のどかな静室での一幕
人生とは、退屈を如何に紛らわすかの繰り返しである。
魏無羨 作
ひらひらと舞い落ちる一葉の地面までの軌跡を辿る一句詠んでみた魏無羨だが、脳裏に浮かんだのは他でもない。暇の一文字で、要するにいま彼自身がたまらなく退屈しているのである。
魏無羨が身を寄せるこの場所──、雲深不知処は言わずと知れた藍忘機の故郷である。
日々、切磋琢磨し、あの素晴らしい肉体と精神を作り上げた。雲深不知処あっての藍忘機だとは魏無羨も分かっているのだが、江氏の自由で闊達な空気の中で育った彼にとって、この地での生活は退屈過ぎて老人と化してしまいそうだった。
そしてまた一枚、枝から葉が落ちる。
もう限界だった。
「うみゃー」
猫の鳴き真似をしながら、露台に突っ伏してみるが、ちらりと様子を窺った藍忘機は書き物に集中して何の反応も返してくれない。
いや、筆が止まり、少しは目線を動かしてくれたが、彼の中で葛藤があるのだろう。
まだ陽も高い真っ昼間に、甘えた声を上げる魏無羨にかまけていてはどんな結末になるか大体予測はつく。
品行方正な含光君としては真っ昼間からお盛んに魏無羨と戯れるわけにはいかないのだ。
「まあ、そうだよね」
魏無羨は内心でニヤリと笑うと、横になっていた体をゆっくりと起こした。
こうなれば力ずく――、いや、魏無羨の天性の愛嬌と、藍忘機への尽きない愛情でもって、含光君の堅固な防壁を打ち崩すまである。
そして第一幕。
魏無羨の先制である。
ペロリと舌なめずりすると、忍び足で近寄り、すとんと軽い音を立てて藍忘機のすぐ隣に座った。
ふわりと漂って来る檀香に気分も擽られる。
まずはじっくりと美しい横顔を至近距離から堪能した。
「おわぁ、藍湛の肌は本当に綺麗だな。世の女性たちが日々、美しくあらんと美肌にいそしんでるってのに、誰かさんのお肌はつるつるの艶々だ」
そう褒めそやしながら指で彼の頬をなぞってみたのだが、それでも藍忘機は微動だにしない。
ただ魏無羨は見逃さなかった。
彼の長くて美しい睫毛が、かすかに揺れている。
真っ直ぐに伸ばされた背筋は凛としたままだが、滑らかに動いていた手元がわずかに止まった。
「なあ、藍湛」
魏無羨は甘やかな声を吐き出しながら、しなやかな動作で、藍忘機の目の前へとしなだれかかる。
右手で握られた筆の軸を指先ですっと摘まみ上げた。
「ちょっとは俺の相手をしてくれたって罰は当たらないんじゃないのか。 雲深不知処の規律に、『昼間に魏嬰と話してはならない』って一文は入っていないだろう」
今度こそはっきりと筆の動きが止まった。
藍忘機は魏無羨を見つめ、動かない。
俺様にかかればちょろいものよ、とほくそ笑んだ魏無羨だが、藍忘機は予想の斜め上な反応を見せ、なんと魏無羨の身体をどかし始めた。
「ちょ、藍湛、ご無体な!」
「ふざけていないで、どきなさい」
「やだっつの」
魏無羨も簡単には引けない。
第二陣の決行である。
「藍湛」
藍忘機が魏無羨の身体を掴んだのを良いことに、片方の手で藍忘機の広い肩に触れ、そのまま膝の上へと滑り込む。
「藍哥哥、相変わらずいい体してるなぁ。固くて、温かくて……、抱き心地も最高」
膝の上に丸く収まり、胸元に擦り寄っては甘える。
当然、墨を含んだ筆を持った藍忘機は執筆どころではなくなった。
「……魏嬰」
頭上から落ちてきた声は果たして苛立ちなのか、それとも別の感情なのか。
普段より一段低く、掠れる声に魏無羨は成果を感じ、心の中でペロリと舌を出す。
「なあに、含光君?」
自分でも笑えるぐらい、可愛らしく目を見開いて、瞬きを何度かし、魏無羨は悪戯っぽく微笑む。
ふーっ、と藍忘機の溜息が聞こえて来たが、今度は邪険に振り払われたりしなかった。
「降りなさい」
「や~だね。藍湛も罪作りだぞ。この俺が暇を持て余しているってのに、放置で書き物なんてしやがって。藍湛が構ってくれるまで意地でもここを動かないからな」
「ならば動かなくてよろしい」
「へ?」
その途端、魏無羨の身体が金縛りにかかったように動かなくなってしまった。
藍忘機の緊縛術である。
「ちょ、藍湛……っ!」
「きみの望み通り、私の膝の上に乗せてやる。満足だろう」
「お前ね、こんな時に誰か来たら……っ」
「兄が来る」
「!」
だから藍忘機はなかなか魏無羨の誘いに乗ってくれなかったのだ。
「藍湛、話し合おう。俺が悪かった!」
「公務が終わるまで話し合いはなしだ」
「この鬼……っ!」
このままでは藍曦臣が来てしまう。
藍忘機の兄は彼らの関係に理解が深いが、だからと言って昼からいちゃつく弟夫夫を受け入れる程、頭は寛容に出来ていない。
「藍湛、頼むから! 澤蕪君の気分を害したら、俺が雲深不知処から追い出されちゃうぞ」
「兄はきみを追い出したりしない」
まあそうだろう。
それは俺も分かってるんだよ、と心の中で毒づきながら、魏無羨は窓の外を確認し、藍曦臣がまだ来ないことを確認して、何とか藍忘機の説得にかかった。
「お願い、藍湛! もう二度と雲深不知処で酒を飲んだりしないから」
雲深不知処が禁酒なのは言うまでもなく、当たり前のことである。
その程度では藍忘機の心は動かない。
「頼むよーっ! 分かった! お前の言うこと何でも聞いてやるから! 天天も絶対、拒んだりしない」
ひくりと藍忘機の瞼がわずかに動いた。
彼の××は非常に立派な逸物で、毎晩となると魏無羨の身体がもたず、酷いときは一週間腫れが引かずに苦しんだこともあったのだ。
それ以来、天天は五日に一度と藍忘機に約束させた。
その約束を撤回する絶好の機会である。
忘機の二文字には、そういえば「機会を逃さず」という意味合いも含まれていたではないか。
そう魏無羨が思い至った瞬間、彼を束縛していた術が解けた。自由を得た反動で魏無羨は藍忘機の膝の上から転げ落ちてしまう。
「あいたたた……、藍湛、ひどいぞ!」
「きみがいたずらをするからだ」
だからって緊縛術をかけることはないだろうとぶつくさ言いながら、藍曦臣はまだ静室を訪れる気配がないことにほっとする。
「それで澤蕪君は何の用でやって来るんだ?」
「さあ」
「あ?」
朱鷺の鳴き声だろうか。
遠くで「グアーッ」と間の抜けた声がする。
魏無羨は頭の中を整理し、今一度藍忘機に問い直してみた。
「澤蕪君は何をしに来るんだ?」
「いつかは来るだろうが、今すぐに来る予定はない」
(図られた! しかも藍湛に………っ!)
「だったらさっきの約束も反故だからな!」
悔し紛れにそう言い放ったのだが、藍忘機は笑いもせず、何ら反応を示さずにまた書き物に戻っただけだった。
つまりこれで会話終了。
魏無羨の暇潰しは解決されずに、藍忘機との天天に関する約束を撤廃されただけである。
「いいよ、いいよ、藍湛はそういう奴ってわかってるから」
いじけて再び、露台で落ち葉の監視役に戻ろうとする魏無羨を、藍忘機が「待ちなさい」と呼び止める。
ぐっと睨む彼に藍忘機は手を拱き、自分の膝の上をトントンと叩いた。
その落ち着いた仕草に魏無羨は怒りを飲み込み、がしがしと頭を搔くと、観念して藍忘機の膝の上で丸くなる。
「藍湛、せめて三日に一度……」
「毎日と言ったのはきみ自身だ。自分の発言には責任を持て」
きゅうと唇を尖らせて拗ねる魏無羨に藍忘機が薄く笑う。
秋のそら寒いひだまりの中、彼らの周囲だけはほのぼのと暖かかった。
終わり
20260926