛みが嘘のように和らいでいく。これでもう、合法的な不審者たちの視線に怯えながら王都を歩く必要はない。ようやく手に入れた「部分的な平穏」に、バーニーが心の中で小さくガッツポーズを突き上げた、その時だった。
トントン、と控えめなノックの音が補佐官室の重厚なドアに響き、返事をするより早くスッと扉が開いた。
「あ、う……ば、バーニー……っ。おはよう、ございます……っ」
部屋に入ってきたのは、すでに三つ編みを綺麗に整えたモニカ・エヴァレットだった。彼女はバーニーの姿を視界に捉えると、吸い込まれるように彼の正面へとトトトと突進し、その制服の袖をぎゅっと力強く掴み直した。
「どうした、モニカ。朝からそんなに血相を変えて。ボタンは……よし、今日は掛け違えてないな。果実水はもう飲んだか?」
「は、はい……っ。あの、バーニー。今日から……王城の、大礼拝堂で……に、任命式のリハーサルが、始まるんです……っ」
モニカは大きな瞳を不安げに揺らしながら、消え入りそうな声で本日の予定を告げた。
三週間後に迫った、国家最高位の魔術師『七賢人』の任命式。王国の重鎮や王族が一堂に会する歴史的な大舞台である以上、極度の対人恐怖症を持つ彼女がリハーサルの段階からパニックを起こしかねないのは目に見えている。
「なるほど、リハーサルか。まぁ、手順を覚えるだけなら何の問題もないだろ。がんばって行ってこい。俺はここで、提出書類の山と格闘しながらお前の帰りを応援しといてやるから」
バーニーはこれ以上ないほど爽やかな笑顔で、彼女の細い背中をポンと叩いた。自分はあくまで付き添いという名の一般学生(休学中)だ。国家最高峰の神聖な儀式のリハーサルなどという、有象無象の偉い大人が密集する地獄のような場所へ、自ら進んで同行する理由などどこにもない。式典を遠くの一般観覧席から眺めるならともかく、近くで見守るなんて事なかれ主義の精神が全力で拒絶している。
だが、モニカは掴んだ彼の袖をさらに強く握りしめ、縋るような上目遣いでバーニーをじっと見つめた。
「そ、そんな……っ。バーニー、いっしょに……ついてきて、ほしい、です……。ひとまえ、は……怖い、から……っ」
「ダメだ。何度言ったら分かるんだ。俺はただの付き添いの一般学生。そんな国の最重要行事の裏側に、部外者の俺がうろちょろしてたら、それこそ役所の形式主義者たちに一発で捕まって、また面倒な事情聴取に逆戻りするだろ。だからお前一人で――」
「あ、の……メアリー、様から……これを、バーニーに渡してほしいって、預かって……きました」
モニカは震える手で、懐から一通の小綺麗な便箋を取り出し、バーニーの前へと差し出した。
ただの白い紙。それだけの物質であるはずなのに、バーニーの直感は、その便箋の表面から、ドス黒く禍々しい、おぞましい邪気(嫌な予感)が全方位に向けて大爆発している光景を明確に捉えていた。
(……おい待て。何なんだよあの腹黒お姉さん、今度は一体どんな爆弾を俺の足元へ投げつけやがったんだ)
バーニーは冷たい汗が背筋を伝うのを感じながら、まるで劇物を扱うかのような手つきで、恐る恐るその手紙を受け取った。嫌な予感しかしない。開きたくない。今すぐ破り捨てて暖炉の燃料にしたい。そんな本音を必死に押し殺し、彼は諦めて便箋の封を切った。
中に記されていたのは、几帳面で優雅な、しかしバーニーにとっては悪魔の呪文にしか見えない文字列だった。
『親愛なるバーニーちゃんへ。朝からの監視解除、喜んでもらえたかしらぁ? 約束はちゃんと守るお姉さんよぉ。……それはそうと、今日からの任命式リハーサル、および本番についてだけどぉ、モニカちゃんの精神の安定を確保するためぇ、あなたは「付き人」として、式典の最中もずっと彼女の背後に控えて直近で見守るようにしてちょうだいねぇ。これは決定事項よぉ』
「――ぶっ!!」
バーニーは思わず間の抜けた悲鳴を上げて手紙を凝視した。
心の中で、天を仰いで特大の悪態とパニックのツッコミが烈火のごとく炸裂する。
(付き人として背後に待機!? 冗談じゃねえぞクソが!! 国家最高位の儀式の最中に、七賢人の真後ろにただの一般学生が直立不動で張り付いてみろ! 王国の全魔術師、全貴族、全王族の視線がモニカごと俺にピンポイントで集中するだろーがよぉぉぉっ!!)
手紙の余白には、ご丁寧に『ローブを深く被って、お得意の認識阻害や隠密魔術をこれでもかと重ねがけして待機して良いわよぉ。誰の目にも触れない空気になりなさいなぁ』というお節介な追記まで添えられていたが、そんなものは何の気休めにもなりはしない。どれほど気配を消そうとも、七賢人の真後ろという「世界の中心」に座標を置かれること自体が、目立ちたくない自分にとって最大の死刑宣告に他ならなかった。
しかも、手紙の最後には、言い訳の効かない『七賢人公式命令書(至急案件)』が同封されていた。拒否すればそれこそ正真正銘の国家反逆、あるいは組合の規律違反として、昨夜メアリーが口にしていた「光も届かない檻の底」へ直行コースである。一介の休学中の学生に、これを覆す権限など逆立ちしたって存在しなかった。
(クソが……! 監視を外す代わりに、式典のド真ん中という一番逃げ場のない場所に俺を物理的に縛り付けやがったな! 外堀を埋めるどころか、本丸のド真ん中に檻を建てて閉じ込めるような真似しやがって……っ!)
バーニーが手紙を握りしめたまま、絶望のあまり白灰化してガタガタと震えていると、制服の袖を掴んでいたモニカが、さらに不安そうにその小さな顔を覗き込んできた。大きな瞳に涙をうっすらと浮かべ、今にも無詠唱の拒絶の魔力波形を再点火させかねない様子で、彼をじっと見つめている。
「バーニー……? やっぱり、いっしょに……来てくれない、ですか……? わたし、一人じゃ……っ」
ここで彼女を突き放せば、王城の真上で完全無詠唱の魔術災害が起きる。それは自分の処刑ルートよりも確実に世界を更地にする最悪の結末だ。
バーニーはがしがしと頭を乱暴に掻きむしると、盛大なため息と共に、ついに諦めて肩の力を抜いた。
「……はぁ。分かったよ、分かった。一緒に行ってやるから、そんな小動物みたいにガタガタ震えるな。俺がお前のすぐ後ろで、ローブを深く被って空気みたいに張り付いててやる。だから安心しろ」
「――っ! ほんとう、ですか……っ!?」
バーニーの観念した言葉を聞いた瞬間、モニカの表情がぱあっと一瞬にして輝くような喜びに変わった。胸の奥に眠るバーニーへの強い依存と独占欲が完璧に満たされ、彼女は頬をほんのり薔薇色に染めながら、嬉しそうに何度も何度も激しく首を縦に振る。
「はい……っ! バーニーが、後ろに……いてくれるなら、わたし、なんでも、できます……っ! 絶対に、がんばりますから……っ!」
「おう、その意気だ。ほら、リハーサルに遅れるぞ。行く準備をするから、一回その掴んでる袖を離せ」
バーニーは表面上、いつも通りの覇気のない平坦なトーンを維持しながら、内心では天地がひっくり返るほどの強烈な自嘲の息を漏らしていた。
(あーあ、もういいよ。自分の平穏なモブライフなんて、とっくの昔に文字通り跡形もなく粉砕されてるんだ。こうなったら出張介護だろうが、式典の空気役だろうが、いくらでも泥を被って歴史のプロットの帳尻を合わせてやるよ、クソが……!)
かつて「隠れる者」だった少年は、自らの平穏を完全に諦める代わりに、大天才の背中を支えながら、新たな世界の中心(嵐)へとその足を進める覚悟を決めるのだった。
王城の最奥に位置する大礼拝堂。その重厚な扉を押し開けた瞬間、バーニー・ジョーンズの肌を、これまで経験したことのないほど濃密な「人間の視線と悪意」の圧迫感がじっとりと濡らした。
リハーサル会場であるはずの広大な空間には、すでに一分の隙もない礼服に身を包んだ王国の貴族や、魔術師組合をはじめとする各組織の重鎮たちが、雛壇を囲むようにしてずらりと並んでいた。
極度の対人恐怖症を持つモニカにとっては、まさに息をするだけで脳細胞が焼き切れそうな地獄そのものの空間。しかし、今日の彼女は違った。
モニカは周囲の大人たちへ一切の視線を向けず、挨拶の一言すら喋らないまま、ロボットのような硬い足取りで真っ直ぐに自身の待機場所へと向かった。他人の顔色を窺ってオロオロする悪癖は、日頃の「義務的介護」によって育まれた小さな自立の芯によって完璧に抑え込まれている。周囲の重鎮たちが「なんと傲岸不遜な天才少女か……」と息を呑むなか、彼女はただ、自身の真後ろに佇む【絶対的な安全領域】だけを背中で感じていた。
「おや、おはようございます。同期殿」
モニカの隣の待機場所にいたルイス・ミラーが、一分の隙もない七賢人の正装で、洗練された優雅な笑みを浮かべて声をかけてきた。自分と同じ地平に立つ対等な七賢人――『同期殿』として正当に呼び方を変えたのだ。
モニカはルイスに対し、昨夜バーニーの凄さを認めてくれたことへの信頼を込めて、小さく、けれど確かな意思を持ってコクリと会釈を返し、静かに席へと腰掛けた。
――だが、本当の地獄は、そのモニカの椅子の真後ろで起きていた。
バーニーは現在、メアリーの手紙の指示通り、支給された深い色のローブを頭からすっぽりと被り、自身の技術と魔術演算を総動員して磨き上げてきた『隠密魔術』、さらに『認識阻害結界』をこれでもかと三重、四重に重ねがけして直立不動で待機していた。空間の光の屈折率を歪め、自身の存在感を極限まで削ぎ落とした、完璧な偽装。
しかし、それが最悪の裏目に出ていた。
どれほど完璧に気配を薄めようとも、座っているのは歴史を覆した完全無詠唱のモニカ・エヴァレットだ。その真後ろという、大礼拝堂の中で最も目立つ「世界の中心(最前列)」に座標を置かれ、かつ、不自然なほどに気配の読めない『漆黒のローブの怪人』が微動だにせず佇んでいるのだ。周囲の百戦錬磨の貴族や各組織の重鎮たちの鑑識眼が、その異様な存在を見逃すはずがなかった。
「……おい、あのエヴァレットの背後にいる者は何者だ?」
「魔力感知を仕掛けても、まるで空間に穴が空いているかのように気配が掴めん……」
「もしや、あの若さで七賢人に登り詰めた怪物を裏から監視・護衛するために、魔術師組合の最深部が放った伝説の特務工作員では……」
ひそひそと交わされる、重鎮たちの勘違いに満ちた畏怖の囁き声。バーニーはローブの暗がりのなかで、滝のような冷や汗を流しながら、心の中で盛大に頭を抱えていた。
(おい待て待て待て! なんでお前ら全員、俺のことをものすごい目(畏怖)で見つめてやがるんだ! 認識阻害だぞ!? 空気みたいにスルーしろよ! 七賢人の真後ろに不審者がいたら、普通はもっと警戒するか、役所の衛兵が摘発に来るだろーがよぉぉぉっ!!)
あまりの悪目立ちっぷりに胃痛が限界を迎えようとしていたその時、隣の席に座るルイスが、眼鏡の奥の瞳を獰猛なまでの愉悦に爛々と輝かせながら、ひょいとバーニーの方へと首を巡らせてきた。その口元には、獲物を完璧にロックオンした戦闘狂の歪んだ笑みが刻まれている。
「くふふ、本当に芸術的な隠密だねぇ、ジョーンズ君、いや親しみを込めてバーニー君と呼ぼうか……それで、なぜ君がこのような王国の最深部にまで平然と足を踏み入れているんだい? 君の愛する『平穏な隠居生活』とは、随分とかけ離れた戦場だと思うのだけれど」
ルイスが周囲に聞こえないような声音で、愉快そうに尋ねてくる。バーニーはローブの隙間から、これ以上ないほど覇気のない、死んだ魚のような目をルイスへ向けた。
「……メアリー様に手紙(命令書)で脅されて連れてこられたんですよ。断ったら極秘地下監獄へ永久収容するとか抜かしやがりましてね、あの腹黒お姉さん」
「おや、メアリー様直々の指示かね。それは重畳、実に喜ばしいことじゃないか」
ルイスはますます楽しげに肩を揺らすと、眼鏡の位置を指先で軽く直した。その笑顔の温度が、僅かに下がる。
「一介の学生(笑)が一生かかっても来れるような場所ではないからね。君にとっても、その後の人生における非常に良い経験になっただろう? ……それとも何かい? 君もようやく腹を括って、僕たちの横に並ぶ『七賢人』になることを前向きに検討し始めたのかな?」
昨夜、闇の精霊王を門なしで顕現させ、自分たちを文字通り一瞬で蹂躙してみせたバケモノ。そんな怪物を第二魔術兵団の最前線へ引きずり回したくてたまらないルイスの、鋭い挑発。
だが、自身の平穏を半分諦めつつも、最前線への就職だけは何が何でも拒絶したいバーニーは、無表情のまま、冷徹な一言をピシャリと言い放った。
「お断りしますよ。そんな面倒なだけの、有象無象に命を狙われる面倒なのには、天地がひっくり返っても爪の先ほどもありませんね」
「――く、ふふ。はははは!」
バーニーの徹底した拒絶に、ルイスはついに耐えきれず、優雅な仮面の裏で愉悦を噛み締めるように低く笑い声を上げた。
「王国最高位の栄誉たる七賢人を捕まえて『面倒なの』呼ばわりするのは、王国広しと言えども、君くらいのものだよ、バーニー君」
ルイスは心底おかしそうに笑いながら、バーニーの往生際の悪い足掻きをその品評眼で楽しんでいた。
――しかし。
二人のこの短い会話を、周囲で聞き耳を立てていた魔術師組合の重鎮や貴族たちは、バーニーの多重結界(防音)の隙間から微かに漏れ出た単語を拾い上げ、全く別の【致命的な等式の勘違い】へと急速に脳内変換を始めていた。もちろん、彼らは多重の認識阻害のせいで、その漆黒の怪人の正体がアンバード家の冴えない次男バーニーだとは夢にも気づいていない。
「……おい、今、ルイス殿があの工作員を指して『一介の学生』と笑っていただろ」
「馬鹿を言え、あれほどの隠密術を操る者が学生であるはずがない。……ハッ、まさか、身分を偽装して学園(ミネルヴァ)の内部へ潜入し、エヴァレットの護衛と周囲の思想調査を秘密裏に行っていた『最高幹部(エージェント)』の暗号名(コードネーム)が【学生】なのでは……っ!」
「それに聞け! あの怪人、七賢人の地位を『面倒なの』と吐き捨て、ルイス殿もそれを咎めるどころか、対等以上に笑って受け流しているぞ……!」
「間違いない……。あの者は七賢人の枠組みすら超越した、王国の安全保障を裏から統率する、魔術師組合の『影の最高支配者』の一人に違いない……ッ!!」
有象無象の大人たちの間で、音を立てて強固に組み立てられていく「最凶の裏ボス」としての誤解の包囲網。
バーニーは背筋を駆け上がる悍ましい戦慄と、明日からのモブライフが全方位から完全に圧殺されていく圧倒的な破滅の予感に、ローブの暗がりのなかで盛大に天を仰ぎ、血を吐くような絶望のツッコミを心の中で炸裂させるのだった。